39話 なんか悪いことした人みたい
十二月二十七日の朝、目覚ましが鳴るより三分早く目を覚ました。
睡眠時間は、六時間四十分ほど。
身体を起こしてみても、眠気はほとんど残っていない。
『体調は?』
『心拍数、体温、反応速度に大きな問題はありません』
『昨日のせいで落ちることはなさそうだね』
『知識の定着度にも、明確な低下は見られません』
落ちても自分のせいにしないで、と念を押されていた。
もちろん、本当に玲奈のせいにするつもりはない。
入浴を済ませ、昨夜のうちに揃えた書類を確認する。
教習所の卒業証明書。本人確認書類。筆記用具。念のため、受験案内も鞄へ入れた。
『忘れ物は?』
『ありません』
『答えを教えない約束も覚えてる?』
『はい。試験中、危険や緊急性のある事態を除き、設問への回答は行いません』
『そこまでの事態が試験場で起きないことを願うよ』
日菜からもらったマフラーを巻き、部屋を出た。
運転免許試験場には、受付開始前から人が集まっていた。
列へ並び、書類を提出する。
適性検査を終え、案内された教室へ入ると、机の上には鉛筆と消しゴム以外を出さないよう指示された。
試験が始まる。
標識、交差点の優先関係、駐停車が禁止される場所、事故が起きた場合の対応。
見覚えのある問題が続いた。
一問だけ、文章を二度読んだ。
条件の一部が余計に見え、何を問いたいのか迷う。頭の中央は静かなままだ。
ジンなら、僕が考え終える前に答えを出せる。
今回は求めない。
問題文へ線を引き、条件を一つずつ分ける。選んだ答えを見直してから、次へ進んだ。
試験を終え、結果が発表されるまで別室で待つ。
周囲では、問題の答え合わせを始める声が聞こえた。自信のある人間もいれば、すでに次の試験日を調べている人間もいる。
『僕の答えは記録してる?』
『はい』
『聞くのは、番号が出てからにする』
『承知しました』
壁の画面へ、合格者の受験番号が表示された。
自分の番号を見つける。
東大の合格発表ほど大きな結果ではない。
教習所で初めてエンストした日から三か月近くかけ、自分の手と足で取った資格だった。
口元が緩む。
『どうだった?』
『全問正解です』
『迷った問題も?』
『正解しています』
『なら、僕一人でも取れたね』
『はい。ただし、実際の運転では知識だけでなく、周囲の状況を継続して――』
『その前に、何か言うことない?』
短い間があった。
『運転免許の取得、おめでとうございます』
『ありがとう』
その後、写真撮影と免許証の交付を待った。
渡された免許証には、普段より少し目つきの悪い僕が写っている。顎も僅かに上がり、正面からの光で顔の凹凸が薄くなっていた。
『写真、どう思う?』
『本人確認には適しています』
『もう少し人間らしい感想は?』
『撮影時に顎を引く動作が遅れています。また、照明の方向により――』
『聞いた僕が悪かったよ』
免許証を財布へ入れる。
これで、助手席に教官がいなくても車を運転できる。
試験場の駐車場を歩きながら、停まっている車を以前より近く感じた。
駅へ向かう前に、玲奈へメッセージを送った。
《受かった。全問正解》
《おめでとう。昨日会ったのに、ちゃんと受かるんだ》
《昨日言ってたけど、今日もいいよね?》
《本気だったの?》
《玲奈は?》
返事が来るまで、少し時間が空いた。
《したい》
《昨日と同じところで待ってる》
《本当に元気だね》
《十九歳だから毎日でも余裕だよ》
途中で電車を降り、昨日と同じホテルへ向かった。
玲奈は部屋へ入ると、真っ先に免許証を見た。
「写真、ちょっと怖いね」
「家でも同じことを言われそうだな」
「まだ帰ってないの?」
「玲奈に会ってから帰るつもりだったから」
「実家より、わたしが先なんだ」
玲奈が笑いながら免許証を返す。
「昨日の続きするの?」
