17話 百株の売却注文が成立しました
連休の終わりが近づいた夜、僕はジンから三社分の情報を聞いていた。
机の上には、映像制作の報酬として受け取った八千円が入った封筒と、開いたままのノートパソコンが置かれている。
証券口座に残っている投資資金は、八万七千円あまり。
連休前に保有していた株は、すべて売却して現金へ戻してある。日本の市場が十日間も閉まっている間に何が起きるか分からず、持ち越すだけの理由もなかった。
結果として、大きな悪材料は起きていない。
代わりに、まだ国内ではほとんど話題になっていない情報が、海外でいくつか公開されていた。
『一番条件がいいのは?』
『現時点では、京北微研株式会社です』
聞いたことのない名前だった。
検索すると、半導体や電子部品の製造に使われる微細加工装置を作っている会社が表示される。上場しているとはいえ、従業員は百人ほど。売上高も、僕が名前を知っている大企業とは二桁以上違う。
株価は、連休前の終値で七百三十六円。
百株買っても、今の資金で足りる。
『何が起きる?』
『確定している事象として、米国の半導体メーカー、ネオロジック社が新工場の設備計画を従来より前倒ししました。連休中に、建設を担当する企業の資料と、州政府による優遇措置の承認記録が公開されています。発表はすでに行われ、情報は株価へ反映されつつあります。また、和希が現在利用している口座と資金では、効率的に取引できません』
『なるほどね。そこに京北微研が関係してくるんだ』
『はい。新工場へ納入される製造装置には、京北微研が製造する位置補正部品が採用される可能性が高いと判断しています』
京北微研のウェブサイトを見ても、ネオロジック社の名前は載っていない。
公開されている主要取引先にも、それらしい企業はなかった。
『そんな情報はないけど』
『いいえ。京北微研は、国内の装置メーカーへ部品を供給しています。その装置メーカーが、台湾の企業へ一部の製造を委託し、完成品をネオロジック社へ納入していると推測されます』
『随分遠いね』
『京北微研から見れば、取引先の取引先を経由した最終顧客です』
『間違いなく京北微研の部品が使われてる?』
『完全には確定できません。京北微研の特許と製品仕様、国内装置メーカーが公開した調達基準、台湾企業による輸入記録、過去に撮影された工場内部の映像を照合した結果です』
説明を聞きながら、関係する資料を順番に開く。
特許には専門用語と図面が並び、装置メーカーの資料には必要な精度や耐久性が書かれている。輸入記録には、僕が製品名を見ても何に使うのか分からない部品が記載されていた。
それらを一本につなげれば、京北微研へ辿り着く。
だが、最初から答えを知らない人間が、同じ資料を見つけて関係に気づくまでには、どれほど時間がかかるのだろう。
『新工場で使われるのは、京北微研の部品だけ?』
『競合製品も存在します。ただし、求められる精度と納期を満たし、現在の生産能力に余裕がある企業は限られます。京北微研は半年前から製造設備を増設し、技術者の採用も進めています』
『新工場の計画を知って、先に準備してたのかな』
『その可能性が高いと判断します』
『京北微研はまだ何も発表してないよね』
『受注に関する発表はありません』
工場を広げ、人を雇い、必要な材料を仕入れている。その一つ一つは公開されていても、理由までは書かれていなかった。
隠されているというより、説明されていない。
『いつ頃上がるか分かる?』
『不明です。短期的には、海外の設備投資計画から京北微研まで関連づける市場参加者が現れる可能性があります。また、受注が一定規模を超える場合、会社から適時開示が行われることも考えられます』
『どのくらい待つことになる?』
『最長で三か月程度を想定しています。ただし、その間に予測を変更する情報が公開された場合は売却します』
三か月か。
数日で増える取引を経験した後では、長く感じる。
僕の資金はまだ少ない。七万円以上を三か月も動かせなくなれば、その間に別の機会が現れても利用できない。
『ほかの二社なら、もっと早く結果が出る?』
『一社は二週間以内に決算発表を予定しています。もう一社は、数日以内に商品価格が動く可能性があります』
『利益の期待値は?』
