31話 私が出演する意味はあるんですか?
「今回の商品は、二十代から三十代前半の女性を主な対象にした美容液です」
化粧品会社の担当者が、机の上へ市場調査の資料を広げた。
商品は発売から半年が経っている。
購入した人間からの評価は悪くない。肌への馴染みや使用後の感触には、競合商品より高い点がついている。
一方、商品名を知っている人間は、会社が想定していたほど増えていなかった。名前を聞いたことがあっても、どんな効果を期待する美容液なのかまでは伝わっていない。
「今回の映像では、商品の上質さを伝えたいと考えています」
僕は企画書の一ページ目へ戻った。
「上質さというのは、価格が高そうに見えることですか?」
「高級感も含まれますが、自分のために丁寧な手入れをする時間といいますか」
「映像を見た人には、最後に何をしてほしいですか?」
「商品に興味を持ってもらい、販売ページへ移動してほしいですね」
「出演者と商品なら、どちらを強く覚えてほしいですか?」
「もちろん商品です」
回答は早かった。
今回出演する鍋田千尋は、僕でも顔と名前を知っている女優だ。彼女の知名度を使いながら、彼女より商品を覚えてほしいという。
「その二つを同じ強さで残すのは難しいと思います」
僕が言うと、化粧品会社の担当者が僅かに眉を寄せた。
「両方を印象に残すことはできませんか?」
「できます。ただ、入口と出口は決めたいです。鍋田さんを見たい人に最後まで見てもらい、その興味を商品へ移すのか。最初に肌の悩みを前に出して、鍋田さんを解決する側に置くのか。それだけでも撮り方は変わります」
広告代理店が作った企画書には、両方が入っていた。
有名な女優を美しく撮る。
商品の高級感を出す。
肌の悩みに寄り添う。
販売ページへ誘導する。
一つずつ見れば、どれも間違っていない。全部を六十秒へ同じように詰めれば、見終えた人間には綺麗な映像だったという印象しか残らない。
『同じ会社が公開した広告で、反応がよかったものは?』
『出演者の顔を最初の二秒以内に表示した映像は、視聴継続率が高くなっています。商品名の検索増加率では、肌の悩みを文章で提示した映像が上回ります』
『今回の出演者なら?』
『鍋田千尋への関心を入口に利用したほうが、最初の離脱を抑えられる可能性は高いと判断します』
入口は女優。
最後に商品へ辿り着かせる。
「最初の一秒から、鍋田さんの顔を映したいです」
僕は一枚目の絵コンテを外した。
「部屋や商品から始めるのではなく、鏡を見ている表情から入ります」
「最初から美しく見せるということですか?」
「綺麗には撮ります。ただ、完成した顔にも、広告用の笑顔にもしません」
化粧品会社の二人が顔を見合わせた。
「鍋田さんのイメージもあります。あまり状態の悪い肌に見せるのは……」
「悪くは見せません。自分だけが気づく程度の不満を持っている顔です」
「それが映像で伝わりますか?」
「伝えられる人だと思ってます」
担当者はすぐに答えなかった。
撮影監督の男性が、外した絵コンテを手元へ引き寄せる。
「顔の寄りから始めるなら、肌もかなり見える。どこまで見せるか、事務所との調整が必要になるぞ」
「修整の範囲も先に決めたいです」
「化粧品広告だ。肌の修整をなくすのは無理だろう」
「なくすつもりはありません。光や撮影で拾った余計なものは整えます。ただ肌を作り変えてしまったら、この美容液を使う意味まで薄くなります」
撮影監督は僕ではなく、化粧品会社の担当者を見た。
「監督の案で寄るなら、修整を抑えたほうが質感は残せます。どこまで許可を取れるかは別ですが」
「鍋田さんと事務所には、こちらから説明します」
プロデューサーが答える。
僕一人の意見なら、十九歳の新人が理想を言っているだけに聞こえたかもしれない。撮影監督が技術的に可能だと認めたことで、机の向こうにいる二人の表情が変わった。
人を増やすために一千万円を使うのではない。
僕が思いついたものを、撮れる形に整える人間が揃っている。
「最初に鏡を見る場面は分かりました。その後は、今の企画どおり美容液を使って、最後に笑顔でしょうか」
