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頭の中の最強AI ──金も女も、そして世界も手に入れる──  作者: 橙色
東京大学一年生編

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16/45

16話 今日ここに来たのは、わたしだよ





 連休に入って最初の外部撮影は、都内の小さなライブハウスで行われた。


 地下へ続く狭い階段を下りると、まだ開場前だというのに、空気には微かな熱がこもっている。黒く塗られた壁には過去に出演したバンドのフライヤーが何枚も重ねて貼られ、奥のステージでは照明と音響の確認が始まっていた。


 今回の依頼は、四組が出演する学生向けのライブイベントを撮影し、全体の記録映像と、宣伝に使える短い映像を作ること。


 交通費と機材の運搬費とは別に、サークルが受け取る報酬は六万円。その一部をサークルの運営費として残し、残りが参加した部員へ分配される。


 僕が投資で動かしている金額と比べれば、大きくはない。


 ただ、自分の手を動かした対価として初めて受け取る金になるかもしれないと思えば、意味は違って見えた。


「佐村は、そのカメラを頼む」


 栗原さんに指定されたのは、ステージの左側へ置かれた固定カメラだった。


「基本は全体を押さえておけばいい。ただ、曲によって立ち位置が変わるから、完全に放置はしないでくれ。余裕があれば寄ってもいいが、迷ったら全景へ戻せ」


「分かりました」


「生沢は客席側。前へ出すぎると邪魔になるから、壁際を使って動いて」


「はい」


 玲奈は返事をしながら、肩へ掛けたカメラの位置を直した。


 先日の撮影とは会場の広さも、照明も違う。ステージ上に白い縞が出るような分かりやすい問題はないが、客席が暗いぶん、明るいステージとの落差が激しい。


『露出は、今の設定で問題ない?』


『照明が予定どおりに使用されるなら問題ありません。ただし、二組目の演奏中には赤色の照明が多用されます。現在の設定では、演者の顔から細部が失われる可能性があります』


『照明の予定まで分かるの?』


『操作卓の脇に、各楽曲の照明指示が置かれています。先ほど視界に入りました』


 意識して読んだ覚えはない。


 設営中に操作卓の前を通った際、紙の一部が見えていたのだろう。僕は二組目の演奏が始まる前に変更できるよう、設定を記憶しておく。


 出演者たちは、ステージと控え室を行き来しながら準備を進めていた。


 その中に、一人だけ何度かこちらを見る女性がいた。


 肩に触れるほどの暗い茶髪。華奢に見えるが姿勢がよく、立っているだけでも人の視線を集める。白いシャツの上へ黒い薄手の上着を羽織り、下は細身のパンツという簡素な服装なのに、ステージへ立つ人間らしい華があった。


