37話 和希にだけだから
十二月二十四日。
教習所を卒業した翌朝、日菜から届いたメッセージで目を覚ました。
時刻は午前九時を少し過ぎている。
枕元のスマートフォンを取った。
《今日、ちゃんと来るよね?》
《行くよ》
《何時?》
《約束どおり、開場前》
《カメラは?》
《持っていかない》
《よし》
《信用なかった?》
《和希なら、客席から撮りたくなるかもしれないから》
《今日は日菜を見てるよ》
少し間を置いてから、笑っている顔の絵文字が返ってきた。
日菜のバンドが出演するクリスマスライブは、夕方から始まる。十組近い演者が参加するイベントで、日菜たちの出番は後半だ。
昼食を済ませ、出かける準備をする。
机の引き出しから、細長い箱を取り出した。
中に入っているのは、銀色の細いブレスレットだ。派手ではないが、日菜がよく着ている黒い服に合わせれば、手首で光を拾う。
『日菜の衣服には合う?』
『はい。日菜が所有している衣服の多くと組み合わせられます』
『ライブでも使えそうだよね』
『激しい動きによって留め具が外れる可能性があります。本番で使用する場合は、事前の確認を推奨します』
『今日渡して、すぐ着けろとは言わないよ』
日菜が喜ぶ顔は想像できる。
実際にその顔を見たいと思って選んだのだから、値段や使いやすさだけで決めたわけではなかった。
ライブハウスへ着くと、入口の周囲には開場を待つ客が集まっていた。
赤や緑を取り入れた服装の人間が多く、頭に小さな帽子を載せている人までいる。普段のライブより、知らない客同士の会話も多かった。
開場して中へ入り、後方の壁際に場所を取る。
今日は撮影を頼まれていない。
鞄へ手を入れても、カメラはない。照明の角度や、ステージ上で日菜の顔が最も綺麗に見える位置を考えても、僕が直せることは何もなかった。
『落ち着かないね』
『撮影時に行っている確認を、現在も継続しています』
『今日はやめよう』
『承知しました』
一組目の演奏が始まる。
最初は、無意識に演者の立ち位置や照明を見ていた。二組、三組と続くうちに、少しずつ音だけを聴けるようになった。
日菜たちの出番が近づくと、客席の前方へ移動する人が増えた。
以前見たときより、明らかに多い。
日菜のミュージックビデオをきっかけに知ったらしい会話も聞こえる。自分の作った映像が、画面の外から人をここまで連れてきたと思うと、撮影をしていない今日まで仕事の続きを見ているような気がした。
照明が落ち、メンバーがステージへ出てくる。
日菜の手には、誕生日に贈ったマイクがあった。
一曲目が始まる。
低い音を弱く出しても声が楽器へ埋もれず、サビで強く歌ったときにも、以前のような鋭さが出ない。
『マイクは合ってる?』
『はい。練習時より会場の音量は大きいものの、日菜の声の特徴は保たれています』
『本人も歌いやすそうだ』
『高音域へ移る前の呼吸に余裕があります』
日菜は客席の前方へ身体を向け、強い目で歌っていた。
普段、僕の隣で笑っているときとは違う。
どちらが本当の日菜かと聞かれたら、たぶん両方だ。僕だけが知っている顔もあるが、今は客席にいる全員が日菜に見惚れている。それが少し誇らしかった。
二曲目の途中、日菜の視線が後方へ動いた。
壁際にいる僕のところで一瞬止まる。
見つけた。
そう分かったのは、その直後、歌いながら口元が僅かに緩んだからだ。
『今、僕を見たよね』
『視線の方向は一致しています』
『それだけ?』
『日菜の表情は、和希を視認した直後に変化しました』
『ならいい』
僕も、自分で思っていたより分かりやすく笑っていた。
最後に演奏したのは、僕がミュージックビデオを作った曲だった。
最初の音が鳴っただけで、客席から声が上がる。日菜たちを初めて撮った頃にはなかった反応だ。
歌い終えた日菜がマイクを握ったまま頭を下げる。
客席からアンコールを求める声が続いた。イベント全体の時間が決まっているため、もう一曲演奏することはできない。日菜は嬉しそうに手を振り、何度も客席を見ながらステージを降りた。
すべての出演者が演奏を終えたあと、僕は会場の外で待った。
三十分ほどして、コートを着た日菜が出てくる。
僕を見つけると、周囲にいたメンバーへ何かを伝え、早足で近づいてきた。
「和希」
「お疲れさま」
「ちゃんと最初からいた?」
