32話 ……ずるい ※
※特定のシーンはノクターンに投稿しました。
鍋田千尋との打ち合わせを終えても、翌日から撮影を始められるわけではない。
スタジオの広さ。セットに置く鏡の形。壁と床の色。朝の部屋に見せるための窓の位置。千尋が着る服と、商品を使う場面のメイク。美容液の容器を撮るためのレンズと照明。
企画会議で決めたのは、何を見せるかという中心だけだ。
そこから先は、各分野の専門家が具体的な形を作っていく。
制作会社から送られてきたスタジオの候補は六か所あった。
写真だけでなく、過去に撮影された映像、搬入口の広さ、使用できる電力、周辺の騒音まで確認する。
『三番目が合いそうだね』
『ほかの候補より奥行きを確保できます。撮影監督から提示されたレンズを使用した場合、部屋の反対側まで画角へ収められます』
『最初と最後の鏡は同じ構図にする。その間まで正面ばかりだと、息苦しく見えそうなんだよね』
『二つの窓を異なる角度から使用すれば、日中の経過も光の方向で示せます』
『美術費は収まる?』
『提示された設計では予算内です。ただし、窓外の景色まで作る場合は追加費用が発生します』
『外は光で飛ばそう。朝だと分かる程度に残して』
伝えたい内容をジンに整理してもらい、自分の言葉でメールを書く。
文章まで任せれば数秒で終わるが、そのまま送ると僕が普段使わない言葉まで混ざる。言っていることが正しくても、急に別人のような文章を送り始めれば、相手は内容よりそちらを気にするだろう。
翌日には美術担当者から、修正されたセット図が届いた。
その翌日には、撮影監督と照明担当者を交えたカメラテストが行われる。
一千万円という制作費が大きく見えた理由が、少しずつ分かってきた。
撮影当日に人を集めるためだけの金ではない。
一日で撮り終えるために、その前の何日も使って、失敗する可能性を減らしている。
テスト用の人形へ照明を当て、肌の代わりになる素材を何種類も撮った。美容液の容器は角度を数度変えるだけで、透明感が出たり、単なる白い瓶に見えたりする。
撮影監督がモニターを確認しながら、僕へ尋ねた。
「最初の鏡は、どこまで暗くする?」
「暗くしません」
「気持ちが沈んでいる場面だろ?」
「部屋を暗くすると、気分まで照明で説明することになります。最後と同じ明るさで撮りたいです」
「気持ちの違いだけで見せるのか」
「そのために鍋田さんへお願いしました」
撮影監督は照明担当者へ声をかけ、光の位置を調整した。
最初の会議では、僕が意見を出すたびに理由を尋ねられた。
今も質問の数は変わらない。ただ、十九歳の学生が根拠もなく話していないか確かめるためではなく、僕の考えている映像を正確に掴むための質問になっていた。
「監督、鏡はこの高さで固定していいか?」
「鍋田さんが靴を履いた状態で、目線の位置をもう一度確認してください。今の設計だと、鏡の上側が少し余ると思います」
「分かった。美術にも伝える」
監督。
撮影監督からそう呼ばれることにも、数日で慣れた。
僕が一人でカメラを持っていた頃には、必要のなかった呼び方だ。
今は同じ場所に、監督が二人いる。映像全体を決める僕と、撮影技術を統括する撮影監督。
区別するためだと分かっていても、悪い気はしなかった。
「何か嬉しそうだな」
隣で記録を取っていた栗原先輩が言った。
「容器が綺麗に撮れたからですよ」
「今、監督って呼ばれた後だろ」
「それも少しあります」
「素直でよろしい」
「先輩に言われると腹が立ちますね」
口ではそう返しながら、笑ってしまった。
知らない人ばかりの現場に栗原先輩を呼んだのは正解だった。
僕が指示を出す側になっても、先輩だけは以前と同じように話しかけてくる。そのことに、思っていた以上に助けられていた。
撮影準備を進める間に、新しい投資候補も二社見つかった。
一社は予測していた受注の公表が遅れたため、別の機会へ資金を回す目的で売却した。損失は手数料を含めて三千円ほど。
もう一社は海外向け商品の販売が伸び、五営業日で十六パーセントほど上昇した。
二件を合わせ、税金と手数料を差し引いた利益は約四万一千円。
自由に動かせる資金は、保有している株の評価額を含めて約百三十四万円になった。
『百二十万円の報酬が入ったら、二百五十万円を超えるね』
『契約額をそのまま加算した場合は、約二百五十四万円です。実際の入金額とは異なる可能性があります』
『源泉徴収される分か』
『はい。今回の契約形態では、支払い時に所得税が差し引かれる可能性があります。最終的な税額は確定申告によって精算されます』
『カジノの分もあるし、今年は一度きちんと整理しないとね』
『必要な記録は保存しています』