 目が合うと、彼女は逸らさずに軽く笑う。


 知り合いではない。


 機材を確認する僕の後ろに誰かいるのかと思ったが、どうやら違うようだった。


『彼女は出演者?』


『三組目に出演するバンドのボーカルです。公開されているイベント告知では、小作日菜と紹介されています。十九歳。都内の音楽専門学校へ通っています』


『そこまで聞いてないよ』


『質問に関連する公開情報を回答しました』


『顔が好みかどうかは聞かないんだね』


『必要ですか?』


『いや。そこは自分で分かる』


 好みではある。ジンに分析してもらうほど難しい判断ではなかった。


 ただ、撮影する側が出演者を見ているのは当然のことだ。向こうが何度かこちらを見た理由まで、自分に都合よく決めるつもりはなかった。


 開場時間が近づき、客席へ人が入り始める。


 玲奈がカメラを持って僕の隣へ来た。


「さっきから、三組目のボーカルに見られてない?」


「気のせいじゃない?」


「わたしと話してる今も、こっち見てるけど」


 視線だけを向けると、日菜はステージ袖でバンドのメンバーと話していた。すぐに顔を戻したため、本当にこちらを見ていたのかは分からない。


「機材が気になるんじゃないかな」


「カメラじゃなくて、佐村君を見てるように見えるけどね」


「本当なら、撮影が終わってから考えるよ」


「そういうところだけ真面目だよね」


「仕事だからね」


 報酬が出るからというだけではない。


 受けた以上、失敗してサークルの評判を落とすのは嫌だった。日菜が僕を見ていようが、単に玲奈の勘違いだろうが、撮影を終えてからでも確かめられる。


「生沢、そろそろ位置について」


 栗原さんの声が飛んでくる。


「はーい。佐村君も、ボーカルばかり撮らないようにね」


「そんなことしたら、編集で玲奈にも分かるだろ」


「分かるなら安心かな」


「信用されてないね」


「撮影の腕は信用してるよ」


 玲奈は笑いながら客席の奥へ向かった。


 間もなく照明が落ち、最初のバンドがステージへ上がる。


 演奏が始まると、考えることは多かった。


 全員を画面へ収めるだけなら難しくない。しかし、固定カメラの映像も、ただ広い画角で記録すればいいわけではなかった。


 ボーカルが前へ出れば少し寄る。ギターが見せ場へ入ったときは、ほかのカメラがどこを撮っているかを確認し、必要ならこちらで全体を残す。客席が大きく動く場面では、ステージだけでなく、演者と観客が同じ画面へ収まる位置を選ぶ。