「いたよ。約束しただろ」
「途中で来ても、そう言えるから」
「一組目は三人組で、二組目のボーカルはサンタの帽子を被ってた」
「本当にいた」
「信用なさすぎない?」
「冗談。ステージから見つけたよ」
「二曲目で?」
「分かった?」
「日菜、僕を見て笑ったから」
「笑ってないよ」
頭の中で確認したことまで、日菜へ説明する必要はない。
「僕には分かった」
そう答えると、日菜は少し照れたように視線を逸らした。
「マイク、どうだった?」
「合ってた。高い音を出しても細くならなかったし、低いところもちゃんと聞こえた」
「すごく歌いやすかった。強く出しても、自分の声が痛く聞こえないの」
「次からも使えそう?」
「うん。今日もほかの荷物とは別に持ってきたんだから」
自分で買った僕より、日菜のほうが丁寧に扱っているらしい。
「お腹は?」
「空いた。ライブ前は、あんまり食べられなかった」
「何か食べよう」
「予約してる?」
「終わる時間が読めなかったから、今日はしてない」
「じゃあ、歩きながら探そ」
日菜が僕の手を取った。
クリスマスイブだけあって、駅へ近づくほど店は混んでいた。何軒か覗き、少し離れた洋食店へ入る。
壁に小さな飾りが掛けられ、普段の料理へケーキを加えた特別メニューが用意されている。
日菜は白ワインを一杯頼み、僕は炭酸水にした。
「和希は飲まないんだよね」
「まだ十九歳だから」
「真面目」
「日菜がまた一つ年上なのを自慢したいだけだろ」
「分かった?」
料理が運ばれる前に、鞄から細長い箱を取り出した。
「これ、日菜に」
「何?」
「クリスマスプレゼント」
日菜は僕の顔を見てから、両手で箱を受け取った。
「開けていい?」
「もちろん」
蓋を開き、銀色のブレスレットを取り出す。
細い鎖が指先から垂れ、店内の光を受けて揺れた。
「綺麗……」
「普段も使えるし、衣装によってはライブでも使えると思って」
「着けて」
日菜が右手を差し出す。
留め具を外し、手首へ回した。細かな金具が思ったより扱いにくい。日菜の肌へ何度も指が触れた。
「和希、こういうの慣れてそうなのに」
「女の子の手首に触ることはあっても、留め具までは使わないからね」
「今、余計なこと考えた?」
「日菜と同じことを考えたと思う」
「なら言わなくていい」
ようやく留め具が嵌まる。
日菜は腕を上げ、角度を変えながら眺めた。
「似合う?」
「うん。日菜の手首、綺麗だから」
「今日は素直だね」
「今日だけじゃないよ」
「普段は言う前に、絶対一回からかうでしょ」
「喜ばせたい日もあるんだよ」
日菜が黙った。
目を伏せ、ブレスレットへ触れる。その口元は、隠しきれずに緩んでいた。
「わたしもあるよ」
足元の鞄から、柔らかな包みを取り出す。
「僕に?」
「和希以外の誰に渡すの?」
包みの中には、濃い灰色のマフラーが畳まれていた。無地に近く、端へ細い黒の線が入っている。
「コートに合うと思って。和希、冬でも首元が開いてることが多いから」
「見られてたんだ」
「見るよ。和希だもん」
日菜がマフラーを受け取り、椅子へ座ったまま僕の首へ巻く。
一度前で交差させ、形を整えた。
「どう?」
「暖かい」
「それだけ?」
「似合ってる?」
「似合ってる。和希が思ってるより、格好いいよ」
「僕が思ってるより?」
「自信があるところと、変なところで自分を分かってないところがあるから」
「日菜の評価は覚えておく」
「調子に乗らない程度にね」
食事中もマフラーは外さなかった。
店内では少し暑かったが、向かいの日菜が何度も嬉しそうに見てくる。暑いと言って外すより、今は巻いていたかった。
店を出た時刻は、午後十時を過ぎていた。
日菜が僕の手を取り、指を絡める。
「このあと、どうする?」
「僕の部屋に来て」
「行きたい」
「泊まってく?」
「当たり前じゃん」
迷わず返され、腹の奥が熱くなる。
「……早く帰ろう」
「急に速く歩かないでよ」
笑いながらも、日菜の歩調も少し速くなっていた。
部屋へ着き、日菜を先に中へ入れる。
玄関の鍵を閉めたところで、振り返った日菜と目が合った。
『ジン。視覚と聴覚の共有を切って』
『承知しました』
返事が消えるのを待ち、マフラーを外す。
日菜はコートを脱ぎながら、手首のブレスレットをもう一度見ていた。
