34話 本人が一人増えても大丈夫です
撮影から三日後、僕は制作会社の編集室にいた。
壁際には三台のモニターが並び、そのうち一台は映像の色を正確に確認できるよう調整されている。後ろには大きなスピーカーがあり、試しに再生された素材から、千尋の指が頬へ触れたときの僅かな衣擦れまで聞こえた。
編集を担当する田所さんは、僕が来る前にすべての素材を整理していた。
撮影順ではなく、場面とカメラの位置ごとに分けられ、似た映像を横に並べて比べられる。僕が一人で編集していた頃なら、ここまで準備するだけで半日は使っていたと思う。
「監督、まず全体を一度見ますか?」
「お願いします。使えそうなものを全部並べると、何分あります?」
「五分十三秒です」
「完成は六十秒ですよね」
「同じ動きを何度も撮りましたから。僕は捨てるところまで含めて編集だと思っています」
「捨てるの、僕も手伝います」
「そこは監督に決めてもらわないと困ります」
田所さんが笑い、映像を再生した。
最初に鏡を見る千尋。
同じ椅子へ座り、同じ頬へ視線を向ける別のテイク。髪を耳へかける速さや、指が肌へ触れるまでの間が僅かに違う。
三つ目へ切り替わったところで、止めてもらった。
「最初はこれを使いたいです」
「二つ目のほうが、頬に触れる動きは綺麗ですよ」
「綺麗すぎます。今のほうが、鏡を見る前から同じ場所を気にしていたことが分かる」
「なるほど。では、三つ目に印をつけます」
僕が選んだ理由を伝えると、田所さんはその場で前後をつないだ。
一度で決まる場面もあれば、並べて初めて違いが見えるものもある。目線が動くまでの数秒、商品へ伸ばした手が止まる位置、画面の端を髪が横切る速さ。撮影中には別々だった動きが、少しずつ一人の朝へ変わっていく。
『今の二つ、順番を入れ替えたら?』
『動作の連続性は保たれます。現在より、千尋が商品へ関心を向けるまでの時間が一・七秒早まります』
『そのほうがよさそうだね。最初の表情を見せた後は、商品まで待たせたくない』
『公開されている同社の広告と比較した場合、序盤の情報量は増加します』
どの映像を入れ替えたいか、田所さんへ伝える。
僕が画面だけを見ている間に、数秒で新しい並びが作られた。
「どうです?」
「こっちが好きです。商品のために手を伸ばしたというより、朝の習慣の中で自然にやってるように見えます」
「では残しましょう」
僕の頭には完成した形がある。
田所さんは、そこへ辿り着くまでの道を僕より速く作れる。操作まで自分でやりたくなる瞬間はあったが、任せてみると、横から見ている時間にも意味があった。
午後になる頃、商品を映したカットまでつながった。
鏡台の手前にある美容液は、正面のラベルが読める角度で置かれている。鏡の中には白い容器の輪郭と光だけが残り、同じ画面の奥にもう一つ商品があるように見えた。
「撮影中に変更したところ、効いてますね」
「鏡の中の文字まで読ませようとしなくて正解でした」
「反転した商品名を読めと言われたら、編集でどうしようかと思ってましたよ」
「僕も途中まで言いかけました」
「言わなくてよかったですね」
「はい。本当に」
知らないことを隠して指示を出していたら、たぶん余計な時間を使わせていた。
監督だから全部知っている必要はない。分からないものを、知っている顔で決めないことのほうが大事なのかもしれない。
二日目の午後には、六十秒の仮編集が完成した。
最初の鏡から始まり、美容液を使う手元と日中の場面を挟み、最後に同じ鏡へ戻る。
「一度、音を全部消してもらえますか?」
「音楽もですか?」
「はい。画面だけで長く感じる場所がないか見たいです」
無音になった六十秒を見る。
途中までは気にならない。窓際で本を読む場面だけ、千尋が次の動きを始めるまで少し待たされるように感じた。