「そのために来たんだよ」
「合格を祝うためかもしれないでしょ」
「ありがとう。お祝いに、してくれる?」
「私で性欲処理し過ぎじゃない?」
「玲奈が嫌ならもちろんしないけど」
「昨日も聞いた」
「嫌じゃないのは知ってるからね。僕は毎日でも玲奈に処理して欲しい」
十九歳男の性欲はそんなものだ。
玲奈は呆れ、そして満更でもない顔をしながら、自分から僕のズボンに手をかけた。
『ジン。共有を切って』
『承知しました』
その後実家へ帰った。
玄関に入ると、美咲が居間から顔を出す。
「受かった?」
「受かったよ」
「免許、見せて」
「先に祝ってくれない?」
「おめでとう。見せて」
「気持ちが軽いな」
財布から免許証を出すと、受け取った美咲が写真と僕の顔を見比べた。
「なんか悪いことした人みたい」
「返して」
「まだ見てる」
「本人確認はできてるだろ」
「顔は同じだけど、少し怖い」
取り返そうと伸ばした手を避けられ、免許証は母へ渡った。
「本当に取ったのね。おめでとう」
「ありがとう。母さんは写真について何も言わなくていいから」
「少し顎が上がってるわね」
「家族だなあ」
母は笑いながら、ようやく免許証を返してくれた。
彩香は友人と出かけていて、今日は帰らないらしい。家族のグループへ合格したことを送ると、すぐに《今度乗せて》と返ってきた。
《命の保証はできないよ》
《なら教習所に返してきな》
姉からの信用も、美咲と大差なかった。
父が帰宅したあと、翌日の午前中に車を借りる約束をした。
「最初は俺も乗るからな」
「貸してもらうんだから、それは構わないよ」
「近所を一周して、買い物に付き合ってもらう。いきなり遠くへは行くな」
「分かってる」
「事故だけは起こすなよ」
「教習所へ申し込む前にも聞いたよ」
「免許を取った今のほうが重要だ」
父が言うと、母まで隣で頷いた。
翌朝、家の前に停められた国産セダンの運転席へ座った。
助手席は父。
母と美咲まで後部座席へ乗り込んでいる。
「最初から全員乗るの?」
「せっかくだから」
母はそう言いながら、シートベルトを普段より念入りに確かめていた。
「怖いなら、父さんと二人で行ってくるけど」
「怖いなんて言ってないでしょう」
「お母さん、さっき事故に遭ったらお昼どうしようって言ってたよ」
「美咲」
「昼食の心配なんだ」
笑いながら座席とミラーを合わせる。
『ジン。周囲の確認を頼む。ただし、危険がない限りは話しかけなくていい』
『承知しました』
父から鍵を受け取り、エンジンをかけた。
「ゆっくりでいいからな」
「分かってる」
教習車とはアクセルとブレーキの感覚が違う。
最初の発進では少し強く踏みすぎ、後部座席から美咲の身体が揺れた。
「今の大丈夫?」
「おにいが思ってるよりは大丈夫」
「ならよかった」
「次はもう少し優しく踏め」
父に言われたとおり、足へ入れる力を調整する。
家の前の道を抜ける頃には、発進も停止も滑らかになってきた。
大通りへ出て、父に指定された道を走る。
隣から細かな注意が続くと思っていたが、父は前を見たまま、ほとんど何も言わなかった。
「どう?」
「普通に乗れるな」
「教習所を卒業したんだから、そこは信じてよ」
「免許を取ったばかりの人間の運転は、助手席にいるほうが疲れるんだ」
「今も疲れてる?」
「思ったよりは楽だ」
父なりの褒め言葉らしい。
後ろでは、美咲がスマートフォンを見始めている。
「もう怖くないの?」
「慣れた」
「早いな」
「おにい、こっち見ないで」
「見てないよ」
母から頼まれた買い物を済ませ、少し遠回りして家へ戻る。
途中、反対車線を低い車体のスポーツカーが走り抜けた。
落ち着いた濃紺で、派手な音も立てていない。周囲の車とは、屋根の高さから違って見える。
思わず目で追いかけた。
