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頭の中の最強AI ──金も女も、そして世界も手に入れる──  作者: 橙色
東京大学一年生編

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21話 フランスでも行ってこようかな





 公開から二週間が過ぎても、ミュージックビデオの再生回数は増え続けていた。


 一日ごとの伸びは緩やかになったものの、すでに八万回を超えている。


 曲の配信ページでも再生数が増え、以前に公開されたライブ映像まで見られるようになった。


 日菜たちのバンドには、これまでより規模の大きいライブイベントから出演依頼が届いている。


 音楽を扱う小さなウェブメディアからは、結成の経緯や今後の活動について取材したいという連絡も来ているらしい。


《今度のライブ、客席が今までの三倍くらいある》


 日菜から送られてきたメッセージには、会場の写真が添えられていた。


《埋まりそう?》


《分からない。今から緊張してる》


《前のライブも日菜が歌い始めたら全員見てたよ》


《撮影しながらそんなところまで見てたの?》


《見てた》


《じゃあ今回も見に来て》


《撮影なしで?》


《うん。お客さんとして》


 日菜が出演するライブへ、仕事ではなく見に行く。


 日程を確認すると、今のところ予定は入っていなかった。


《空けておくよ》


《約束ね》


《終わった後は?》


《それは、ライブが終わってから考える》


 この言い方であれば、最終的には僕の部屋へ来ることになるだろう。


『予定に入れておいて』


『登録しました』


『チケットは?』


『一般販売が開始されています。現在の販売状況では、売り切れる可能性は高くありません』


『じゃあ自分で買うか』


『購入ページを表示します』


 スマートフォンに開かれたページから、一枚分のチケットを購入する。


 これまで撮影した映像が、客席へ人を運ぶ。

 その中の一人に、自分が加わることになった。


 玲奈との関係も、大学の中ではほとんど変わらなかった。


 六月十二日に十九歳になったときは、亮太たちと学食で小さなケーキを分け、僕からは以前欲しいと話していた映画のブルーレイを贈った。

 それ以外の日は、講義があれば近くへ座り、空き時間には一緒に食事をする。

 サークルでは、公開した映像への反応をまとめ、次の制作に使えそうな意見を選んだ。


 身体を重ねたことを理由に、呼び方が変わることもない。


 僕が玲奈へ連絡したのは、サークルの作業を終えた日の夕方だった。


《この後、時間ある?》


 同じ部室にいるのだから、直接尋ねてもよかった。


 ただ、周囲には栗原さんを含めて何人か残っている。


 向かいの席にいる玲奈が、机の下でスマートフォンを確認した。


《あるけど》


《少し付き合って》


 玲奈は画面から僕へ視線を移し、何も言わずに口元を緩めた。


《どこに?》


《ここでは言わない》


《もう分かった》


 作業を終えて大学を出る。


 僕が自宅とは反対の方向へ歩き始めると、隣にいた玲奈が尋ねた。


「今日は、佐村君の部屋じゃないんだ」


「たまには場所を変えようかなって」


「わざわざ遠くへ行くの?」


「電車で少しだけ。嫌なら、僕の部屋でもいいよ」


「嫌じゃない。どこへ連れていかれるのかと思っただけ」


 二人で駅へ向かい、普段は使わない路線の電車へ乗った。


 今日は玲奈と食事をしたいわけでも、映像について話したいわけでもない。


 そのことは、行き先を告げなくても玲奈には伝わっているようだった。


 降りたのは、大学から数駅離れた場所だった。


 駅前には飲食店や商業施設が並び、その裏手へ入ると、通りを歩く人の数が急に減る。


 ホテルの入口が見えても、玲奈の歩みは止まらなかった。


 受付を済ませ、エレベーターへ乗る。


 扉が閉まると、鏡へ映った僕たちの姿を見ながら、玲奈が尋ねた。


「慣れてるね」


「受付しただけでしょ」


「店を選ぶのも早かった」


「入ってから後悔したくないから、先に調べた」


「こういう場所まで調べるんだ」


「部屋が汚かったら嫌じゃない?」


「嫌だけど。もっと勢いで来るものかと思ってた」


「勢いで変な部屋に入る必要はないよ」


 客室へ入り、扉が閉まる。


 玲奈は鞄を置くと、室内を一通り見回した。


「本当に綺麗」


「疑ってた?」


「少し」


「なら、選んだ甲斐があったかな」


「でも、これからすることは変わらないよね」


「変えたい?」


 正面から抱き寄せて尋ねる。


 玲奈は顔を赤くしながらも、僕の胸へ頬を寄せた。


「変えたくない」


『ジン。共有を切って』


『視覚と聴覚の共有を停止します』


「シャワー、浴びる?」


 訊いた時点で、答えは決まっている。


「……意地悪。わたしに言わせるの?」


 答えないでいると、玲奈のほうから唇を重ねてきた。


 シャワーも浴びず、ソファに座りもせず、部屋の真ん中で立ったまま、長い時間そうしていた。荷物は玄関に置いたままだ。座ってしまえば会話が始まる。玲奈はそれを避けている。いや、避けさせているのはたぶん僕のほうだ。


「玲奈」


「……なぁに」


 語尾が溶けている。キスをして、呼んだだけでこうなることはよく分かっていた。


 唇を離す。それだけで玲奈が追いかけてきそうになるのを、右手で頭を撫でて止める。撫でながら、ほんの少しだけ、下へ体重を乗せた。


「わかるよね」


 玲奈の目が開く。理解していない目ではない。理解したくなかった、という目だ。


 髪を掴み、軽く引っ張った。少し上を向いた頬に添えた親指を、そのまま唇の隙間へ滑り込ませると、玲奈の喉が小さく鳴った。閉じることも、押し返すこともしない。舌の熱が指の腹に伝わってくる。


「できる?」


 しばらくして、玲奈が小さく頷いた。


 膝が折れる。絨毯に沈む音は、ほとんどしなかった。


 


