30話 東京大学です
十九歳になって最初に口座へ入った金は、銀行からの誕生日祝いではなかった。
冬商品の広告を納品したことで支払われた、十四万円の制作報酬だ。
大学へ向かう電車の中で入金を確認する。
『これで、自由に動かせる資金はいくら?』
『証券口座と普通預金を合わせて、百三十万一千円ほどです。生活費、税金と制作経費のために確保している金額、緊急用の資金は含めていません』
『百三十万円か』
高校三年の一月、父から預かった八万円で投資を始めた。
そこから投資で少しずつ増やし、映像を作って報酬を得て、モナコでは一度に百万円以上を持ち帰った。帰国後に投資へ戻した百万円も、一か月ほどで十六万円を超える利益を生んでいる。
どれか一つが欠けていれば、今の金額には届いていない。
『百万円を超えたら、もう少し金持ちになった気がすると思ってた』
『どの程度を想定していましたか?』
『中古の86を、値段を見ずに買えるくらい』
『現在の資金では、購入後の維持費まで含めると余裕があるとは言えません』
『知ってる。だから金持ちになった気がしないんだよ』
大学生が自由に動かせる金としては多い。
ただ、車を買おうとすれば足りず、都内で暮らし続ければいつかは消える。欲しいものを増やせば、不足する理由も同じだけ増えていく。
『今、買うべき銘柄は?』
『現在の条件ではありません』
『報酬が入った日なのに』
『入金日と市場の機会に関係はありません』
『せっかく増えた金が、働きたがってるかもしれないだろ』
『資金に意思はありません』
『ジンならそう言うと思った』
僕は銀行の画面を閉じた。
金が増えたからといって、すぐ何かへ突っ込む必要はない。次に条件の合う機会が来たとき、動かせる金額が大きくなった。それだけでも、増加する速度は以前とは変わる。
化粧品会社の広告を請け負った映像制作会社から連絡が入ったのは、その日の午後だった。
以前作ったアパレル広告を見た化粧品会社が、次のウェブ広告を僕に監督してほしいと希望している。
送られてきた依頼書には、映像全体の制作予算として一千万円と記載されていた。
『一千万円』
『はい』
『見間違いじゃないよね?』
『同じ金額が二か所に記載されています』
講義中でなければ、もう少し分かりやすく反応していたと思う。
これまで最も規模が大きかった冬商品の広告でも、予算は六十万円だった。一千万円となれば、桁が一つでは足りないほど違う。
もちろんその金が僕の口座へ入るわけではない。
制作会社が撮影監督や照明、美術、衣装、メイク、編集者を集め、機材と撮影場所を用意する。出演者への報酬も必要になる。
僕に提示された企画・演出料は、八十万円だった。
十分に大きな金額だ。
今までなら、金額を見た瞬間に受けていたかもしれない。
『八十万円は妥当?』
『撮影現場での演出のみを担当する場合、受諾可能な範囲です』
『今回は違う?』
『依頼書には、広告目的の整理、企画の再構成、出演者への演出、編集方針の策定、初稿以降の監修が含まれています』
『完成まで僕に判断させたいわけか』
『はい。前回の広告が生んだ成果と担当範囲を考慮すれば、増額を求める根拠があります』
『どこまで?』
『百二十万円を提示し、百万円以上を受諾可能な範囲とする方法を推奨します』
十九歳の大学生が、一つの広告で百万円以上を受け取る。
そう考えると、急に法外な要求をするような気分になる。
しかし、先方が求めているのは十九歳の僕ではない。前回の広告を作り、数字に繋げた監督を指名している。
なら自分から学生料金になる理由はない。
講義を終え、校舎の外へ出てから、制作会社のプロデューサーへ電話をかけた。
「佐村です。企画・演出料について確認したいのですが」
「はい。何か不明な点がありましたか?」
「八十万円には、企画の再構成と編集監修まで含まれていますよね」
「その認識です。実際の編集作業は、こちらで手配する編集者が行います」
「現場の演出だけなら、提示された金額で受けます。ただ、企画から完成まで僕の判断を求めるのであれば、百二十万円でお願いします」