「窓際を十四フレーム短くしてください。その分、最後に誰もいない鏡台を残せますか?」
「最後は今でも長めですよ」
「商品名へ切り替わる前に、千尋さんがいなくなった部屋を見せたいんです。見ていた人の意識が、出演者から商品へ移る時間になると思う」
「止まったように見える可能性はあります」
「一度見せてください。合わなければ戻します」
変更した映像が再生される。
千尋が鏡から離れた後、誰も映っていない鏡台が残る。そこから美容液とブランド名へ切り替わった。
僅か一秒ほどなのに、最後まで千尋だけを追っていた視線が、鏡台に置かれた商品へ戻る。
「今の形でいきたいです」
「分かりました。僕も、止まったとは感じませんでした」
最初から僕に同意したわけではない。
試した結果を見たうえで、田所さんが同じ判断をした。そのほうが信用できた。
仮編集を提出した翌日、肌の修整について連絡が入った。
千尋の所属事務所から、目元と頬の一部を整えてほしいという要望が届いたらしい。
プロデューサーが、修整箇所を示した画像を僕の前へ置く。
「事務所からは、この範囲を普段の広告と同じくらい整えてほしいと言われている」
「鍋田さん本人の希望ですか?」
「そこまでは聞いていない。所属する俳優の映り方を管理するのも、事務所の仕事だからな」
指定された箇所は多くなかった。
撮影当日に出ていた僅かな赤みと、照明の角度で目立った目元の影。消しても、千尋の顔立ちそのものが変わるほどではない。
「赤みと影は整えてください。最初と最後で、同じ処理にしたいです」
「化粧品会社からは、最後だけ少し強く修整する案も出ている」
「美容液を使った後だけ肌を綺麗にすると、加工で作った変化が商品の効果に見えます」
「広告としては、違いが分かりやすいほうがいいと言う人もいる」
「今回撮った変化は、肌が一日で別物になることじゃありません。最後の顔を綺麗に作り直したら、千尋さんに細かく演じてもらった意味まで薄くなります」
プロデューサーは画像と僕を見比べた。
「同じ修整なら、事務所の要望にも応えられる?」
「はい。鍋田さんを綺麗に見せることには反対していません。映像の前後で、嘘の差を作りたくないだけです」
「分かった。先方との調整はこっちで引き取る。監督は編集を進めてくれ」
「お願いします。説明が必要なら僕も出ます」
「十九歳を交渉相手の前へ出すと、話が早くなるのか遅くなるのか、まだ判断がつかないな」
「たぶん、相手によります」
翌日には、事務所と化粧品会社の両方から了承が届いた。
制作会社が間へ入ってくれたことで、僕は修整の作業に集中できる。
一千万円の現場で監督をするというのは、何でも一人で決めることではなかった。譲れない場所を決め、ほかは信頼できる人へ渡す。その判断まで含めて、僕の仕事なのだと思う。
最初の試写には、企画会議に参加した人間のほとんどが集まった。
会議室の照明を落とし、壁際の画面で六十秒の映像を再生する。
音楽は、ピアノと弦楽器を中心にした静かなものを選んだ。千尋が商品へ手を伸ばしたところから旋律が加わり、最後の鏡では音数を減らす。商品名へ切り替わった後に、短い余韻だけが残った。
映像が終わっても、数秒間、誰も口を開かなかった。
失敗したときにも、こういう沈黙は生まれる。
分かっていても、心臓が一度強く鳴った。
「最後の表情、最初とほとんど変わっていないんですね」
化粧品会社の女性担当者が言った。
「大きくは変えていません」
「なのに、明るく見えます」
照明も、肌の修整も同じだ。
「最初に話していた、自分のために丁寧に時間を使う感じが、前の企画より伝わりました」
担当者の表情を見て、ようやく肩の力が抜けた。
隣にいた上司が、最後の商品画面をもう一度確認する。
「販売ページへ誘導する言葉を、少し増やせないでしょうか」
用意されていた文案が画面に出される。
