33話 私を試したんですか?
撮影前日の十一月二十三日、スタジオには部屋のセットが完成していた。
三方を壁で囲まれた空間に、鏡台とベッド、小さな机が置かれている。窓の外には何もないが、照明を通せば朝の光が差し込む部屋に見えた。
美術担当者と一緒に、セットの中を歩く。
机の上には、読みかけの本と眼鏡。
ベッド脇には、充電中のスマートフォン。
鏡台には商品以外の化粧品も置かれているが、美容液より目立たない色と形が選ばれていた。
「生活している感じは出ています。ただ、少し綺麗すぎるかもしれません」
「どこを崩す?」
「掛け布団を、右側だけ少し落としたいです。眼鏡は閉じずに置いて、本も開いたままにできますか?」
「直前まで本を読んでいたようにするのね」
「はい。鍋田さんが鏡の前へ座るまで、何をしていたのか残したいです」
美術担当者がスタッフへ声をかける。
僕が本の角度を細かく指定する必要はなかった。変更したい理由を一つ伝えると、それが画面の中で最も自然に見える位置を探してくれる。
人に任せるというのは、何も考えずに渡すことではない。
相手が自分より上手い部分を見つけて、仕事を渡すことだ。
「監督。最初の鏡、確認できるぞ」
撮影監督に呼ばれ、セットの外にあるモニターへ向かう。
代役の女性が椅子へ座り、鏡の中に顔を映していた。
部屋は明るい。
本人が鏡へ向ける視線だけで、朝から何かを気にしているように見える。
『顔の見え方は?』
『最初と最後の差を演技のみで示す条件を満たしています。鏡の右端に照明の反射が僅かに入っています』
「鏡の右端に、反射が入ってませんか?」
撮影監督が画面へ顔を寄せる。
「本当だな。明日は消す。ほかは?」
「この形で撮りたいです。最後もカメラと鏡は動かさないでください」
「固定位置は残してある。照明も数値を記録しておく」
隣では栗原先輩が、明日の進行表へ変更を書き込んでいた。
「佐村、確認は終わったか?」
「はい。先輩のほうは?」
「商品撮影を最初へ移した。鍋田さんの準備中に撮れば、三十分は余裕ができる」
「助かります」
「素直に礼を言われると、逆に不安になるな」
「先輩、僕を何だと思ってるんですか?」
「人の仕事まで自分でやり始める監督」
否定しきれなかった。
「明日は我慢します」
「今日から我慢してくれ」
栗原先輩が僕の持っていた進行表まで取り上げた。
任せる相手を連れてきたのは僕だ。ここで奪い返したら、先ほど覚えたことを数分で忘れた人間になる。
「お願いします」
「任された」
翌朝、僕は集合時刻の一時間前にスタジオへ着いた。
制作会社のスタッフは、すでに動き始めている。
カメラと照明の最終確認。商品の搬入。衣装とメイクの準備。セットの清掃。飲み物や食事の手配。
出演者側まで含めると、スタジオにいる人間は三十人近い。
『分かってはいたけど、多いね』
『予定されていた人数と一致しています』
『数字で見るのとは違うよ。この人たちが、僕の判断を待つことになる』
『緊張していますか?』
『少しはね』
『心拍数は、安静時より毎分十四回増加しています』
『そこまで教えてくれなくていいよ』
自分の手を見る。
震えてはいない。
十九歳の僕が判断を間違えれば、三十人の仕事が止まる。一千万円の制作費が動き、有名女優の時間を使っている。サークルの撮影のように、全員の予定を合わせて後日撮り直すのも難しい。
「早いな」
後ろから栗原先輩の声がした。
「先輩も早いじゃないですか」
「監督が一人で何か始めないように見張りに来た」
「信用がないですね」
「お前の能力は信用してる。人に任せる判断は信用してない」
栗原先輩が僕の肩を一度叩き、スタッフのところへ向かった。
軽口を返している間に、少しだけ身体の力が抜けていた。
千尋は集合時刻の二十分前にスタジオへ入った。
「おはようございます」
スタッフへ順番に挨拶し、最後に僕のところまで来る。
「おはようございます、監督」
「今日はよろしくお願いします」
「もう少し嬉しそうな顔をするかと思いました」
「鍋田さんに会えたからですか?」
「監督と呼ばれたからです」
「それならもう慣れました」
「残念です」
千尋は笑い、メイク室へ向かった。
撮影は、商品の細かなカットから始めた。
千尋の準備を待つ間に、容器へ落ちる光や、透明な板に美容液が広がる様子を撮る。
