38話 都合のいい女だと思ってる?
日菜を駅で見送って部屋へ戻ると、午前十一時を少し過ぎていた。
玄関で靴を脱ぎ、首に巻いたままだったマフラーを外す。
昨日まで持っていなかったものだからか、これが部屋にあると日菜がまだいるように感じる。
少しして日菜から送られてきた写真を保存した。
『画像を非表示の領域へ移しますか?』
『そこまでしなくていいよ。誰かに見せる予定はないけどね』
『承知しました』
昼食を取り、部屋を片づけ、翌々日の本免学科試験へ向けて問題を解いた。
間違いはない。
夕方には、予定がなくなった。
映像の仕事を二件断り、教習所も卒業したばかりだ。空いた時間が欲しかったはずなのに、実際に何もすることがなくなると落ち着かない。
『今日、ほかに予定は?』
『ありません』
『明日は?』
『本免学科試験の前日です。学習は完了していますが、夜更かしは推奨しません』
『少しくらい出かけても平気?』
『帰宅時刻によります』
スマートフォンを取り、理央へ電話をかけた。
三度目の呼び出し音でつながる。
《何?》
「理央、今日部屋にいる?」
《いるけど》
「今から行ってもいい?」
《昨日は誰かと会ってたんじゃないの?》
「ライブに行ってた」
《女の?》
「まあ、うん」
《今日は理央に会いたくなったの?》
「会いたくなったし、したくなった」
電話の向こうが数秒静かになった。
《和希君、本当に言い方が可愛くない》
「曖昧に誘うよりいいかと思って」
《身体目当てで来るってこと?》
「それだけなら、理央に電話してないよ」
《少しは言えるようになったんだ》
「行ってもいい?」
《何時に着く?》
「一時間くらい」
《遅い。四十分で来て》
「電車の時間は変えられないよ」
《なら走って》
「汗だくでもいい?」
《それは嫌。普通に来て》
理央の声が少し弾んだ。
「分かった」
《あと、クリスマスプレゼントは?》
「用意してない」
《最低》
「理央は用意してるの?」
《してない》
「同じじゃん」
《理央はいいの》
「その理屈、今作っただろ」
《来なくていい》
「行くよ」
電話を切り、出かける準備をする。
玄関でコートを着たあと、日菜からもらったマフラーへ手を伸ばした。
一瞬だけ迷った。
誰にも見せるつもりのない写真と違い、これは見れば誰かからの贈り物だと分かる。
だからといって、理央へ会うために隠すのも違う気がした。
そのまま首へ巻き、部屋を出た。
理央のマンションへ着いたのは、電話から五十七分後だった。
呼び出しボタンを押すと、返事もなく入口の鍵が開く。
エレベーターで五階へ上がる。
『ジン。理央の部屋を出るまで、共有を切って』
『承知しました』
部屋の前に立つと、呼び鈴を押すより先に扉が開いた。
理央は薄手のニットに短いパンツを合わせ、髪を無造作に後ろでまとめていた。
「遅い」
「三分早かったよ」
「理央が言った時間からは十七分遅い」
部屋へ入ると、理央の視線が僕の首へ向いた。
「そのマフラー、新しいね」
「昨日もらった」
「ライブの人?」
「うん」
理央がマフラーの端を摘まむ。
「可愛い? その人」
「可愛いよ」
「少しくらい迷ってから答えたら?」
「嘘つくのは苦手だからさ」
「理央はどうなの?」
「綺麗だよ。会いたくなって、ここまで来るくらいには」
理央は僕の顔を見たまま黙った。
やがてマフラーから指を離す。
「今のは、もう一回言ってもいいよ」
「一回で十分でしょ」
「ほんと、可愛くない」
「理央は嬉しそうだけどね」
「コート脱いで」
マフラーとコートを外し、理央のあとについて部屋に入る。
テーブルの上には、小さな箱に入ったケーキが二つ置かれていた。
「プレゼントはないけど、ケーキはあるんだ」
「昨日の撮影でもらったの。和希君が来なかったら、一人で二つ食べるところだった」
「僕を入れたのは、ケーキを食べさせるため?」
「身体目当てで来た人が、目的を確認しないで」
理央が僕のシャツを掴む。
引き寄せられる途中で、その腰へ腕を回した。
唇が触れる。
理央が主導していたのは最初だけだった。
