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頭の中の最強AI ──金も女も、そして世界も手に入れる──  作者: 橙色
東京大学一年生編

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19/45

19話 今は帰るほうが嫌 ※


この話の一部はノクターンで掲載中です。





 撮影の翌日、五月二十六日。


 僕は持ち帰った映像を、最初から確認していた。


 撮影に使ったのは一日でも、記録された素材は合計で十時間を超えている。同じ場面を異なる角度から撮り、一つの動きを何度もやり直しているため、実際に使うのは全体のごく一部だった。


『映像ファイルに破損は?』


『ありません。音源との同期に必要な情報も、正常に記録されています』


『明らかに使えないものだけ分けて』


『手ぶれ、焦点のずれ、演者の動作ミス、撮影開始前後の不要部分を基準にすれば、全体の二十七・四パーセントを除外できます』


『残りは僕も見る』


『承知しました』


 技術的に失敗している映像なら、ジンの判断だけでも取り除ける。


 ただ、焦点が合い、構図が崩れていないからといって、使いたい映像とは限らない。


 演奏を止めた直後に日菜が見せた表情。立ち位置を間違えたバンドメンバーが、笑いながら元の場所へ戻る姿。予定にはなかった光や影。


 絵コンテから外れていても、別の場面に使える可能性はあった。


 曲を繰り返し流しながら、映像を並べていく。


 日菜が工場の中を歩き、窓へ映った自分を見る。


 演奏が始まっても、最初は楽器を持つ手元と影だけ。曲が進むにつれて画面が広がり、バンドのメンバーが一人ずつ現れる。


 最後は、屋外で振り返る日菜。


 絵コンテどおりに並べれば、一応の形にはなった。


 だが、最初から最後まで再生すると、曲の後半が弱く感じられる。


『原因は?』


『後半に進むにつれて、画面内の情報量は増加しています。一方、映像を切り替える間隔は、前半からほとんど変化していません』


『音は大きくなってるのに、映像の速さが変わってないのか』


『はい』


 後半だけ、一つの映像を短くする。


 演奏する手元、日菜の横顔、バンド全体を細かく切り替え、最後の振り返る場面で急に長く残す。


 試しに編集すると、曲が終わる瞬間の印象が強くなった。


『最後の日菜を、もう少し長く残したい』


『現在より〇・八秒延長する場合、その前の演奏場面を短縮する必要があります』


『短くしてみよう。見て物足りなかったら戻す』


『承知しました』


 切り替える位置を僅かに変え、何度も再生する。


 昼前に始めた作業は、気づけば夕方まで続いていた。


『和希。六月三日と四日に、S1タームの試験があります』


『覚えてるよ』


『現在の編集速度で進めた場合、今週後半から学習時間と競合します』


『どのくらい必要?』


『現在の理解度であれば、十五時間程度を試験対策へ割り当てることを推奨します』


『一週間で十五時間なら、編集も続けられるね』


『睡眠時間を減らさないことを条件とします』


『分かってる』


 試験科目は、物性化学、数理科学基礎、生命科学。


 入学してから受けた授業の範囲なので、今から新しく覚えなければならない内容は多くない。


 しかし、分かっているつもりになることと、答案として正しく書けることは別だった。


『明日から、間違えそうなところだけ問題にして出して』


『承知しました』


 映像を保存し、一度パソコンを閉じる。


 完成を急ぐ理由はある。


 だが、試験を失敗してまで数日早く仕上げる必要はなかった。


 翌日、教室へ入ると、亮太が机へ何冊もの教科書を積み上げていた。


「それ、全部今日使うの?」


「試験範囲を確認しようと思って持ってきた」


「確認するだけなら、鞄の中でもできるだろ」


「机へ出したほうが、勉強してる感じがする」


「感じだけで点が取れたら楽だね」


「朝から正しいことを言うなよ」


 亮太の前には、玲奈も座っていた。