『京北微研が最も高く、次に決算発表を控えた企業です。ただし、資金が拘束される期間まで考慮すると、後者を選ぶ判断にも合理性があります』
『ジンなら、どれを買う?』
『以前も回答したとおり、私には資産も損失に対する感情もありません』
『それは覚えてる。僕が資金を増やしたいという条件で選んで』
『短期間の機会損失を許容できるのであれば、京北微研を推奨します』
『なら、それにしよう』
『市場再開後の価格と注文状況を確認してから、購入価格を決定します』
候補は決まった。
あとは市場が開くまで待つだけだ。
その夜、眠る前に日菜からメッセージが届いた。
《明日から大学?》
《そう。休みが長すぎて、入学したばかりなのに夏休み明けみたいな気分》
《ちゃんと起きられそう?》
《日菜と昼まで寝てた日以外はちゃんと起きれてるんだよね》
《わたしのせいみたいじゃん》
《起きてたのにベッドに引きずり込まれたからな》
《そのあと我慢できなくなったのは和希だけどね!》
否定はできない。
《明日は起こしてあげようか?》
《どうやって?》
《電話する》
《日菜のほうが起きられるの?》
《起きる。たぶん》
《信用できないから自分で目覚ましかけとく》
《じゃあわたしが寝坊しなかったら褒めて》
《起こそうとしてる側の台詞じゃないな》
日菜とのやり取りは、関係を持つ前と少し変わった。
名前で呼び合うようになり、少しだけ遠慮がなくなり、互いに何を期待しているのかを探る必要がなくなった。
日菜が僕と付き合うつもりはないと言ったわけではない。
僕の言葉を理解したうえで、自分も今すぐ関係へ名前をつける必要はないと選んだだけだろう。
この気持ちが変われば、そのときに話せばいい。
《今週末、空いてる?》
僕から送る。
しばらく待つと、すぐに返信が届いた。
《空いてる》
《じゃあ行きたいところ考えておいて》
《和希の部屋》
《ご飯食べに行かないの?》
《行く。でも最後は和希の部屋》
《分かりやすいね》
《嫌?》
《そんな訳ない》
画面を閉じる。
『ジン、週末の予定に入れておいて』
『小作日菜と会う予定を登録しました。時刻は未定です』
『明日決める』
『承知しました』
『それと、日菜から朝に電話が来ても、起こさないで』
『和希が寝過ごす可能性がある場合もですか?』
『その場合は起こして』
『条件が矛盾しています』
『日菜の電話だけでは起こさなくていい。でも、大学に遅刻する前には起こして』
『承知しました。通常の起床時刻を過ぎても和希が覚醒しない場合は、音声で通知します』
ジンに任せれば、目覚ましすら必要ない。
一応スマートフォンのアラームは設定した。
便利だから使うことと、できることまで何もかも手放すことは違う。
連休明けの朝、日菜から電話がかかってきたのは、目覚ましが鳴る二分前だった。
「おはよう」
《……起きてた?》
「今起きた」
《声が全然眠そうじゃない》
「寝起きは良い方なんだよね」
《せっかく起こしたのに。あんまり喜んでくれないね》
「ありがとう。日菜は寝坊しなかったんだ」
《褒めて》
「偉い」
《適当》
「十九歳の人が朝起きただけで、ほかにどう褒めればいい?」
《もう少し考えてよ。東大生でしょ》
「人を褒める試験はないからね」
《朝から可愛くない》
不満そうな声とは反対に、日菜は笑っている。
《もう少し話したいけど、準備する。また後で連絡するね》
「うん。遅刻しないようにね」
《和希も》
通話が切れる。
『今の通話時間は三分四十二秒です。予定に影響はありません』
『測ってたの?』
『時刻は常に把握しています』
『日菜に言ったら、朝の電話まで管理されてるんだってドン引きされるよ』
『事実とは異なります。私は通話内容へ介入していません』
『そうですか』
朝食を済ませ、大学へ向かう。
連休前までは新入生ばかりだった通学路も、今日は上級生を含めて人が多い。
ようやく始まりかけていた大学生活が、一度途切れて再開したような感覚があった。
教室へ入ると、益井が後ろから声をかけてきた。
「佐村、久しぶり」
「十日しか経ってないだろ」
「高校までなら十日くらい普通だけど、大学に入ってすぐ休みになったからな。次に会うの、夏休み明けかと思った」
「そのまま夏まで休んだら、単位がなくなるよ」
