24話 カジノ・ド・モンテカルロ
午前六時五十分。
予定どおり部屋を出た。
空は明るくなり始めていたが、住宅街を歩く人の姿はまだ少ない。旅行用の鞄を引く音だけが、普段より大きく聞こえる。
『忘れ物は?』
『ありません。室内の照明、空調、調理器具はすべて停止しています。玄関の施錠も確認しました』
『パスポートは?』
『鞄の内側、右側のポケットです』
『完璧だね』
『昨夜から三度、同じ項目を確認しています』
『海外へ行くのは初めてなんだから、少しくらい付き合ってよ』
『確認には回答しています』
今朝も相棒は平常運転だ。
利用する路線に遅れはなく、空港へは予定より八分早く着いた。
搭乗手続きを済ませ、保安検査を抜ける。
出発時刻まで待っている間に、家族へメッセージを送った。
《空港着いた。行ってきます》
最初に返ってきたのは母だった。
《気をつけてね。着いたら必ず連絡しなさいよ》
続いて父からも届く。
《鞄と財布から目を離さないように。楽しんでこい》
美咲からは、
《お土産忘れないで》
それだけだった。
《兄の安全を心配する言葉は?》
《おにいなら大丈夫でしょ》
信頼されていると考えれば、悪い返事ではない。
日菜へも、今から出発すると送る。
《寝てた》
《起こしてごめん》
《気をつけてね》
《お土産考えておいて》
《和希が考えて》
買い物へ行った日から答えは変わっていなかった。
理央には、旅行の日程を話していない。
広告の追加映像を納品してから何度かメッセージは交わしたが、次に会う約束もしていなかった。伝える必要がないというより、話題になる機会がなかっただけだ。
『ジンは、飛行機の中でも繋がってる?』
『はい。ただし、外部から情報を取得できるかどうかは、通信環境によって変化します』
『僕が機内モードになっても?』
『和希は通信端末ではありません』
『分かってる。言ってみたかっただけ』
『私との接続は常に維持されます』
搭乗案内が始まる。
パスポートと搭乗券を提示し、機内へ入った。
窓側の席へ座り、鞄を足元へ収める。
離陸して街が小さくなっていくところまでは楽しめたが、ここから先は長い。
直行便ではない。
一度乗り継ぎ、空港で数時間待ち、再び飛行機へ乗る。食事をして、映画を見て、眠ろうとして眠れず、窓の外に広がる雲を眺めた。
退屈はしなかった。
機内で流せる英語の映画を使い、聞き取れなかった言葉だけをジンに確認する。客室乗務員との会話も、頭の中で文章を作ってから口に出すのではなく、知っている言葉をそのまま使う。
文法を一つ間違えたが、注文は通じた。
『今の英語、どうだった?』
『意味は正確に伝わっています。ただし、飲み物を指定する際の表現が必要以上に丁寧です』
『失礼よりはいいだろ』
『はい。問題はありません』
『なら合格で』
『評価基準を下げましたか?』
『会話は伝わればいいんだよ』
受験問題なら減点される言い方でも、相手は注文した飲み物を持ってきてくれた。コミュニケーションが取れていればそれでいい。
長い移動を終え、ニースの空港へ到着した頃には、現地はまだ午後だった。
入国審査では滞在目的と日数を聞かれた。
観光で五泊。
ニースのホテルへ宿泊し、モナコにも行く。
カジノについては聞かれなかったので、答えなかった。
荷物を受け取り、空港の外へ出る。
最初に感じたのは、光の強さだった。
東京より空が近く、建物の白い壁が陽射しを反射している。道路脇には背の高いヤシの木が並び、その向こうに青い海が見えた。
写真や映像では何度も見ている。
それでも潮を含んだ風の匂いまで、画面からは分からない。
『本当にフランスだ』
『はい。現在地はフランス共和国、ニースです』
『もう少し感想らしいものはないの?』
『私は和希と同じ視覚、聴覚、嗅覚情報を共有しています』
『そういう意味じゃない』
ホテルへ向かう。
受付では英語が通じた。
途中でフランス語も使ってみたが、僕の発音を聞いた従業員は、少し笑ってから英語で返してきた。
通じなかったわけではない。
たぶん、英語で話したほうが早いと判断されたのだろう。
『発音、おかしかった?』
『意味は伝わっています。ただし、母音の位置が日本語に近く、語末の処理にも改善の余地があります』
『帰るまでには、少しくらい上手くなりたいね』
『現地で会話する機会を増やせば、改善できます』
