40話 来年も退屈はしなさそうだ
《聞いていたら、受けましたか?》
千尋から届いた質問を見たまま、指が止まった。
三千万円の広告を断った理由は変わらない。
出演者が千尋だと知っていたところで、決められた企画が急に面白くなるわけではない。二か月以上拘束されることも、僕の経歴を宣伝へ使いたいという条件も同じだ。
ただ、撮影したい相手だとは思う。
《もう一日は迷ったと思います》
《迷うだけなんですね》
《かなり惜しくなりました》
《二百四十万円と、どちらが惜しいですか?》
《答えにくい質問をしますね》
《では直接聞きます。明日の夜は空いてますか?》
《空いています》
《お食事でもどうですか。広告を断った理由も聞いてみたいです》
《仕事の打ち合わせですか?》
《仕事ではありません。制作会社も通していませんから》
《なら、楽しみにしています》
送信してから、少し素直すぎたかと思った。
訂正はしなかった。
千尋から誘われて嬉しくないふりをするほうが、格好悪いだろう。
翌日の夕方、指定された日本料理店へ向かった。
大通りから一本入った場所にあり、看板には店名しか書かれていない。名前を伝えると、外から姿が見えない奥の個室へ案内された。
千尋は先に来ていた。
髪を下ろし、黒いニットに細い銀色のネックレスを合わせている。撮影現場より化粧は薄かったが、向かいへ座ると、かえって目元の細かな変化がよく分かった。
「こんばんは。急に呼んでしまって、すみません」
「誘ってもらえて嬉しかったです」
「本当に素直ですね。もう少し警戒されるかと思いました」
「鍋田さんと食事をするのに、何を警戒するんですか?」
「高い店を選んで、佐村さんに払わせるかもしれませんよ?」
「その時は三千万円の仕事を断ったことを後悔するかも」
千尋が声を立てずに笑った。
「安心してください。今日は私が誘いましたから」
「じゃあご馳走になります」
「でも、一度くらいは払うと言いませんか?」
「鍋田さんに対しては、変にカッコつけても意味ないと思うので」
「ふふ。素直すぎるのも、考えものですね」
出された温かい茶を飲む。
撮影中は千尋の顔を何時間も見ていた。わずかな視線の動きや呼吸まで気にしていたのに、仕事を離れて向かい合うと、知らない表情のほうが多い。
そのことが新鮮だった。
「本当に、あの広告を断ったんですね」
「はい」
「私が出ると知った今も、答えは変わりませんか?」
「今から電話して受けたいとは言いません。でも知っていたら、きっと悩む時間が一日増えましたよ」
「先ほども聞きましたけど、一日だけなんですね」
冗談のように言いながら、千尋は少し嬉しそうに見えた。
「映像の仕事が嫌になったわけではないんですよね?」
「前の広告は楽しかったです。撮影も編集も、完成したあとの数字を見るのも」
「では、何が気に入らなかったんですか?」
「今回の案件は、既にほとんど出来上がっていました。撮る場所も、出演者の動きも、最後に出す言葉も決まっていたんです」
「大きな広告なら、珍しくないと思います」
「そうなんでしょうね。現場で形にするのも監督の仕事ですし、その仕事に二百四十万円を払う価値がないとも思いません」
運ばれてきた料理が、二人の前へ置かれる。
店員が個室を出るのを待ち、言葉を続けた。
「僕には、今受ける理由が足りませんでした。二か月使うなら、自分でも撮りたいと思えるものに使いたかったんです」
「新人の監督が言うことではない気もします」
「僕もそう思います」
反論しなかったことが意外だったのか、千尋が目を瞬いた。
「認めるんですね」
「正しいですから。僕より経験があっても、受けたくても受けられない人は大勢いるでしょうし」
「怖くはなかったんですか? 次も同じ規模の依頼が来るとは限りませんよ」
「怖かったですよ。電話を切ったあと、二百四十万円の使い道だって何度か考えました」
「平気な顔で断っていそうなのに」
「そんなに格好よくないです。報酬が一千万円だったら、企画への不満なんか忘れて二つ返事で受けたと思います」