『納品が終わったら、父さんにも相談するよ』
まだ受け取っていない金を、すでに持っているように扱うつもりはない。
今やるべきなのは、撮影を終え、百二十万円を受け取れる仕事にすることだった。
撮影を一週間後に控えた十一月十七日、日菜が二十歳になった。
待ち合わせ場所へ着くと、日菜は黒いコートの上から、モナコで贈ったスカーフを首へ巻いていた。
鮮やかな花柄は、人の多い駅前でもすぐに見つけられる。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう。ほかには?」
「今日も可愛い」
「……急にどうしたの?」
「言ってほしそうな顔をしてたから」
「違うよ。スカーフに気づいてほしかったの」
「気づいてるよ。日菜が着けてくれてるの、嬉しい」
少しだけ意地悪を続けるつもりだったが、今日は日菜の誕生日だ。
僕が素直に言うと、日菜は目を瞬かせた後、首元のスカーフへ触れた。
「和希と会うから着けてきたんだよ」
「うん。似合ってる」
「最初からそう言ってくれたらよかったのに」
「今日くらいは、日菜が言ってほしいことを全部当ててみようかと思って」
「たぶん無理だと思う」
「誕生日の僕には一日予定を秘密にしたのに?」
「あれは和希が何でも分かっちゃうから、驚かせたかったの」
「なら今日は、僕の番だね」
最初に、日菜が以前から行きたいと言っていた店で昼食を取った。
支払いは僕が済ませる。
日菜は自分の誕生日なのに一度財布を出したが、僕が首を振ると、素直に鞄へ戻した。
「和希の誕生日は、わたしが払ったからね」
「だから今日は僕が払いたかった」
「ありがとう。ごちそうさま」
言い合いにならなかったことが少し意外だった。
「今日は素直だね」
「二十歳になったから」
「昨日までの十九歳は?」
「和希にご飯を奢るくらいの大人だった」
「一日で随分成長したな」
店を出た後は、駅を二つ移動し、小さな楽器店を何軒か回った。
店へ入るたび、日菜はギターやエフェクターの棚へ寄り道する。
僕は急かさず、その後ろを歩いた。
「今日は、わたしの買い物に付き合ってくれるの?」
「見るだけでも楽しいよ」
「和希、ギター弾けないよね」
「今から覚えるかもしれない」
最後に入った店で、奥にあるマイクの売り場へ向かった。
日菜はライブで、会場に用意されたマイクを使うことが多い。
同じように見えても、声の拾い方や重さはそれぞれ違う。店員へ相談し、候補の中から三本を試させてもらった。
「どうして急にマイク?」
「日菜の声に何が合うのか、前から気になってた」
「調べたの?」
「これまで撮ったライブと練習の音を聞き直した。候補は考えてあるけど、最後は日菜が歌いやすいものを選んで」
「今日のために?」
「うん」
日菜は何か言いかけ、マイクを持ち直した。
三本とも、同じ歌の一部を歌ってもらう。
一つ目は、日菜が強く声を出したとき、高い音が少し鋭く聞こえた。
二つ目は柔らかいが、低い声の輪郭まで薄くなる。
三本目を使ったとき、日菜の表情が変わった。
「これ、歌いやすい」
「高いところが細くならないね」
「うん。強く出しても、声が痛く聞こえない」
『日菜の声には?』
『現在試した中では最も適しています。低音域の輪郭を残しながら、強く発声した際の高音域を過度に強調していません』
僕が事前に選んでいたものと同じだった。
日菜が店員へ返そうとしたマイクを、横から受け取る。
「これにしよう」
「和希もマイクを買うの?」
「日菜のだよ」
「え?」
「誕生日プレゼント」
日菜がマイクと僕の顔を交互に見る。
「楽器屋を回ってたの、それを選ぶため?」
「いきなり渡して合わなかったら嫌だったからね。日菜がこれから何度も使うものなら、自分で選んでほしかった」
「そっか……」
「気に入らなかった?」
「違う。嬉しくて、うまく言えないよ」
日菜はもう一度マイクを見た。
僕は、その横顔を眺めながら待った。
「ありがとう、和希。大事に使う」
「僕も、日菜が歌ってるところで聞きたい」
「次のライブで使うね」
「楽しみにしてる」
店員が箱へ収めたマイクを、日菜は両手で受け取った。
その顔を見られただけで、何軒も店を回った時間まで報われた気がした。
夕食には、日菜が酒を飲める店を選んだ。
年齢を確認した店員へ、日菜は今日が誕生日だと少し得意そうに説明する。
「和希は?」
「僕は水で」
「一口くらい飲んでみない?」
「来年、日菜と飲むよ」
「あと一年もあるよ」
「日菜と一緒なら、待っても損しないだろ」
「今日の和希、優しくない?」
「日菜の誕生日だからね」
「明日から戻るの?」
