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頭の中の最強AI ──金も女も、そして世界も手に入れる──  作者: 橙色
東京大学一年生編

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22話 監督が生意気だと集中できない





 日菜のバンドが出演するライブは、以前に撮影した会場より二回りほど広かった。


 駅から歩いて十分ほどの場所にあるライブハウスで、収容人数は三百人を超える。入口の前には開場を待つ客が列を作り、その中には日菜たちのバンド名が印刷されたタオルを首へ掛けている者もいた。


『前に撮影したライブと比べて、客が多いね』


『会場の収容人数は約三倍です。本日の出演者は五組であり、すべてが日菜のバンドを目的に来場したとは限りません』


『分かってる。僕まで身内みたいに喜ぶのは早いってことだろ』


『そのような意図ではありません』


 チケットを提示して中へ入る。


 今日はカメラを持っていない。


 撮影場所を確保する必要もなければ、照明の変化や演者の立ち位置を予測する必要もない。客として好きな場所に立ち、ステージを見るだけでいい。


 日菜たちの出番は三組目だった。


 転換が終わり、客席の照明が落ちる。


 日菜がステージへ出てきた瞬間、前方にいた客から声が上がった。


 撮影した映像が公開されてから、日菜たちの名前を知った人間は確実に増えている。今日初めて演奏を見る客が何人いるのかまでは分からないが、イントロが始まる前から、前回とは空気が違っていた。


 日菜は黒いノースリーブの衣装に、細身のパンツを合わせていた。


 僕と会うときより目元が強く、照明を浴びながら客席を見渡す表情には、普段の柔らかさがほとんど残っていない。


『日菜、少し歌い方を変えた?』


『以前より、低音域で息を多く混ぜています。声量を抑える代わりに、音の輪郭を意図的に粗くしていると考えられます』


『前より曲に合ってる』


『はい。サビとの変化も明確になっています』


 撮影していたときなら、どの角度からその表情を拾うか考えていただろう。


 今日は必要ない。


 客席の中で一曲を最後まで聴き、次の曲が始まれば周囲と一緒に身体を揺らす。僕が映像を作ったことを知らない客が、日菜の声へ反応している。


 それを見るのは、自分の作品を褒められるのとは違う楽しさがあった。


 四曲目には、僕が映像を作った曲が演奏された。


 イントロが流れた途端、客席の何人かが明らかに強く反応する。隣にいた二人組の女性も曲名を口にし、片方がスマートフォンで撮影しようとして、近くのスタッフから止められていた。