 教科書ではなく、授業ごとに分けたノートを開いている。


「佐村君は、もう試験勉強始めた?」


「今日から。玲奈は?」


「一応、昨日までに範囲だけまとめたよ。生命科学が思ってたより多い」


「後で見せて」


「いいよ。代わりに数学を教えて」


「分からないところがあればね」


「俺は化学」


 亮太が横から加わる。


「物性化学なら、益井のほうが得意じゃない?」


「授業中は分かってたんだけど、問題になると急に知らないものへ変わるんだよ」


「問題文が長いと、難しそうに見えるだけじゃない?」


「その長い文章から必要なところを見つけるのが難しいんだよ」


 授業が始まる前に、三人で空いている時間を確認する。


 午後の講義が終わった後、大学に残って一時間半。その後は僕と玲奈が部室へ行き、ミュージックビデオの編集を進めることになった。


「フランス語は勉強しなくていいのか?」


 亮太が尋ねる。


「今回の試験には入ってないよ」


「じゃあ、しばらく休んでいいか」


「授業はあるけどね」


「佐村、たまに聞きたくないことまで教えてくれるよな」


「知らないまま休むよりはいいだろ」


 講師が教室へ入り、話を切る。


 机の上へ教科書を積んでいた亮太は、必要な一冊を探すところから始めていた。


 その日から、大学の空き時間は試験勉強に使った。


 玲奈は、生命科学の内容を図や短い言葉にまとめるのが上手かった。


 細胞の中で何が起きるのか。遺伝情報がどのように使われるのか。名前だけでは覚えにくいものも、前後の流れへ置けば区別しやすくなる。


 亮太は物性化学が得意だった。


 式の扱いは時々雑になるが、温度や圧力が変化したとき、実際に何が起きているのかを感覚的に捉えている。


 僕は、数理科学基礎を二人へ説明することが多かった。


「ここで急に分からなくなる」


 玲奈が指したのは、行列を扱う問題だった。


「急には変わってないよ。この前までやってた連立方程式を、短く書いてるだけ」


「記号が増えたから、別のものに見える」


「なら、最初は元の式へ戻せばいい。何を計算してるか分かってから、記号のまま扱えばいいよ」


 玲奈のノートへ、問題を簡単な形に直して書く。


「これなら分かる」


「やってることは同じだろ」


「最初から、こっちで教えてくれればいいのに」


「大学の先生に言って」


「佐村君が先生になれば?」


「一年生に何を期待してるの?」


 玲奈は僕が書いた式を自分のノートへ写し、同じ種類の問題を解き始めた。


 向かい側では、亮太が生命科学の用語を眺めている。


「似た名前が多すぎるんだけど」


「働きまで一緒に覚えれば混ざらないよ」


「生沢のまとめ、借りてもいい?」


「いいけど、飲み物をこぼさないでね」


「俺、そんな信用ない?」


「さっき自分のノートにこぼしてたでしょ」


「もう乾いてる」


「乾いても無かったことにはならないから」


 亮太が黙って自分の飲み物を机の下に置いた。


 三人で勉強すると、一人で進めるより会話が増える。


 効率だけを求めるなら、ジンから問題を出してもらうほうが早い。それでも、自分が分かっていることを誰かへ説明すると、曖昧な部分が見つかったりもする。


 説明の途中で言葉に詰まった箇所は、僕自身も完全には理解できていないということだ。


『今の説明で、省略した条件があります』


『分かってる。後で確認する』


『記録しました』


 ジンが見つけた部分は、その日の夜に解き直すことにした。



 試験勉強と並行して、映像の編集も進めた。


 僕が全体を組み、玲奈が映像のつながりや日菜の見え方を確認する。栗原さんは一日に一度、進み具合を見て意見を出した。


「ここ、日菜さんの顔が少し暗くない?」


 玲奈が指したのは、窓辺で撮った場面だった。


「前後より暗いけど、表情は見えるよ」


「見えるけど、肌が灰色っぽい。工場の壁と近い色だから、顔まで背景に溶けてる気がする」


『直前の映像と比較して、顔の明るさと色に差があります』


 日菜の顔だけを選び、周囲へ馴染む程度に補正する。