容器の向きを数度変える。光を細くし、ラベルへ焦点を合わせる。白い背景の中でも、容器の輪郭が消えない位置を探した。
当初は、白い台の上に商品だけを置く予定だった。
実際にモニターで見ると、そのカットだけが広告全体から切り離されている。
「商品を鏡台へ移せますか?」
美術担当者が僕を見る。
「鏡の場面で使うセットに?」
「はい。実物と、鏡に映ったラベルを一緒に撮りたいです」
撮影監督がモニターへ近づいた。
「鏡へ入れると、照明まで映るぞ」
「商品を真正面へ向けなくても構いません。手前ではラベルを半分だけ見せて、鏡の中で全部読める角度にしたいです」
「主役を正面から外すのか」
「最初と最後に鏡を使うのに、商品だけ別の場所へ置くほうが浮いて見えます」
撮影監督はレンズと鏡の位置を確かめた。
「面白いな。照明を一灯減らして、商品側へ小さい光を足せば撮れる」
「時間は?」
栗原先輩に尋ねる。
「二十分なら取れる。その後を十分ずつ詰める」
「お願いします」
美術と照明が動き、鏡台の上を組み直していく。
変更後の画面には、手前に置かれた美容液と、鏡の中に映る正面のラベルがあった。容器の透明感も消えていない。
「監督、これならどうだ?」
「使います」
「最初の案よりいいな」
「撮る前に気づけたら、二十分早く終わったんですけどね」
「撮る前に全部分かる人間がいたら、俺たちの仕事がなくなる」
「それは困ります」
「だろ? だから今思いついたことで満足しろ」
撮影監督が笑い、次の準備を始めた。
失敗ではない。
撮って、違うと気づき、もっと合う形に変えた。
そう思えるのは、変更に応じてくれた人間たちのおかげだった。
メイクを終えた千尋がセットへ入る。
最初に撮るのは、鏡を見る場面だ。
千尋は椅子へ座り、鏡の中の自分へ視線を向けた。
「一度、説明を足さずにやっていただけますか?」
「最初の場面ですよね?」
「はい。朝、鏡を見て、肌に気になるところがある。その状態からお願いします」
「分かりました」
スタッフに撮影開始を告げる。
千尋が開いた本に栞を挟み、鏡の前へ座った。
髪を片側へ寄せ、頬に指を触れる。
視線が肌の上をゆっくり動いた。
綺麗だった。
照明も構図も崩れていない。表情は自然で、何かを気にしていることも伝わる。
ただ、僕が見たかった朝とは違う。
「カット」
声と同時に、スタジオの動きが止まった。
千尋が鏡越しに僕を見る。
「もう一度お願いします」
「どこを変えますか?」
責める口調ではない。
曖昧な要求で同じことを繰り返させないでほしいという目だった。
「今の演技が悪かったわけではありません。最初に一度見せてもらいたかったんです」
「そのうえで、何が違いましたか?」
「鏡を見てから、気になる場所を探していたように見えます」
「先ほど、気になるところがあると仰いましたよね」
「あります。ただ、本人はすでに知っています。鏡を見る前から、どこにあるかも分かってる」
千尋の視線が、鏡の中へ戻る。
「新しく見つけるのではなく、昨日見つけたものが、今日も他人から見えるか確認してください」
「……他人に気づかれたくない?」
「はい。指で触れる前にそこを見てほしいです。触れた後は、自分の肌ではなく、今日会う相手からどう見えるかを考えてください」
「随分嫌な朝ですね」
「このまま出かけるのが嫌だから、商品を使うんです」
千尋の口元が僅かに緩んだ。
「分かりました。もう一度お願いします」
スタッフが最初の状態へ戻す。
開いた本。髪の位置。椅子を引く距離。
撮影を始める。
千尋が鏡の前へ座った。
今度は、顔全体を見ない。
視線が最初から頬の一点へ向かっている。
ほんの僅かに息を止める。
指が触れた後、鏡の中の自分から一度だけ視線が外れた。今日会う誰かの顔を、鏡の向こうへ置いたように見える。
動きは一度目とほとんど変わっていない。
映像の意味だけが違った。
「カット」
数秒間、誰も動かなかった。
撮影監督がモニターを見たまま口を開く。
「今のは、分かる」
化粧品会社の担当者も、小さく頷いている。
千尋が椅子から立ち、モニターの前まで来た。
一度目と二度目の映像を続けて再生する。
「なるほど」
「もう一度、撮りますか?」
「監督が必要だと思うなら」
「今のものを使います。僕が欲しかったのは、これです」
千尋は画面を見たまま、少しだけ笑った。
「なら、最初から一度で終わらせてほしかったですね」