『あの二人は、映像から曲を知ったのかな』


『公開後に投稿された内容と、二人が使用している公開アカウントを照合すれば、確認できる可能性があります』


『そこまではいいよ』


『承知しました』


 誰が、どこで曲を知ったのか。


 一人ずつ確かめなくても、以前とは違う反応が目の前にある。


 日菜は曲の最後まで客席を見ていた。


 僕がいる場所は教えていない。照明を浴びたステージから、暗い客席にいる僕を見つけるのは難しいだろう。


 アンコールを含めて演奏を終えると、日菜たちは拍手に送られてステージを降りた。


 僕はほかの客と一緒に会場を出た。


 十分ほど経った頃、日菜からメッセージが届く。


《どこにいたの?》


《後ろのほう。よく見えたよ》


《終わるまでいて》


《外で待ってる》


 三十分ほどして、衣装から私服へ着替えた日菜が出てきた。


「和希」


 僕を見つけるなり、早足で近づいてくる。


「どうだった?」


「前よりよかった。特に二曲目の歌い方」


「そこ変えたの、分かった?」


「少し息を混ぜたような感じだったね」


 日菜の顔が嬉しそうに緩む。


「メンバーにも、前よりこっちのほうがいいって言われた」


「僕もそう思う。サビに入ったとき、声が急に広がって聞こえた」


「撮影してなくても、そんなところまで見てるんだね」


「今日は見てたというより、聴いてたよ」


「ちゃんと客だった?」


「チケットも自分で買った」


「関係者で入れたのに」


「誘われたのはライブであって、仕事じゃないからね」


 日菜は一度瞬きをしてから、小さく笑った。


「じゃあ、今日の和希は本当にわたしの客だったんだ」


「そうなるね」


「お腹空いてない?」


「空いてる」


「メンバーと食べに行く話もあったんだけど、今日は和希と行きたい」


「僕は構わないよ」


 日菜がメンバーへ断りを入れ、二人で駅の近くにある店へ入った。


 ライブの感想を詳しく聞かれ、曲ごとに気づいた点を話す。


 日菜は褒めた言葉より、改善できそうな部分へ強く食いついた。


 歌っている途中で客席の反応が弱くなった場所。


 曲間の話が少し長くなり、次の曲へ入る勢いを削いでいたこと。


 最後の曲では、声に僅かな疲れが混じっていたこと。


「和希って、気づいても言わないほうがいいことまで普通に言うよね」


「聞かれたから答えたのに。褒めてほしいなら、最初にそう言ってよ」


「褒めてもほしいけど、本当のことも聞きたいの」


「難しい注文だな」


「じゃあ、もう一回」


「今日の日菜は綺麗だったし、歌も前よりよかった。三曲目の前の話は長かった」


「やっぱり最後のは余計」


「本当のことも聞きたいって言っただろ」


 日菜は不満そうな顔をした後、結局笑った。


「でも、来てくれてよかった」


「僕も来てよかったよ」


「映像を作ったから?」


「それもある。でも、今日は普通に日菜の歌を聴きたかったから」


「そういうのは、先に言ってよ」


「今言っただろ」


「もっと早く聞きたかったの」


 日菜はテーブルの下で、僕の足へ自分の足を軽く触れさせた。


 食事を終えると、日菜は僕の部屋まで来た。


 帰るかどうかを確認する必要はなかった。駅から離れる道へ入っても、日菜は何も言わず隣を歩いている。


 部屋へ着き、日菜が靴を脱ぐのを待ってから、頭の中で呼びかける。


『ジン。視覚と聴覚の共有を切って』


『承知しました』


 日菜が帰ったのは、日付が変わる少し前だった。




 翌週には、アパレル会社との打ち合わせが入っていた。


 映像制作サークルへ届いた依頼は、若者向けに立ち上げた新しい衣料ブランドの広告映像を作るというものだった。


 予算は三十万円。


 三十秒ほどの映像を中心に、ウェブサイトやSNS、店舗内の画面でも使える短い映像を何本か作る。


 これまで受けた仕事より金額も大きく、完成した映像が使われる場所も広い。


 栗原さんと僕、それに撮影を担当する部員二人が、会社の会議室へ向かった。


 相手は設立から数年の小さな会社で、オフィスも雑居ビルの一室にある。会議室と呼ばれた場所も、執務スペースを半透明の仕切りで区切っただけだった。


 打ち合わせには、社長と広報担当者が参加した。


「今回は三十秒の映像を一本作っていただいて、短い広告も何種類かお願いしたいと思っています」


 広報担当の女性が、用意された資料をめくる。


「何種類くらいを考えていますか?」


 栗原さんが尋ねると、女性は少し考えた。


「実際に使ってみないと分からないので、必要になったものをその都度お願いできればと」


 同じ素材を使うとしても、長さと画面の形が変われば、ただ切り取れば終わるわけではない。


 縦長の画面では、横にいる人物や商品が簡単に外れる。表示する文字の位置も変わる。広告を出す場所に合わせて作り直せば、本数が増えるほど時間も必要になる。


「最初に、今回の予算で作る本数だけ決めませんか?」