 事前に曲順は聞いていた。だが、演奏中の動きまで予定どおりとは限らない。


『次の十秒以内に、右側のギターが中央へ移動する可能性が高いです』


『直前の二曲でも、同じ場所で動いてたね』


『はい。足の向きも中央へ変わっています』


 画角を僅かに広げると、予測どおりギターがボーカルの隣へ出た。


 二人が並んだ瞬間を逃さず、少しだけ寄る。


 ジンの声は必要なときにだけ届く。僕も、すべてを尋ねることはしなかった。


 演者の動きを読み、画面の中へ収めること自体が思っていたより面白い。何を撮ればいいのかまで一つずつ教えられていたら、その楽しさまで失ってしまう。


 二組目が終わり、短い転換時間へ入る。


 三組目の準備が始まると、ボーカルが黒い上着を脱ぎ、白いシャツ姿でステージへ上がった。細い銀色のネックレスが、照明を受けて胸元で光る。


 ステージへ上がる前の日菜は、よく笑い、年相応に見えた。


 マイクを持ち、客席へ顔を向けた瞬間、その印象が変わる。


 最初の音が鳴った。


 小さな身体から想像していたより、強い声だった。


 高い音でも細くならず、言葉の終わりに僅かな掠れが残る。客席の空気が、歌声に引かれて一斉にステージへ集まっていく。


『上手いね』


『技術的には、音程の安定性と声量が出演者の中で最も優れています。一方、低音域では呼吸の支えが弱くなる傾向があります』


『褒めるだけでは終わらないんだ』


『改善点を含めて評価しました』


 僕は画面の中の日菜を追った。


 ボーカルだけを撮り続けるつもりはなかったが、彼女を中心に構図を作ると画面がまとまる。どこへ立てば自分がよく見えるのか、意識せず理解しているのだろう。


 曲の間奏へ入る直前、日菜がこちらを見た。


 今度は気のせいではない。


 レンズ越しに目が合う。


 日菜は歌いながら、ほんの僅かに口元を緩めた。


 撮られている相手に視線を返しただけとも考えられる。それでも、何度も起きれば偶然として処理するほうが不自然だった。


『今の笑顔、撮れてる?』


『記録されています』


『それならいい』


『小作日菜が和希個人へ向けた笑顔である確率も算出しますか?』


『いらない。本人と話せれば、そのとき分かるかもしれないだろ』


『承知しました』


 そこまで数字にされると、楽しめるものまで味気なくなりそうだ。


 演奏が終わる。


 日菜が客席へ深く頭を下げ、ステージ袖へ消えるまで、カメラを止めなかった。


 最後の出演者を撮り終えた後も、すぐには帰れない。


 機材を片づけ、主催者と映像の納期を確認し、記録媒体が破損していないか確かめる。


 玲奈と一緒にケーブルをまとめていると、横から声をかけられた。


「撮影、お疲れさまです」


 顔を上げる。


 ステージ衣装から私服へ着替えた日菜が、僕たちの前に立っていた。


 先ほどまでの白いシャツではなく、薄い灰色のニットを着ている。化粧も少し落としたのか、ステージ上より幼く見えた。


「お疲れさまです。ライブ、よかったです」


「ありがとうございます。ちゃんと撮れてました?」


「確認はこれからですけど、記録自体に問題はないと思います」


「よかった。カメラが何台もあると、どこを見ればいいのか分からなくて」


「僕のカメラは、結構見てましたよね」


 遠回しに探るより、聞いたほうが早い。


 日菜は一瞬だけ目を丸くした後、隠す様子もなく笑った。


「ばれてました?」


「何度か目が合ったので」


「撮ってる人が格好いいと、そっちを見たほうが映像もよくなるかなって」


「撮る側の腕とは関係ないですよ」


「でも、いい顔はしてたでしょ?」


「それはそうですね」


 日菜は満足そうに頷いた。


 隣にいた玲奈が、僕と日菜を交互に見る。


「佐村君、知り合いだったの?」


「今、初めて話してる」


「初対面で、もうそんなに普通に話せるんだ」


「日菜って呼んでください。小作って、あんまり可愛くないし」


 玲奈へ向けた言葉だったが、僕にも聞かせているのは明らかだった。


「じゃあ、日菜さん。わたしは生沢玲奈です。こっちは佐村和希君」


日菜って呼んでください。小作って、あんまり可愛くないし」


「じゃあ、日菜さん。わたしは生沢玲奈。こっちは佐村和希君」


「二人とも学生?」


「うん。大学一年」


「同じ大学?」


「二人とも東大だよ」


「東大?」


 日菜が驚いたように僕を見直す。


