35話 三千万円
化粧品会社へ映像を正式に納品したのは、十二月に入ってすぐだった。
六十秒版に加え、配信用の十五秒版と六秒版も完成した。
長い映像では、千尋が鏡を見る理由の変化を残す。短い映像では、最初から商品名と特徴を見せる。
同じ素材を使っていても、役目は違う。
最後の確認を終えたプロデューサーが、僕へ手を差し出した。
「納品完了だ。お疲れさま、監督」
「ありがとうございました」
握手を返す。
撮影が終わった日より、この瞬間のほうが肩の力が抜けた。
一千万円を使い、三十人近い人間が関わった仕事が、僕の手を離れる。もう少し直したい場所を探そうと思えば、たぶんいつまでも見つけられる。
けれど、直すことと良くすることは同じではない。
今の僕が出せる答えは、画面の中に残せたと思う。
「初めてこの規模の現場へ入った感想は?」
隣にいた栗原先輩が尋ねた。
「人に任せるのは、思っていたより難しかったです」
「そこ?」
「自分でやったほうが早いと思う場面が、何度もあったので」
「実際に自分でやったら、間に合わなかっただろ」
「はい。だから任せました」
「少しは成長したな」
「先輩も、監督助手らしくなりましたよ」
「上から言うな」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
栗原先輩を誘ってよかった。
知らない人間ばかりの現場で、僕の意図を先回りして伝えてくれる相手が一人いる。それだけで、考えるために使える時間が随分増えた。
「次があったら、またお願いします」
「次も一千万円とは限らないぞ」
「予算が下がったら来ないんですか?」
「呼ばれる前提なのが腹立つな」
「嫌なら、別の人を探します」
「行くよ。先に予定を聞け」
先輩の返事に満足し、編集室を出た。
報酬が振り込まれたのは、それから十日ほど後だった。
契約した金額は百二十万円。
実際に口座へ入ったのは、百五万七千六十円だった。
『十四万円以上減ってる』
『源泉所得税および復興特別所得税として、十四万二千九百四十円が差し引かれています』
『前に言っていたのは、これか』
『はい。最終的な納税額が確定したわけではありません。年間の所得と必要経費を整理し、確定申告を行う必要があります』
『受け取る前に引かれて、後でもう一度計算するんだね』
『差し引かれた税額は、確定した税額から精算されます』
『面倒だけど、百万円は入った』
『正確には、百五万七千六十円です』
『今は喜ばせてよ』
『自由に動かせる資金は、保有株式の評価額を含め、約二百四十万円になりました』
『それは嬉しい』
八万円から始めた金が、二百四十万円まで増えた。
すべてが投資の利益ではない。映像の仕事で得た金と、モナコで勝った金が大きい。
何で増えたかを分けても、僕が使える金額は変わらない。
車を買おうと思えば、中古の86が現実的な候補へ入り始める。駐車場や保険、税金まで考えれば、今すぐ手を出す気にはならないが、画面の向こうにしかなかったものへ少し近づいた。
『百万円を投資へ追加する。残りは税金と、次の仕事に必要な金として残したい』
『現在、購入を推奨できる候補はありません』
『せっかく入金されたのに』
『資金が増えたことと、購入に適した銘柄が存在することは別です』
『分かってる。しばらく休ませておこう』
百万円を超える金が、使い道もなく口座へ置かれている。
半年前の僕なら、その状態を想像するだけで随分満足したはずだ。今は次にどう増やすかを考えている。
二百四十万円を持った今の感想は、思っていたより単純だった。
広告が公開されたのは、十二月の半ばだった。
化粧品会社の公式サイトと動画共有サイトへ六十秒版が掲載され、短い二種類も広告として配信される。
公開予定時刻を過ぎ、スマートフォンで公式サイトを開いた。
何度も見た映像が、僕の使っていた編集室ではなく、誰でも見られる場所で再生される。
