29話 まだ今日、終わってないから
十月十八日、二限目の授業が終わったところで、玲奈から細長い箱を渡された。
「少し早いけど、誕生日おめでとう」
「覚えてたんだ」
「もちろん。六月にわたしの誕生日を祝ってもらったんだから、覚えてるよ」
玲奈の誕生日には、本人が買おうか迷っていた香水を贈った。
一緒に店へ行ったわけではない。玲奈がスマートフォンで何度か同じ商品を見ていたので、欲しいものを聞いたところ、遠慮なく指定されたのだ。
僕も同じくらい遠慮せず、箱を開けた。
中に入っていたのは、細身の黒いボールペンだった。
光沢を抑えた金属の軸に、余計な装飾はない。持ってみると、見た目より少し重かった。
「いいの? これ、結構するんじゃない?」
「香水よりは安いよ。佐村君、大学でも撮影でも、よくペン使ってるでしょ」
言われてみれば、講義のノートだけでなく、撮影中にも立ち位置や時間を書き込んでいる。
「ありがとう。使うよ」
「なくさないでね」
「玲奈にもらったことを忘れて、誰かに貸す可能性はある」
「返して」
「冗談だよ」
箱を鞄へ入れても、玲奈はまだ少し疑うような目を向けていた。
十月二十日の朝、最初に確認したのは家族のグループから届いたメッセージだった。
母が午前零時を過ぎてすぐに送ったらしく、目を覚ました時点で何件も続いている。
《十九歳のお誕生日おめでとう。今度帰ってきたときに、みんなでお祝いしましょう》
父からは、
《おめでとう。十九歳も好きなことをやりなさい。ただし、責任は自分で取れる範囲で》
と届いていた。
父らしい。
彩香からは、東大生になって投資をして海外へ行って、濃い一年だったね、と書かれている。
最後は美咲だった。
《おにい十九歳おめでとう。あと一年で大人だね》
《今もだいたい大人だと思ってるよ》
《自分で言う人はまだ子供》
《誕生日の朝から厳しくない?》
《プレゼントは今度帰ってきた時にあげる》
《何を企んでる?》
《お返しに何か買って》
僕の誕生日を、何だと思っているのだろう。
友人たちからも短いメッセージが届き、栗原先輩からは、誕生日を祝う言葉に続けて広告の修正について書かれていた。
《十九歳おめでとう。あと、ロゴの修正版で先方の確認が取れた》
《ありがとうございます。誕生日と仕事の話を一緒に送らないでください》
《今日くらい休むか?》
《休みます》
《本当に休めよ》
編集用のパソコンは開かないつもりだった。
ジンにも、緊急性のない投資情報は明日まで伝えなくて構わないと頼んである。
『保有銘柄の価格へ大きな影響を与える情報が出た場合も、明日まで報告しませんか?』
『それは教えて』
『緊急性の基準を変更します』
『誕生日でも、金を増やす機会は逃したくないからね』
『承知しました』
理央からもメッセージが届いていた。
《十九歳おめでとう》
《ありがとうございます。よく知ってましたね》
《仕事の資料に書いてあったから》
《生年月日まで見てるんですね》
《出演者は監督の資料を見るの》
本当かどうかは分からない。
《プレゼントは、次に来たときにあげる》
《期待しておきます》
《今日は誰と会うの?》
《一日予定があります》
《ふうん。明日は?》
《授業と教習所》
《その後、来て》
《予定を確認しておきます》
《空けなさい》
誕生日だからといって、理央の強引さは変わらなかった。
日菜との待ち合わせは、午前十時だった。
駅へ着くと、改札の外に立つ日菜が先に僕を見つけた。
黒いワンピースの上に薄手のジャケットを羽織り、モナコで渡したスカーフを首へ巻いている。
「おはよう。誕生日おめでとう」
「ありがとう。スカーフ、使ってるんだ」
「似合ってる?」
「うん。自分で巻けた?」
「できるようになったよ。毎回和希にやってもらうわけにいかないから」
「呼んでくれれば行くけど」
「スカーフを巻くためだけに?」
「それだけで済むわけないと思うけど」
「じゃあ自分でやる」
日菜は笑いながら僕の隣へ並んだ。
「今日は、どこへ行くの?」
「まだ秘密」
「一日空けろとしか聞いてないんだけど」
「帰れない場所には連れていかないから、大丈夫」
「そこは心配してないよ」
『ジン、今日の予定は予測できる?』
『日菜の服装、現在地、移動可能な範囲と、本日開催される催事を照合すれば、候補を絞れる可能性があります』
『やっぱりいい。調べないで』
『承知しました』
分からないことを、分からないまま楽しみにする日があってもいい。
日菜が最初に連れていったのは、都内の美術館だった。
開催されていたのは、二十世紀後半から現在までの広告写真を集めた企画展だ。
衣服、化粧品、自動車、旅行。
商品を写した写真だけでなく、何を売っているのか一目では分からない作品も並んでいる。
「和希、こういうの好きかなと思って」
「うん。よく見つけたね」
「映像を作ってる人なら、写真も見るかなって」
「日菜だって、音楽をやってるなら同じようなものでしょ」
「わたしにはよく分からない写真もあるよ」
「僕も全部は分からないけど」
一枚の写真の前で足を止める。
夜の道路に一台の車が停まり、濡れた路面にテールランプの赤い光だけが伸びていた。
「これ、何の広告だと思う?」
