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頭の中の最強AI ──金も女も、そして世界も手に入れる──  作者: 橙色
東京大学一年生編

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18/45

18話 この後、うち来るよね?






 五月十一日の土曜日は、朝からよく晴れていた。


 指定された駅へ着くと、日菜は改札近くの柱へ背中を預け、スマートフォンを眺めていた。白い半袖のブラウスに淡い青色のロングスカートを合わせており、ライブハウスで会ったときや、前に二人で食事をしたときとも印象が違う。


 声をかける前に、日菜が顔を上げた。


「和希、おはよー」


「おはよう。待った?」


「三分くらい。今来たところって言うには、微妙な時間かも」


「三分なら待ってないことにしてよ」


「じゃあ、今来たところ」


 日菜はスマートフォンを鞄へ入れると、僕の前で一度回ってみせた。


「どう?」


「似合ってる」


「もっとないの?」


「青が似合う。前に会ったときより柔らかく見えるし、今日の天気にも合ってる」


「そういうの、すぐ出てくるんだ」


「本当に思ってたからね」


 日菜は満足して僕の隣へ並ぶ。


「和希も似合ってる。大学生っぽい」


「それ、褒めてる?」


「高校生には見えないってこと」


「もうちゃんと大学生なんだけど」


「でも十八歳でしょ? わたしより一つ下なんだよね。話してると忘れそうになる」


「日菜も十九歳に見えないよ」


「どういう意味?」


「もちろん、いい意味で」


「雑!」


 待ち合わせ場所にこの駅を選んだのは日菜だった。


 行きたい店があると聞いていたが、それ以外の予定は決めていない。僕が誘ったのだから一日の予定を組んでもよかったものの、日菜が行き先を考えておくと言ったため、今日は任せることにしていた。