電話の向こうが静かになった。
数秒だったはずなのに、自分が口にした四十万円の差を意識するには長かった。
「百二十万円ですか」
「はい」
「佐村さんは、今回が三本目の広告ですよね」
「そうです」
「実績のある監督へ依頼できる金額です。かなり強気だと思いますが」
「経験年数を基準にするなら、その監督へ依頼したほうがいいと思います」
口に出すと、胸の奥が少し熱くなった。
断られたら八十万円も失う。
それでも、こちらから値段を下げる言葉は足さなかった。
「今回は、前回の広告を見た御社の依頼主から僕を指名したと伺っています。その結果を求められて、企画から納品まで担当するなら、百二十万円です」
「その金額に見合うものを作れる自信があると?」
「できないと思っていたら、報酬の相談をする前に断っています」
再び間が空く。
「分かりました。依頼主とも調整して、改めて連絡します」
「お願いします」
電話を切る。
断られたわけではない。ただ、受け入れられたわけでもない。
手の中のスマートフォンが、さっきより僅かに重く感じた。
『言い方に問題はあった?』
『担当範囲と報酬を対応させています。不合理な要求ではありません』
『断られる可能性は?』
『あります。ただし、和希を起用しない場合、制作会社は監督と企画を再選定し、化粧品会社へ説明する必要があります』
『向こうにも、僕を断る費用があるわけか』
『金銭以外の負担も含まれます』
相手が僕を選ぶ理由を持っているなら、交渉は一方的なお願いではない。
そう理解していても、返事が来るまで何度かスマートフォンを確認した。
翌日の夕方、同じプロデューサーから電話がかかってきた。
「企画・演出料百二十万円で、依頼主の了承を得ました」
「ありがとうございます」
「ただし、企画会議から納品まで参加していただきます。修正についても、監督として判断をお願いします」
「最初から、そのつもりです」
「十九歳の新人監督へ支払う金額としては、かなり高額ですよ」
「完成した映像に、監督の年齢も表示されるんですか?」
「表示はされませんね」
「なら、問題ないと思います」
電話の向こうで、プロデューサーが笑った。
「分かりました。期待しています」
通話を終え、机へスマートフォンを置く。
『百二十万円』
『はい』
『今持ってる金と、ほとんど同じだ』
『報酬が支払われるのは、広告の納品後です』
『今くらいは、受け取ったつもりで喜んでもよくない?』
『契約が締結されれば、条件を満たした際に報酬を請求する権利が生じます』
『やっぱり受け取るまでは駄目か』
『喜ぶことを禁止してはいません』
六十秒の映像を作り、百二十万円。
もちろん六十秒だけ働く仕事ではない。企画を考え、何度も打ち合わせをし、大勢のスタッフと出演者を動かし、完成まで責任を持つ。
とはいえ頬が緩むのは止められなかった。
栗原先輩へ電話したのは、契約条件が決まった後だった。
「化粧品会社の仕事、正式に決まりました」
「よかったな。監督料はいくらになった?」
「企画と編集監修を含めて、百二十万円です」
「百二十万?」
電話越しでも、声が一段大きくなったのが分かる。
「映像全体の制作予算は一千万円です」
「本当に規模が変わったな……。今回は、俺たちのサークルで受ける仕事じゃないんだろ?」
「制作会社が受けて、僕が監督として入ります。スタッフも向こうが集めます」
「じゃあ、俺が手伝えることはなさそうだな」
「先輩、監督助手で入りませんか?」
「俺が?」
「知らない人ばかりの現場で、僕一人だとやりにくいので。それに、先輩のほうが現場経験は長いでしょう」
「それは俺を頼ってるのか、巻き添えにしようとしてるのか、どっちだ?」
「両方です」
栗原先輩が笑った。
「プロの現場だぞ。俺も、こんな規模の広告は経験がない」
「僕もありません。だから一緒に困ってください」
「頼り方がおかしくないか?」
「僕が知らないことを先輩が知ってる場面もあります。反対もある。今までと同じですよ」