「自分で買えるなら、好きな車を買えばいい」
父が前を見たまま言った。
「まだ何も言ってないけど」
「顔を見れば分かる。ただし、買ったあとも維持できる金を残してからにしろ」
「今すぐ買うつもりはないよ」
「今は、だろ」
否定できず、僕は笑った。
『今の車は?』
『欧州メーカーの二ドアスポーツカーです。仕様によっては、新車価格が一千五百万円を超えます』
『今の僕には無理だね』
『購入のみであれば不可能ではありませんが、運用資金と生活資金の大部分を失います』
『買わないよ。見るくらいは無料だろ』
『はい』
父の車を家の駐車場へ戻し、エンジンを止める。
「どうだった?」
車を降りると、父から尋ねられた。
「楽しかった。自分の車も欲しくなったよ」
「まずは中古の小さい車にしておけ。ぶつけても泣かずに済む」
「買うときは相談する」
「相談したあとで、好きなものを買いそうだな」
「父さんも僕を分かってきたね」
「十九年育ててるからな」
その言い方が少し嬉しかった。
昼食のあと、父から投資の状況を尋ねられた。
「最近、口座を見ていなかったが、今はいくらになってる?」
「自由に動かせる分で、二百四十万円くらい」
「フランスから帰ったときより、また増えたな」
「投資の利益だけじゃないよ。広告の報酬が大きい」
「確か鍋田さんと撮った広告だったな」
「うん。百二十万円で契約して、振り込まれたのは百五万円くらい」
「一本でか?」
「企画から完成まで関わったから、撮影した一日だけの報酬じゃないよ」
「だとしても驚く金額だな。相場とかは分からんが」
父は感心したあと、すぐに眉を寄せた。
「税金は大丈夫なのか?」
「報酬から十四万円くらい引かれてる。カジノの利益もあるから、年が明けたらまとめて確認するよ」
「分からないところは、税務署か詳しい人に聞きなさい」
「そのつもり」
「仕事が増えて、大学は大丈夫なの?」
母が心配そうに尋ねる。
「次に来てた大きな仕事は断ったよ。二か月以上かかるから」
「それは、少しもったいない気もするな」
「僕の取り分は、二百四十万円だった」
「……それを断ったのか?」
「うん」
父だけでなく、母まで言葉を失った。
「和希、金銭感覚がおかしくなってない?」
「僕も断ったあとで心配になった」
「なら、どうして断ったの?」
「僕が入る前に、作るものが全部決まってたからね。二か月もかけるなら、自分でも作りたいと思えるものを作りたいなって」
母は困ったように笑う。
「大学を辞めて映像の仕事をする、と言い出すよりは安心だけど」
「大学も続けるよ。映像以外にもやってみたいことがあるし」
父はしばらく考え、箸を置いた。
「俺なら受けていたと思う」
「僕も、報酬が一千万円なら受けてたよきっと」
「さすがにそこまでいけば断れないか」
「不満を忘れられる金額ではある」
父が笑った。
「少し安心した。自分の価値観だけで生きているのかと思ったぞ」
「僕だって金は好きだよ」
家族の前でまで、立派な理由を並べる必要はない。
午後、ジンが見つけた脆弱性報奨金制度の候補を開いた。
対象と禁止行為が細かく定められた、海外の情報サービス会社の制度だ。重大な問題なら、一万ドルを超える報奨金が設定されている。
『まず規約から読む。試すのは、そのあと』
『適切です』
参加登録を始めたところで、スマートフォンにメッセージが届いた。
相手は鍋田千尋だ。
《三千万円の広告を断ったそうですね》
企業の安全上の問題より、僕が断った仕事の情報のほうが先に見つかったようだ。
《もう知ってるんですか?》
《私にも出演のお話が来ていましたから》
その一文を読み、閉じた企画書を思い出した。
《聞いていたら、受けましたか?》
すぐには答えられなかった。
二百四十万円とは別の未練が、今になって一つ増えた。