「これなら?」


「さっきよりいい。でも、少し綺麗にしすぎてない?」


「玲奈が明るくしたほうがいいって言ったんだろ」


「明るくするのと、別人みたいにするのは違うよ」


「別人にはしてない」


「そのうち、日菜さんの顔だけ全部直しそう」


「本人より綺麗にはしないよ。実際に会ったとき、誰だか分からなくなるから」


「そこが基準なんだ」


 補正を少し戻す。


 画面の中の日菜は、撮影した日の肌や目元を残したまま、背景から浮き上がった。


「うん。これくらい」


「玲奈が最初から、この色って指定できれば早いんだけどね」


「人の顔を見て、数字では分からないよ」


「それもそうか」


 玲奈が感じた違和感を聞き、ジンが原因を絞り、僕が映像へ反映する。


 誰か一人だけなら見落としていたものが、少しずつ消えていった。


「佐村君、今日も家で続ける?」


「そのつもり」


「わたしも行っていい?」


「いいけど、夕食はどうする?」


「何か作ろうか?」


「料理できるの?」


「その言い方、できないと思ってるよね」


「玲奈の料理を食べたことがないから、判断できないだけだよ」


「じゃあ、食べてから判断して」


 講義が終わった後、二人で食材を買って僕の部屋へ戻った。


 玲奈が作ったのは、鶏肉と野菜を炒めたものと、簡単なスープだった。


 手際が極端にいいわけではないが、包丁の扱いに危なさはない。僕が映像を確認している間に、二品とも完成していた。


「どう?」


 一口食べたところで聞かれる。


「美味しい」


「それだけ?」


「これなら、作業の日は毎回来てほしい」


「料理を作る人として?」


「玲奈が来れば、編集も進むから」


「料理のついでみたいに聞こえる」


「逆だよ。両方助かってる」


 玲奈は僕の顔を見た後、少しだけ笑った。


「なら、また作ってもいいよ」


「期待してる」


 食事を終え、編集を再開する。


 日付が変わる前には玲奈も帰り、僕は一人で試験範囲を確認した。


 映像と勉強を切り替えることにも、少しずつ慣れてきていた。


 市場では、次の投資候補を探している。


 瑞祥生活科学を売却した時点で、証券口座にある資金は十三万円に僅かに届かない程度だった。


 最初に示された候補は、調査している間に株価が上昇し、期待できる利益に対して価格が高くなりすぎた。


『昨日なら買えたのに』


『昨日の時点では、判断に必要な情報が不足していました』


『買ってから調べるのは?』


『推奨しません。値上がりする可能性と同時に、問題が見つかる可能性もあります』


『今回は逃したってことだね』


『はい。ただし、条件を守った結果です』


 値上がりした事実を見た後なら、昨日買うことが正しかったように思える。


 だが、昨日の僕には、今日公開された情報を知る手段がなかった。


 そうして何も買わないまま数日が過ぎた後、別の候補が見つかった。


 光洋包装株式会社。


 食品用の容器や包装資材を作っている会社で、株価は一株千円を少し超えている。


『この会社は?』


『国内の大手コンビニエンスストアが、弁当容器の一部を紙素材へ変更する準備を進めています。採用候補となっている容器が、光洋包装の出願した特許と一致します』


『コンビニ側から発表は?』


『ありません。ただし、複数地域の加盟店へ新容器の取扱説明書が配布されています。また、光洋包装の工場では、該当製品に使用される材料の搬入量が増加しています』


『全国で使われたら、影響は大きい?』


『光洋包装の年間売上高を押し上げる可能性があります。ただし、一部地域のみの導入に留まる場合、影響も小さくなります』


『購入価格は?』


『千十八円に指値注文を置く方法を推奨します』


 千十八円で百株。


 購入金額は十万一千八百円。口座へ残る現金は、二万七千円ほどになる。


 注文は、その日のうちに成立した。


 翌日、株価は千円を割り、九百八十四円まで下がった。


『三千四百円の含み損か』


『はい』


『予測は変わった?』