内容は変わっていないが、自分の手を離れた映像は少し違って見えた。
『緊張していますか?』
『撮影の日よりは平気』
『心拍数は安静時より毎分十一回増加しています』
『数字にしなくていいから』
公開から十分ほどで、千尋からメッセージが届いた。
《公開されましたね》
《今確認しました》
《自分が出ている広告なのに少し緊張しました》
《僕もです》
《監督でも緊張するんですね》
《十九歳なので》
《都合のいいときだけ年齢を使いますね》
《今後も使えるうちは使います》
少し間が空き、次のメッセージが届いた。
《綺麗に撮ってくださって、ありがとうございました》
《鍋田さんが綺麗だったので》
《編集室で学習した褒め方ですね》
《今回は最初に言いました》
《合格です》
千尋は困らない内容を考えると言っていたが、たぶん最初から困らせるつもりなどなかったのだろう。
僕のほうも、届いた名前を見て少し嬉しくなっている。
仕事以外と呼ぶには小さすぎる変化だが、仕事だけとも言い切れなくなっていた。
公開直後に映像を見つけたのは、千尋のファンだった。
《表情がほとんど変わってないのに、最後だけ違って見える》
《ドラマの一場面みたい》
《千尋ちゃんを見てたはずなのに、美容液が気になった》
鏡や衣装、使われた音楽について調べる投稿も増えていく。
監督の名前を探す人間もいたが、一般の視聴者へ僕の経歴は大きく出していない。制作会社の実績ページまで辿れば名前は見つかるものの、十九歳の東大生だとは書かれていなかった。
化粧品会社から、そこを宣伝へ使わないかという提案はあった。
若い監督が有名女優を撮ったという話題は、映像を見る人を増やせるかもしれない。
僕は断った。
今回は、千尋への興味を商品へ移すための広告を作った。途中から僕の年齢が話題になれば、最後に残したいものまで変わってしまう。
顔を知られること自体にも、今のところ魅力を感じなかった。
大学では、玲奈が僕より先に広告を見つけた。
「佐村君、鍋田千尋を撮ったの?」
講義室へ入ってすぐに声をかけられ、近くにいた学生までこちらを見る。
「撮ったよ」
「本当に?」
「制作会社のページに名前も出てる」
玲奈はスマートフォンの画面と僕の顔を見比べた。
「夏休み前は、日菜さんのライブを撮ってたよね」
「うん」
「その後に理央さんの広告を撮って、今度は鍋田千尋?」
「順番は合ってる」
「半年でそうなる?」
「僕も、ここまでは予想してなかったよ」
玲奈が僅かに目を見開いた。
「佐村君でも、予想してないことあるんだ」
「僕を何だと思ってるの?」
「何でも先に分かって、一人で進んでいく人」
冗談のような言い方だったが、玲奈の目は笑っていなかった。
「一人では撮れなかったよ。栗原先輩にも来てもらったし、知らないことばかりだった」
「ふうん」
「それに、半年で別人になったわけじゃない。今日も玲奈の隣に座ってる」
「別に、置いていかれたって言いたいわけじゃないけど」
「僕が言いたかっただけ」
玲奈は少し黙り、隣の椅子を引いた。
「それで、鍋田千尋は綺麗だった?」
「綺麗だったよ。演技もすごかった」
「見た目の話を聞いたんだけど」
「見た目も綺麗。画面で自分がどう見えるか、本人がよく分かってた」
「結局、撮影の話になるんだね」
「仕事で会ったからね」
「じゃあ、お昼を食べてるわたしは?」
「友達」
「知ってる。聞いたわたしが馬鹿だった」
「大切な、まで付けようか?」
「後から付けても遅いよ」
口ではそう言いながら、玲奈の機嫌は悪くなさそうだった。
理央から連絡が来たのは、その日の夜だ。
《千尋さんまで撮ったの?》
《撮りました》
《理央の広告より、お金かかってるよね》
《制作費は十六倍くらいです》
《むかつく》
《僕が決めた予算じゃないですよ》
《理央の広告より綺麗だった》
《商品も企画も違うので、比べられません》
《そういう答えもむかつく》
《何て答えれば満足するんですか?》