 僕が言うと、社長がこちらを見た。


「素材は同じなんですよね?」


「はい。ただ、同じ素材でも、使う場所に合わせたほうが商品の見え方はよくなります。最初から全部作ろうとすると、一つずつへ使える時間が減ります」


「なるほど」


「まず三十秒の映像を一本と、短いものを数本作る。公開後に別の形が必要になったら、そのとき追加で頼んでもらう。それなら、今の予算で曖昧な仕事を残さずに済みます」


 断るためではない。


 今やることと、後からでもできることを分けただけだった。


 社長は広報担当者と短く相談した後、頷いた。


「では、最初はその形でお願いします」


 映像を使う場所や、おおよその期間も確認する。


 ウェブサイトと公式SNS、動画広告、系列店舗の画面。そこから大きく用途を広げる場合は、改めて相談する。


 修正できる範囲や、撮影そのものが中止になった場合の費用についても、栗原さんが先方と話を進めた。


 細かな言葉までこの場で決める必要はない。


 ただ、何を作り、どこまで使い、誰が何を負担するのか。その輪郭だけは同じものを見ておいたほうがいい。


 一通り話し終えたところで、社長が椅子へ深く座り直した。


「撮影のことだけ考えていればいいと思っていましたが、意外と決めることが多いんですね」


「映像を作る前に、何を作るのかが決まっていないと困りますから」


「学生さんなのに、随分しっかりしてる」


「仕事として依頼していただいているので」


 社長が笑う。


「では、その内容で進めましょう」


 最初は形の曖昧だった依頼が、ようやく一つの仕事になった。


 会議室を出ると、栗原さんが長く息を吐いた。


「佐村が先に言ってくれて助かったよ」


「栗原さんも気づいてたでしょ」


「気づいてはいたけど、どこまで言うか考えてた。相手は依頼主だからな」


「後からできませんって言うより、今決めたほうが楽じゃないですか?」


「それを社長相手に普通に言えるのがすごいんだよ」


「話が通じる人だったからですよ」


「通じなかったら?」


「通じる言い方を考えます」


 栗原さんは呆れたように笑った。


 正しさだけを並べて相手を追い込んでも、仕事は進まない。


 向こうが欲しいものを残したまま、こちらができる形へ変える。そのほうが、僕にとっても都合がよかった。


 大学へ戻る途中、予算の使い道を確認する。


『僕が受け取れるのは、どのくらいになりそう?』


『現在の予定では、企画、撮影の進行、編集を含めて八万円前後です』


『三十万円の仕事でも、全部が僕の金になるわけじゃないか』


『機材、場所、出演者、衣装、音源、撮影を補助する部員への報酬が必要です』


『分かってるよ。最初に三十万円って聞いたから、少し減った気がしただけ』


『和希は三十万円を所有していません』


『そういう話じゃないんだよな』


『所有していない金額を失ったと感じる理由を説明できます』


『説明されたら、余計に損した気分になりそうだからいい』


 八万円でも、これまで受け取った映像の報酬より大きい。


 しかも、仕事が終われば広告映像を作ったという実績も残る。


 不満があるわけではない。


 最初に見えた数字が大きかったぶん、自分の取り分まで大きく見積もっていただけだ。


 二度目の打ち合わせでは、広告へ出演するモデルと顔を合わせた。


 徳山理央。二十一歳。


 ファッション誌へ何度か掲載され、企業の小さな広告や音楽映像にも出演している。SNSのフォロワーは十万人を少し超えていた。


 名前を検索すれば、撮影された写真がいくらでも出てくる。


 背が高く、手足が長い。目鼻立ちははっきりしているが、笑顔より無表情で撮られた写真のほうが印象に残る顔だった。


 本人は、写真よりさらに細く見えた。


 会議室へ入ってきた理央は、挨拶を済ませると僕の正面へ座った。


「あなたが監督?」


「企画と撮影の進行、編集を担当する佐村です」


「東大の一年なんだって?」


「はい」


「映像、見せてもらったけど、音楽のものしかなかった」


 初対面の相手へ向ける言葉としては、随分と遠慮がない。


「商品広告を作ったことはありません」


「大丈夫なの?」


「大丈夫なものを作るために、今日の打ち合わせがあります」


 理央の眉が僅かに上がった。


「自信あるんだ。失敗したらどうするの?」


「次の仕事が来なくなるでしょうね」


「怖くないの?」


「失敗しないように準備するので」


 理央は僕から視線を外さない。


 僕も逸らす理由はなかった。


「堅い人かと思ったけど、意外と生意気だね」


「まだ会ったばかりなのに、判断が早いですね」


 理央は口元だけで笑った。


 企画書と絵コンテを机へ広げる。


 今回の商品は、夏の終わりから秋口まで着られる、軽い生地を使ったジャケットだった。仕事着としても普段着としても使えることを売りにしており、映像では街中を歩く理央の姿を中心に見せる。