「俺は一応、昨日の夜から大学へ行く準備してたぞ」
「鞄に教科書を入れただけ?」
「よく分かったな」
「顔に書いてある」
益井の隣には玲奈もいた。
「おはよう、佐村君」
「おはよう」
「連休、何してた?」
「サークルの撮影と編集。後は、何人かと会ったくらいかな」
「何人かって?」
「高校の友達と、撮影で知り合った人」
日菜のことを隠す必要はないが、関係まで話す理由もない。
「撮影で知り合った人って、あのボーカルの人?」
「日菜とは会ったよ」
「下の名前で呼んでるんだ」
玲奈の反応は、声よりも僅かに早かった。
「向こうが名字で呼ばれるのを嫌がったから」
「二人で?」
「うん」
「へえ」
玲奈はそれ以上聞かなかった。
益井が僕たちの間へ顔を出す。
「なに、佐村。もう大学の外でも女の子と遊んでるの?」
「遊ぶという言い方には物申したいけど、食事には行った」
「入学して一か月だぞ」
「益井も誘えばいいだろ」
「誰を?」
「それ僕に聞くの?」
「紹介してくれてもいいじゃん」
「僕の知り合いを、益井が暇だからって理由で紹介したくないよ」
「冷たくない?」
「せめて自分で相手を見つけてから相談して」
「佐村君に頼むより、わたしに頼んだほうが早いと思うよ」
玲奈が横から口を挟む。
「本当?」
「益井君が、初対面で余計なことを言わないって約束するなら」
「何も喋れなくなるだろ」
「その自覚はあるんだね」
三人で話しているうちに、講師が教室へ入ってきた。
席へ着き、ノートと筆記用具を出す。
午前九時。
一限が始まって三十分後、日本の株式市場も十日ぶりに開いた。
『京北微研はどう?』
『七百五十八円で取引を開始しました。現在は七百六十二円です』
連休前より二十円以上高い。
『海外の情報が反映されたのかな』
『京北微研固有の材料ではなく、海外市場で半導体関連株が上昇した影響と考えられます。同業他社も同程度上昇しています』
『いくらで買う?』
『現在の売買状況では、七百六十円に指値注文を置く方法を推奨します。価格が上昇し続けた場合は追いません』
『買えなかったら?』
『別の機会を待ちます』
ジンは、条件が悪くなった銘柄を無理に買おうとはしない。
買うと決めた後ほど、僕のほうが取引を成立させたくなる。機会を逃したくないという気持ちは、株価が数円上がるだけでも簡単に強くなった。
『七百六十二円なら、二百円しか変わらないけど』
『同じ理由で価格を引き上げ続ければ、購入条件そのものが変化します。今回は七百六十円までを許容範囲とします』
『分かった。七百六十円で百株』
『注文内容に問題はありません』
講義中にスマートフォンを操作することはできないため、注文は休み時間まで待つ必要がある。
視覚を共有していても、ジンが僕の代わりに証券口座を操作することはできない。頭の中で注文したつもりになっても、現実の市場には何も届かない。
最初の講義が終わる。
すぐに証券口座を開くと、株価は七百五十四円まで下がっていた。
『どうする?』
『七百五十六円に変更します』
『さっきより安い』
『連休明けの買い注文が一巡し、同業他社も上昇幅を縮小しています』
一株七百五十六円、百株。
注文金額は七万五千六百円。
指値注文を確定すると、数分後に取引が成立した。
残る現金は、一万一千円ほど。
『これであとは待つだけか』
『新たな情報が公開されるまでは、その判断が適切です』
『暇なときって見たくなるよね』
『価格変動を確認する意味はあります。ただし、当初の売却条件に達していない限り、見る回数を増やしても期待利益は変化しません』
『じゃあ見ないようにする』
『承知しました』
講義へ意識を戻す。
七万五千六百円を使った直後なのに、教室の風景は何も変わらなかった。
益井は隣でノートを取り、玲奈は少し前の席でスマートフォンを見ている。僕が今、聞いたこともない会社の株主になったことを知る人間はいない。
京北微研の株価は、その日ほとんど動かなかった。
終値は七百五十一円。
翌日は七百四十四円まで下がり、僕の口座には千二百円ほどの含み損が表示された。
『予測は変わってない?』
『変わっていません』
『市場の誰かが、海外の情報と京北微研を結びつけた形跡は?』