「最後も、同じように鏡を見てもらいます」
「同じ場面を二回使うんですか?」
「立つ位置も、画角も揃えます。光も大きく変えません」
撮影監督が僕を見る。
「普通は、最後を明るくするところだな」
「照明で気分が変わったように見せたくありません」
「変化が小さすぎると、見ている側には伝わらないぞ」
「表情を変えるのではなく、鏡を見る理由を変えてもらいます」
僕は二枚の白紙を並べた。
「最初は欠点を探すため。最後は、その日の自分を確かめるため。同じ顔を見ても、本人の見方が変わっている」
美術担当の女性が、企画書に描かれた白い部屋を指で示す。
「部屋も同じ状態ですか? 後半だけ花や小物を増やすことも出来ますけど」
「同じにしたいです。ただ、この部屋は白すぎます」
「化粧品の清潔感を出すためだと思います」
「生活している人の部屋に見えません。何もない白い部屋で肌を気にしていたら、悩みというより検査に見えませんか?」
美術担当の女性が笑いを堪え、代理店の担当者は自分の企画書を見下ろした。
「もう少し言い方はありませんか?」
「綺麗だとは思います。でも、今回欲しい綺麗さとは違います」
「どう違うんです?」
「鍋田さんが住んでいそうな部屋ではなく、この商品を買う人が、自分も住んでいそうだと思える部屋にしたいです」
答えると、美術担当の女性が白紙を一枚取った。
「では、家具は手の届く価格帯に落とします。その中で、鏡と美容液の容器だけ質感を上げるのはどうですか?」
「お願いします。美容液を特別に見せながら、置いてあることは不自然にしたくないです」
「注文が細かいですね、監督」
「一千万円の予算がありますから」
「全部を美術に使えるわけじゃありませんよ」
「必要な分は取ってください。僕は金額を聞いて驚く役をやります」
会議室に笑いが起きる。
僕が最初の案を否定し、代わりの案を押しつけるだけでは、一千万円を使う意味がない。
撮影監督には光と画角を詰めてもらい、美術には生活の形を作ってもらう。僕の仕事は、全員が同じ映像へ向かうよう、中心を決めることだった。
企画会議は二時間近く続いた。
美容液を使う場面は短くする。
容器を手に取る指先と、肌へ馴染ませる動きだけを見せる。効果を台詞で説明せず、必要な情報は最後の商品画面へまとめる。
その代わり、鏡を見る二つの表情へ時間を使う。
最初の企画書は、残っているページのほうが少なくなった。
「随分変わりましたね」
化粧品会社の女性担当者が、新しく並べられた絵コンテを見る。
「気に入りませんか?」
「いえ。最初より、何を見せたいのか分かりやすくなりました。ただ、鍋田さんが納得してくださるかどうか」
「午後に本人へ説明します」
「嫌だと言われたら?」
「理由を聞いて、必要なら変えます。本人に聞く前から、断られる前提で作るのは失礼でしょう」
プロデューサーが小さく笑った。
「徳山さんと言い合いながら広告を作ったという話は、本当のようですね」
「言い合ってません。意見を確認しただけです」
「徳山さんから聞いた印象とは違いますね」
「何て言ってたんですか?」
「生意気だけど、撮られたくなる監督だったそうです」
「それ褒められてます?」
「徳山さんにしては、かなり」
理央が僕のいないところでも、生意気という言葉をつけている姿は簡単に想像できた。
休憩へ入ると、美術担当の女性から声をかけられた。
「佐村さん、本当に大学一年生なんですよね?」
「さっき確認されました」
「分かってますけど、会議の後だと余計に信じられなくて。授業を受けながら、いつ映像を勉強してるんですか?」
「時間があるとき、ですかね」
「それで半年も経たずに、ここまでできるんですね」
正直に、頭の中にいるAIが必要な知識を教えてくれると答えるわけにはいかない。
「覚えるのは速いほうなんですよ」
「本人が言うんですね」
「遅いふりをしても、誰も得しないでしょう」
女性は少し驚いた後、楽しそうに笑った。
「監督が自信なさそうにしているよりは、安心できます」
「撮影が終わるまでは、そのまま安心していてください」
「終わった後は?」
「完成した映像を見て決めてもらいます」