 理央は絵コンテを順番に見た後、中央の一枚を指で叩いた。


「この、歩きながらジャケットを羽織るところ、必要?」


「何か気になりますか?」


「よくあるから。服の広告って、みんな歩きながら上着を着るよね。風が吹いて、髪が動いて、最後にこっちを見る。これなら私じゃなくても同じじゃない?」


 依頼主が同席している前で、企画そのものへ疑問を出す。


 強気というより、自分が納得できないものに出演する気がないらしい。


『理央の指摘は?』


『類似する構成の広告は多く、映像としての識別性は低いと考えられます』


 僕も、考えていなかったわけではない。


 ただ、広告には分かりやすさも必要になる。珍しい映像を作ることが、そのまま商品を売ることにはならない。


「似た広告が多いのは事実です。でも、この映像では服の軽さを見せる必要がある」


「だったら、私じゃなくてもいいよね」


「普通に歩いて、普通に羽織るだけならそうですね」


 広報担当者の表情が固まる。


 理央は気にしていなかった。


「じゃあ、どうするの?」


「徳山さんの歩き方を見てから変えます。写真だけでは分からないので、立ってもらえますか?」


「今?」


「今見たほうが、話が早いです」


 理央は数秒だけ僕を見た後、椅子から立った。


 会議室の端まで移動し、こちらへ歩いてくる。


 モデルとして訓練しているだけあって、狭い場所でも姿勢が崩れない。一歩ごとの幅も揃っており、肩と腰の動きが小さい。


 綺麗だった。


 ただ、商品を自然に着て街を歩く人間としては、綺麗すぎる。


「もう一回。今度は、前に友人がいると思って歩いてください」


「友人?」


「待ち合わせに少し遅れて、相手を見つけたところです」


「遅刻しないけど」


「徳山さんの日常を再現する企画ではないので」


 理央が僕を睨んだ。


 広報担当者が顔を伏せ、肩を小さく揺らしている。


「あなた、誰にでもそんな言い方するの?」


「必要なら」


「そのうち嫌われるよ」


「徳山さんには、もう嫌われましたか?」


「まだ決めてない」


「なら、もう一回お願いします」


 理央は息を吐き、最初の位置へ戻った。


 二度目は歩く速度が少し速くなった。


 僕の手前で視線を上げ、知人を見つけたように表情を緩める。


 その瞬間だけ、公開されている写真のどれとも違って見えた。


「今の歩き方なら、徳山さんが出る意味があります」


「何が違ったの?」


「最初は服を綺麗に見せようとして歩いていましたが、今は歩いている人が服を着ていました」


 理央は黙って自分の席へ戻った。


 絵コンテへ視線を落とし、先ほど指摘した場面をもう一度見る。


「ここ、変える?」


「徳山さんが誰かを見つけて、少し歩く速度を上げる形にします。ジャケットは腕に持っておいて、その途中で羽織る。風は使いません」


「相手は映すの?」


「映しません。徳山さんの表情だけで、誰かがいることは伝わります」


「それなら、いいかも」


 許可をもらわなければ進められない立場ではないが、本人が納得して演じたほうが映像もよくなる。


 理央は残りの絵コンテにも遠慮なく意見を出した。


 商品の見え方より、自分が綺麗に映ることだけを優先した意見は採用しない。反対に、画面の中で理央の魅力が弱くなる部分は変更した。


 打ち合わせが終わる頃には、最初の案から三割ほどが変わっていた。


「撮影は八月に入ってからだよね」


「はい。試験が終わった最初の週末を予定しています」


「時間と場所は?」


「決まり次第共有します」


 理央は立ち上がり、鞄を肩へ掛ける。


 会議室を出る直前、僕の横で足を止めた。


「佐村さん」


「何ですか?」


「撮影では、ちゃんと私を見てて」


「そのために僕がいます」


「写真だけじゃ分からないって言ったでしょ」


「今日分かったこともありますよ」