『確認できません。京北微研について新たに投稿された情報の大半は、株価や移動平均線に関するものです。ネオロジック社との関係を指摘した記事や投稿はありません』
『本当に、僕たちだけが知ってるんだ』
『同じ推測へ到達しながら公開していない人物が存在する可能性はあります』
『そういうところ、夢を壊すよね』
『確認できない人物を存在しないと断定することはできません』
『でも、少なくとも買いが集まるほどには知られてない』
『はい』
価格が動いていないことは、不安にもなる。
同時に、まだ誰も気づいていないことの証明にも見えた。
僕は株を保有したまま、大学生活を続けた。
フランス語の授業では、発音を教師に褒められた。
空き時間には玲奈とサークルの部室へ行き、次に撮りたい映像について話す。日菜とは毎日のようにメッセージを交わし、週末の予定も決めた。
その間、京北微研の株価は七百三十円台から七百六十円台の間を行き来した。
大きく上がることもなければ、損切りが必要なほど下がることもない。
『僕が毎日聞かなくても、何かあったら教えてくれる?』
『はい。予測を変更する情報、または売却判断に影響する価格変動が確認された場合は通知します』
『なら、しばらく任せる』
『承知しました』
ジンへ任せるというより、必要になるまで考えないことにした。
見ているだけで金が増えるなら、何時間でも株価を眺める。
実際には、画面を開く回数と利益に関係はない。むしろ、意味のない値動きへ理由を求め、当初の判断を変えたくなる可能性のほうが高かった。
週の半ば、サークルの共有場所へ新しい依頼が届いた。
送り主は、先日のライブに出演していた日菜のバンドだった。
内容は、ライブ映像を使った宣伝ではなく、一曲分の短いミュージックビデオを制作できないかという相談。
予算は大きくないが、撮影場所や衣装の案も含め、これから一緒に考えたいと書かれている。
「この前の映像を見て、頼んできたみたいだな」
部室のパソコンで依頼文を開きながら、栗原さんが言った。
「日菜さんから、何か聞いてた?」
玲奈が僕を見る。
「映像を気に入ったとは聞いてたけど、依頼する話は聞いてない」
「名前で呼ぶくらいには仲よくなったのに?」
「依頼の話と関係ある?」
「別に」
玲奈は画面へ視線を戻した。
依頼が日菜から僕個人へ送られていないことには、少し安心した。
前回の撮影はサークルの仕事だ。
その映像を見て生まれた次の仕事も、まずサークルへ持ち込むのが正しい。僕と日菜が個人的に会っていることを理由に、依頼まで僕一人のものにすれば、栗原さんたちへ説明がつかない。
「受けるんですか?」
「条件を確認してからだけど、受けたいとは思ってる。ライブを撮るのと違って、最初から映像を作れるからな」
栗原さんは依頼文を下まで読み、添付されていた楽曲を再生した。
日菜の声が、部室にある小さなスピーカーから流れる。
ライブで聴いた曲よりテンポが遅く、前半は静かだった。後半に近づくにつれて楽器が増え、日菜の声も強くなる。
「佐村、この曲で何か浮かぶ?」
「今聞いたばかりですよ」
「思いついた範囲でいい」
楽曲を最初からもう一度流してもらう。
『この曲の構成を分けて』
『イントロが十二秒。第一節が三十六秒、続いて十五秒の間奏があります。その後――』
時間と変化を聞きながら、頭の中で映像を組み立てる。
曲の前半は、誰もいない狭い場所。
日菜を正面から撮るのではなく、鏡やガラスへ映った姿を使う。楽器が増えるにつれて画面を広げ、最後は屋外へ出す。
歌詞の内容をそのまま映像にすると、説明にしかならない。閉じた場所から開いた場所へ移る変化だけを借りたほうがいい。
「前半は、狭い室内で日菜さん一人を撮りたいです。直接顔を映すより、鏡や窓への反射を多くして。後半でメンバーを入れて、最後は屋外へ出す」
「歌詞に合わせて、閉じた場所から外へ出る感じ?」
玲奈が尋ねる。
「そう。ただ、暗い部屋から明るい外へ出るだけだと、少し分かりやすすぎる。前半の部屋も綺麗に撮って、外へ出ることが単純な救いに見えないほうがいいと思う」
「中に残ることも、悪いことじゃない?」
「本人が選ぶまではね」
栗原さんが楽曲を止めた。
「いいな」
「今の段階では、イメージだけですけど」
「最初はそれでいい。場所と予算に合わせて、できる形に直せばいい」