 ホテルを出たときには、夜の九時を過ぎていた。


 来たときと同じ駅まで一緒に歩き、改札の前で足を止める。


「次も、こういう感じ?」


「玲奈が嫌じゃなければ」


「嫌じゃない」


「なら、また誘う」


「わたしからでもいい?」


「もちろん」


「分かった」


 玲奈が利用する路線は、僕とは反対側だった。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日」


 別々の改札へ入り、違う電車に乗る。


 自宅の最寄り駅へ着く前に、玲奈からメッセージが届いた。


《明日の資料、忘れないでね》


《玲奈が持ってるんじゃなかった?》


《一部は佐村君だよ》


《帰ったら確認する》


《あと、今日はありがとう》


《こちらこそ》


 そこから会話を引き延ばすこともなく、翌日は大学で普段どおり顔を合わせた。


 ミュージックビデオの制作で受け取った一万五千円は、封筒へ入れたまま机の引き出しに残していた。


 投資へ加えることも考えたが、その前に一度、自分の手で稼いだ金として使ってみたかった。


 週末、久しぶりに実家へ帰る。


 玄関の扉を開けると、美咲が階段を下りてくるところだった。


「おにい、帰ってくるって聞いてなかったけど」


「母さんには伝えたよ」


「お土産は?」


「今日はない。代わりに夕食を奢る」


「誰に?」


「家族全員」


「おにいが?」


「そんなに驚くこと?」


「大学生って、お金ないんじゃないの?」


「少し働いたからね」


「何の仕事?」


「映像を作ったんだよ」


 美咲には、それだけでは分からなかったらしい。

 僕の鞄へ視線を向けたまま、後ろをついてくる。


 居間へ入ると、母が台所から顔を出した。


「おかえり。思っていたより早かったのね」


「ただいま。父さんと姉さんは?」


「お父さんは夕方には帰るって。彩香はアルバイトだけど、夕食には間に合うと思う」


「全員揃うなら、外で食べない?」


「あら、珍しい。何か食べたいものでもあるの?」


「今日は僕が払うよ。大学へ入って、最初に仕事で稼いだ金が入ったから」


 母は嬉しそうな顔をした後、すぐに首を横へ振った。


「初めてのお金なら、自分のために使いなさい。大学で必要なものもあるでしょう?」


「必要なものは揃ってるよ。それに、全部使うわけじゃない」


「いくら入ったの?」


「一万五千円」


「それで五人分を払うの?」


「足りなければ足すよ」


 美咲が横から口を挟む。


「焼肉がいい」


「美咲は少し遠慮してくれる?」


「奢るって言ったの、おにいでしょ?」


「値段を見ずに食べていいとは言ってない」


「まだ何も頼んでないのに」


 夕方、帰宅した父と彩香にも同じ話をした。


 父の反応は母とほとんど同じだった。


「仕事で稼いだなら、貯めておきなさい。学生が親へ食事を奢るのは、もう少し後でいい」


「今日奢りたいんだよ。次の仕事でも同じだけ入るとは限らないし、最初の報酬は一回しかないだろ」


「それはそうだが」


「和希が払いたいって言ってるんだから、払わせたら?」


 彩香が僕の側についた。


「ご馳走してもらうのも、家族の仕事だよ」


「姉さんは、人の金で食べたいだけじゃない?」


「それもある」


 最後は父も折れ、近所にある焼肉店へ行くことになった。


 高級店ではないが、家族で来るのは久しぶりだった。


 席へ着くと、美咲がすぐに一番高い盛り合わせを見つける。


「これ頼んでいい?」


「美咲が払うならいいよ」


「奢る気ないじゃん」


「普通の盛り合わせでも肉は食べられるしな」


「高いほうが美味しいかもしれないでしょ」


「美咲が払うだけの価値があるか確かめてみる?」


「普通のでいい」


 料理を注文し、五人で食べ始める。


 大学の講義、サークル、一人暮らし。

 実家を出てから起きたことを、話せる範囲で答えていく。


「それで、どんな映像を作ったの?」


 彩香に尋ねられ、公開されているミュージックビデオをスマートフォンで見せた。


 五人で一つの画面を見るには小さいため、帰宅してからテレビへ映すことになる。