部屋は広くない。ベッドと小さな机、壁際の収納。窓から海は見えないが、駅まで歩いて行ける。五日間滞在するだけなら不満はない。
荷物を置き、家族へ到着したことを伝える。
そのまま眠れば、現地の時間に身体を合わせられない。シャワーを浴び、外へ出た。
海岸沿いまで歩く。
青い海の横を、自転車やローラースケートに乗った人が通り過ぎていく。砂浜ではなく小石の海岸で、波が引くたびに乾いた音がした。
僕も海沿いの椅子へ座り、しばらく何もせず眺めた。
『明日の予定は?』
『午前中にニース市内を見た後、午後からモナコへ移動します。ブラックジャックを行う場合、夕方以降に利用できるテーブルの条件を確認する必要があります』
『昼からは遊べない?』
『遊ぶことは可能です。ただし、継続的にカードを混ぜる機器が使用されている場合、残っているカードの偏りを利用できません』
『せっかくジンが全部数えられるのに、混ぜられたら意味がないか』
『基本戦略に従って遊ぶことはできますが、長期的な期待値は負になります』
『なら、条件がいい台を待とう』
海の向こうへ陽が傾き始めている。日本ではもう深夜だ。
僕は夕食を済ませ、翌日に備えて早めにホテルへ戻った。
翌朝、現地時間の六時過ぎに目を覚ました。
身体は少し重いが、眠気は残っていない。
『睡眠は足りてる?』
『途中で二度覚醒していますが、合計睡眠時間は七時間二十四分です。体温と脈拍にも異常はありません』
『カジノに行っても大丈夫?』
『体調だけを基準にすれば、問題ありません』
午前中はニースの旧市街を歩いた。
市場を見て、狭い路地へ入り、店員に勧められた菓子を買う。覚えたばかりのフランス語を何度か使い、少なくとも昨日よりは聞き返される回数が減った。
昼食を終えてホテルへ戻り、夜のために用意した服へ着替えた。
濃紺のジャケットと白いシャツ。黒に近いパンツと革靴。
入学式で着たスーツを、そのまま持ってきたわけではない。ジャケットだけを使い、少し普段着に近く見えるよう組み合わせた。
『どう?』
『服装規定には適合しています。シャツの襟を僅かに整えてください』
『写真を撮るわけじゃないんだけど』
『外見を確認するよう求められたため、回答しました』
襟を直し、ホテルを出る。
ニースからモナコまでは鉄道で移動した。
窓の外に海が見える。
岩肌へ張りつくように建物が並び、港には見たことのない大きさの船が停泊している。個人が所有しているとは思えないが、船体の形を見る限り、客船でも貨物船でもない。
『あれ、いくらくらい?』
『同型のヨットを基準にすれば、建造費は五十億円から八十億円程度と推定されます。年間の維持費には、本体価格の一割前後を要する可能性があります』
『僕の資産と比べてみてよ』
『現在の和希の資産では、年間維持費の一部にも届きません』
『知ってたけど、はっきり言われると遠いな』
駅へ到着し、街へ出る。
モナコは小さい。
地図だけを見れば、歩いて回れる範囲に多くのものが収まっている。
ただし、高低差が激しかった。海から山へ向かって建物が重なり、その間を道路と階段が縫うように走っている。
通りを走る車も、ニースとは違う。
高級車を一台見つけて驚く暇もなく、その後ろから同じくらい高価な車が現れる。低い車体が石造りの建物の前を通り過ぎ、ホテルの入り口へ滑り込んでいく。
『今の車は?』
『イタリア製のスポーツカーです。日本で購入した場合、仕様によって四千万円前後になります』
『その前のは?』
『英国製です。約三千万円からです』
『ここにいたら、金銭感覚がおかしくなりそうだな』
『周囲に存在する資産と、和希が所有する資産は別です』
『分かってるよ』
大学生が四十万円を持って海外へ来た程度では、この街では金持ちの側に入れない。
だからといって、場違いだとも思わなかった。
歩道を歩くために資産証明は必要ない。カジノへ入る条件も、年齢と服装を満たして入場料を払うことだけだ。
カジノ・ド・モンテカルロの前には、観光客が集まっていた。
広場に面した建物は、カジノというより宮殿か劇場に見える。
正面には高級車が停まり、運転手から鍵を受け取った係員が、そのまま別の場所へ移動させている。建物を背景に写真を撮る人も多く、昼間の広場には賭場らしい暗さがない。
入場に必要なものを確認し、パスポートを提示する。
十八歳。