「それ、外さなくていいの?」
「着けてたい」
「傷つくかもしれないよ」
「和希が雑にしなければ大丈夫」
「分かった」
答えながら、日菜の腰へ腕を回した。
自分から近づいてきた日菜を抱き寄せ、そのまま唇を重ねる。
一度触れて離れるつもりはなかった。
日菜の後頭部へ手を添え、角度を変えて深く口づける。息を継ぐために顔を離すと、日菜は何も言わず、もう一度こちらへ手を伸ばした。
その指を取って、ブレスレットのある手首へ唇を当てる。
「くすぐったい」
「傷つけないようにしてる」
「そこだけ?」
「日菜の全部」
言った直後、自分でも少し格好をつけすぎたと思った。
笑われる前に抱き上げる。
「ちょっと、和希」
「何?」
「急すぎる」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
日菜の腕が僕の首へ回る。
ベッドまで運び、身体を下ろしてからも離れなかった。黒い服の上で銀色の鎖が揺れる。店で見たときより、ずっと近い。
首筋へ唇を落とすと、日菜の指が僕の髪へ入った。
「なんか、いつもより強くない?」
「ライブの日菜を見てから、ずっと触りたかった」
「会場では、そんな顔してなかったよ」
「客席でしていい顔じゃないからね」
服越しに触れた身体が、呼吸に合わせて上下する。
急ぎたい気持ちはある。
けれど、日菜が僅かに力を入れた場所では手を止め、目が合えば大丈夫か確かめた。言葉にしなくても、離れてほしいのか、もっと近づいてほしいのかは分かる。
日菜の頬を撫でる。
ステージでは力強く見えた目が、今は僕だけを映していた。
「和希」
「うん」
「今日、来てくれて嬉しかった」
「僕も。日菜が僕を見つけたとき、かなり嬉しかった」
「やっぱり笑ってた?」
「少しだけ」
「和希にだけだから」
その言葉で、抑えていたものがもう一度熱を持つ。
「それ、今言うのはずるい」
「和希が喜ぶと思って」
今度は日菜から目を逸らさなかった。
何も言わずもう一度唇を塞ぎ、触れる手へ力を込める。
雑にはしない。
ただ優しくすることと、欲しがらないことは違うと思う。
日菜が僕の名前を呼ぶたびに応え、日付が変わりクリスマスになってからも、何度もその声を聞いた。
翌朝、目を覚ますと、日菜は僕より先に起きていた。
ベッドの上で、手首のブレスレットをスマートフォンのカメラへ映している。
「朝から何してるの?」
「昨日は暗くて、綺麗に撮れなかったから」
「僕よりプレゼントのほうが大事そうだ」
「和希の写真も撮る?」
「寝起きは嫌だな」
「格好いいなら、いつ撮っても大丈夫でしょ」
「日菜も一緒ならいいよ」
日菜が僕の隣へ身体を寄せ、スマートフォンを構えた。
一枚目は僕が目を閉じてしまった。
「もう一枚」
日菜が髪を耳へかけ、僕の肩へ頬を寄せる。
画面の中で二人とも前を向いたところで、日菜の肩を抱き寄せ、その頬へ口づける。
「え?」
日菜の指が画面へ触れ、手元で小さなシャッター音が鳴った。
唇を離すと、日菜は少し目を見開いたまま僕を見ている。
「先に言ってよ」
「言ったら、その顔は撮れなかっただろ」
日菜が撮れた写真を開く。
僕は目を閉じて日菜の頬へ口づけ、日菜は驚いたまま画面を見ていた。
「これ、誰にも見せられないね」
「見せるつもりだったの?」
「見せない。わたしのだから」
日菜は写真を保存すると、もう一度スマートフォンを構えた。
「今度は、ちゃんと撮る」
「もう一回すればいい?」
「今度はこっち」
日菜が自分の唇へ指先で触れた。
「次は目を閉じるから」
言われたとおり、もう一度日菜へ顔を寄せる。
今度は唇が触れる前に、日菜の目が閉じた。
シャッター音が鳴っても、すぐには離れなかった。
日菜は笑いながら、三枚の写真を大事そうに見返していた。
昼前にはバンドの練習があるらしく、支度を済ませる。
玄関で靴を履いたあと、僕の首へ昨日のマフラーを巻いた。
「部屋の中なんだけど」
「外に出るとき、忘れないようにね」
「日菜は忘れ物ない?」
「ブレスレットも、マイクも持った」
「なら大丈夫」
駅まで送る道で、日菜は何度も僕の手を握った。
クリスマスの朝はもう終わりかけていたが、首元には日菜からもらった暖かさが残っている。
僕はそのまま、改札の向こうへ消えるまで日菜を見送った。