《次は理央を、あれより綺麗に撮って》
《予算がなくても、理央なら綺麗に撮れますよ》
送ってから、自分でも少し素直すぎたと思った。
既読はすぐについたが、返事が来ない。
十秒ほど待ったところで、電話がかかってきた。
「もしもし」
《今の、もう一回言って》
「嫌ですよ」
《何で?》
「一回聞いてるでしょう」
《和希君が素直に褒めること、滅多にないから》
「僕を呼ぶ理由を作りたいだけじゃないですか?」
《今日は空いてる?》
「ほら」
《来るの? 来ないの?》
「行きます」
《なら早く来て》
電話が切れた。
日菜とは、その週末に会った。
誕生日に贈ったマイクは、すでに練習で何度も使っているらしい。次のライブにも持ち込むと決めたと、会ってすぐに聞かされた。
「メンバーにも、前より声が聞きやすいって言われたよ」
「なら選んだ甲斐があった」
「自分で選んだみたいに言ってる」
「一緒に選んだだろ」
「買ってくれたのは和希だけどね」
日菜は嬉しそうに笑った。
食事をしながら広告を見せると、最初から最後まで黙って画面を見た。
「これ、本当に和希が撮ったんだね」
「まだ疑ってた?」
「信じてたよ。でも、鍋田千尋だよ。普通にテレビで見る人じゃん」
「撮影中は、普通に仕事をする人だったよ」
「綺麗だった?」
「綺麗だった」
日菜の箸が止まる。
「即答するんだ」
「嘘をつくところじゃないし」
「じゃあ日菜とどっちが綺麗?」
「見方が違うよ」
「それ逃げてない?」
「鍋田さんは、カメラの前で綺麗に見せたい人。日菜は、カメラがなくても見ていたい人」
日菜が黙った。
さっきまで少し尖っていた目が、ゆっくり柔らかくなる。
「……和希、そういうこと言えたんだ」
「失礼だな」
「女の子みんなに言ってない?」
「今のところ日菜にしか言ったことないよ」
「なら覚えておく」
日菜は満足したように広告をもう一度再生した。
「前に日菜の映像を作ってくれたときより、ずっと綺麗」
「使える人も機材も増えたからね。僕一人で作った映像じゃない」
「和希が監督なんでしょ?」
「うん」
「次に日菜を撮るときは、これより綺麗に撮ってね」
「撮りたいと思ってるよ」
「本当に?」
「次の曲は作ってる?」
日菜の顔が明るくなった。
「まだ途中だけど、今度の練習に来る?」
「行く。完成する前に聞いてみたい」
「じゃあメンバーにも聞いておく」
次の仕事として頼まれたわけではない。
報酬の話もしていない。
ただ、日菜の歌を、今の僕なら前より綺麗に残せる。
そう思うと、仕事になるかどうかより先に、カメラを持っていきたくなった。
広告公開から一週間後、化粧品会社から最初の結果が届いた。
六十秒版を最後まで見た人の割合は、同社が過去一年に公開したWeb広告の中で最も高い。
広告から販売ページへ移った割合は、以前の映像の一・六倍。
対象商品の販売数は、公開前の同じ期間と比べて二・三倍になっていた。
すべてが映像の効果とは限らないが、会社が設定していた目標を大きく上回ったことは、資料にもはっきり書かれている。
『成功したと考えていい?』
『広告以外の要因を完全には除外できません。ただし、公開時期と各指標の変化には強い関連が見られます』
『今は、それで喜ぶよ』
同じメールには、次の商品でも僕を監督として起用したいという希望が添えられていた。
制作会社からも、新しい相談が二件届く。
一件は若者向けの腕時計。
もう一件は、国内外で販売されている飲料の広告だった。
添付された企画概要を開く。
出演者も、撮影日も、僕の報酬もまだ決まっていない。
最後に書かれた制作予算だけが、先に目へ入った。
『三千万円』
『はい』
『僕の報酬は?』
『資料には記載されていません』
『そこが一番知りたいのに』
一千万円という数字に驚いたのは、数週間前のことだった。
今は三千万円の予算を見て、最初に自分の取り分を考えている。
慣れるのが早いのか、欲深いのか。
たぶん、両方だ。