「映像の学校に通ってる人たちだと思ってた」


「サークルはインカレだよ。僕たちは、たまたま同じ大学だっただけ」


「東大に入って、ライブの撮影までしてるんだ」


「撮影は始めたばかりだけどね」


「それでもすごいよ」


「日菜さんも学生?」


「音楽の専門学校。二年だから、今年で終わり」


「卒業した後も、今のバンドを続けるの?」


 玲奈が尋ねる。


「そのつもり。食べていけるかは分からないけど、就職して休日だけ歌うより、できるところまではやりたいかな」


 軽い口調で話しているが、簡単な選択ではない。


 音楽だけで生活できる人間がどれほどいるのか、本人も分かっているだろう。


「今日の映像って、わたしたちも見れる?」


「主催者に納品した後なら、出演者にも渡ると思う。短い宣伝映像も作る予定だから、そこには日菜さんも入るかもしれない」


「本当? できたら教えてほしい」


 そう言って、日菜がスマートフォンを取り出した。


「連絡先、交換してもいい?」


 質問は僕へ向けられている。


「いいよ」


 互いの連絡先を交換する。


 画面に表示された名前は、小作日菜。


《今日はありがとう。映像、楽しみにしてます》


 目の前にいるのに、すぐにメッセージが届いた。


《こちらこそ。完成したら連絡する》


 返信すると、日菜が自分の画面を見て笑う。


「早いね」


「遅らせたほうがよかった?」


「そういう駆け引きは面倒だから、早いほうがいい」


「ならこのままにするよ」


 少し離れたところから、栗原さんに呼ばれる。


 まだ運ぶ機材が残っていた。


「じゃあ、また連絡する」


「うん。待ってる」


 日菜と別れ、機材のところへ戻る。


 玲奈も一緒についてきたが、少しの間、何も言わなかった。


「どうしたの?」


「別に。佐村君って、初対面の女の人にもあんな感じなんだと思って」


「あんな感じって?」


「自然に連絡先を交換する感じ」


「聞かれたから交換しただけだよ」


「断る理由もないもんね」


「玲奈も一緒に話してただろ」


「わたしの連絡先は聞かれなかったけど」


 言われてみればそうだった。


「映像が欲しいから、撮影した僕へ聞いたんじゃない?」


「そういうことにしておく」


 玲奈はまとめたケーブルを持ち上げ、栗原さんのところへ運んでいく。


『玲奈は、日菜が僕個人に関心を持ってると思ってるわけか』


『その可能性が高いと判断します。また、玲奈自身もその事実を意識しています』


『嫉妬も含まれてる?』


『可能性はあります。ただし、現在の情報のみで恋愛感情を確定することはできません』


『確定までは求めてないよ』


 玲奈が僕に好意を持っている可能性には、以前から気づいていた。


 隣へ座る回数や、送られてくるメッセージの内容は、普通の男に対するものと少し違う気がする。


 ただ、本人から何かを伝えられたわけではなく、まだ出会って一か月ほどだ。


 僕も今のところ、玲奈と付き合いたいとは考えていない。


 居心地がよく、見た目も可愛くて、一緒に映像を作ることも楽しい。だからこそ、期待を持たせるような言葉を僕から重ねる気はなかった。


 撮影した映像の編集は、二日後に僕の部屋で行った。


 栗原さんと玲奈が、記録媒体と必要な機材を持ってやってくる。


 前回、玲奈に部屋を見てみたいと言われてから、特別な模様替えはしていない。ただ、三人で長時間作業できるように、折り畳み式の小さなテーブルと座布団を買い足した。


「本当に一人で住んでるんだ」


 玄関へ入った玲奈が、部屋の中を見回す。


「前にも話しただろ」


「聞くのと見るのは違うよ。もっと生活感がない部屋を想像してた」


「どういう意味?」


「佐村君って、必要なものだけ綺麗に並べてそうだから」


「大体合ってるんじゃない?」


「思ってたよりちゃんと住んでる感じがする」


 玲奈に見せるために整えたわけではないが、散らかしていなくてよかったとは思った。


「冷蔵庫、見てもいい?」


「勝手に開けるの?」


「人の一人暮らしで、一番気になるところじゃない?」


「僕は玲奈の家へ行っても、いきなり冷蔵庫は開けないけど」


「じゃあ開けていい?」


「まあ、見られて困るものはないよ」


 許可すると、玲奈は楽しそうに冷蔵庫を開けた。


「野菜が入ってる」


「何が入ってると思ったの?」