千尋が声を上げて笑った。
「安心しました。佐村さんにも、きちんと俗っぽいところがあるんですね」
「かなりありますよ。金は好きですし、綺麗な人には弱いです」
「後半は、私に言っていますか?」
「もちろん。鍋田さんじゃなかったらもう一日も迷いません」
千尋は茶を一口飲んだ。
視線を伏せたのは一瞬だけだったが、撮影のときには見なかった顔だった。
「そういうことも言えるんですね」
「冷たいと思われていました?」
「冷たいというより、女性にあまり興味がなさそうに見えていました。お若いのに、私にも特に見惚れるような反応もなかったですし」
それを自意識過剰とは思えない。顔もスタイルも日本人としてトップクラスの美女であることくらい、本人だって自覚しているだろう。
「撮影中に監督が鍋田さんに見惚れたりしてたら、みんな困るじゃないですか」
「今日は困る人はいない?」
「そうですね。見惚れ過ぎて鍋田さんに嫌われたら、僕が困りますけど」
千尋はすぐには答えず、僕の目を見つめた。
「……今のところ、その心配はありません」
「安心しました」
今度は僕が素直に笑った。
料理が進むにつれ、仕事から離れた話が増えていった。
千尋が高校生の頃から撮影現場へ通っていたこと。大学へ進むか迷い、出演予定が増えたため仕事を選んだこと。まとまった休みができても、顔を知られているせいで一人では行きにくい場所があること。
「海外なら少し楽かもしれませんよ」
「フランスに行ったんでしたね」
「モナコまで。一人で歩いても、誰にも気づかれませんでした」
「佐村さんは、日本でも名が知れてる訳ではないですよね? その気があれば、すぐにでも有名になれそうな方ですけど」
「僕はそれが気に入っています」
「……私も、ときどき羨ましくなります」
有名であることを嫌っている声ではなかった。
ただ手に入れたものが大きい分、以前なら考えずにできたことが難しくなる。それを少しだけ惜しんでいるような、そんな声だ。
「行きたい場所があるなら、相談に乗りますよ」
「内容を聞かなくても?」
「今日の食事が楽しかったので。鍋田さんが一人で行きにくいなら、目立たない方法も一緒に考えます」
千尋は少し驚き、やがて表情を柔らかくした。
「今の言葉は、素直に喜んでいいんですよね?」
「喜んでもらえるなら嬉しいですけど」
「今度、お願いするかもしれません」
「一月の後半は大学の試験があります。そこだけ避けてもらえれば」
「私より、学生の予定を優先するんですね?」
千尋が少し上目遣いになりながら言う。彼女はとても綺麗な大人の女性だが、それでこういうあざとい仕草をされると、余計に僕の心を揺らす。
「……先に言っておかないと、もしその日に誘われたら試験を放り出してしまうかもしれないです」
千尋が目を丸くした。
そして、声を出して笑う。
「あははっ、それは良くないですね。わかりました。その代わり、試験と被らない日に必ず誘いますから」
そうやって無邪気に笑うこともできるんだな、と思った。
店を出たあと、人通りの少ない道を並んで歩いた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。ご馳走さまでした」
「次は、最初から仕事の話は無しでお会いしたいです」
「では、行きたい場所を考えておいてください」
「佐村さんも、私と行きたいところを考えてくださっていいんですよ」
「それなら候補が増えますね」
車が到着する。
千尋は後部座席へ乗り込み、扉が閉まる前に僕を見た。
「おやすみなさい、和希さん」
初めて名前で呼ばれた。
「おやすみなさい、千尋さん」
呼び返すと、満足そうに微笑んでから扉を閉めた。
走り去る車を見送る。
『嬉しそうですね』
『分かる?』
『歩行中の表情が、食事前と異なります』
『数字では説明しなくていいよ』
『まだ数字は提示していません』
『そうだったね』
二百四十万円を断った未練が消えたわけではない。
千尋とまた会う理由ができたことは、それとは別に嬉しかった。
翌日、脆弱性報奨金制度の規約を最初から読み直した。