「でも全部じゃない」


「一日で全部分かったら、すぐ撮影に入れるんですけどね」


 理央は一瞬だけ黙り、楽しそうに笑った。


「やっぱり生意気」


「撮影には遅れないでくださいね」


「遅れないよ」


 返事を残し、理央は会議室を出ていった。


『随分、自信があるね』


『過去の仕事では、徳山理央の出演後に広告への反応が向上した事例が複数確認できます。自信に対応する実績はあります』


『僕も、今日歩いてもらって理由は分かったよ』


『容姿だけではなく、指示へ対応する能力も高いと判断します』


『撮影しやすそうだね。性格は少し面倒だけど』


『和希も、相手から同様に評価されている可能性があります』


『それはお互い様か』


 今のところ、仲よくなる必要はない。仕事がしやすく、映像がよくなれば充分だ。

 ただ、もう一度会うのが嫌ではないことも事実だった。


 七月十九日から、S2タームとSセメスターの試験期間に入った。


 六月のS1試験より科目数が多く、授業へ出ているだけでは充分とは言えない。講義ごとの資料を整理し、試験までに覚えるものと、自分で考えて解くものを分けていく。


 広告の準備を止めるつもりはないが、映像を理由に大学の試験を疎かにするつもりもなかった。


『今日の予定は?』


『午前中に試験が一科目あります。終了後、広告に使用する音源候補を確認し、午後四時から二時間、明日の試験範囲を復習します』


『サークルに行く時間ある?』


『明日は試験が午後からのため、本日七時までに学習を終えれば一時間確保できます』


『睡眠時間は減らさずにね』


『通常どおり七時間確保します』


『なら、それで』


 試験前の教室には、普段とは違う緊張があった。


 亮太は机へ何枚もの資料を広げ、直前まで頁をめくっている。


「佐村、ここ出ると思う?」


「先生が授業で二回説明してたから、出てもおかしくないね」


「答えは?」


「今から全部説明すると、ほかのところを忘れると思うよ」


「一行で」


「現象が起きる順番だけ覚えておけば、後は問題文から考えられる」


「その考える部分を教えてほしいんだけど」


「試験開始まで五分しかないよ」


「昨日聞けばよかった」


「そういえば、昨日の益井はまだ大丈夫って言ってたね」


「昨日の俺を殴りたい」


 玲奈は亮太の向こうで、自分のノートを閉じた。


「益井君、今から新しいことを覚えるより、知ってるところを見たほうがいいよ」


「生沢まで佐村みたいなこと言い始めた」


「正しいからね」


「二人とも余裕そうで腹立つな」


「余裕があるように見せてるだけかもよ」


「佐村君は、本当に余裕ありそうだけど」


「準備したからね」


「簡単そうに聞こえるなあ」


 試験が始まる。


 ジンは何も答えない。


 問題文を読み、自分で考え、答えを書く。


 知識を覚える段階では、ジンから最も効率のいい方法を教わることができる。理解できていない場所も、こちらが納得するまで別の説明へ変えてもらえる。


 それでも試験会場で答案を作るのは僕だ。


 以前なら難しいと感じたかもしれない問題も、何を問われているのかを分ければ、手が止まるほどではない。


 時間を余らせ、最初から見直す。


 答えを変えたのは一か所だけだった。


 試験が終わると、亮太が机へ突っ伏した。


「終わった」


「まだ試験は残ってるよ」


「今の試験について言ってるんだよ」


「どうだった?」


「佐村に聞いたところは出なかった」


「よかったね」


「ほかのところが出た」


「残念だったね」


「もう少し感情を込めてくれない?」


「結果が出るまでは分からないよ」


「佐村君、益井君で遊んでない?」



 そんな日が続いた。


 試験を一つ終えるたび、広告の準備を少し進める。


 撮影場所の許可を確認し、理央が着る服を画面で見て、カメラを置く位置を考える。翌日に試験があれば、時間を区切って大学の勉強へ戻った。