依頼文には、完成まで一か月ほどを希望すると書かれている。
大学へ入ったばかりの僕が、一曲分の映像を中心になって作るとは思っていなかった。
「佐村、この企画をやってみるか?」
「僕が、ですか?」
「この依頼につながった宣伝映像も、佐村が大部分を編集しただろ。それに、今の案も悪くない。俺が撮影や進行を見るから、企画と編集をやってみてほしい」
「やりたいです」
大学へ入って、まだ一か月ほどしか経っていない。そんな僕に一本の映像を任せてくれるというのなら、断る理由はなかった。
「生沢にも入ってもらうつもりだ。いいか?」
栗原さんに話を向けられた玲奈は、僕より先に答えを決めていたようだった。
「もちろんやります。佐村君だけだと、日菜さんばっかり綺麗に撮りそうだから」
「ボーカルを綺麗に撮るのは、間違ってないと思うけど」
「ほかのメンバーも忘れないでね」
「そこまで信用ない?」
「そのために、わたしがいるんでしょ」
仕事として受ける以上、日菜だけを見て作るようなことはしない。
バンド全体をどう見せるか。曲を初めて聴いた人間に、もう一度聴きたいと思わせられるか。
考えることは多い。
難しいほど、出来上がったときは面白そうだった。
京北微研に動きがあったのは、その翌日の午後だった。
講義が終わり、益井と教室を出ようとしたところで、ジンの声が聞こえた。
『京北微研が、海外向け製造装置部品の大口受注を発表しました』
『ネオロジック社の新工場?』
『最終顧客の名称は公表されていません。受注時期、製品仕様、納入先の地域は予測と一致しています。受注額は約十二億円。前期売上高の二十八パーセントに相当します』
予想していたより大きい。
『株価に変化は?』
『発表前は七百六十一円です。現在は取引時間外のため、変化していません』
『明日には上がるだろうね』
『買い注文が先行する可能性が高いと判断します。ただし、受注額の一部は来期以降に計上されるため、短期的な上昇幅は市場参加者の評価によって変化します』
「佐村、どうした?」
先を歩いていた益井が振り返った。
「忘れ物を確認してた」
「何かあった?」
「いや、なかったよ」
鞄を持ち直し、教室を出る。表情を変えないよう意識する必要があった。
僕が株を買った時点で、会社から受注に関する発表はなかった。
京北微研自身が公表した今なら、誰でも同じ情報を読める。明日の市場では、記事を見た投資家や、発表を自動で検出した取引システムが一斉に買い注文を出すだろう。
その中で、僕だけは発表される前から百株を持っている。
『売却価格はいくらの予定?』
『明日の寄り付き前に、注文状況を確認して判断します。現時点では千円から千百円の範囲を想定しています』
『一株千円を超えるんだ』
『同規模の企業が、売上高に対して同程度の受注を発表した過去の事例では、翌営業日から三営業日の間に、二十五パーセントから五十パーセント上昇しています』
『最高なら五割か』
『最高値を狙うことは推奨しません』
『まだ何も言ってない』
『和希が過去に、同じ状況で最高値を確認しています』
『覚えてたんだ』
『はい』
ジンに忘れるということはない。
僕自身も、東央計測を売った後に株価がさらに上がり、少し惜しいと思ったことは覚えている。
最高値は過ぎてからでなければ分からない。
利益を最大化することと、天井で売ることは同じではない。
二日後、京北微研には大量の買い注文が集まっていた。
『現在の注文状況では、九百二十円前後で取引が始まる可能性が高いと判断します』
『前に言ってた千円には届かない?』
『取引開始後も買いが続けば到達する可能性があります。九百九十八円に売却注文を置く方法を推奨します』
『キリのいい数字は避けるべき、だよね』
『千円は心理的な節目となり、売り注文が増えます。その手前へ置くことで、成立する可能性を高めます』
百株を九百九十八円で売却する注文を出す。
取引が始まった後も、すぐには成立しなかった。
最初についた価格は九百三十一円。
そこから九百五十円を超え、一度九百二十円台まで戻る。
『下がってるけど』
『取引開始時に購入した短期投資家による売却と推測されます。買い注文の総量に大きな変化はありません』
『注文はそのまま?』