 それでも美咲は、日菜が映ったところで画面を止めた。


「この人、綺麗」


「勝手に止めないでよ」


「おにいの知り合い?」


「撮影したバンドのボーカル」


「名前は?」


「小作日菜」


「名前まで普通に知ってるんだ」


「仕事で何日も会ってるからね」


 彩香が、僕の顔を見ながら尋ねる。


「付き合ってる?」


「付き合ってないよ」


「本当に?」


「付き合ってたら、そう言うよ」


 嘘はついていない。


 付き合っていないという説明の中に、どこまでの関係が含まれるかを、家族へ詳しく話す必要はなかった。


「東大に入って、綺麗な女の人の映像を撮って、お金まで貰ったんだ」


 美咲が感心したように言う。


「まあ、大体合ってる」


「大学生って楽しそう」


「美咲も二年後に行けばいいよ」


「おにいと同じ大学は無理」


「同じじゃなくても、行きたいところを選べばいいだろ。選択肢を増やすためにも、早いうちに勉強しておくんだよ」


「急に志望校を東大に変えて、それでも受かった人に言われても説得力ない」


 反論しにくい。


 会計は一万七千円を少し超えた。

 封筒に入れてきた金に、自分の財布から不足分を足す。


 父が横から財布を出そうとしたが、先に僕が支払った。


「本当に払ったな」


「払うって言っただろ」


「ごちそうさま。次は、お父さんが出すよ」


「それは期待してる」


「そこは遠慮しないんだな」


「今日は僕の番だっただけだからね」


 店を出た後、母が僕の隣へ並んだ。


「ありがとう。美味しかった」


「僕も食べたかったから、ちょうどよかったよ」


「でも、お母さんは嬉しかった」


 その言葉を聞けたなら、この使い方でよかったと思う。


 家へ戻り、今度はテレビでミュージックビデオを再生する。


 父は撮影場所について尋ね、母は日菜の衣装を褒めた。美咲は曲を気に入ったようで、終わった後にもう一度再生している。


「本当に和希が作ったの?」


 父が尋ねた。


「全部一人ではないよ。サークルで撮影して、僕が企画と編集の中心を担当した」


「大学へ入って、まだ二か月くらいだろ?」


「教えてくれる人もいるからね」


「勉強は大丈夫なのか?」


「今のところ問題ない」


「ならいい。ただ、いろいろ始めすぎて無理はするな」


「気をつける」


 父の心配は、センター試験前からほとんど変わらない。


 ただ、志望校を変えた頃と違い、今は僕が何かを始めること自体には驚かなくなっていた。


 その夜は、以前使っていた自分の部屋で眠った。

 机と本棚は残っているものの、参考書の大半は東京へ持っていったため、部屋は以前より広く見える。



 翌朝、朝食を食べていると、父から夏休みの予定を聞かれた。


「大学の夏休みは長いんだろ。こっちへ帰ってくるのか?」


「まだ決めてない。何日かは帰ると思うけど」


「大学生のうちにしかできないこともあるから、ずっと家にいる必要はないぞ」


「お父さん、和希が帰ってこないと寂しいんじゃないの?」


 母が笑う。


「そういう話じゃない。まとまった時間があるなら、旅行でも何でもできるという意味だ」


「旅行か」


「友達と行ってもいいし、一人でもいい。社会人になると、何週間も自由に使えることは少ないからな」


 美咲がパンを齧りながら言う。


「海外に行けば? おにい、英語できるんでしょ」


「英語が話せたらよく言われるやつね」


「日本じゃ使う機会ないじゃん。海外で英語を喋れたら格好よくない?」


「日本で急に英語を話し始めるほうが格好いいだろ」


「それ、中二病ってやつ?」


「否定はしない」


 海外へ行った経験はない。


 家族旅行はすべて国内で、修学旅行も日本の中だった。


 飛行機に乗り、知らない国へ一人で行く。


 言葉や移動の不安は、ジンがいれば大きな問題にはならない。店やホテルだけでなく、現地で避けたほうがいい場所も事前に確認できる。


『夏に海外へ行くとしたら、候補は?』


『目的によって異なります。観光、語学、文化、費用、気候など、優先する条件を指定してください』