「水と調味料だけ」


「僕をまともに生活できない大学生だと思ってない?」


「一人暮らしの男子なんて、大体そんなものじゃないの?」


「偏見だよ」


『現在、同年代の単身男性における野菜の購入頻度を説明しますか?』


『しなくていい。玲奈も正確な統計を求めてないから』


 栗原さんは僕たちの会話を聞きながら、機材を机へ並べていた。


「二人とも、冷蔵庫を見るために集まったんじゃないぞ」


「分かってます」


 玲奈が冷蔵庫を閉め、僕の隣へ座る。


 三人で素材を確認し、まず全体の記録映像から作り始めた。


 複数のカメラで撮った映像を時間軸で並べ、音を合わせる。一つの曲でも、ボーカルを正面から撮った映像、客席側から撮った映像、ステージ全体を押さえた映像がある。


 どれを選ぶかで、同じ演奏が違って見えた。


 日菜がこちらへ笑った場面も、きちんと残っている。


 僕の固定カメラが捉えた映像を表示した瞬間、玲奈が顔を寄せた。


「これ。やっぱり佐村君を見て笑ってるよね」


「カメラを見ただけかもしれない」


「そのカメラを操作してるのが佐村君だったんでしょ」


「そうだけど」


「なら、どちらでも同じじゃない?」


 日菜の笑顔は一秒にも満たない。


 その後はすぐに客席へ視線を戻し、歌い続けている。


「使いますか?」


 僕が尋ねると、栗原さんは映像をもう一度再生した。


「使おう。この直前まで客席側の映像にして、ここで正面へ切り替えれば印象に残る。ただ、宣伝用にも残しておきたいな」


「宣伝映像は、日菜さんのバンドを中心にするんですか?」


「主催者から、特定のバンドだけを目立たせないように言われてる。四組を同じくらい入れる。ただ、映像として強い場面は使っていい」


 平等に秒数を分けることと、平等に魅力を見せることは違う。


 各バンドから同じ長さを使い、その中で最も印象に残る場面を選ぶ。


 撮影した映像を確認しながら、ジンとも相談する。


『二組目の演奏で、観客の反応が最も大きい場面は?』


『二曲目の開始から二分十七秒後です。客席側の映像では、前方にいた観客の約七割が同時に腕を上げています』


『その前に、ボーカルの煽りを二秒入れればつながりそうだね』


『音声はつながります。ただし、映像をそのまま切り替えると、照明の色が急に変化します』


『間にドラムを入れてみよう』


『違和感は軽減されます』


 候補を並べ、実際に試す。


 数字上は観客の反応が大きくても、宣伝映像の流れに合わなければ使わない。玲奈が選んだ場面のほうがよければ、そちらを採用する。


 三人で意見を出し、何度も映像を切り直した。


 作業を始めてから三時間ほど経った頃、玲奈が背中を伸ばす。


「お腹空いた」


「僕も。栗原さん、何か頼みますか?」


「そうするか。ここまで場所を借りてるんだから、俺が出すよ」


「それなら、少し高いものを選んでもいいですか?」


「限度は考えてくれよ」


「冗談ですよ」


「佐村君、感情が分かりにくいから、たまに本気かどうか迷うんだよね」


「今のは笑ってたと思うけど」


「口元だけね」


 結局、近くの店から三人分の料理を届けてもらった。


 食事が届くまでの間に、玲奈は僕の部屋をもう一度眺める。


「女の子、ここに来たことある?」


「母と姉と妹なら」


「そういう意味じゃないの、分かってるでしょ」


「引っ越してからは、玲奈が初めてだよ」


「引っ越す前は?」


「そりゃあるよ」


 高校時代に付き合っていた相手を、家へ呼んだことはある。


 両親が不在の時間を選ぶ程度の知恵は、当時の僕にもあった。


「普通にあるんだ」


「なんで驚いてるの?」


「佐村君、そういう話をしないから」


「聞かれてないのに話すことでもないしな」


「彼女は?」


「今はいない」


 玲奈が、ほんの少し間を置いた。


「大学では作らないの?」


「作らないと決めてるわけじゃない。ただ、今すぐ欲しいとも思ってないかな」


「ふうん」


「聞いたわりに、反応が薄いね」


「参考にしただけ」


「何の?」


「内緒」


 玲奈はそこで話を切り、届いた料理を受け取るために立ち上がった。


『今の質問も、玲奈の関心を示す情報に加わる?』


『はい』


『勝手に数字を出さなくていいからね』


『数値は提示していません』


 最初に現れた頃より、少し図太くなった気がする。