日本では未成年でも、ここではゲームへ参加できる。
建物へ入ると、天井の高さに目を奪われた。
壁と柱には細かな装飾が施され、頭上には大きなシャンデリアが下がっている。床を歩く革靴の音まで、普段より上品に響く気がした。
『すごいな』
『建物は十九世紀に建設され、その後も複数回の改修が行われています』
『今は歴史の説明を聞きたいわけじゃない』
『では、内装への感想ですか?』
『そう』
『豪華です』
『僕の語彙と変わらないじゃん』
昼の時間帯にも、いくつかのゲームは動いていた。
ブラックジャックのテーブルも見つけたが、カードは一局ごとに機器へ戻され、内部で混ぜられている。
『これは?』
『残りのカードを追跡できません。基本戦略によって損失率を抑えることはできますが、和希に有利な条件ではありません』
『遊ぶための一万円なら使ってもいいんだよね』
『はい』
『でも、せっかくなら夜まで待とうか』
テーブルの周囲を歩き、ほかの客が遊ぶ様子を見る。
ルーレットでは一度の結果に歓声が上がり、別の場所では、何十万円分になるのか分からないチップが静かに動いていた。
それぞれ賭けている金額は違っても、勝ったときに口元が緩むのは同じだった。
建物を出た後は港まで歩き、夕食を取る。
日が沈む頃、もう一度カジノへ戻った。
昼より服装の整った客が増え、室内の空気も変わっている。
ジンに確認しながらテーブルを見て回る。
最低賭け金、使われているカードの組数、ディーラーがカードを混ぜる方法、参加している人数と、ゲームの進む速度。
条件の合うテーブルは、一つだけだった。
『ここ?』
『現時点では、このテーブルが最も適しています』
『勝てる確率は?』
『一回ごとの勝敗を予測することはできません。複数回のゲームを行った場合、ほかのテーブルより損失を抑え、利益を得られる可能性が高いと判断します』
『じゃあ、ここにしよう』
四百ユーロをチップへ替えた。
日本円にすれば、五万円に少し届かない。
丸いチップへ変わった途端、金額の重さが少し薄れる。一枚を置くだけなら、硬貨を使っているようにさえ見えた。
空いていた席へ座る。
最初の賭け金は、最低額の二十五ユーロ。
ディーラーからカードが配られる。
僕の二枚は合計十五。
ディーラーの表向きのカードは十。
『引く?』
『はい』
配られたカードは絵札だった。
合計二十五。
最初の二十五ユーロが、数秒で消えた。
『開始直後から負けたけど』
『起こり得る結果です』
『もう少し慰めてよ』
『基本戦略に従った正しい判断でした』
『正しく負けたわけだ』
『はい』
次も二十五ユーロ。
今度は僕が十八で止まり、ディーラーが二十を作った。
二連敗。
チップが減る。
金額にすれば、六千円近い。日本にいれば、少し良い食事ができる金だった。
隣に座る男は、僕より大きな金額を賭けていた。
負けても表情を変えず、勝ったときだけディーラーへ小さく頷く。
僕も余計な反応をせず、次のチップを置いた。
場へ出たカードを記憶する。
低い数字のカードが多く使われれば、残りには十や絵札が増える。僕にとって有利なカードが残っているときだけ、賭け金を上げる。
考え方は単純だ。
実際には、使用された枚数と残りの量を同時に追い、カードが配られるたびに数字を更新する必要がある。
僕が一つ数える間に、ジンはすべて終えている。
『今は?』
『まだ和希に有利ではありません。最低額を維持してください』
負ける。
勝つ。
引き分ける。
最初の三十分で、四百ユーロは二百七十五ユーロまで減った。
『百二十五ユーロ負けてる』
『確認しています』
『台を変える?』
『現時点では必要ありません。カードの構成は、開始時より和希に有利です』
『減ってるのに?』
『過去の勝敗と、次のゲームにおける確率は別です』
僕は二十五ユーロのチップを一枚、追加した。
『五十?』
『はい』
配られた二枚は、合わせて十一。
ディーラーの表向きは六。
『倍にします』
賭け金と同額のチップを追加する。
この一局に百ユーロ。
配られるカードは、一枚だけ。
十だった。
合計二十一。
ディーラーは裏向きのカードを開き、その後もカードを引く。最後の一枚で二十二になった。
二百ユーロが戻ってくる。
直前まで百二十五ユーロ負けていたのに、一度の勝負で大部分を取り返した。
『気持ちいいな、これ』
『結果が確定する前から笑っていました』