「車じゃないの?」
「香水らしいよ」
「全然分かんない」
「僕も説明を読むまで分からなかった」
「なら、広告として失敗じゃない?」
「商品を覚えてもらうより、見た人の印象に残すことを選んだのかもね」
「和希も、こういうの作りたい?」
「依頼主が許してくれるなら」
「結局、仕事のこと考えてる」
「広告写真の展示だから仕方ないだろ」
「今日は誕生日なんだから、好きか嫌いかだけで見ればいいのに」
日菜に言われ、写真へもう一度目を向ける。
「これは好き」
「理由は?」
「好きか嫌いかだけじゃなかったの?」
「理由も聞きたい」
「注文が多いな」
企画展を一周する頃には、昼を過ぎていた。
昼食に入った店で僕が伝票を取ろうとすると、日菜に先を越された。
「今日はわたしが払う」
「全部?」
「そのつもり」
「一日分となると、結構かかるよ」
「お土産でグッチを買ってきた人が言わないで」
「あれはモナコの金だから」
「今日はわたしのお金。誕生日の人は黙って払われて」
そこまで言われ、財布を戻す。
「分かった。ご馳走になります」
「素直でよろしい」
「日菜が払いたいなら止めないよ」
「もう少し遠慮してくれてもいいんだけど」
「どっち?」
「一回断って、最後は払わせてほしい」
「面倒だな」
「誕生日じゃなかったら怒ってるからね」
日菜は不満そうな顔を作りながら、楽しそうだった。
午後は何軒か店を回り、日菜が立ち寄ったレコード店では、試聴機で一緒に音楽を聴いた。
一組分しかないヘッドホンを片耳ずつ使い、肩を寄せる。
「このバンド、知ってる?」
「名前だけ」
「ギターがいいんだよ。二曲目まで聴いてみて」
勧められたとおり、次の曲へ進める。
『演奏しているギタリストは――』
『今は自分で聴くよ』
『承知しました』
ジンへ聞けば、演奏している人間も、使っている楽器も、曲が作られた経緯も分かる。
だが日菜が隣にいるなら、本人から聞いたほうが楽しい。
「どう?」
「一曲目より、こっちのほうが好きかな」
「わたしも」
「なら最初から二曲目を聴かせればいいのに」
「一曲目から聴いたほうが、二曲目がよく聞こえるから」
「そういうもの?」
「そういうものなの」
日菜は気に入ったレコードを一枚買った。
僕への贈り物ではなく、自分用だった。
夕方まで街を歩き、最後は日菜が予約していた小さな洋食店へ入った。
食事の最後には、小さなケーキが運ばれてきた。
皿には、チョコレートで僕の名前と、十九歳を祝う言葉が書かれている。
「これ、店に頼んだの?」
「うん。嫌だった?」
「少し恥ずかしい」
「誰も見てないよ」
「日菜が見てる」
「わたしは見るために頼んだの」
日菜がスマートフォンを取り出す。
「写真撮るから、もう少し嬉しそうにして」
「嬉しいよ」
「顔が足りない」
『ジン、どうすれば嬉しそうに見える?』
『口角を現在より――』
『冗談だから』
『回答を中断します』
向かいにいる日菜を見る。
自分で頼んだケーキでもないのに、僕より嬉しそうな顔をしていた。
それを見て笑った瞬間に、写真を撮られる。
「今のは良かった!」
「不意打ちじゃない?」
「自然な笑顔が欲しかったんだもん」
「撮影する側の気持ちが少し分かった?」
「和希を撮るだけなら簡単ね」
日菜は撮った写真を確認し、僕にも送ってきた。
店を出た後、日菜から小さな箱を渡された。
「これも誕生日プレゼント」
「今日一日で終わりじゃなかったんだ」
「開けてみて」
箱の中には、濃い紺色の革で作られたキーリングが入っていた。
金具にも派手な装飾はなく、手に収まる程度の大きさだ。
「免許取りに行ってるって言ってたからさ」
「まだ車は持ってないけどね」
「部屋の鍵でもつけておけばいいでしょ。車を買ったら、その鍵に替えてもいいし」
鞄から部屋の鍵を取り出し、その場でキーリングへつけ直す。
「もう使うの?」
「鍵はあるから」
「似合ってる?」
「鍵に似合うってあるの?」
「スカーフのとき、和希が聞いたから」
「じゃあ、似合ってる」
「適当」
日菜はそう言ったものの、満足したように僕の手の中を見ていた。
その後は、二人で僕の部屋へ帰った。
玄関の鍵を開ける。
使い始めたばかりの革はまだ硬く、手の中で少し滑った。
「本当にすぐ使ってる」
「しまっておく理由もないだろ」
日菜が靴を脱ぎ、先に部屋へ入る。
僕も扉を閉め、鍵を机の上へ置いた。
「和希」
「ん?」
「十九歳の最初の日、楽しかった?」
「楽しかった」
「どれが一番よかった?」
「全部は駄目?」
「考えてない人の答えみたい」
「じゃあ写真の展示」
「お昼は?」
「美味しかった」
「レコードは?」
「日菜と聴けたのがよかった」
「夜の店は?」
「ケーキは恥ずかしかった」
「やっぱり嫌だった?」
「めちゃくちゃ嬉しかった」
日菜の首には、朝から着けていたスカーフが残っている。
僕が手を伸ばすと、日菜は逃げずに顔を上げた。
「日菜に一日空けろって言われた理由は分かったよ」
「何だと思った?」
「僕を喜ばせたかったんだろ」
「ちゃんと分かってるじゃん」
日菜が僕の服を掴み、顔を寄せる。
「まだ今日、終わってないから」
『ジン。視覚と聴覚の共有を切って』
『承知しました』