 僕に合わせているのか、僕がジンの返し方に慣れたのか。おそらく両方なのだろう。



 映像が完成したのは、その日の夜だった。


 三人だけで最終決定することはできないため、一度サークル内で共有し、主催者の確認を受ける。


 翌日、細かな修正が二点入ったが、大きく作り直す必要はなかった。


 宣伝映像が公開されると、日菜からすぐにメッセージが届いた。


《見た。すごくよかった》


《ありがとう。どの辺がよかった?》


《最初から感想を詳しく聞くんだ》


《作った側としては気になるから》


《全体的に格好よかった。でも、わたしが佐村君のカメラを見て笑ったところ、使ったでしょ》


《使った。映像としてよかったから》


《あれ、佐村君に笑ったんだよ》


 疑問は、本人が答えてくれた。


《撮ってるときから、そうかもしれないと思ってた》


《気づいてたんだ》


《何度も見られたから》


《じゃあ、わたしが連絡先を聞いた理由も分かってた?》


《映像が欲しかったからじゃないの?》


 返信が届くまで、少し間が空いた。


《頭いいのに、そこだけ分からないふりするんだね》


 画面を見ながら、思わず笑う。


 分からないふりをしたつもりはない。ただ、自分に都合のいい答えを、日菜が口にする前から決めたくなかった。


《映像以外の理由があるなら今聞く》


《佐村君と話してみたかったから》


《話せたけど、どうだった?》


《思ってたよりちょっと意地悪》


《期待外れ?》


《逆。今度二人で会おうよ》


 誘いは、想像していたより早かった。


『日菜は、僕に好意があると思う?』


『友人関係のみを目的として二人で会う可能性もありますが、これまでの言動を含めれば、異性として関心を持っている可能性が高いと判断します』


『僕もそう思う』


『会いますか?』


『もちろん』


 僕も日菜と、撮影以外の場所で話してみたかった。


《いいよ。いつが空いてる?》


 日菜から、いくつか都合のいい日が送られてくる。


 互いの予定が合う日の夕方に、食事へ行くことになった。


 主催者から報酬が支払われ、僕の取り分として八千円を受け取ったのは、日菜と会う前日のことだった。


 撮影と編集へ使った時間を考えれば、高い時給ではない。


 映像を作るために購入したパソコンや、サークルが所有する機材まで含めれば、最初から利益だけを目的に選ぶ仕事でもなかった。


 投資へ回していた金は連休前にすべて現金へ戻してあり、口座にある資金は八万七千円を少し超えている。


 翌月以降の家賃や生活費は、両親から仕送りとして受け取っていた。投資資金と混ぜないよう口座も分けているため、八千円を加えても生活へ影響はない。


『八千円も投資へ回す?』


『資金効率のみを考えれば、現在の投資資金へ加える方法が適切です』


『使うなら?』


『和希が価値を感じる対象によります』


『日菜との食事代にするのは?』


『金銭的な利益は生みません』


『映像で稼いだ金で、その映像をきっかけに知り合った女の子と食事をする。悪くない使い道だと思うけど』


『和希が金額以上の価値を感じるのであれば、合理性はあります』


『最初からそう言ってよ』


『価値の有無を判断するのは和希です』


 八千円を増やすことだけ考えれば、投資へ回すほうがいい。


 だが、撮影場所へ行かなければ日菜とは出会わなかった。金額だけを比較して、一方を無駄と判断する必要もなかった。


 日菜と会ったのは、駅から少し離れた場所にある店だった。


 高級店ではないが、照明が暗く、隣の席との間隔も広い。料理の評判だけでなく、会話のしやすさを優先して選んだ。


 先に着いて待っていると、約束の時間より五分ほど早く日菜が現れる。


 撮影の日とは違い、淡い青色のワンピースに短い上着を合わせていた。鎖骨の辺りまで開いた襟元には、ライブの日と同じ細いネックレスがある。


「待った?」


「七分くらい」


「そこは今来たところって言わないの?」


「日菜も早かったから、お互い様だろ」


「楽しみにしてたから」


 気負いなく言えるところが、彼女の魅力なのだと思う。


 席へ案内され、料理を選ぶ。


 会話は途切れなかった。


 神奈川の実家から専門学校へ通っていること。高校二年の頃から今のバンドで歌い、ライブハウスへ出演するようになったこと。卒業後はアルバイトをしながら音楽を続けるつもりだが、母親からは就職するよう何度も言われていること。