『見えてた?』
『視覚情報を共有しています』
『自分の顔は見えないだろ』
『頬と口元の動きから判断できます』
『細かいところまで見なくていいよ』
賭け金を最低額へ戻す。
大きく勝った直後に下げれば、不自然に見えるかもしれない。二回だけ五十ユーロを維持し、その後、流れを気にする客のようにチップを減らした。
カードが混ぜ直されれば、数字は最初へ戻る。
しばらく最低額で遊び、条件が良くなったときだけ増やす。
七十五ユーロ。
百ユーロ。
何度か負けたが、勝つときの金額が大きい。
途中、黒いスーツを着た男性がテーブルの近くへ来た。
客ではない。
ディーラーの手元と、僕の前に置かれたチップを順番に見ている。
『見られてる?』
『和希だけを見ているわけではありません。ただし、賭け金の変化を確認している可能性があります』
『もう気づかれた?』
『断定できません。和希の賭け金は、現時点では極端ではありません』
次の数回は、数えた結果と賭け金の変更を少しずらした。
有利になった直後ではなく、一度勝った後に増やす。
隣の客が大きく賭けたときに合わせる。
勝てば笑い、負ければ肩を竦める。
完璧な判断を隠すために、わざと間違える必要はない。判断の理由を、別のものに見せればいい。
一時間ほどすると、黒いスーツの男性は別のテーブルへ移った。
『今の僕、自然だった?』
『一般的な観光客と比較すれば、勝敗に対する反応が小さい傾向があります』
『笑ってたのに?』
『利益が増えた際には笑っています』
『なら、金が好きな観光客には見えるだろ』
『その可能性は高いと考えられます』
ゲームを続ける。
開始から三時間ほど経った頃、チップは六百七十五ユーロになっていた。
二百七十五ユーロの利益。
日本円にすれば、三万円を少し超える。
『やめる?』
『現在のカード構成だけを基準にすれば、継続しても構いません』
『ほかの条件は?』
『和希の判断速度が、開始時より平均〇・四秒低下しています。姿勢の変化と瞬きの回数からも、軽度の疲労が確認できます』
『まだ三時間だけど』
『移動による疲労も残っています』
目の前のテーブルでは、次のゲームが始まろうとしている。
今なら勝っている。あと一度だけ。
そう思った時点で、やめたほうがいい気がした。
「終わります」
ディーラーへ英語で伝え、席を立つ。
チップを現金へ戻した。
六百七十五ユーロ。
手にした金のうち、四百ユーロは最初から僕のものだ。増えたのは二百七十五ユーロに過ぎない。
それでも、銀行口座の数字が増えるのとは感触が違った。
目の前でカードが配られ、自分で賭け金を置き、負ければその場で消える。
最初の三十分では百二十五ユーロ負けていた。
そこから判断を変えず、必要な場面だけ賭け金を増やし、最後には二百七十五ユーロの利益を持って席を立った。
カジノを出る。
広場には夜の照明が落ち、昼間とは違う色で建物を照らしていた。
正面には高級車が並び、着飾った男女が次々に中へ入っていく。
僕もつい先ほどまで、その中で金を賭けていた。
『初めてのブラックジャック、感想は?』
『私に感想を求めていますか?』
『ジンも一緒にやっただろ』
『計算結果を提示しました』
『それを一緒にやったって言うんだよ』
ジンから返事はなかった。
『僕は楽しかったよ』
『勝ったことが理由ですか?』
『負けてたところから戻したのも含めてかな。全部勝つより、たぶん面白かった』
『負けたまま終了した場合にも、同じ感想になるとは限りません』
『それはそうだね』
駅へ向かう途中、日菜へ送る土産を探した。
店の多くは閉まり始めていたが、小さな箱に入った菓子を一つ買う。
これだけで終わりではない。
明日もモナコへ来る。
次は、カードではなく人間を相手にする。
『ポーカーで使える金は?』
『本日の利益を含め、カジノ用の資金は約十三万二千円です』
『元の十万円を減らさずに、明日を始められるわけだ』
『為替変動を考慮すれば、正確には異なります』
『今くらいは細かいことを言わなくていいよ』
『金額を尋ねたのは和希です』
駅へ続く坂を下りながら、笑いを堪えられなかった。
初日で三万円。大金とは呼べない。
だが、明日は今日より大きな金が動く。
ホテルへ戻ったら、今日見たものを整理しよう。
カードの偏りではなく、賭ける人間の癖を見つけるために。