「それで、どこへ行くの?」


「服を見たいんだよね。前から気になってた店があるんだけど、一人だと入りにくくてさ」


「男物もある?」


「あるよ。和希も見られるし、一人より二人のほうが入りやすいの」


「分かった。行こう」


 駅から少し歩き、表通りから一本入った場所にある小さな店へ向かった。


 大きな看板はなく、外から見える商品も少ない。事前に知らなければ、服を売っている店だと気づかず通り過ぎたかもしれなかった。


 中へ入ると、商品は種類ごとではなく、色や雰囲気が合うもの同士で並べられていた。値札を見る限り、大学生が何も考えず何着も買える価格ではない。


 日菜は店内を見回した後、僕の腕を軽く引いた。


「似合いそうな服、選んでよ」


「自分で欲しいものは決まってないの?」


「候補はあるけど、和希が選ぶと何が変わるのか見たい」


「責任重大だ」


「東大生の頭の使いどころだよ」


「大学では服の選び方まで教えてくれないんだけどな」


 軽く答えながら、店内を見て回る。


 目に留まったのは、右奥に掛けられていた濃い緑色のワンピースだった。日菜が普段よく選ぶ黒や白とは違うが、暗い茶色の髪には合いそうに見える。


『今見ているワンピースは、日菜に合う?』


『はい。肌と髪の色に調和します。形状についても、日菜の体格であれば問題ありません』


『なら、最初に思ったものでよさそうだ』


 ワンピースを手に取り、日菜の身体へ合わせてみる。


「これかな」


「緑?」


「自分では選ばない?」


「あんまり。黒か白が多いから」


「だから選んだんだよ。髪にも合うし、形も似合うと思う」


 日菜は鏡の前で服を合わせ、何度か角度を変えた。


「着てみる」


「いってらっしゃい」


 試着室のカーテンが閉じる。


 少し待つと、日菜が顔だけを出した。


「和希」


「なに?」


「後ろのファスナー、途中から上がらない」


「店員さんを呼ぼうか?」


「和希がやって」


 試着室の前まで行く。


 日菜がカーテンを僅かに開け、背中を向けた。ワンピースの隙間から、肩甲骨の間へ続く白い肌が見えている。


 髪を片側へ寄せてもらい、布を挟まないようファスナーを上げた。


「これでいい?」


「うん。ありがとう」


 振り返った日菜との距離は近かった。


 店の中でなければ、そのまま触れていたかもしれない。日菜も同じことを考えたのか、僕の胸元へ指先を置いて笑う。


「後でね」


「まだ何もしてないよ」


「しようとした顔だった」


「顔だけで判断されるのは不本意だな」


「違ったの?」


「するところだった」


 日菜は満足そうにカーテンを閉めた。


 試着室から出てきた姿を見ると、選んだ服は予想以上に似合っていた。濃い緑が肌の明るさを引き立て、身体の線を見せすぎない形なのに、腰の細さは分かる。


「どう?」


「買ったほうがいいと思う」


「本当に?」


「似合わないなら勧めないよ」


「じゃあ、買う」


 値段は二万円を少し超えていた。


 日菜は一度だけ値札を確認したが、会計へ向かう足取りに迷いはない。学校へ通いながらアルバイトもしていると聞いているし、自分で選んだものを自分の金で買うことにも満足しているように見えた。


 ここで僕が財布を出すのは、少し違う気がした。


「和希は買わないの?」


「今日はいいかな」


「さっき、シャツ見てたでしょ」


「気づいてた?」


「自分だけ見られてると思った?」


 日菜が棚から一枚のシャツを取った。薄い灰色で、光の当たり方によって僅かに青く見える。


「これ、似合うと思う」


「日菜が選んでくれるんだ」


「わたしだけ選んでもらうのも悪いから。着てみてよ」


 勧められたものを試着する。


 鏡の前へ出ると、日菜は僕の襟元を指で整え、少し離れて全体を確認した。


「格好いい」


「買わせるために言ってない?」


「店員じゃないんだから、わたしには得がないよ」


「日菜と会う日に着るかもしれない」


「それなら得がある」


 値段は一万六千円。


 今の僕なら買えない金額ではない。映像制作で受け取った八千円だけでは足りないが、生活費と投資資金を除いた普通預金から足しても、今月の予定には影響しなかった。


『手持ちの服とは合わせられる?』


『現在所有しているパンツのうち、三本と組み合わせられます。品質にも大きな問題はありません』


 日菜は、まだ僕を見ている。


「買おうかな」


「わたしが選んだから?」


「それもある。自分でも似合ってると思うし」


「そういうところ、好き」


 日菜は口にした言葉を取り消さず、そのまま僕のシャツを持って会計へ向かった。


 僕も意味を確かめなかったが、悪い気はしなかった。



 昼食を終えて店を出ると、午後の日差しが少し強くなっていた。


 次の目的地は決めていなかったため、日菜と並んで街を歩く。


 信号待ちをしている僕たちの前を、低い車体のスポーツカーが通り過ぎた。深い青色の車体が光を反射し、乾いた排気音を残していく。


 日菜も車が消えた方向を目で追っていた。


「今の車、格好いい」


「日菜も車が好きなの?」


「詳しくはないよ。でも、格好いいものは分かる」


『ポルシェ・718ケイマンです。現行モデルと判断できます』


 ジンから先に車種が伝えられる。


 新車なら、諸費用や追加装備を含めて七百万円以上。中古でも状態のよいものは五百万円前後になり、保険や駐車場、税金、整備費も必要になるという。


 証券口座の資金が十一万円を超えたところで喜んでいたばかりなのに、桁が二つ足りない。


「和希は免許持ってないんだよね?」


「まだ。高校までは電車で困らなかったから」


「わたしも持ってない。取ったら、どこか連れていってよ」


「日菜が先に取る可能性は考えないの?」


「助手席のほうが楽だから」


「正直だね」


「和希、運転上手そうだし」


「一度も運転したことないよ」


「何でもすぐできそうだから」


 同じようなことを、前にも言われた。


 知識と危険予測はジンが補える。それでも車両感覚や実際の操作は、僕自身が身につけるしかない。大学とサークルを続けながら都内の教習所へ通えば二、三か月、費用はAT限定でも三十万円前後になる。