『はい』
今日は二限からだった。
部屋を出て大学へ向かう間も、株価は上下を繰り返した。
九百七十円。
九百四十八円。
九百八十二円。
あと十六円まで近づいた後、また離れていく。
『九百八十円で売れば、もう成立するよね?』
『はい。売却すれば、手数料を考慮する前で二万二千四百円の利益を確定できます』
『九百九十八円まで待つ価値は?』
『現在の注文状況が継続する場合、到達確率は七十二パーセントです。ただし、九百八十円で売却する判断も誤りではありません』
利益はすでに出ている。
ここから値下がりして二万円を逃せば、九百八十円で売らなかったことを後悔するかもしれない。
一方で、値上がりする根拠が消えたわけでもない。
『そのままで』
『承知しました』
スマートフォンを鞄へ入れた。
電車を降り、大学へ向かう。歩いている間も、ジンは株価を把握している。
自分で画面を見続けるより、ずっと楽だった。
『九百九十円を超えました』
正門が見えたところで、声が届く。
『九百九十八円に到達。百株の売却注文が成立しました』
足を止めずに歩き続ける。
『利益は?』
『手数料を考慮する前で、二万四千二百円です』
七万五千六百円で買った株を、九万九千八百円で売った。
証券口座に残していた現金と合わせれば、運用資金は十一万円を超える。
『今日の最高値は?』
『まだ確定していません』
『聞かないほうがいい?』
『今後の取引判断に利用するのであれば意味があります。ただし、売却後の価格を見て感情的に評価を変える場合は推奨しません』
『なら、終わってから教えて』
『承知しました』
売った後まで、最高値を追いかける必要はない。
利益はすでに口座へ残っている。
大学の敷地へ入り、講義室へ向かう。
途中でスマートフォンが震えた。
日菜からだった。
《おはよー。週末、何時にする?》
《昼過ぎに迎えに行く。行きたいところ決まった?》
《決まった。てかミュージックビデオの依頼見た?》
《栗原さんと話したら、僕が企画と編集を担当することになった》
《本当に?》
《うん。日菜を一番綺麗に撮るから》
《仕事で贔屓していいの?》
《日菜だけじゃなく全員を格好よく撮ることにする》
《二人のときは、わたしだけ見てね》
《もちろん》
送信してから、少し考える。
《週末は迎えに行く。場所を送って》
すぐに住所ではなく、待ち合わせに使いたい駅の名前が送られてきた。
《楽しみにしてる、和希》
証券口座では金が増え、サークルでは一本の映像を任され、週末には会いたいと言ってくれる女性がいる。
どれか一つを選ぶ必要はない。
時間が足りないなら、使い方を考えれはいいだけだ。
『ジン。今週の予定を全部整理して。ミュージックビデオの案を考える時間も欲しい』
『本日の講義終了後に二時間、明日の空き時間に一時間二十分確保できます。週末の予定へ影響はありません』
『投資候補は?』
『現在の資金で購入可能な候補が二社あります。ただし、京北微研と同程度の優位性はありません』
『なら、無理に買わなくていい。映像を優先する』
『承知しました』
金を増やせるからといって、一日中そのことだけを考えるつもりはない。
講義室へ入ると、玲奈が自分の隣の席を軽く叩いた。
「佐村君、こっち」
益井は、その反対側で眠そうに欠伸をしている。
「おはよう、玲奈」
「昨日の曲、もう一回聞きたくてさ。授業が終わったら部室へ行かない?」
「いいよ。僕も考えたいことがある」
「日菜さんを綺麗に撮る方法?」
「全員を格好よく撮る方法」
「少し言い直した?」
「玲奈がうるさいからね」
隣へ座り、ノートを開く。
『そういえば、京北微研の終値は後で教えて』
『最高値ではなく、終値ですか?』
『売った後も、判断が正しかったかは確認したいから』
『承知しました』
講師が教室へ入り、周囲の話し声が小さくなる。
僕はスマートフォンを伏せ、最初のページへ日付を書いた。
連休が終わり、大学生活が戻ってきた。
戻ってきたという表現が正しいのかは、少し怪しいか。
休みに入る前の僕は、たまたま出会った女性から名前を呼び捨てにされることもなかったし、ミュージックビデオを任されてもいなかった。
十日ぶりに始まった日常は、休みに入る前より随分と僕の好みに近づいていた。




