36話 ジンなら見つけられる?
三千万円という数字を見た翌朝、僕は制作会社から送られてきた企画概要を開いた。
依頼元は、国内最大手の一つに数えられる飲料メーカー。
春に発売する新商品の広告で、テレビに加え、動画共有サイトやSNS、店頭でも使用する予定だという。
六十秒版を中心に、三十秒、十五秒、六秒の映像も作る。撮影は二日間。地方での撮影があり、準備から納品までは二か月以上を見込んでいる。
純粋な映像制作費だけで三千万円。
僕へ提示された企画・演出料は、二百四十万円だった。
『前回の倍だね』
『はい。制作予算は三倍ですが、和希の担当範囲が三倍になるわけではありません』
『金額は妥当?』
『前回の実績と拘束期間を考慮すれば、受諾可能な範囲です。経験年数を理由とした大幅な減額も見られません』
二百四十万円。
いま僕が自由に動かせる資金と、ほとんど同じ金額だ。
画面に表示された数字を見ているだけで、受けたあとの使い道がいくつも浮かぶ。投資へ戻す。車のために残す。次の旅行へ日菜を連れていく。
昨日、自分の報酬を最初に気にした僕を、きちんと満足させる額だった。
企画書を先へ進める。
商品の印象、出演者の動き、撮影場所、最後に表示する言葉。撮るものは、すでに細かく決まっている。
僕に求められているのは、承認済みの企画を予定どおり映像へ変え、大勢のスタッフを動かして完成させることらしい。
『僕じゃなくても作れそうだね』
『同程度の経験を持つ監督であれば、制作可能です』
『どうして僕を指名したんだろう』
『前回の広告で得られた視聴継続率と販売実績が評価されています。また、十九歳の東京大学生を監督として起用することに、宣伝上の価値を見込んでいる可能性があります』
その予測を裏づけるように、企画書の後半には、僕の経歴を広告公開時の宣伝へ利用したいと書かれていた。
前回は断ったものが、今回は最初から商品の売り方に組み込まれている。
腹が立つわけではない。
僕の年齢や大学名まで価値になるなら、利用したい会社が現れるのも分かる。僕だって、使えるものはジンの計算でも自分の顔でも使ってきた。
ただ、二か月をかけてまで撮りたい映像かと聞かれると、指が止まった。
制作会社のプロデューサーへ電話をかける。
《資料は確認していただけましたか?》
「はい。報酬を含めて、かなり良い条件だと思います」
《では、受けていただけると考えてよろしいですか?》
「その前に、企画を変更できる範囲を確認したいです」
商品の見せ方や出演者の動きだけではない。映像の中心に置くものから組み直せるのかを尋ねた。
返ってきた答えは、難しい、だった。
広告代理店と依頼主の承認はすでに済んでいる。出演者や撮影場所も仮押さえされ、僕の案に合わせて全体を動かすには、企画会議からやり直す必要がある。
《現場では、佐村さんからも意見を出していただけます》
「細かな部分は変えられると思います。ただ、映像そのものは変えられないんですよね」
《今回は規模も大きいですから、関係各所との調整がありまして》
「分かりました」
二百四十万円が惜しくない、と格好をつけるつもりはない。
惜しい。かなり欲しい。
だが、金額を理由に受けた僕が、二か月後まで機嫌よく働いている姿は想像できなかった。
「すみません。今回は辞退させてください」
電話の向こうが静かになる。
《報酬に問題がありましたか?》
「いえ、そういう訳ではないです」
《でしたら、少しお時間を置いて考えていただくことはできませんか?》
「考える時間を増やしても、結果は変わらないと思います」
プロデューサーが小さく笑う。
《佐村さんらしいのか、らしくないのか、分かりませんね》
「電話を切ったあとで後悔するかもしれません」
《そこまで分かっていて断るんですか?》
「二か月かけるなら、自分でも作りたいと思えるものを作りたいです」
声をかけてもらえたことへの感謝を伝え、通話を終えた。
机の上へスマートフォンを置く。
『断ったね』
『はい』
『二百四十万円か』
『現時点であれば、受諾へ変更できる可能性は残っています』
『未練を刺激しないでよ』
『金額を再確認したため、選択肢を提示しました』
『受けない。たぶん』
『確定していません』
『受けないよ』
言い直してから企画書を閉じた。
映像を作るのは楽しい。
撮影現場で、自分の判断によって人と機材が動き、頭の中にしかなかったものが画面へ現れる感覚も好きだ。
好きだからこそ、届いた仕事をすべて抱え、映像以外に使う時間がなくなるのは違う気がした。
『和希は、映像制作を職業にしたいのですか?』
『面白い仕事なら続けたい。でも、映像監督だけで生きていくとは決めてないよ』
『ほかに希望する職業がありますか?』
『職業を一つ選ばなくてもいいだろ。十九歳で決めるには、まだ面白そうなものが多すぎる』
『選択肢を維持するためには、時間と資金が必要です』
『だから、映像以外でも金を増やしたい。株より短くて、カジノほど目立たないものはない? もちろん合法で』