 僕も、センター試験の直前に志望校を東大へ変えたことや、入学に合わせて一人暮らしを始めたことを話した。


 頭の中にジンがいることと、投資の細かな内容だけは伏せている。


「センター直前に東大へ変えて、本当に受かったの?」


「受かったよ」


「それは分かるけど。普通、そんなことできないでしょ」


「結構勉強したからね」


「結構で済むの?」


「大変だったことを一つずつ話しても、面白くないだろ」


「そういうところ、余裕があるように見える」


「そりゃ受験は終わったんだから、余裕はあるよ」


「自分で言うんだ」


 日菜が笑う。


 食事を終えるまで、彼女は何度も僕の顔を見た。


 見られていることに気づいて視線を返しても、日菜は逸らさない。互いに何を期待して会ったのか、少しずつ確かめているようだった。


 店を出ると、外はすでに暗くなっていた。


 駅へ向かって並んで歩く。


 夜になっても人通りは多く、二人きりになる場所ではない。日菜の肩が時折僕の腕へ触れたが、彼女は距離を取ろうとしなかった。


「今日、楽しかった」


「僕も」


「本当に?」


「次も会いたいくらいには」


 日菜が僕を見る。


「佐村君って、女の子と二人で会うのに慣れてるよね」


「普通じゃない?」


「さっきから、全然緊張してない」


「日菜はしてるの?」


「少しは」


「そうは見えないけどね」


「見えないようにしてるから」


 日菜の指先が、歩きながら僕の手へ触れる。


 一度離れ、もう一度触れた。


 今度はそのまま、指が絡んだ。


 日菜が手をつなぎ、反応を確かめるように僕を見上げる。


「嫌?」


「嫌なら握り返さないよ」


 つないだ手へ力を返す。


 指先は少し冷たい。酒を飲んでいないことも、互いの意識がはっきりしていることも分かっていた。


 駅の入口が見えてくる。


 ここで別れれば、日菜は電車に乗って帰る。


 僕から引き止めるつもりはなかった。


「佐村君の部屋、ここから近いんだよね?」


 日菜が尋ねる。


「歩いて十分くらい」


「玲奈ちゃんは行ったことあるんだ?」


「編集した日に、栗原さんと一緒にね」


「二人きりじゃないんだ」


「違うよ」


「わたしも行ってみたいって言ったら、困る?」


 期待していた言葉だった。


 その一方で、自分に都合よく意味を決めるには、少し曖昧でもある。


「困らない。ただ、何もせずに帰せるとは約束できないけど」


 日菜が足を止める。


 つないだ手は離れない。


「何もしないでほしいとは、言ってないよ」


 声は小さかったが、迷ってはいなかった。


 僕の部屋へ行くという意味を分かったうえで、日菜が選んでいる。


「なら、行こっか」


「うん」


 駅へ向かう道から外れ、二人で部屋へ向かった。


 玄関の扉を閉める。


 日菜は靴を脱ぎ、部屋へ上がる前に中を覗いた。


「綺麗にしてるんだね」


「人を呼べないほど散らかしてないよ」


「今日、わたしが来るかもしれないと思って片づけた?」


「そこまでは考えてなかった。最後に片づけたのは昨日だけど」


「玲奈ちゃんが来たとき?」


「それとは別だよ。前から大体これくらいにはしてる」


「まだ玲奈ちゃんと何もない?」


「ない」


「まだ、ないんだ?」


「日菜がつけたんだろ」


 日菜が笑いながら部屋へ入る。


 さっきまでより近くにいるのに、店で話していたときより言葉の間隔が長くなった。


 僕は冷蔵庫から水を取り出す。


「何か飲む?」


「水でいい」


 グラスへ注いで渡す。


 日菜は一口だけ飲み、テーブルへ置いた。


 急いで触れようとはしなかった。


 ここまで来たからといって、何も言わずに続きを始めるのは違う。日菜が僕へ期待しているものと、僕が返せるものが同じとは限らなかった。


「日菜」


「なに?」


「先に言っておきたいことがある」


 日菜の表情から、先ほどまでの笑みが少し消える。


「彼女がいるとか?」


「いない。ただ、今は誰かと付き合うつもりもない」


 日菜は黙って聞いている。


「それを勘違いさせたまま、日菜とこうなるのは嫌だった」


「でも、わたしとはしたい?」


「したいよ。だから余計に、先に話してる」


「正直だね」


「ここで曖昧なことを言っても、後で二人とも困るから」


「女の子を部屋へ入れるたびに、そうやって説明するの?」


「この部屋で二人きりになったのは、日菜が初めてだよ」


「玲奈ちゃんは?」


「栗原さんも一緒だったし、編集しかしてない」


「そっか」


 日菜はテーブルへ置いたグラスへ一度視線を落とした。


 怒っているようには見えない。


 ただ、自分の中にあった期待と、僕の言葉を並べて考えているのだろう。


 ここで、そのうち付き合うかもしれないと言えば、日菜を安心させられるのかもしれない。


 けれど、守れるか分からない言葉を使う気にはなれなかった。


「日菜が嫌なら、駅まで送るよ」


 日菜は少し考えた後、僕の前へ一歩近づく。


「今日ここへ来たのは、わたしだよ」


「うん」


「手をつないだのも、部屋へ行きたいって言ったのも、わたし」


 その指が、僕のシャツの胸元へ触れる。


「別に、付き合ってほしくて来たわけじゃない。佐村君のことが気になって、触ってみたいと思ったから来たの」


「後悔しない?」


「それは、してから決める」


「なるべく、しないようにする」


「そういう言い方、ずるいね」


 日菜が顔を上げる。


 彼女のほうから、唇を重ねてきた。


 最初は、触れたと呼べる程度だった。


 一度離れ、僕の反応を見る。


 何も言わず腰へ手を回すと、日菜の身体が近づいた。服越しに伝わる体温とともに、呼吸が変わっていくのが分かる。


 二度目の口づけは長かった。


 日菜の指が胸元から首へ移り、髪の中へ入る。僕も背中を撫で、細い腰を抱き寄せた。


 ニット越しに触れた身体は、ステージで見ていたときより柔らかい。


 唇が離れる。