鍋田千尋との打ち合わせは、午後から別に設けられていた。
昼食を挟み、午前中に決まった内容を反映した資料を揃える。
予定時刻の少し前になると、会議室の外から複数の足音が聞こえた。
扉が開き、先にマネージャーらしい女性が入ってくる。
その後ろから現れた顔は、僕でも知っていた。
鍋田千尋、二十四歳。
高校生の頃からドラマへ出演し、ここ数年は主演作が続いている。映画、雑誌、複数の大手企業の広告。普段テレビをほとんど見ない僕でも、名前と顔が一致する程度には有名だった。
画面で見るより、背は高くない。
淡い色のニットに細身のパンツを合わせ、肩まである黒髪を緩くまとめている。
派手な服装ではないのに、会議室へ入った瞬間、そこにいる人間の視線が自然と集まった。
「鍋田千尋です。本日はよろしくお願いいたします」
柔らかな声で、一人ずつ顔を見ながら頭を下げる。
理央のように、最初から相手を試す強さはない。
かといって、周囲へ合わせて笑っているだけにも見えなかった。短い挨拶の間にも、誰が何を担当する人間なのかを確かめている。
プロデューサーが僕を紹介した。
「今回、監督を務める佐村和希さんです」
千尋の視線が僕へ向く。
一拍置いて、隣にいるマネージャーへ僅かに顔を向けた。
「監督の方は、後からいらっしゃるのかと思っていました」
「僕が監督です」
「失礼しました。お若く見えたので」
「十九歳です」
少し驚いた表情で、千尋が僕の顔を見直す。
「学生さんですか?」
「東京大学の一年です」
「十九歳の東大生で、広告監督なんですね」
「情報だけ並べると、ちょっと変ですね」
「ちょっとでしょうか?」
穏やかな口調で返され、周囲から小さな笑いが起きた。
千尋も僅かに口元を緩めたが、僕から視線は外さない。
「以前のアパレル広告も、佐村さんが撮られたんですよね?」
「はい」
「拝見しました。徳山さんがとても自然に見えました」
「彼女の演技に助けられました」
「では今回、私にも自然に歩かせたり、笑わせたりするのでしょうか」
「今回はほとんど歩きません。笑ってほしいとも言わないつもりです」
「化粧品の広告なのに?」
「鍋田さんの笑顔を見せるための映像ではないので」
千尋の眉が、僅かに上がった。
「それは、私が出演する意味はあるんですか?」
声は柔らかい。
責めているようにも聞こえない。
だが曖昧な言葉で逃げれば、その場で監督として見限られる。そんな目だ。
『千尋が確認したいのはなんだろうね』
『和希が自身の起用理由を理解しているかどうかだと推定します』
だったら答えは決まっている。
「笑わなくても分かるからです」
千尋の目を見て答えた。
「同じ鏡を二度見てもらいます。最初と最後で表情を大きく変えるつもりはありません。何を考えて鏡を見ているのかだけを変えてもらう。台詞も説明も使わず、その違いを伝えられる人が必要です」
「私ならできると?」
「できないと思っていたら、別の企画を考えています」
「随分と信用してくださっているんですね。今日が初対面なのに」
「出演作は調べましたから」
「どの作品を?」
「映像で確認できたものは、ほとんどです」
もちろんジンにも協力してもらっているが。
千尋が初めて返事に詰まった。
「ほとんど……ですか?」
「はい」
「いつからこの仕事の準備を?」
「正式な依頼を受けてからです」
「一週間ほどですよね」
「そのくらいですかね」
千尋は僕を見つめた後、ゆっくりとプロデューサーへ顔を向けた。
「東京大学の方は、皆さんこうなのでしょうか」
「人によりますよ。東大生が全員同じなら、僕が監督である必要もなくなりますから」
「なるほど。ご自身は特別だと」
「映像を見て、選んだのはそちらでしょう?」
千尋は数秒黙り、それから小さく笑った。
「確かに、そうでした」
机の上の企画書へ手を伸ばす。
「では、監督。私がどう鏡を見ればいいのか、最初から説明していただけますか?」
監督という呼び方には、まだ僅かに試す響きが残っている。
そのくらいのほうが面白い。
撮影が終わる頃には、年齢を確かめる必要も、東大生と呼ぶ必要もなくしてやろうと思った。