『条件に該当する候補として、脆弱性報奨金制度があります』
『何の報奨金?』
『企業が許可した範囲で、サービスやソフトウェアの安全上の問題を調査し、未報告の脆弱性を発見した者へ報奨金を支払う制度です。バグバウンティとも呼ばれます』
『企業から、欠陥を探してくれって頼まれるわけか』
『はい。対象と検証方法は企業ごとに定められています』
『ジンなら見つけられる?』
『公開されているプログラム、通信仕様、過去の脆弱性、使用されているソフトウェアを比較することで、候補を発見できる可能性があります。実際の検証は、和希が許可された環境で行う必要があります』
株価の上昇を待つのとも、大勢を集めて映像を作るのとも違う。
僕とジンだけで始められる点も気に入った。
『参加できる制度を探して。金額だけじゃなく、規約が明確なところを優先して』
『承知しました』
その日の午後、もう一件届いていた腕時計の広告についても返事をした。
飲料の広告より拘束期間は短い。ただ、こちらも商品の見せ方が細かく決められ、僕に求められているのは撮影現場での演出が中心だった。
条件が悪いわけではないと伝えたうえで、今回は受けないと返す。
『映像の仕事が、予定からなくなったね』
『日菜のバンドから、正式な映像制作の依頼を受ける可能性は残っています』
『まだ曲も完成してないよ』
『はい』
『少しくらい、不安にならないの?』
『和希は現在、生活に必要な資金を確保しています。また、新たな仕事の相談を受ける可能性もあります』
『やっぱり聞き方を間違えた』
二件続けて断った僕より、ジンのほうが落ち着いている。
口座に約二百四十万円あるとはいえ、今後も依頼が来る保証はない。不安が全くないわけではなかった。
一方で、予定表から二か月分の仕事が消えると、身体が軽くなったようにも感じる。
手に入れた時間を無駄にしたら、そのときは二百四十万円を断った自分を思いきり馬鹿にしよう。
大学の予定表を開く。
一月下旬には後期の試験がまとまっている。レポートの提出もあり、その間に次の日菜の映像や、バグバウンティを試すなら、空いた二か月がそのまま暇になるわけではない。
『飲料の広告を受けていても、単位は取れた?』
『現在の履修状況と理解度であれば可能です。ただし、撮影準備が重なる時期には、睡眠時間が減少すると予測します』
『断った理由に大学も足しておけば、もう少し立派に聞こえたかな』
『先方へ伝えた理由に虚偽はありません』
『そうなんだけどね』
本当の理由は、面白くなかったからだ。
大学のためと言えば聞こえはいいが、格好よく整えたところで、自分にまで嘘をつく必要はなかった。
十二月二十三日、僕は教習所の卒業検定を受けた。
十月に仮免許を取ってから、路上教習へ進んでいた。撮影と編集が重なった時期は予約を減らしたため、当初考えていたより時間がかかっている。
久しぶりに運転した日は、左折するだけで教官から二度注意された。
分かっていることと、身体が自然に動くことは、クラッチと同じくらい別物らしい。
卒業検定では、試験官と次に受ける教習生を乗せて路上へ出た。
発進する前に後部座席から小さな咳が聞こえた。緊張しているのは僕だけではないらしい。そう思うと少し気が楽になったが、最初の信号でブレーキを踏んだときは、停止線までの距離をいつもより気にしてしまった。
『近すぎた?』
『停止線の手前、七十二センチです。問題ありません』
『検定中は、危険なとき以外は黙ってて』
『承知しました』
自分から聞いておいて勝手だとは思う。
その後は、交差点へ近づくたびに左右を確認し、歩道を走る自転車との距離にも気を配った。教習所へ戻ったあとの縦列駐車も、やり直さずに終える。
車から降りるまで、試験官は結果を教えてくれなかった。
待合室で名前を呼ばれるまでの二十分は、二百四十万円の仕事を断る電話より長く感じた。
合格を告げられた瞬間、教習所へ通い始めた頃に二度続けてエンストしたことを思い出した。
『最初より上手くなった?』
『発進から停止までの操作は安定しました。確認動作には、実際の安全確認に加えて試験官へ示すための動きも含まれています』
『褒めるだけじゃ終わらないんだね』
『上達したことは事実です』
『先にそっちを言ってよ』
教習所を出る前に、卒業証明書と本免学科試験の案内を受け取った。
『試験場へ行くなら、いつがいい?』
『今週では、十二月二十七日が最も予定に余裕があります』
『じゃあ、二十七日。試験中は答えを教えなくていいからね』
『承知しました』
卒業証明書を鞄へしまう。
車を一人で運転できるようになるまで、残る試験は一つだけだ。
『明日は、日菜のライブです』
『忘れてないよ』
『開場前に到着するには、午後――』
『時間も覚えてる。カメラを持っていかないこともね』
今回は、撮る側ではなく客として来てほしい。
そう言った日菜の顔まで覚えている。