『変わっていません』


『なら、何かあるまで任せる』


『承知しました』


 株価を見続けても、容器が採用されるかどうかは変わらない。


 画面を閉じ、映像と試験勉強へ戻った。


 粗い形の映像が完成したのは、五月三十日の夜だった。


 僕の部屋へ栗原さんと玲奈が集まり、最初から最後まで一度再生する。


 途中で止めず、まずは一つの作品として見る。


 画面が暗くなった後、栗原さんは最初の場面まで映像を戻した。


「かなり形になったな」


「直すところは?」


「細かいところはある。後半の切り替えも、少し忙しすぎる場所があるかもしれない。ただ、方向はこれでいいと思う」


「最後の日菜さん、長すぎませんか?」


 玲奈が尋ねる。


「俺は残していいと思う。曲が終わった後まで見せる理由も分かるし、この表情は強いからな」


「じゃあ、前後を直します」


「今日はここまででいいだろ。試験も近いんだし、二人とも無理するなよ」


「分かってます」


 栗原さんが帰った後も、玲奈は床へ座ったままパソコンを見ていた。


 時刻は午後十時を過ぎている。


「帰らなくて大丈夫?」


「まだ電車はあるよ」


「ならいいけど。明日も大学だろ」


「佐村君もでしょ」


「僕はここに住んでるからね」


「泊まったら、朝は楽かな」


 冗談のような口調だった。


 玲奈は画面を見たまま、帰る準備を始めようとしない。


「着替えもないだろ」


「一日くらいなら平気」


「玲奈」


 名前を呼ぶと、ようやくこちらを向いた。


「なに?」


「本当に電車を逃すつもり?」


「逃したら困る?」


「困らないよ。でも、意味を勘違いするかもしれない」


「勘違いじゃなかったら?」


 玲奈が立ち上がり、僕の前まで来る。


 距離が縮まっても、彼女は笑わなかった。


 右手が僕の肩へ触れ、そのまま首の後ろへ回る。次に何をするつもりなのかを理解したときには、玲奈の唇が僕のものへ重なっていた。


 触れた時間は短い。


 すぐに離れ、僕の反応を確かめる。


「これでも勘違いする?」


「しない」


「じゃあ、帰らなくていい?」


「一つ、話しておくことがある」


 玲奈の腕は、僕の首から離れなかった。


「日菜とは付き合ってない。でも、身体の関係はある」


「知ってた」


「本人から聞いた?」


「聞いてないよ。見てれば分かる」


「それと、玲奈と付き合う気もない」


「うん」


「分かってて、今キスした?」


「そうだよ」


 玲奈は視線を逸らさなかった。


「佐村君が日菜さんと会ってるからって、わたしが何もできない理由にはならないでしょ。付き合ってないなら」


「後で、僕が玲奈以外の人と会っても?」


「嫌になるかもしれない。でも、今は帰るほうが嫌」


 それが玲奈の答えだった。


「なら、帰らなくていいよ」


 今度は僕から唇を重ねた。


 先ほど玲奈がしたような、触れて反応を確かめるだけの口づけにはしなかった。


 逃げるつもりがないのなら、こちらも遠慮する必要はない。


 背中へ回した腕に力を込めると、玲奈の身体が僕へ寄る。唇が離れた後も距離を戻さずにいると、彼女は軽く息をついた。


「佐村君」


「なに?」


「思ってたより、強引なんだね」


「嫌だった?」


 玲奈は首を横へ振った。


「じゃあ、今から僕が優しいと思わないほうがいいよ」


「それ、脅してる?」


「帰るなら今だよ?」


 少し意地の悪い言い方になったが、玲奈がどこまで理解して残ろうとしているのかは確かめておきたかった。


 玲奈は僕の目を見つめたまま、首の後ろへ回した指を絡め直した。


「帰らない」


「分かった」


 玲奈とは大学へ入ってからほとんど毎日のように顔を合わせている以上、僕がどういう人間かは分かっているはずだ。

 それでも求めてきた相手に、優しい男を演じるつもりはない。


 友人として大切に思っていることと、今、この瞬間に抱く欲は別だった。


 玲奈が僕を選んだのなら、僕も自分の欲しい形で玲奈を求める。


『ジン。視覚と聴覚を切って』