対象となるサービス。許可された検証方法。報告するまで他人へ話してはいけない情報。禁止されている行為も細かく並んでいる。
他人のアカウントへの接触。サービスを止めるほど大量の通信。従業員を騙して情報を得ること。必要以上に個人情報を見ること。
『一つでも破ったら?』
『報奨金の対象外になる可能性があります。行為によっては、企業側の許可を超えます』
『金をもらうために問題を起こしたら意味がないね』
『はい』
ジンが見つけた候補は、本人確認を終えた状態の扱いに関するものだった。
公開されているプログラムと通信の仕様を比べると、一つの画面で行った確認が、条件次第で別の操作にも使われる可能性があるという。
実際に起きるかは分からない。
自分のメールアドレスだけを使い、検証用のアカウントを三つ作った。どれも規約で認められた方法で登録し、他人の情報には触れない。
最初の試行では、通常の確認画面が表示された。
二度目も、設定は変更されない。
『外れ?』
『操作の間隔が長く、最初の認証情報が失効した可能性があります』
『次はどうする?』
『二つの画面を並べてください。一方の確認が完了した直後に、もう一方で設定変更を実行します』
ブラウザを二つ開き、自分のアカウントで同じ操作を繰り返す。
片方で本人確認を終え、直後に別の画面へ移った。
本来なら、もう一度確認を求められるはずだった。
画面は止まらない。
別の検証用アカウントで、重要な設定の変更が完了した。
『通った』
『はい。最初のアカウントで行った確認が、別のアカウントにも適用されています』
『危険度は?』
『条件が揃えば、本人以外がアカウントの重要な設定を変更できる可能性があります。ただし、現在確認できたのは和希が所有するアカウント間のみです』
『他人のアカウントで試す必要はない?』
『ありません。規約にも違反します』
『分かった。ここまでにしよう』
成功した操作を、記録を取りながら最初からやり直す。
どの画面を開き、何を入力し、どの順番で操作したか。使用した三つのアカウントをすべて自分が所有していることも分かるようにした。
報告書は英語で書いた。
実際に確認した事実と、そこから考えられる被害を分ける。成功する条件も限定されているため、常に起きる問題のようには書かない。
『もっと危険に見せたら報奨金が上がるかな』
『確認していない影響まで記載すれば、報告全体の信頼性が低下します』
『分かってる。少し欲が出ただけ』
再現用の短い映像と操作記録を添付し、報告を送信した。
送信完了の表示が出ても、金が入るわけではない。
同じ問題がすでに報告されていれば対象外になる。企業が危険ではないと判断する場合もあるし、追加の確認を求められる可能性もある。
『ここまで何時間?』
『規約の確認を含め、九時間二十二分です』
『映像の仕事より短いね』
『現時点では、報酬は発生していません』
『分かってるよ』
企業から最初の返信が届いたのは、十二月三十一日の夜だった。
担当者が同じ手順で問題を再現できたこと。
既存の報告と重複していないこと。
詳しい危険度の評価と修正へ進むため、公開せずに待ってほしいことが書かれていた。
報奨金の金額は、まだ記載されていない。
『最初の関門は通った?』
『はい。ただし、報奨金の支払いが確定したわけではありません』
『今夜くらいは、少し喜んでもいいだろ』
『問題が未報告であり、企業側でも再現されたことは成果です』
『それでいいよ』
画面を閉じ、実家の居間へ戻る。
今年の初めには、東大へ受かることしか考えていなかった。
今は有名女優と次に会う約束をし、海外企業に安全上の問題を報告している。
『随分変わったね』
『比較対象を、今年一月一日の和希とした場合ですか?』
『そうだけど、もう少し普通に同意してくれてもいいだろ』
『変化したことには同意します』
『はあ、来年も退屈はしなさそうだ』
居間から、美咲が僕を呼ぶ声がした。
年が変わるまで、あと十分。
パソコンを閉じ、家族のいる部屋へ向かった。