「鍋田さんが最初にどう演じるかを見ないと、伝え方を決められませんでした」
「私を試したんですか?」
「最初の打ち合わせでは、僕も試されたと思っています」
「気づいていたんですね」
「かなり分かりやすかったですよ」
千尋は怒る代わりに、小さく笑った。
「では、お互い様ということにしておきます」
昼の場面を撮り、美容液を使う手元を撮る。
千尋が休憩へ入っている間も、栗原先輩が次の準備を進め、予定より十五分早く最後の鏡へ辿り着いた。
朝と同じセット。同じ椅子。
カメラも、記録していた位置へ正確に戻されている。照明の明るさも変えていない。
違うのは、鏡を見る千尋の気持ちだけだ。
「最後は、どう見ればいいですか?」
「今日の自分を確認してください」
「それでは朝と同じです」
「朝は、他人から欠点がどう見えるかを確かめました。今度は、自分が今日一日をどう過ごしたかを見てほしいです」
「商品を使って、自信を持てたということではなく?」
「それだと、商品を使ったから笑うことになります。笑顔は要りません。朝に気にしていた場所を見ても、そこへ長く留まらないでください」
「もう気にならない?」
「気にはなります。でも、それだけで今日一日が決まるほどではない」
千尋は鏡へ目を向けた。
「分かりました」
本を閉じ、鏡の前へ座る。
朝と同じように頬を見る。視線は一度だけ止まり、すぐに顔全体へ移った。
髪を耳へかけ、鏡から離れる。
笑ってはいない。満足そうな顔でもない。
「カット」
撮影監督が僕を見る。
「もう一度お願いします」
千尋が振り返った。
「今度は何が違いましたか?」
「最後に鏡から離れるのが少し速かったです。気にならなくなったのではなく、気にしても仕方がないと思ったように見えました」
「随分細かいところまで見ていますね」
「鍋田さんなら変えられると思っているので」
「できなければ?」
「今の映像を使います。伝えたいことは届いています。ただ、もう一度お願いしたら、もっと近づけると思いました」
悪くないと言って終わらせることもできた。
けれど、千尋ができると信じているのに、時間を惜しんで諦めたくはなかった。
「分かりました」
千尋が椅子へ戻る。
「そこまで言われたら、監督が欲しいものを撮ったほうが、私も気分がいいです」
二度目の撮影。
頬へ目を向け、顔全体を見る。
鏡から離れる前に、ほんの僅かだけ息を吐いた。
早くも、遅くもない。
気になるものが消えたわけではない。ただ、それを含めた自分の顔を受け入れている。
「カット」
今回は、撮影監督から確認されなかった。
僕が頷くのを見て、スタッフへ終了を伝える。
「以上で、鍋田さんの撮影は終了です。ありがとうございました」
スタジオの各所から拍手が起きた。
千尋が立ち上がり、スタッフへ頭を下げる。
「ありがとうございました」
着替えとメイク直しを終えた後、千尋は帰る前にモニターのところへ戻ってきた。
「最初と最後を、もう一度見せていただけますか?」
「もちろんです」
二つの映像を続けて再生する。
同じ部屋、鏡、明るさ。
表情も、注意して見なければ大きくは変わっていない。
朝の千尋は、鏡に捕まっている。
最後の千尋は、自分から鏡を離れた。
「監督の言っていた意味が、形になりましたね」
「鍋田さんが変えてくれたからです」
「監督なら、自分の演出がよかったと言うかと思いました」
「僕が説明しても、鍋田さんができなければ映像には残りません」
千尋はもう一度、画面へ目を向けた。
「最初にお会いしたとき、佐村さんが監督だとは思いませんでした」
「だろうと思っていました」
「十九歳と聞いて不安にもなりました」
「今だから言えることですね」
「撮影前に言っても、良いことはありませんから」
「今はどう思っていますか?」
千尋はすぐには答えなかった。
最初と最後の自分を見比べ、僕へ視線を戻す。
「次にご一緒するときは、企画書を読む前に少し安心できます」
「かなり信用されましたね」
「今日の仕事については、です。次も同じとは限りません」
「毎回確認するんですか?」
「当然でしょう。監督も、一度うまく撮れたからといって、次も必ず成功するとは思わないんじゃないですか?」
「それなら、お互い様ですね」
「便利な言葉ですね、それ」
千尋が小さく笑った。
「今日はありがとうございました、佐村監督」
今度の呼び方に、僕を試す響きはなかった。