『共有を停止します』


 返事が消えるのを待たず、玲奈をもう一度引き寄せた。


「佐村君、待って」


 言葉に反して、玲奈の腕は離れなかった。呼吸も少し荒い。


「待ってほしいの?」


「……少しだけ」


 玲奈が自分から顔を上げるまで見つめたままでいると、やがて観念したように唇が近づいてくる。


「……いいよ」


 許可を得た後は、玲奈が想像していたほど優しくはしなかった。




 翌朝、目を覚ました玲奈は、しばらく天井を見ていた。


「おはよう」


 声をかけると、ゆっくり横を向く。


「おはよ」


「後悔してる?」


「してない。でも、起きたら急に恥ずかしくなってきた」


「昨日の僕、嫌だった?」


「嫌じゃない。ちょっと予想と違ったけど」


「どんな予想をしてたの?」


「もっと、ずっと優しいと思ってた」


「玲奈が帰らないって言ったから、遠慮しなかった」


「普通は、もう少し遠慮するものじゃない?」


「次は嫌なことがあったら言って。言わなければ僕の好きにするから」


 玲奈は掛け布団を鼻の辺りまで引き上げた。


「次がある前提なんだ」


「嫌だったなら、ないけど」


「そうやって急に選ばせるの、ずるい」


「今すぐ答えなくてもいいよ」


 玲奈はしばらく黙った後、布団の中から手を伸ばし、僕の腕を掴んだ。


「ないとは言ってない」


「なら、覚えておく」


「嬉しそう」


「玲奈を抱けたことは、普通に嬉しいよ」


「付き合わないのに?」


「付き合わなくても、玲奈としたいから」


 玲奈は困ったように僕を見たが、腕を掴んだ手は離さなかった。


「五分だけ、このままでいて」


「大学は?」


「間に合うでしょ」


『一限の開始まで、あと二時間十三分です』


 共有を戻したジンから答えが届く。


『朝食を作っても?』


『通常の支度時間を考慮しても、三十八分の余裕があります』


「朝食を食べても余裕があるよ」


「じゃあ、五分」


 玲奈の肩へ掛かっている布団を直し、隣で目を閉じる。


 五分後、僕が玲奈を起こした。


 簡単な朝食を作り、二人で食べる。


「部屋から一緒に出たら、誰かに見られるかな」


「可能性はある」


「少し時間を空ける?」


「玲奈がそうしたいなら」


 玲奈は少し考え、首を横へ振った。


「ううん。一緒に行く」


「分かった」


「別々に出るほうが、隠したみたいで気になるから」


「大学へ行くだけなら、何も隠す必要はないよ」


 二人で部屋を出た。


 大学までの道で何人かの学生とすれ違ったが、知り合いはいなかった。


 教室へ着く頃には、玲奈も普段と変わらない顔へ戻っている。


「今日も編集する?」


「今日は試験勉強を優先する。編集は一時間だけ」


「昨日のこと、気まずくならない?」


「玲奈がならないなら、僕もならない」


「ならないようにする」


「無理に普段どおりにしなくてもいいよ」


「そう言われると、余計に意識するんだけど」


「じゃあ、数学から始めようか」


「切り替えが早いなあ」


 玲奈はそう言いながらも、自分のノートを開いた。


 関係が変わっても、試験の日は待ってくれない。




 六月一日と二日は、三人で大学に集まって勉強した。


 土曜日の午前中は数理科学基礎。


 日曜日は、物性化学と生命科学。


 すべてを最初からやり直すのではなく、間違えた問題と、説明しにくい部分だけを確認していく。


「佐村は行きたい学部もう決めてる?」


 問題を解いていた亮太が尋ねた。


「まだ決めてない」


「なら、そこまで点を取らなくてもよくない?」


「決めてないから、選べる状態にしておきたいんだよ」


「俺は決めてないからこそ、できるだけ楽をしたい」


「後で行きたいところが見つかって、成績が足りなかったら困るだろ」


「未来の俺が頑張る」


「今の益井が作った成績を、未来の益井は変えられないと思うけど」


「佐村君。その辺にしてあげて」


 玲奈が笑いを堪えながら止める。


「益井君、さっきから同じところを三回読んでるから」