身体を入れ替え、背中を壁へ預けさせる。強気な目を崩したくなって、逃げられない距離から何度も口づけた。
「急に来たくせに」
「理央も入れてくれたよね」
「そういう問題じゃない」
「嫌なら離れるけど?」
理央は僕の襟を掴んだまま、首を横へ振った。
「離れたら怒る」
「分かった」
もう一度抱き寄せる。
服の下へ触れる前に顔を見ると、理央は睨むような目のまま、自分から僕の首へ腕を回した。
ケーキを食べたのは、一時間以上経ってからだった。
理央はベッドの上で箱を開き、僕へ片方を差し出す。
「どっちがいい?」
「理央が選んでいいよ」
「珍しく優しいね」
「部屋に入れてもらったから」
「呼んだのは和希君でしょ」
「入れてくれたのは理央だよ」
「そういうことにしておく」
理央は苺の載ったほうを取り、僕にはチョコレートのケーキが残った。
「今日、泊まる?」
「理央が大丈夫なら」
「明日の予定は?」
「特にないよ。免許の試験は明後日」
「なら泊まっていけば」
「うん」
「返事が軽い」
「嬉しいよ」
「顔に出てない」
理央の肩を抱き、自分のほうへ寄せる。
「これなら分かる?」
「最初からそうして」
理央は僕の肩へ頭を預け、苺を先に食べた。
十二月二十六日の昼前、理央の部屋を出た。
自分の部屋へ戻ってシャワーを浴び、午後は本免学科試験の問題をもう一度解く。
前日だからといって、覚えた標識が消えるわけではない。
夕方六時を過ぎた頃、スマートフォンを手に取った。
玲奈との最後の会話は、クリスマスイブの予定を聞かれ、日菜のライブへ行くと答えたところで終わっている。
少し考えてからメッセージを送った。
《今夜、空いてる?》
数分も待たずに返信が来る。
《空いてるよ》
《駅前まで来られる?》
《なに、今日は暇なの? それでわたし?》
《玲奈に会いたくなった》
《身体目的で?》
《それもある》
《そこは否定してよ》
《否定すると嘘になる。でも、誰でもいいわけじゃないよ》
返事が少し遅れた。
《何時?》
駅前で待ち合わせる時刻を送る。
玲奈が来ると確認してから、近くのホテルを予約した。
待ち合わせ場所へ着くと、玲奈は先に来ていた。
白いセーターの上に濃い色のコートを着て、店の明かりが届く場所に立っている。
「ごめん。待った?」
「五分くらい。ホテルへ直行?」
「先になんか食べる?」
「食事をしたいわけじゃないよ。扱いを確認しただけ」
「玲奈を呼んで、そのまま連れていくのは雑だったかなと思って」
「今さら優しくされると、逆に困る」
「じゃあ、コンビニで甘いものだけ買おう。部屋で食べながら話せるし」
「それなら行く」
玲奈が好きなプリンと飲み物を買い、二人でホテルへ入った。
エレベーターの中で、玲奈が僕のマフラーを見る。
「それ、前から持ってた?」
「クリスマスにもらった」
「日菜さんから?」
「よく分かったね」
「イブに会って、急に増えたものなら分かるよ」
「探偵になれそう」
「日菜さんにもらったマフラーで、わたしに会いに来るほうがどうかしてると思う」
「外そうか?」
玲奈は少し迷い、首を横へ振った。
「いい。わたしに会うために隠されたら、もっと嫌だから」
「分かった」
「気に入ってるんだ」
「うん。暖かいし」
「正直だね」
「玲奈に嘘ついたことないよ」
玲奈は呆れたように笑い、自分から僕の隣へ一歩近づいた。
部屋へ入り、コートとマフラーを壁際へ掛ける。
買ってきたものをテーブルへ置いた。
玲奈はプリンの蓋を開けながら、翌月の試験について話し始めた。履修している授業の一部が同じなので、試験範囲や提出物の話は途切れない。
「佐村君、明日が免許の試験なんだよね」
「うん。落ちたら玲奈のせいにしようかな」
「誘ったのは佐村君でしょ」
「じゃあ僕のせいか」
「早く帰ったほうがいいんじゃない?」
「十時過ぎには出るよ。それまでは玲奈といたい」
「身体目的で?」
「それもあるって、最初から言ってるだろ」
「本当にぶれないね」
「友達として話したいし、触りたい。僕の中では両方本当だよ」
玲奈の手から、空になった容器を取る。