 投資も、完全に止めたわけではない。


 ただ、以前のように一つの取引を何度も確認することは減っていた。


 ジンが条件に合う機会を見つけたときだけ内容を聞き、納得できれば注文を出す。売るべき条件へ届けば売り、判断が変わる情報が出れば手放す。


 試験と広告の準備を進めた三週間で、二社への投資から手数料を差し引いて二万三千円ほど増えた。


 前回の取引を終えた時点で十五万六千円ほどだった資金は、十八万円を僅かに超えている。


『思ったより増えてないな』


『三週間で約十五パーセント増加しています』


『最初に大きく増えた取引を基準にすると、十五パーセントでも少なく見えるんだね』


『高い利益率を基準にすると、取引条件を緩める原因になります』


『今、三割増やせそうなものは?』


『ありません』


『即答だな』


『存在しない候補を提示する必要はありません』


 資金が増えても、ジンは景気のいい取引を作ってはくれない。


 見つからない日は何も買わず、条件が揃ったときだけ金を動かす。僕が退屈に感じていても、株価は上がってくれないのだ。


 そしてフランスへ行くには、まだ足りない。


 旅行費用だけでなく、現地で何をするかまで考えれば、必要な金は増えていく。


『旅行までに、いくら必要だと思う?』


『フランスへの渡航費と滞在費は、日程と宿泊条件によって変動します。カジノで使用する資金を含める場合は、旅行費用と完全に分けるべきです』


『負けても帰れる金は残せってことだろ』


『はい。加えて、大学生活のための予備資金も必要です』


『十八万円を全部持っていくのは?』


『推奨しません』


『十万円』


『旅行費用を別に確保できた場合でも、現在の資産に対して賭け金が大きすぎます』


『五万円』


『全額を失っても生活へ影響しないのであれば、現実的な上限に近い金額です』


 モンテカルロのテーブルによるが、長く遊べる額ではなさそうだ。


『もっと欲しいな』


『広告映像の報酬は、納品後に支払われる予定です』


『八万円が入れば、少し余裕ができる』


『旅行前に支払われるとは限りません』


『なら、先に出発日を決めるべきか』


『はい』


『ジンに先に言われると、僕が思いついた感じがしないな』


『実際には私が先に提案しました』


『そこは譲らないんだね』


『事実なので』


 フランスへ行くという思いつきが、少しずつ予定へ変わり始めていた。


 試験期間中の週末、実家へ戻った。


 夕食を終えた後、父へ旅券申請書を差し出す。


「ここに署名してほしい」


「何の書類だ?」


「パスポート」


 父の手が止まった。


「本当にフランスへ行くのか?」


「まだ予約はしてない。でも、行けるようにはしておきたい」


「一人でか?」


「今のところはね」


「大学に入って三か月で海外旅行とは、随分余裕があるな」


「試験はちゃんと受けてるよ。旅行も夏休みに入ってから」


「費用はどうする?」


「投資で増やした金と、映像の仕事で入る金を使う。足りなければ延期するつもり」


 カジノについては言わなかった。


 嘘をついたわけではない。フランスへ行きたい理由のすべてを説明しなかっただけだ。


 父は旅券申請書へ目を戻した。


「投資の口座、最近確認していなかったな。今いくらある?」


「十八万円くらい」


「最初は八万円だったな」


「うん」


「随分増えたな」


「損を出した取引もあるよ。毎回増えてるわけじゃない」


「だから安心しろと言われても、普通は安心できない増え方だけどな」


 父は苦笑しながら、法定代理人署名欄へ名前を書いた。


「海外へ行くこと自体は反対しない。ただ、行き先と泊まる場所は必ず知らせなさい。十八歳なら一人で何でもできると思うかもしれないが、知らない国では、知識だけで避けられないこともある」