商品の特徴、使用方法、販売ページへの案内。全部入れれば、最後の数秒が文字で埋まる。
「十五秒版と六秒版には必要だと思います。六十秒版は、今の短い言葉を残したいです」
「説明不足にはなりませんか?」
「詳しい情報は販売ページで読めます。この映像は、そこを開きたくなるところまで担当させたいです」
広告代理店の担当者が、二つの案を見比べた。
「長さごとに役割を分けましょう。六十秒版は監督案。短い広告は商品名と特徴を早めに出す形で」
「僕も賛成です」
すべてを一つの映像へ詰め込まず、配信される長さに合わせて渡す情報を変える。
結論が出た後は、修正箇所の確認も早かった。
千尋が完成前の映像を確認しに来たのは、その二日後だった。
事務所で見ることもできたが、本人が編集室を希望したらしい。
マネージャーと一緒に現れた千尋は、田所さんへ挨拶を済ませ、僕の隣に座った。
「私一人のために、すみません」
「鍋田さんの顔を百回以上見た部屋なので、今さら本人が一人増えても大丈夫です」
「百回も見たんですか?」
「最初から最後まで通した回数なら、それくらいです」
「飽きませんでした?」
「途中からは、顔というより映像として見ていました」
「本人を前に、よくそんな答えを選べますね」
「最初の数十回は綺麗だと思って見てましたよ」
千尋が一瞬黙り、横から僕を見た。
「それは、褒めているんですか?」
「かなり」
「なら、先にそちらを言ってください」
少しだけ笑った声を残し、部屋の照明が落ちる。
千尋は一度も口を挟まず、六十秒を最後まで見た。
商品名が消えてから、椅子へ背中を預ける。
「もう一度、お願いします」
二度目は、最初と最後の鏡を特に注意して見ていた。
「どうですか?」
「私の顔、思っていたより長く使っていますね」
「鍋田さんを見たくて再生した人に、途中で帰られたくなかったので」
「見終わる頃には、商品を見ています」
「そのための六十秒です」
「少しくらい、私が残ってもいいと思いますけど」
「鍋田千尋を忘れる人はいないでしょう」
「今度は、ちゃんと先に褒めましたね」
千尋は笑い、停止した最初の場面へ視線を戻した。
「肌の修整を抑えたと聞きました」
「赤みと影は整えています。最初と最後で処理は変えていません」
「私の肌を信用してくださったんですか?」
「鍋田さんの演技を信用しました。加工で差を作らなくても、最後のほうが綺麗に見えます」
千尋は何も言わず、もう一度だけ二つの表情を見比べた。
「……それなら、素直に喜べます」
「よかったです」
「監督も、意外と優しいことを言えるんですね」
「意外は余計じゃないですか?」
「最初から言ってくだされば、意外とは思いませんでした」
完成映像への修正はなかった。
千尋が立ち上がり、マネージャーと一緒に出口へ向かう。僕も見送るために席を立つと、扉の前で彼女が振り返った。
「佐村さん」
「はい」
「今後、映像について確認したいことができたら、制作会社を通したほうがいいですか?」
「仕事の内容なら、制作会社にも共有してください。僕へ直接聞いてもらっても構いません」
「では、連絡先を教えていただけますか?」
千尋がスマートフォンを取り出す。
連絡先を交換すると、すぐに名前だけのメッセージが届いた。
《鍋田千尋です。今後ともよろしくお願いします》
《佐村和希です。こちらこそ、よろしくお願いします》
目の前にいる千尋が、僕からの返信を確認する。
「登録しました」
「仕事の連絡ですよね?」
「仕事以外で連絡したら、困りますか?」
穏やかな顔で聞かれた。
冗談だけで言っているのかは、僕にも分からない。
「内容によります」
「便利な答えですね」
「鍋田さんから教わりました」
「では、困らない内容を考えておきます」
千尋は笑い、編集室を出ていった。
仕事以外ならどんなメッセージ送ってくるのか、少しだけ楽しみだ。