 すぐに申し込む金額ではないが、手が届かないわけでもなかった。


「免許、取りたくなった?」


「少しね」


「じゃあ、取ったら最初にわたしを乗せて」


「初めての運転でもいい?」


「上手くなってからがいい」


「条件が増えたな」


「事故は嫌だもん」


「僕も嫌だよ」


 スポーツカーは、すでに交差点の先へ消えている。


 東京で生活するだけなら、電車のほうが安くて便利な場合も多い。それでも、欲しいかどうかを聞かれれば、答えは決まっていた。


『ジン。免許を取る時期を、今後の予定に加えておいて。車を買う資金まで含めて考えたい』


『承知しました。学業、映像制作、資金状況を考慮します』


 希望する車種までは決めない。


 今見た車を欲しいと思ったのは事実だが、世の中にどんな車があるのかも知らない。買える金を作り、選べる状態になってから決めればよかった。


 夕方まで街を歩き、食事を済ませた後、僕から日菜を部屋へ誘った。


「この後、うち来るよね?」


「そのつもりだったけど」


「聞かなくても来た?」


「駅で別れようとしたら、怒ってたかも」


「誘っておいてよかった」


「本当だよ」


 日菜が僕の腕へ自分の腕を絡める。


 前回は、彼女が僕の部屋へ行きたいと言った。今夜は僕から誘ったというだけの違いだが、日菜はそれが嬉しいらしかった。


 部屋へ着き、玄関の扉を閉める。


 日菜は買ったばかりの服が入った紙袋を床へ置くと、僕が靴を脱ぎ終える前に胸元を掴んだ。


「今日は、和希から誘ってくれた」


「僕も会いたかったからね」


「それ、もっと早く言ってよ」


「伝わってると思ってた。迎えに行って、一日一緒にいて、部屋にも誘ったし」


「言葉で聞くのは違うの」


「なら、ちゃんと言うよ。会いたかった」


「うん」


 日菜の表情が緩み、そのまま唇が重なった。


 最初は短く触れて離れるつもりだったのかもしれない。僕が腰を抱き寄せると、紙袋が足元で小さな音を立てた。


『ジン。共有を切って』


『視覚と聴覚の共有を停止します』


 日菜の指が、今日買ったばかりの僕のシャツへ掛かる。


「これ、脱がせてもいい?」


「日菜が選んだのに?」


「また着てもらうから」


 ボタンへ触れる指先を止める理由はなかった。


 その夜、日菜は前より長く僕の部屋にいた。




 週が明けると、ミュージックビデオの打ち合わせが始まった。


 日菜のバンドから届いた希望と、僕たちが用意した企画を持ち寄り、予算や撮影日程を具体的に決めていく。


 最初の打ち合わせには、バンドのメンバー全員が参加した。


 日菜のほかに、ギターの高瀬、ベースの宮原、ドラムの黒川。三人とも日菜と年齢は大きく変わらず、ライブハウスでは言葉を交わす機会がなかったものの、撮影していた僕のことは覚えていた。


「この前の映像、ほとんど和希が編集したんだって」


 日菜の言葉に、高瀬が僕を見る。


「へー。確か一年生だよね?」


「はい」


「映像の勉強は、前からしてたの?」


「本格的に始めたのは、大学へ入ってからです」


「一か月くらい?」


「そうなります」


 三人の顔に、僅かな不安が浮かんだ。


 彼らにとっては、自分たちの曲を人へ見せるための映像だ。経験の浅い大学一年生へ任せると聞けば、本当に大丈夫なのか確かめたくなるのは当然だった。


 栗原さんが説明を加える。


「撮影には、俺を含めた経験のある部員も入ります。佐村が中心になるのは企画と編集で、誰の確認も受けずに完成まで進めるわけではありません」


「疑ってるわけじゃないです。この前の映像もよかったので。ただ、一曲を丸ごと作るのはどうなのかなと思って」


「不安なところは、今日のうちに遠慮なく聞いてください。納得してもらわないまま撮影へ進めるつもりはありません」


 僕は用意してきた資料を机へ広げた。


 曲の構成に合わせた映像の変化、室内と屋外で撮る場面、必要な機材と、おおよその撮影時間。頭の中にあるものをすべて詰め込むのではなく、実際に近い写真や、似た光の使い方をしている映像を見せながら説明した。


「前半では、日菜を正面から見せる場面を減らします。鏡や窓への反射、身体の一部、影を中心に撮る。その代わり、曲が大きくなるところで初めて全員の顔をはっきり見せたいです」