『初めてだから、海外へ来た実感が欲しい。英語かフランス語を使えて、一人でも動きやすいところ』


『候補として、フランス、イギリス、カナダ、シンガポールなどが挙げられます』


『大学でフランス語を勉強してるし、フランスかな』


『現時点のフランス語能力でも、基本的な意思疎通は可能です。旅行まで学習を続ければ、会話できる範囲を広げられます』


「和希、聞いてる?」


 父の声で、家族との会話へ意識を戻す。


「聞いてるよ。フランスでも行ってこようかなって考えてた」


「もう行き先まで決めたのか?」


「今思いついただけ。大学でフランス語を取ってるから、実際に使ってみるのも面白そうだなって」


「一人で行くの?」


「行くなら、そのつもり」


 母の表情へ、すぐに心配が浮かんだ。


「海外に一人で大丈夫なの?」


「調べてから決めるよ。危険な地域へ行くつもりもないし、毎日連絡する」


「費用は?」


「自分で出す」


「映像の報酬だけでは足りないだろう」


 父には、投資を続けていることも話している。


 取引履歴を確認できるという最初の約束は、今も守っていた。


「投資の金も順調に増えてる。まだ海外旅行へ行けるほどではないけど、夏まで時間もあるから」


「旅行のために、危ない取引をするんじゃないぞ」


「しないよ。行ける金が用意できなければ、時期を変える」


 父は少し考えた後、頷いた。


「本当に行くなら、早めに話しなさい。和希はまだ未成年だから、必要な手続きもあるだろう」


「分かった」


 この時点では、フランスへ行くと決めたわけではない。


 ただ、夏休みの選択肢へ、初めて海外が加わった。


 東京へ戻った翌日、証券口座の資金から十二万円ほどを使い、京浜宿泊開発という会社の株を購入した。


 都市部で宿泊料金を抑えたホテルを運営する企業だ。


 ジンは、複数の予約サイトに公開されている空室数と価格の変化から、会社が次に発表する月次の客室稼働率を推測していた。


『会社の予想より高い?』


『はい。運営する全施設を対象に、予約可能な客室数と販売停止の状況を継続的に確認した結果、前年同月を六・八ポイント上回ると推定します』


『予約サイトに出してない部屋もあるよね』


『あります。過去の月次実績と、各施設が公開する総客室数を用いて補正しています。周辺イベントや航空便の予約動向も考慮しました』


『外れるとしたら?』


『改修や団体予約のため、通常とは異なる方法で販売を停止している場合です』


『それでも買う価値はある?』


『現在の価格であれば、期待利益が損失リスクを上回ると判断します』


 一株千二百十四円で百株。


 購入金額は十二万一千四百円。


 残る資金は、二万円弱だった。


 注文が成立した後も、株価は数日間ほとんど動かなかった。



 七月五日。


 S1タームの成績表を確認できるようになった。


 昼休み、玲奈と亮太と一緒に、大学の端末から自分の成績を表示する。


 数理科学基礎、優上。


 物性化学、優上。


 生命科学、優上。


 優上は、九十点以上に相当する最上位の評価だった。


 試験を受けた時点で、大きな間違いはないと思っていた。


 それでも、三科目へ同じ文字が並んでいるのを見ると、予想とは違う実感がある。


「全部、優上?」


 玲奈が僕の画面を見た。


「うん」


「一つくらい、わたしたちに残してくれてもよくない?」


「玲奈も生命科学は優上だっただろ」


「佐村君は三つあるでしょ」


「勉強した結果だから譲れないね」


「分かってるけど、言いたくなっただけ」


 玲奈の成績は、生命科学が優上。数理科学基礎と物性化学が優だった。


 優でも、充分に高い評価になる。


「玲奈のまとめがなかったら、生命科学で一つ取り違えてたかもしれない」


「本当?」


「試験中に、玲奈が作った図を思い出したよ」


「それなら、少しはわたしのおかげだね」


「かなり助かった」


 玲奈は満足したらしく、自分の成績表をもう一度見た。


 亮太は物性化学が優上。数理科学基礎と生命科学が優だった。


「俺、数学も優だった」


「よかったじゃん」


「試験前は単位があればいいと思ってたのに、成績を見ると、優上が欲しくなるな」