「二人とも気づいてたの?」


「見える位置にいるからね」


「監視されながら勉強するの、向いてないかもしれない」


「なら、早く終わらせればいいよ」


「佐村、教師になったら嫌われそうだな」


「分からないところは教えてるだろ」


「正しいことしか言わない先生が、一番怖いんだよ」


 文句を言いながらも、亮太は再び問題へ戻った。


 僕も自分の答案を見直す。


 計算そのものに大きな間違いはない。


 ただし、途中の説明を省きすぎることがあった。頭の中ではつながっていても、答案を読む人間には、その間が見えない。


『この回答では、結論へ至る条件が一つ記載されていません』


『これくらいは分かるでしょ』


『採点者が和希の意図を補うとは限りません』


『書いたほうが安全か』


『はい』


 必要な一文を加える。


 物性化学では、式を覚えることより、それがどんな状況で使えるのかを確認した。


 生命科学では、似た名前の用語を整理する。


 専門的な内容を深く話し続けることはなかった。


「これとこれは、何が違う?」


「働く場所」


「じゃあ、こっちは?」


「作られる順番」


「覚え方は?」


「玲奈の図を見れば分かる」


「結局、生沢頼みか」


「使えるものを使ってるだけだよ」


「そこだけ聞くと格好よくないな」


「格好よく勉強しても点は増えないから」


 日曜日の夕方には、三人とも一通りの範囲を終えた。


 亮太は机へ突っ伏し、玲奈は自分のノートを最初から見直している。


『現在の理解度は?』


『数理科学基礎と物性化学では、重大な不足は確認できません。生命科学では、二組の用語を混同する可能性があります』


『そこだけ帰って確認する』


『承知しました』


「佐村君、まだ勉強するの?」


「帰って少しだけ。玲奈は?」


「わたしも、今日間違えたところを見直す」


 亮太が顔を上げる。


「二人とも、昨日から充分やっただろ」


「益井も間違えたところは見たほうがいいよ」


「明日の俺を信じる」


「明日の益井君が困るだけだと思う」


「生沢まで佐村みたいなこと言い始めたな」


「一緒に勉強してたから、うつったのかも」


 三人で荷物を片づけ、大学を出る。


 試験前だからといって、特別な緊張はなかった。

 やるべき範囲は終えている。

 後は、問題を読んで答えを書く。それだけだった。



 六月三日。


 最初のS1ターム試験は、物性化学だった。


 教室へ入ると、普段の授業より話し声が多い。


 直前まで教科書を読んでいる者もいれば、友人同士で出そうな問題を予想している者もいる。


 亮太は席へ着くなり、僕を振り返った。


「最後に一つだけ聞いていい?」


「試験が始まるまでならね」


「この条件のとき、使う式はこっちだよな?」


「こっち。理由も書いたほうがいい」


「理由?」


「変化しないものが何か。それを書けば、式を選んだ根拠になる」


「聞いてよかった」


 亮太が教科書へ視線を戻す。


 玲奈は自分のノートを閉じ、鞄へ入れた。


「玲奈はもう見なくていいの?」


「今から増やすと、別のところを忘れそうだから」


「僕もそうしようかな」


「佐村君は、最初から開いてないでしょ」


「一応持ってきてるけど」


「持ってくるだけなら益井君と同じだよ」


 試験監督が入り、会話が止まる。


 問題用紙が配られ、開始の合図を待つ。


『時間配分は?』


『最初の確認に三分。各問題へ均等に割り当てても、見直しに二十分以上残ります』


『分かった』


 開始の合図と同時に、問題用紙を開く。


 最初から計算を始めず、最後まで目を通す。


 授業で扱った形に近い問題が多い。


 一見すると文章が長いものも、必要な条件を抜き出せば、やることは変わらなかった。


 途中で一問だけ手が止まった。


 使えそうな式は二つある。


 問題文へ戻り、何が変化せず、何を求められているのかを確認する。


『二つ目の方法でも求められます』


『でも、こっちのほうが説明は短い』


『はい』