「最初から顔を出さないのは、何か理由があるの?」


「曲の前半は、歌詞も音も、自分の中にあるものを確かめているように聞こえました。そこで最初から演奏している姿を全部見せると、後半との変化が弱くなると思ったんです」


 楽曲を流し、映像を切り替える予定の箇所を示す。


 黒川が資料を見ながら尋ねた。


「屋外って、どこで撮るんだ?」


「候補は三か所あります。一つ目は河川敷。費用は抑えられますが、人の出入りと天候に影響されます。二つ目は都内にある建物の屋上。使用料はかかりますが、背景と光の方向は合っています」


「三つ目は?」


「郊外の廃工場を使った撮影スタジオです。室内と屋外を同じ場所で撮れますが、移動時間と使用料が一番大きい」


 画面へ三か所の写真を表示する。


 僕が最も合うと思っているのは三つ目だった。


 錆びた鉄骨と広い窓が残る建物で、自然光が入る。敷地内には草の伸びた空間もあり、曲の前半と後半を一か所で撮り分けられる。


「ここ、格好いい」


 最初に反応したのは日菜だった。


「わたしはここがいい」


「僕も、映像だけを考えればここが一番合うと思う。ただ、食事代と移動費まで含めると、予定している予算を二万円ほど超えます」


「二万円なら、俺たちで追加してもいいんじゃない?」


 宮原がほかの二人を見る。


「せっかく作るなら、場所を妥協して後悔したくないし」


「俺もいいよ」


「日菜は?」


「最初からここがいいって言ってるよ」


 撮影場所は決まった。


 スタジオの空きと全員の予定を照らし合わせ、撮影日は二週間後の五月二十五日とする。それまでに絵コンテを作り、衣装と小道具を決め、現地の下見も行わなければならない。


 撮影の九日後には、東大へ入って最初の定期試験も控えている。準備を後ろへ残せば、編集と試験勉強の両方へ影響が出るため、今のうちにできることは終わらせるつもりだった。


「和希、間に合う?」


「間に合わせるよ。その代わり、確認を頼んだときは早めに返事して」


「分かった。夜中でも送っていいからね」


「ありがとう」


 企画の説明を終える頃には、三人の表情から最初の警戒が少し薄れていた。


 完成前に、映像の出来を証明することはできない。それでも、何を作ろうとしているのかを共有できれば、任せる理由にはなってくれると思う。



 大学の講義と撮影準備を進める間にも、市場は動いていた。


 京北微研を売却した後、証券口座には十一万円を少し超える資金がある。


 次の候補としてジンが選んだのは、瑞祥生活科学という日用品メーカーだった。


 主力商品の一つは、国内では数年前から販売されている洗顔料。売上も知名度も安定しており、今さら会社の業績を大きく変える商品には見えない。


 しかし、その洗顔料を紹介した短い動画が、東南アジアで急速に広がっていた。


 最初に投稿された動画は、公開から六日間で四百八十万回再生。同じ商品を扱う動画も七千件を超え、複数の通販サイトで在庫切れが起きている。現地の小売店では販売価格が通常時の一・六倍まで上昇し、日本から海外発送する店舗でも注文数が増えていた。


 それでも、会社はまだ何も発表していない。


 国外向けの公式アカウントも反応しておらず、国内では株価へ影響するほど話題になっていなかった。


『流行が短期間で終わる可能性は残っています。ただし、動画投稿数、検索件数、通販サイトの販売順位は現在も上昇しています。少なくとも、次の月次販売には影響すると判断します』


 瑞祥生活科学の株価は、一株八百六十二円。


 百株購入しても、二万五千円ほど残る。会社が増産や海外販売に関する情報を出せば、市場も売上への影響を意識するはずだった。


『二週間以内に購入価格を十五パーセント以上上回る確率は、七十九パーセントです』


『流行が縮小したら、その時点で売る。八百六十五円で百株買おう』


『注文内容に問題はありません』


 指値注文は、その日のうちに成立した。


 前の僕なら、海外で洗顔料の動画が流行したと聞いても、日本企業の株へ結びつけようとは思わなかっただろう。


 今は、商品が売れた先に誰の利益が生まれるのかを考える。


 映像についても同じだった。


 誰が見て、どんな感情を持ち、その後に何をするのか。目的から逆に辿れば、画面へ残すべきものも少しずつ見えてくる。



 撮影準備は、考えていた以上に細かな作業が多かった。


 絵コンテだけなら早く作れるが、そこに映るのは人間だ。日菜が実際にできる動きなのか、バンドのメンバーが演奏しながら同じ位置へ立てるのか、限られた時間で撮影機材を移動できるのかまで確かめなければならない。