「次頑張ればいいでしょ」


「簡単に言うなあ」


「益井の化学の説明も分かりやすかった。僕も助かったよ」


「佐村に教えること、あった?」


「温度が変わったときの話。式より先に何が起きるか説明してくれただろ」


「あれか。俺、計算よりそっちのほうが好きだから」


「得意なところが違ってよかったね」


 玲奈が三人分の画面を見る。


 全員、単位を落としている科目はない。

 同じ範囲を勉強しても、理解しやすい場所はそれぞれ違っていた。


 行きたい学部は、まだ決めていない。


 その状態で、最初の三科目から選択肢を狭めずに済んだ。


『成績を記録しました』


『次も全部、優上にできる?』


『現在の学習状況を維持すれば可能性はあります。ただし、Sセメスター試験では科目数が増加します』


『なら、試験前に慌てなくていいようにしておこう』


『承知しました』


 成績表を閉じる。


 午後には、普段どおり講義があった。


 京浜宿泊開発が月次実績を発表したのは、購入から十日ほど後だった。


 客室稼働率は、ジンの推定と〇・三ポイントしか違わなかった。


 発表翌日から株価が上がり、千三百六十八円で百株を売却する。


 利益は、手数料を考慮する前で一万五千四百円。


 証券口座の資金は、十五万六千円ほどになった。


『一人でフランスへ行くなら、いくら必要?』


『滞在期間を指定してください』


『一週間から十日』


『航空券、宿泊費、現地交通費、食費を含め、費用を抑えても二十五万円から三十五万円程度を見込む必要があります』


『今の倍か』


『余裕を持つ場合は、それ以上を推奨します』


 旅行へ使えば、帰国後に投資へ回す金がほとんど残らない。


 旅行費用とは別に、ある程度の資金を持っていたかった。


 夏休みまで三週間ほど。


 投資だけで急いで増やせば、条件の悪い取引へ手を出すことになる。


 映像制作の仕事を増やしても、報酬が入るまでには時間がかかる。


 まずは、すでに届いている次の依頼を確実に進めるべきだ。


 ミュージックビデオを見て連絡してきたアパレル会社から、具体的な条件が届いた。


 若者向けに販売する秋物の服を、短い映像で紹介したい。


 完成した動画は、会社のウェブサイトや店舗内の画面、動画投稿サイトの広告に使用する予定だという。


 提示された予算は三十万円。


 前回のミュージックビデオより大きい。


「金額だけじゃなく、使われ方も違うな」


 部室に集まった部員を前に、栗原さんが資料を開く。


「会社の広告として出すなら、何となく撮って渡すわけにはいかない。完成後にどこで使うのか、修正を何回まで受けるのかも、最初に決めておく必要がある」


「音楽は、向こうが用意するんですか?」


 玲奈が尋ねる。


「候補はあるらしい。広告に使っていいものかは確認する」


「出演者との取り決めも必要ですね」


「そうだな。会社のサイトだけでなく、別の広告にも出すなら、本人が許可した範囲をはっきりさせないといけない」


 栗原さんが資料へ書き足していく。


「佐村は何かあるか?」


「完成後に、会社側で別の長さへ切り直していいのか決めたいです。修正も、映像を少し直すものと、撮り直しが必要なものは分けたほうがいいと思います」


「そこも入れておこう」


 会社が相手になっても、映像を作ること自体は変わらない。


 ただ、十二万円のミュージックビデオと同じ感覚では進められなかった。


 何を撮るかだけでなく、完成したものがどこで、どのように使われるのかまで決める必要がある。


「出演する人は?」


「会社側が、モデルを一人用意する。詳しい情報は契約が決まってから送るそうだ」


 資料には、若い女性モデルを予定しているとだけ書かれている。


「佐村。この仕事もやるか?」


「やりたいです」


「今回は映像以外の面倒なことも増えるぞ」


「そこも知っておきたいです」


「分かった。先方との打ち合わせにも入ってもらう」


 企画を考える前に、契約と条件を整える。


 面白い部分だけを選べる仕事ではない。

 だからこそ、今のうちに一度経験しておく価値があった。


 部室を出た後、玲奈と駅まで歩く。