 選んだ理由を一文書き、計算を進める。


 終了二十分前には、すべての問題を解き終えていた。


 見直すと、単位を書き忘れた箇所が一つある。


 そこを直し、計算と条件をもう一度確認した。


『誤りは?』


『確認できません』


『僕もないと思う』


 終了の合図が鳴り、答案を提出する。


 教室を出たところで、亮太が大きく息を吐いた。


「最後の問題、あれで合ってると思う?」


「最初に置いた条件が同じなら、たぶん」


「条件?」


「問題文に書かれてた温度の扱い」


「答案には書いてない」


「計算が合っていれば、途中までは点が貰えるんじゃない?」


「急に優しくするなよ。余計に怖い」


「もう書き直せないんだから、明日の勉強しなよ」


「ほら、すぐ厳しくなる」


 玲奈が隣で笑っていた。


「とりあえず、昼にしようよ」


「生沢のまとめ、もう一回貸して」


「飲み物は机の下ね」


「まだ信用されてないの?」


「一日で変わると思ってた?」


 三人で食堂へ向かった。



 六月四日。


 午前は数理科学基礎だった。


 問題用紙を開き、全体へ目を通す。


 前半は計算が中心で、授業中に解いたものと大きく変わらない。


 最後の問題だけ、見慣れない形をしていた。


 文章は長いが、使われているのは授業で学んだ内容だけだ。


『複数の解法があります』


『一番短いのは?』


『計算量のみを基準にすれば、二つ目の方法です。ただし、途中の説明が不足すると論証が伝わりにくくなります』


『なら、一つ目でいく』


 問題を、知っている形へ分ける。


 最初に何を示せば、その次へ進めるのか。


 順番に書けば、難しそうに見えた文章が、いくつかの短い問題へ変わっていく。


 途中で、逆向きにも同じことが言えるように書きかけ、ペンを止めた。


 そこまでは問題文の条件だけでは決まらない。


 余計な一文を消し、必要な範囲だけを証明する。


『適切です』


『危なかった』


『見直し前に修正できています』


 すべて書き終えた後、最初の問題から確認する。


 計算の符号、記号の抜け、説明を飛ばした箇所。


 一つだけ書き足し、答案を閉じた。



 午後の生命科学では、玲奈が作った図を思い出す場面があった。


 名前の似た二つの働き。


 言葉だけなら混ざっていたかもしれないが、どこで、どの順番で働くかを思い出せば、答えは決まる。


 最後まで書き終え、見直しを済ませた。


 終了の合図が鳴る。


 答案を提出し、教室を出た。


「終わった……」


 亮太が廊下へ出たところで、壁へ背中を預けた。


「まだS1だけだよ」


「今は現実を増やすな」


「昼、何か食べよう」


 玲奈が言った。


「佐村君は、この後も編集?」


「今日は休んでもいいと思ってたけど」


「思ってた?」


 鞄の中で、スマートフォンが震えた。


 日菜からのメッセージだった。


《試験今日までだよね? 終わった?》


《今終わった》


《お疲れさま。映像も気になるけど、今日は休んだほうがいいんじゃない?》


《少し休んでから、今夜続きをやる》


《無理しないでね。でも早く見たい》


《待った分より、いいものにするよ》


 送信し、スマートフォンをしまう。


「日菜さん?」


 玲奈が尋ねた。


「うん。映像の進み具合を聞かれた」


「じゃあ、休まないんだ」


「試験は終わったからね」


「その前に昼食」


 玲奈が歩き始め、亮太も壁から身体を離した。


「俺、今日は何も考えなくていいものが食べたい」


「何食べるかくらいは頑張って考えなよ」


「佐村は試験が終わっても変わらないな」


 三人で食堂へ向かう。


 二日分の答案は、もう僕の手を離れている。


 光洋包装の株も、まだ結果は出ていない。


 完成していない映像も残っている。


 すべてを同時に終わらせる必要はない。今日はまず、東大へ入って最初の試験を終えた。





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