 頭の中で成立する映像と、現場で撮れる映像は違う。


 玲奈と一緒に、大学の空き教室で動きを試した。


「ここから歩いて、窓の前で振り返って」


「わたしが日菜さん役?」


「今はね」


「歌わなくていい?」


「歌いたいなら止めないよ」


「人前では歌わない」


 玲奈が指定した場所まで歩き、窓の前で振り返る。僕はスマートフォンのカメラで、その動きを撮った。


「もう一回。今度は少しゆっくり」


「どこが駄目だった?」


「振り返る前に、玲奈の顔が窓へ映ってた。最初は表情を見せたくないから、角度を変えたい」


「日菜さんなら、わたしと身長も違うよ」


「四センチくらい違う。現地では本人に合わせて直すよ」


「そこまで分かるんだ」


「プロフィールにも載ってるからね」


 玲奈が立つ場所を変え、窓とカメラの位置を見比べた。


「こっちから撮れば、振り返るまで顔が映らないんじゃない?」


 試してみると、玲奈の案のほうがよかった。


 歩いている間は顔が隠れ、振り返った瞬間だけガラスへ映る。視線はカメラへ向かず、窓の向こうを見ているようにも見えた。


「これ、使えるね」


「日菜さんより、わたしを出してもいいよ」


「歌ってくれるなら考える」


「それは嫌」


「なら代役は今日までかな」


「撮影には行くよ」


 玲奈は僕の手からスマートフォンを取り、先ほどの映像を何度か再生した。


「佐村君」


「なに?」


「この前、日菜さんと会ったんだよね」


「うん」


「付き合ってるの?」


「付き合ってないよ」


「向こうは、それでいいって言ってるの?」


 質問の意図を、知らないふりはしなかった。


「話したうえで会ってる」


「なら、いいけど」


「日菜を心配してる?」


「うん。佐村君は、自分で困らないようにできそうだから」


「僕も少しくらい心配してくれていいよ」


「困ったら、そのときに言って」


 玲奈はスマートフォンを僕へ返した。


 僅かに空気は変わったものの、作業を止めるほどではない。


「もう一回やろう。今度は、振り返った後に二歩だけ窓へ近づいて」


「細かいなあ」


「この場面の主役は日菜だからね。綺麗に撮りたい」


「全員を格好よく撮るんじゃなかったの?」


「全員が映る場面ではね」


「正しいけど、ちょっと腹立つ」


 そう言いながらも、玲奈は元の位置へ戻った。



 瑞祥生活科学の株価は、購入後の三営業日で九百円を超えた。


 国内でも商品を紹介する記事が増え始めたが、会社からの発表はない。動画の拡散速度も落ちておらず、現地では新たに入荷した在庫も短時間で売り切れていた。


 売却すれば四千円ほどの利益になる水準だったが、判断を変える材料はないため、そのまま保有を続けた。


 五月二十一日の取引終了後、瑞祥生活科学は対象商品の生産量を引き上げると発表した。


 発表内容に、海外での流行という言葉はない。国内外からの注文増加に対応するため、工場の生産体制を一時的に変更するというものだった。


 翌朝、市場が開くと株価は九百八十円を超えた。


『現在の注文量と流通している株式数から、千四十二円まで到達する可能性が高いと判断します』


『なら、そこで百株全部売る』


 講義が始まる前に注文を置き、成立したのはその日の午後だった。


 購入価格との差は、一株百七十七円。手数料を差し引く前で、一万七千七百円の利益になる。


 証券口座にある資金は、十三万円に近づいた。


『十日もかからず、一万七千七百円か』


『投資額に対して約二十・五パーセントです。ただし、同じ条件の取引を常に行えるとは限りません』


『分かってる。次の候補がないなら、しばらく現金のままにしておくよ』


『現時点では、購入を推奨できる候補はありません』


 条件の悪い取引をするくらいなら、何も買わないほうがいい。


 次の機会を待つ間にも、僕がやることは残っている。



 五月二十五日。


 郊外にあるスタジオへ着いたのは、午前八時を少し過ぎた頃だった。


 写真で見ていた建物は、実際に目の前へ立つと想像より大きかった。かつては金属部品を作っていた工場らしく、高い天井から太い梁が渡され、壁際には使われなくなった作業台が残っている。錆びた窓枠の向こうから朝の光が差し込み、床へ細長い影を落としていた。