すぐに返事はなかった。
冗談で誘ったわけではない。
栗原先輩は依頼主との連絡や制作全体の調整を何度も担ってきた。僕が撮ることへ集中できたのは、先輩が僕の見ていない場所を整えてくれたからだ。
「制作会社には、僕から希望を出します」
「もう決めてるじゃないか」
「嫌なら断ってください」
「入れるなら入りたい。俺だって、その規模の現場は見てみたいからな」
「なら、先方を説得します」
「決めるのは制作会社だからな」
制作会社へ希望を伝えると、栗原先輩は経歴を確認されたうえで、監督助手として参加を認められた。
報酬も制作会社から別に支払われる。
百二十万円を分ける必要がないと知って、少し安心したのは先輩には黙っておいた。
最初の企画会議は、それから一週間ほど後に行われた。
場所は、都内にある映像制作会社の会議室だった。
一階の受付で来訪者用の札を受け取り、栗原先輩と並んでガラス張りの廊下を進む。
壁には、その会社が過去に手掛けた広告の写真が並んでいた。
飲料、家電、自動車、化粧品。
テレビで見た覚えのあるものも混じっている。
『僕が作った映像を、この中へ並べても大丈夫そう?』
『何を基準に評価しますか?』
『見劣りしないかどうか』
『技術的な完成度では劣る作品があります。一方、出演者の印象と商品の用途を短時間で伝える点では、同等以上と評価できる作品もあります』
『正直だな』
『気を遣う必要はないと、以前から言われています』
『勝てる部分もあるなら、負けてる部分は今日会う人に借りよう』
僕が持っていない技術や経験は、この会社にいる人間が持っている。
反対に、彼らが持っていないものを僕が出せなければ、十九歳の学生へ監督を任せる意味はない。
会議室には、僕と栗原先輩が最後に入った。
制作会社からは、プロデューサー、撮影監督、照明、美術、制作進行。
化粧品会社からは、広告宣伝部の担当者が二人。さらに、広告代理店の担当者も参加している。
席へ着く前から、何人かの視線が僕へ向いた。
監督が若いとは聞いていても、実際に大学生が来るとは思っていなかったのかもしれない。
電話で話していたプロデューサーが立ち上がる。
「佐村さん、お待ちしていました。直接お会いするのは初めてですね」
「本日はよろしくお願いします」
挨拶を交わす僕を、化粧品会社の女性担当者が見ていた。
「失礼ですが、監督をされる佐村和希さんで間違いありませんか?」
「はい」
「お若いとは伺っていましたけど……おいくつですか?」
「十九歳です」
「十九歳?」
隣にいる上司まで、僕の顔を見直した。
「今年大学へ入ったばかりです」
「どちらの大学ですか?」
「東京大学です」
一瞬、会議室が静かになった。
撮影監督らしい男性が、僕と栗原先輩を見比べる。
「映像系の学校ではないんですか?」
「映像制作は、大学へ入ってから始めました」
「今年の四月から?」
「はい。前回の広告を撮ったのは七月なので、始めて三か月くらいの頃です」
今度の沈黙は、少し長かった。
感心されているのか、心配されているのか。
たぶん、両方だ。
美術担当の女性が栗原先輩へ視線を向ける。
「栗原さんも、東京大学なんですか?」
「いえ、僕は別の大学です。佐村とはインカレの映像制作サークルで知り合いました」
「では、佐村さんだけが東大生?」
「一人だけ東大生という言い方も妙ですけどね」
僕が答えると、何人かが笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
「年齢と大学の確認は、これで終わりですか?」
プロデューサーへ尋ねる。
「はい。そろそろ監督として仕事をしてもらいましょう」
「お願いします」
机の上へ、今回の企画書が広げられた。
白い部屋、朝の光。
鏡の前に座る女性が、美容液を肌へ馴染ませ、最後に微笑む。
綺麗ではある。
同じような映像を、これまでに何本も見たことがあった。
僕は一枚目から目を通し、最後のページまで捲った。
これをそのまま撮るだけなら、僕を呼んだ意味はない。