「都合のいい女だと思ってる?」
「思ってない」
「呼んだら来るとは思ってたでしょ」
「それは思ってた」
「同じじゃない?」
「違うよ。玲奈が断らないことは分かってる。でも誰でもいいから呼んだわけじゃない」
玲奈は僕を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「そういうことを真面目な顔で言うの、ずるい」
「ごめん」
「謝ってほしいわけでもない」
「なら、どうしてほしい?」
「聞かないで。好きなようにしてよ」
ソファへ座る玲奈の前に立つ。
『ジン。しばらく共有を切って』
『承知しました』
玲奈は逃げずに僕を見上げた。
「なら、今日は僕の言うとおりにしてくれる?」
「普段からなんでもしてあげてるでしょ。佐村君にしてって言われて、断れたことないもん」
口では不満を言いながら、玲奈の手が僕の服を掴んだ。
僕は横に座ってその指に自分の手を重ね、唇を塞ぐ。
「日菜さんとはエッチしたの?」
「そりゃ、まあ」
「その二日後に、わたしをホテルへ呼ぶんだ」
「来てくれて嬉しい」
「反省する気はないの?」
「玲奈を呼んだことは後悔してない」
髪の中に指を差し入れて、後ろから何度もすく。玲奈の力が抜けていくのが、指の腹で分かった。
頬にも手を添える。
親指が唇の輪郭をなぞって、そのまま中へ滑り込んだ。
途端に、玲奈の喉が小さく鳴った。閉じることも、押し返すこともできずに、ただ受け入れている。睫毛が忙しなく震えて、耳の縁まで赤い。
「玲奈。いつもみたいに……ね?」
ベルトを外す音が、思ったより大きく響いた。玲奈が一度だけ、目を伏せる。
ソファに背を預け直して、両手を玲奈の頭に添えた。ただ添えているだけだが、玲奈は何を求められているのかを理解している。
「……今日もシャワー浴びてないでしょ」
「ダメ?」
「いや、ダメではないけど……」
「なんでもしてくれるんだよね?」
遮るように言う。ずるい言い方だと自分でも思うが、効くと知っているものを使わない理由がない。
「玲奈、して」
「……うん」
玲奈の手が僕の膝の上に置かれ、体重を預けるように顔が近づいてくる。
吐息が触れる。
腹の底が引き絞られる。
玲奈が小さく息を吸って、口を開けた。
温かい。
軽く息を吐きながら見下ろすと、玲奈はこちらを見つめ反応を伺っている。
僕が満足しているように頷き頭を撫でると、嬉しそうな顔をした。
友達だから大切にしたい。
その気持ちと、今は僕の望むとおりにしてほしいという欲は、矛盾せずに同じ場所にあった。
「……玲奈、少し激しくするよ」
我慢できなくなった僕は、両手で玲奈の頭を抱え込みながら、強く何度も押し付けた。
午後十時を少し過ぎた頃、玲奈と一緒にホテルを出た。
「佐村君さ、本当にアレ好きだよね。最初から最後までやらされるから、もうとっくに慣らされちゃったけど」
「玲奈だってなんだかんだで嬉しそうにするから、ついね」
「最低。毎回受け入れてあげてる私に言うことはそれなの?」
「いつも本当にありがとう」
駅へ向かう道で、話しながら玲奈が僕の腕へ自分の腕を絡める。
「それにしても明日、試験なんだよね」
「うん」
「落ちても、わたしのせいにしないでよ」
「玲奈に会ったことは後悔してないから、大丈夫」
「そういう問題かな」
「今日は来てくれてありがとね」
「うん。また呼んで」
「じゃあ試験が終わったらもう一回いい?」
「明日ってこと?」
「嫌?」
「……考えとく」
玲奈は笑いながら、改札の前で僕の腕を離した。
部屋へ戻り、翌日に着る服と必要書類を机の上へ揃える。
『現在から入浴して就寝した場合、睡眠時間は六時間四十二分です』
『試験に影響する?』
『大きな影響はないと判断します。ただし、早く就寝してください』
『全問正解できるかな』
『現在の理解度であれば可能です』
『なら安心した。おやすみ、ジン』
『安心する前に、入浴を済ませてください』
『はいはい』
日菜からもらったマフラーを椅子の背へ掛け、僕は浴室へ向かった。
明日、残る試験に受かれば、一人で車を運転できる。