 外には、ひび割れたコンクリートの間から草が伸びている。


 前半と後半を、同じ場所とは思えないように撮れそうだ。


「和希、これ着てみた」


 日菜が控室から出てくる。


 衣装は白に近い灰色のワンピース。街で一緒に買った緑のものとは違い、光を通す薄い布が重ねられている。歩くと僅かに揺れ、止まっていても形が硬く見えない。


「いいと思う。ただ、最初の場面では髪を下ろして、後半だけ少しまとめたい」


「途中で変えるの?」


「曲が変わるところでね。大きく変える必要はないけど、同じ服でも印象を分けたい」


 日菜が鏡の前で髪を持ち上げる。


「こんな感じ?」


「もう少し低い位置。玲奈、見てもらっていい?」


「うん。日菜さん、こっち向いて」


 玲奈が日菜の後ろへ立ち、髪をまとめる。二人で形を決めている間に、僕はカメラの位置を確認した。


『現在の光は想定範囲内です。十一時以降は雲が増え、窓から入る光が弱くなる可能性があります』


 だったら窓を使う場面から撮ったほうがいいか。


 順番を入れ替えるため、栗原さんへ機材の移動を相談する。準備は間に合うと判断され、日菜が一人で工場内を歩く場面から始めることになった。


 床へ置いた印から歩き始め、窓の前で止まる。顔は直接撮らず、ガラスに映った姿を使う。


 説明を聞いた日菜が、開始位置へ立った。


「普通に歩けばいい?」


「最初はね。窓の前で止まった後、すぐ外を見ないで。自分が映っていることに気づいて、その顔を見るようにしてほしい」


「難しいこと言うね」


「一度やってみよう。違ったら、そこから直す」


 撮影を始める。


 日菜がゆっくり歩き、窓の前で足を止めた。視線を上げる動きが、想定していたより早い。


 撮れた映像をその場で確認してもらう。


「今のだと、最初から窓を見ると決めていたように見える。立ち止まってから、一度だけ迷ってほしい」


「迷うって、どうすればいい?」


「顔は動かさずに、目だけ先に窓へ向けて。それから、ゆっくり顔を上げてみて」


「分かった。もう一回」


 二度目は、目だけが先に動いた。


 髪に隠れていた横顔が窓へ映り、本人と反射した姿が、一瞬だけ同じ画面で向き合う。


「カット」


 映像を戻し、全員へ見せる。


 日菜が画面を覗き込んだ。


「これ、わたし?」


「日菜だよ」


「自分じゃないみたい」


「悪い意味?」


「逆。ちゃんと映像の中の人に見える」


 近くで見ていたバンドのメンバーも、画面へ身を寄せている。


「この感じで全部撮れるなら、かなりよくなりそう」


「全部を同じにはしません。曲に合わせて、後半は動きを増やします」


「分かった。次は何をすればいい?」


 そこからは撮影したものを見せ、必要な場所だけ直していく。日菜の歩く速度、バンドメンバーの立ち位置、演奏中に向ける視線も、実際の映像を基準に調整した。


 玲奈が気づいたことも、その場で取り入れる。


「佐村君、日菜さんの髪、今の光だと顔に影がかかってる」


「助かった。少し横へ流そう。日菜、止まって」


 玲奈が髪を整え、僕がカメラで確認する。


「今のほうがいい。ありがとう」


「こういうところ、男の人だけだと見落とすんだよね」


「次からは先に確認する」


「今日は素直だね」


「撮影をよくする意見なら素直に聞くよ」


 午前中に室内の場面を撮り終え、午後は建物の外へ出た。


 空には薄い雲が広がっていたものの、日差しは完全には消えていない。強すぎる影が抑えられ、むしろ撮りやすい光になっている。


 後半では日菜だけでなく、バンド全体を広く映す。


 音源を流し、実際の演奏に合わせて動いてもらう。楽器の音は使わないが、手元が曲とずれれば映像から分かるため、何度か撮り直した。


 最後に残ったのは、日菜がカメラへ背を向けて歩き、曲が終わる直前に一度だけ振り返る場面だった。


 笑顔にはせず、悲しそうにも見せない。何かを決めた後の、少しだけ力が抜けた顔が欲しかった。


「そんな細かい表情、できるかな」


「日菜ならできるよ」


「どうして?」


「歌ってるときは、もっと難しいことをしてるから」


 日菜は少し黙り、開始位置へ向かった。