「今日のほうが好きなら、少しくらい残すよ」
「全部残して」
「それは僕じゃなくなりそう」
日菜は笑い、最初の一杯に白ワインを選んだ。
グラスを口へ運び、すぐに少し眉を寄せる。
「どう?」
「思ってたより酸っぱい」
「無理しなくてもいいよ」
「飲める。二十歳だから」
「二十歳は、苦手な酒を我慢する年齢じゃないと思うけど」
「もう少し飲んでから決める」
日菜は二口目をゆっくり飲み、最後には料理と一緒に一杯を空けた。
酔った様子はほとんどない。
店を出ると、十一月の夜気に触れた日菜が、僕の腕へ身体を寄せた。
「寒い?」
「少し。あと、和希が近いほうがいい」
「お酒のせい?」
「一杯しか飲んでないし」
日菜がマイクの袋を持ち上げる。
「これ、本当に大事にするね」
「飾らずに使ってよ」
「壊れたら?」
「そのとき、一緒に次のを探そう」
「また買ってくれる?」
「日菜が欲しがったらね」
答えると、日菜が足を止めた。
「何?」
「和希なら、有名になったら自分で買えるだろ、とか言うと思った」
「買えることと、僕が贈りたいことは別だから」
父から免許の費用を出してもらったとき、似た言葉を聞いた。
あのときより、意味がよく分かる。
日菜は嬉しそうに目を細め、空いているほうの手を僕へ伸ばした。
玄関へ入ると、日菜はマイクの袋だけを丁寧に壁際へ置いた。
「今日はありがとう」
「楽しかった?」
「うん。マイクも嬉しいけど、一緒に選んでくれたのが一番嬉しかった」
「僕も楽しかったよ」
マイクを抱えて笑う日菜を見て、嬉しかった。帰り道から、早く二人きりになりたいと思っていた。
日菜がこちらを向く。
「和希?」
返事をする前に腕を引き、こちらから唇を重ねた。
驚いたのが伝わってくる。それでも離れようとはせず、掴んでいた服の生地を握り直しただけだった。
玄関から先へ進んでいない。靴も片方しか脱いでいない。それに気づいたのは、爪先が三和土の縁に当たって、小さく音を立てたときだった。
「……和希」
「なに」
「ベッド、行かないの? シャワーだって……」
返事の代わりに、まだ夜気の残っている首筋へ指を這わせる。スカーフが一日ぶん温めていた場所だけが、周りより明らかに熱かった。触れると喉が動く。
両手で頬を挟んで、もう一度顔を近づけた。
「待って、まだ靴も脱いでない」
「後でいいよ」
「よくないよ、汚れる」
言いながら、後ろへ下がろうとはしない。壁に背が触れて、そこで止まった。上着の肩から力が抜けていくのが、手のひらの下で分かる。
角度を変えて口づけると、鼻から抜けるような息が漏れた。ライブで聴いてきた声とは、まるで別のものだった。
今日わざわざ何本も試させて選んだマイクが、この音を拾うことは一生ないのだと、場違いなことを考えた。
コートの前を開けて、腰へ手を回す。薄い生地越しに背骨の線をなぞると、身体が跳ねて、僕の肩に額が落ちてきた。
「……そんなに急がなくても、逃げないから」
息の合間に、笑いを含んだ声だった。
逃げられると思っているわけではない。急いでいる理由が自分でも分からなくて、答えようがなかった。今日は一日、この人を喜ばせるために動いていたはずだった。それが済んだのだから、ここは落ち着いていられて当然のはずで、実際にはその逆になっている。
暗がりのなか顔を見ると、目が潤んでいた。潤んだまま、こちらを探るように見ている。
何を確かめたいのかは、たぶん分かっていた。分かっていて、答える言葉を持っていなかった。
「和希、今日ずっと変」
「そう?」
「優しいし、急ぐし」
「日菜の誕生日だから」
「……ずるい」
その一言に、いつもの棘がなかった。責めたいのではなく、そう言えば僕が何か返すと思ったのだろう。返せるものがなかったので、かわりに髪へ指を入れて、耳の後ろまで梳いてやった。
目を閉じる。閉じてから、自分の首に回した腕へ力を込めてきた。
背を支えて、玄関から一歩だけ引き寄せる。踵が浮いて、片方だけ残っていた靴が床に落ちた。今度は気にしなかった。
薄暗い廊下の途中で、また止まる。進めないのはこちらの都合で、部屋まで数歩もない距離が、やけに遠く感じられた。
「電気つけようかな」
「つけなくていいよ」
「顔見たいんだけど」
「……今の顔、見せられないから」
声が細かった。見せられないと言われたら、余計見たいと思ってしまう。
顎に指をかけて、上向かせる。
抵抗されなかった。目を開けた顔には、期待も羞恥も混ざっていた。
「日菜」
「なに」
「このままするからね」
返事の声が揺れた。
『ジン。視覚と聴覚の共有を切って』
『承知しました』
もう一度深く口づけながら服を脱がし、そのまま日菜の左足を持ち上げた。