「また忙しくなりそうだね」


「夏休みまでには、撮影の準備を進めたいな」


「何か予定あるの?」


「まだ決めてないけど、海外へ行くのも面白そうだと思ってる」


「海外?」


「フランスを考えてる」


「一人で?」


「そのつもり」


「本当に、思いついたらすぐ動くんだね」


「まだ思いついただけだよ。金も足りない」


「大学生らしく、貧乏旅行にすれば?」


「行くなら、金がないことを理由に我慢したくないでしょ」


「贅沢だなあ」


「玲奈は、夏休みに何かするの?」


「友達と旅行へ行く話はあるよ。国内だけど」


「いいじゃん」


「佐村君がフランスって言った後だと、近く聞こえる」


「距離で決めるものでもないだろ」


「そうだけど。海外へ一人で行くって、怖くない?」


「今のところは、楽しみなほうが大きいかな」


 玲奈と駅で別れ、自分の部屋へ戻る。


 パソコンを開き、フランスで行ける場所を調べた。


 パリを中心に、美術館、歴史的な建物、映画や服に関係する場所がいくつもある。


 南へ移動すれば、地中海沿岸の都市もあった。


 その中で、モナコという名前が出てくる。


『モナコは、フランスじゃないよね』


『はい。フランス南東部と地中海に囲まれた独立国家です。フランス側から鉄道や自動車で移動できます』


『何がある?』


『王宮、港湾、高級ホテル、飲食店、海洋博物館、カジノなどが知られています』


『カジノ』


 その言葉で、別の興味が生まれた。


『十八歳でも入れる?』


『カジノ・ド・モンテカルロのゲーム室は、十八歳以上であれば年齢条件を満たします。本人確認書類と服装など、施設ごとの規則を確認する必要があります』


『僕が行ったら勝てるかな』


『ゲームによります。偶然によって結果が決まるものでは、未来の結果を知ることはできません』


『じゃあポーカー』


『相手の過去の行動、賭け方、表情、身体反応などを分析できます。ただし、公開されていない手札を知ることはできません』


 未来のカードは分からない。相手の手札を透視できるわけでもない。

 だが何も考えずに遊ぶより、有利な判断はできる。


『どのくらいの資金が必要?』


『旅行費用とは別に、失っても生活へ影響しない資金を用意すべきです。利用するテーブルの最低賭け金と、許容する損失額によって異なります』


『三十万円で旅行して、残り数万円で遊ぶのは?』


『体験を目的とするなら可能です。ただし、安定した利益を期待できる資金ではありません。短期間の結果は運に左右されます』


『行くだけならできても、増やすには足りないか』


『はい』


 フランスへ行きたいと思った直後に、旅費以外の金まで必要になった。

 旅行代、カジノで使う資金、服。調べるほど、必要な金額が増えていく。


『今の服で入れない?』


『時間帯と利用する場所によります。夕方以降にゲーム室へ入る場合は、ジャケットを含む服装を推奨します』


『また買うものが増えたね』


『希望する条件を増やしているためです』


『減らすつもりはないから』


 行ける範囲で妥協するより、行きたい形を先に決めて、足りないものをそれから揃える。


『ジン。夏休みまでに、英語とフランス語も使えるようにしたい』


『英語は、日常会話に大きな問題はありません。発音、即応性、口語表現を改善すれば、より自然になります。フランス語は旅行中に必要となる場面を優先して学習計画を再構成します』


『カジノで使う言葉も入れて』


『承知しました』


『それから、渡航費とは別に、カジノで遊べる金を用意する』


『投資条件を緩和しますか?』


『しない。行く前に金を減らしたら、一番格好悪いだろ』


『では、現在の基準を維持します』


 旅行へ行くだけなら、家族へ借りることもできる。

 だが、カジノで遊ぶための金まで出してほしいとは言えないし、言うつもりもなかった。


 夏休みまでに、どこまで増やせるか。


 受験日や納期とは違い、誰かに決められた期限ではない。

 自分が遊ぶために、自分で置いた期限だ。





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