「分かってる。日程が決まったら全部渡すよ」


「母さんにも自分で説明しろよ」


「父さんから話しておいてくれない?」


「そこまで代わりにやってやる署名じゃないんだ」


「やっぱり駄目か」


 母からも似たような質問を一通り受けた。


 宿泊先や日程を決めてから改めて伝えることで、最後は納得してもらう。


 翌週、試験を一つ終えた後に旅券の申請を済ませた。


 受け取れるのは一週間ほど先になる。


 申請窓口を出て、駅へ向かいながらジンへ話しかける。


『英語は、旅行で困らないくらい話せると思う?』


『現在の和希は、文章の読解と聞き取りに大きな問題はありません。ただし、自分から話す際に、文法的に正しい表現を選ぼうとして返答が遅れる傾向があります』


『受験英語の癖かな』


『正確さを重視する学習を続けてきた影響は考えられます』


『直せる?』


『今から英語で会話しますか?』


『歩きながら声に出したら、独り言だと思われるよね』


『はい』


『部屋へ帰ってからにしよう』


『適切です』


 帰宅後は、毎日三十分だけ英語で話すことにした。


 ジンが英語で質問し、僕も声に出して英語で答える。言葉に詰まっても日本語へ戻らず、知っている単語だけで意味を伝える。


 話し終えた後で、文法や発音の誤りをまとめて直された。


 フランス語は、店や駅で使う会話を中心に覚えていく。


 大学の授業より進む速度は速いが、英語のように自由に話せる段階には遠い。


『カジノでは英語でいいんだよね?』


『モンテカルロの主要なカジノでは、英語で対応できる可能性が高いと判断します。ただし、同じテーブルにいる客同士の会話は、フランス語に限りません』


『全部分かる?』


『私には理解できます。和希へ伝えることも可能です』


『外国語で相談されても、僕だけ内容が分かるわけか』


『聞こえる範囲で話している内容に限ります』


『充分だよ。ポーカーで使われたら嫌だけど』


『対戦相手が公開された場で自発的に話した情報を理解することは、不正なアクセスには該当しません』


『そこを気にしたわけじゃない』


 ジンは、僕が良心の呵責に悩んでいると判断したらしい。

 試験会場で答えを聞いた僕が、隣にいる客の会話を理解する程度で立ち止まるはずもない。



 七月最後の試験を終えた。


 教室を出ると、亮太が両腕を上へ伸ばす。


「終わった!」


「今度は全部?」


「全部。もう九月まで勉強しない」


「夏休み中の課題は?」


「今は現実の話をしないでくれ」


 玲奈も、僕たちの後ろから教室を出てきた。


「佐村君は、これから撮影の準備?」


「明日は機材の確認。撮影は週末」


「試験が終わってすぐ仕事なんだ」


「玲奈は?」


「しばらく何もしない。映画を見て、寝る」


「それもいいね」


「佐村君も少しくらい休めば?」


「撮影が終わったら休むよ」


「フランスへ行くんじゃないの?」


「よく覚えてるね」


「佐村君が話したんでしょ」



 試験は終わった。


 広告を完成させれば八万円ほどの報酬が入り、旅券も間もなく受け取れる。


 旅行の金はまだ充分ではないが、出発までにすべて揃っていなければならないわけでもない。


 まずは、目の前の仕事を終わらせる。


 広告の撮影は、八月に入って最初の週末に行われた。


 早朝から都内の路地を借り、通勤する人が増える前に屋外の場面を撮る。


 徳山理央は、集合時刻の十五分前に現れた。


「おはようございます」


「おはようございます。今日は早いですね」


「代わりのモデルを探されると困るから来たの」


「そんなこと思ってたんですか?」


「佐村さんなら、やりそう」


「遅れなければ探しませんよ」


「なら問題ないでしょ」


 理央は不機嫌そうに言ったが、撮影用の化粧を済ませ、衣装も自分の身体へ合うよう事前に調整していた。

 強気なだけで、仕事は雑ではない。


 撮影を始める。


 理央は絵コンテの動きを一度説明すれば、次から正確に再現した。立ち位置を数センチ変えても、身体の向きと目線を覚えている。


 一方で、自分が納得できなければ、その場で意見を出した。


「今の撮り方だと、ジャケットより鞄のほうが目立たない?」


「動いた瞬間だけです。最後は服へ視線が戻ります」


「本当に?」


「確認しますか?」


 撮影した映像を見せる。


 理央はモニターを見つめ、二度確認してから僕へ顔を向けた。


「分かった。次は?」


「今の動きをもう一度。次は最後に笑わないでください」


「広告なのに?」


「徳山さんは、笑わないほうが目を引くので」


「笑顔が似合わないってこと?」


「笑わなくても見てもらえるという意味です」


「物は言いようね」


「褒め言葉ですよ」


「最初からそう言えばいいのに」


 撮影は予定より早く進んだ。


 理央はカメラを向ければ、すぐに画面の中へ入る。


 普段の彼女が消えるわけではない。


 同じ顔と身体のまま、商品の見せ方に合わせて立ち方と視線を変えていく。


 写真だけでは分からないと言った理由が、少しずつ理解できた。