 音楽が流れる。


 前へ歩き、曲が終わる直前に振り返る。


 最初は表情が強すぎた。二度目は、カメラを意識しているように見える。


 三度目。


 日菜の視線が、レンズではなく、その向こうにいる僕へ向いた。ほんの少しだけ口元が緩む。


 ライブハウスで最初に撮ったときと似ているが、あのときより静かな表情だった。


「カット」


 声をかけても、日菜はしばらくその場所に立っていた。


 映像を確認する。


 予定していたものより、いい表情が撮れている。横から画面を覗いた玲奈も、すぐには何も言わなかった。


「これで終わり?」


 戻ってきた日菜が尋ねる。


「最後はこれを使う」


「今のでよかった?」


「一番よかったよ」


「ならよかった」


 日菜は笑って、バンドのメンバーのところへ戻っていった。



 撮影は、予定していた終了時刻より四十分早く終わった。


 ここから映像を選び、音へ合わせ、色と明るさを整える作業が始まる。完成まではまだ何日も必要だが、撮影した範囲に致命的な不足はない。


 最後の日菜の映像は、絵コンテより〇・八秒ほど長く使えそうだった。


『前後を短くすれば残せる?』


『可能です。全体の構成を確認してから調整することを推奨します』


『僕もそうするつもりだった』


 機材を片づけ、忘れ物がないか確認してから、撮影場所の外へ出る。


 夕方の風が、汗の残る肌には少し冷たかった。


 日菜はバンドのメンバーと帰るため、今日は僕の部屋へ来ない。


「完成、楽しみにしてる」


「日菜が何度も見たくなるものにするよ」


「期待していい?」


「期待してて」


 日菜が近づき、ほかの人間から見えにくい位置で僕の手へ触れた。


「終わったら、今度はゆっくり会おうね」


「うん。僕もそのつもり」


 指先が離れ、日菜は先に歩いていく。


 その背中を見送っていると、駐車場の端に、朝はなかった赤いスポーツカーが停まっていることに気づいた。


『トヨタ・86です。中古車であれば、状態と年式によって二百万円以下の個体も確認できます』


『この前よりは、随分近くなったな』


『現在、投資に使用できる資金は約十三万円です。車両価格に加え、維持費と生活資金も必要です』


『分かってる。すぐに買うつもりはないよ』


 免許すら持っていないのだから、今すぐ値段だけを比べても仕方がない。それでも七百万円より、二百万円のほうが現実に近く見える。


『期限は決めなくていい。買っても困らないだけの資産になったら教えて』


『車両価格、維持費、生活資金を含めて判断します』


『それでいい』


 一月には八万円だった。


 靴やパソコン、服を買いながらも、投資に使える資金は少しずつ増えている。次に条件のよい企業が現れたら買い、映像の依頼が来れば自分の手でも稼ぐ。


 十三万円を二百万円にする道筋は、まだ見えない。


 それでも進む方向くらいは決められた。



 帰りの電車へ乗る前に、日菜からメッセージが届いた。


《今日はありがとう。最後の映像早く見たい》


《編集できたら見せる》


《玲奈ちゃんより先?》


《サークルで確認するから、作業中の映像は玲奈が先に見ると思う》


《そこは嘘でもわたしって言ってよ》


《完成したものは、日菜に最初に見せる》


《それなら許す》


 続けて、もう一件届く。


《今日の和希、格好よかった》


《撮影してたから?》


《みんなが和希を信じて動いてたから》


《次は今日より上手くやるよ》


《自信あるね》


《今日よりできることが増えるから》


 日菜から、笑っている顔の記号が返ってきた。


 僕はスマートフォンをしまい、ホームへ入ってきた電車へ乗る。


 明日からは編集が始まる。


 証券口座には十三万円近い資金があり、クローゼットには日菜が選んだ新しいシャツがある。そして撮影した映像の中には、僕へ向けられた日菜の表情が残っていた。


 まだ車の鍵はない。


 けれど、いつか何を買おうかと考える時間くらいは、もう始めてもよさそうだ。






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