 最後に、打ち合わせで変更した場面を撮る。


 理央には、待ち合わせ相手を見つけたつもりで歩いてもらう。視線を上げた瞬間だけ表情を変え、そのままジャケットへ腕を通す。


 一度目は綺麗だった。


 ただ、待っている相手を見つけたというより、カメラの位置を確認したように見える。


「もう一度お願いします」


「今の、失敗してないと思うけど」


「失敗ではありません。でも、欲しい表情ではなかったです」


「どう違うの?」


「徳山さんが、相手に会いたかったように見えない」


 理央の目が細くなる。


「会いたくない相手だと思って歩いたから」


「僕でも想像しました?」


「さあ」


「誰でもいいですよ。今は、会えて嬉しい相手を思い浮かべてください」


「監督が生意気だと集中できない」


「画面には僕の生意気さは映りません。徳山さんの機嫌が悪いことだけ残ります」


 周囲のスタッフが笑う。


 理央は僕を睨んでから、最初の位置へ戻った。


 二度目。


 理央の歩く速度が上がる。


 こちらを見つけた瞬間、目元から力が抜けた。笑顔になる直前で表情を止め、そのままジャケットを羽織る。


「はい。終わりです」


「今のでいいの?」


「使います」


「誰を想像したか聞かないんだ」


「聞いたら、映像がよくなりますか?」


「ならない」


「では、必要ありません」


「可愛くない」


 理央がこちらへ歩いてくる。


 表情は不満そうだが、撮り直しを求めることはなかった。


「映像、いつ見られる?」


「初稿は一週間後です。会社を通して共有します」


「私にも直接送って」


「事務所と会社の許可が取れればいいですよ」


「堅い」


「まだ仕事中ですから」


「もう撮り終わったでしょ」


「素材を撮り終えただけです。僕の仕事はこれからですよ」


 理央は何か言い返そうとして、やめた。


 ほかのスタッフが撤収を進める中、僕も機材をまとめる。


 一通り片づけて立ち上がると、少し離れた場所で理央が待っていた。


「どうしました?」


「佐村さん、今日これから編集するの?」


「素材の確認までします」


「その後は?」


「予定はありませんけど」


「じゃあ、夜は空いてるんだ」


 理央は自分のスマートフォンを取り出した。


「連絡先、教えて」


「映像のことなら、会社か事務所を通してください」


「仕事の話じゃない」


「さっきまで仕事をしてましたよね」


「今は終わった」


 僕はまだ終わっていない。


 だが、それを説明しても理央が納得するとは思えなかった。


「何の用ですか?」


「まだ決めてない。食事かもしれないし、それ以外かもしれない」


「なんか曖昧ですね」


「契約書が必要?」


「必要なら作りましょうか?」


 理央が初めて、声を出して笑った。


「本当に生意気」


「徳山さんに言われたくないですね」


「理央でいい。仕事じゃないときに徳山さんって呼ばれるの、好きじゃないから」


「分かりました」


「連絡先は?」


 僕はスマートフォンを取り出した。


 理央が差し出した画面へ、自分の連絡先を入力する。


「和希君っていうんだ」


「今さら名前を知ったんですか?」


「資料には書いてあったと思うけど、ちゃんと見てなかった」


「よくそれで生意気だと言えましたね」


「それは名前を知らなくても分かるでしょ」


 理央は僕の連絡先を登録し、自分の名前を送ってきた。


《徳山理央。消したら殴る》


 目の前にいるのに、メッセージまで強気だった。


「あとで連絡する」


「内容によっては断りますよ」


「断りにくい内容を考えるから大丈夫」


 そう言い残し、理央は迎えの車へ向かった。撮影中より僅かに楽しそうな足取りだった。


『強いね』


『自分の希望を明確に伝える傾向があります』


『高飛車って言うんだよ、ああいうのは』


『和希は不快でしたか?』


『別に。嫌なら連絡先を教えてないよ』


『では、問題ありません』


 スマートフォンには、理央から届いた名前が残っている。


 撮影した映像の確認も必要だった。


 だが、その前に一つだけ返信する。


《予定できちゃったかもしれません》


 数秒で既読がついた。


《空けさせるから同じでしょ》


 すぐに続けて、もう一件。


《編集終わったら連絡して》


『……少し急いで編集するか』


『素材の確認速度を上げることで、精度が低下する可能性があります』


『冗談だよ』


『和希の脈拍が僅かに上昇しています』


『そういうところまで確認しなくていい』


『共有されている情報を回答しました』


 スマートフォンを鞄へ入れ、機材を運ぶ。


 試験は終わった。


 旅券も間もなく受け取れる。


 広告を完成させれば、これまでで一番大きな報酬が入る。


 その前に、今日撮った徳山理央を、映像の中で一番魅力的に見せる必要があった。


 仕事が終わった後に何が起きるのかは、その時考えよう。



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