 近すぎる距離で、日菜が息を整えた。


「キスも慣れてる」


「そうかな」


「ちょっと悔しい」


「日菜も上手」


「褒め方が少し上からなんだよなあ」


「もう一度したいって言えばいいのに」


「したい」


 再び唇が重なる。


 触れ方を変えるたび、日菜の呼吸が浅くなった。首筋へ唇を移すと、抑えようとした声が微かに漏れる。


 それを聞いた瞬間、頭の中にもう一人いることを思い出した。


『ジン』


『はい』


『視覚と聴覚の共有を切って。僕が許可するまで、再接続もしないで』


『承知しました。共有を停止します』


 返事は普段と同じだった。


 ジンの気配が消えたわけではない。ただ、ここから先は僕と日菜だけのものになる。


「今、何か考えてた?」


 日菜が僕の顔を覗き込む。


「日菜が可愛いから、急ぐのがもったいなくなった」


「意地悪。可愛くなかったら、急いで終わらせてたんだ」


「可愛くなかったら、部屋に入れてないよ」


 言葉とは違い、日菜は笑っていた。


 僕の手を取り、自分からベッドのほうへ歩く。


 振り返ると、今度は迷わず僕を引き寄せた。






 目を覚ましたとき、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。


 隣では、日菜が僕へ背を向けて眠っている。


 肩から掛け布団が少し落ち、暗い茶髪が白い肌へ広がっていた。


 昨夜の記憶が、順番に戻ってくる。


 思い返して後悔することはない。


 日菜も同じならいいと思うが、そこは本人に聞くしかなかった。


 起こさないようにベッドを出ようとすると、日菜の手が僕の腕を掴む。


「どこ行くの?」


「水を飲もうと思って」


「帰る準備かと思った」


「ここ僕の部屋だよ」


「あ、そっか」


 日菜は薄く目を開け、部屋を見回してから布団へ顔を埋めた。


「今、何時?」


「七時半くらい」


「早い。佐村君は、どこか行くの?」


「今日は特に予定ない」


「じゃあ、まだいて」


 腕を引かれ、ベッドへ戻る。


 日菜は僕の胸元へ顔を寄せた。夜とは違う、化粧の落ちた顔が近くにある。


 髪へ指を通すと、想像していたより柔らかかった。


「後悔してる?」


「してないよ」


「ならよかった」


「佐村君は?」


「してない」


「本当?」


「本当」


 日菜は僕の胸へ額をつけたまま、少し笑う。


「昨日、付き合うつもりはないって言ったよね」


「言った」


「今朝になって、気が変わったりした?」


「付き合うつもりはない。でも、また会いたいとは思ってる」


 日菜が顔を上げた。


「また会ってくれるの?」


「もちろん」


「本当に?」


「日菜も会いたい?」


「会いたい」


「なら決まり」


「簡単に言うんだ」


「難しく考えることかな?」


「昨日はわたしから誘ったから。次もわたしからだったら、少し嫌だなって思ってた」


「次は僕から誘う」


「誘われなかったら傷つくからね?」


「僕も断られたら傷つくからね」


「佐村君でも?」


「そりゃね。僕を何だと思ってんの?」


「何でも思いどおりにできる人」


「会ったばかりなのに評価が高すぎる」


「東大生で、顔もよくて、話してても余裕がある。ライブの日から、わたしが見てることにも気づいてたんでしょ?」


「だからといって、何でもできるわけじゃないから」


「でも、わたしのことは誘ってくれるんだ?」


「うん」


「付き合わなくても?」


「昨日話したことを分かってくれてるなら」


「分かってる」


 少しいじけたように答える日菜を抱き寄せ、額へ軽く唇を落とす。


 少しいじけたように答える日菜を抱き寄せながら、わずかに身体を隠していた掛け布団をそっとずらした。


「日菜」


「なに」


「僕のこと、名前で呼んでよ」


「……かずき」


「日菜」


「かずき…っん、……や……っ」


「もう一回。……いいよね?」


 返事を聞くより先に、今度は僕から唇を塞いだ。





 日菜が帰ったのは、昼を少し過ぎてからだった。


 玄関で靴を履き、乱れていた髪を手櫛で直している。


「駅まで送ろうか?」


「大丈夫。一人で帰れるよ」


「なら、着いたら連絡して」


「彼氏みたいなこと言うね」


「無事に帰ったか確認するくらい、付き合ってなくてもするだろ」


「わたしたちって、何なんだろうね」


「今すぐ決める必要ある?」


 日菜は少し考えてから、首を横へ振った。


「今はなくてもいいか」


「僕もそう思う」


「また連絡するね」


「待ってる」


「佐村君からも、でしょ?」


「忘れないよ」


 日菜は満足したように笑い、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 一人になった部屋には、昨日までなかった甘い香りが残っていた。


 ベッドのシーツは乱れ、テーブルには日菜が使ったグラスが置かれている。


『ジン。視覚と聴覚を戻して』


『共有を再開しました』


『今まで、何をしてた?』


『共有停止中も、公開情報の取得と分析は継続しています』


『僕が何をしてたかは?』


『共有を停止した時点までの情報から推測できますが、確認はしていません』


『聞かないんだ』


『和希が回答を求めていません』


 相変わらずだった。


 僕はテーブルのグラスを持ち、台所へ運ぶ。


『日菜と、また会うことになった』


『承知しました』


『付き合わないことも、お互いに分かってる』


『現時点で認識が一致しているのであれば、問題はありません。ただし、関係を続ける中で認識が変化した場合は、改めて確認する必要があります』


『分かってる』


『避妊についても、今後継続して――』


『それも分かってるよ』


『承知しました』


 グラスを洗い、伏せて置く。


 スマートフォンが振動した。


《着いたよ》


《了解。今日はありがとう》


《こちらこそ。また誘ってね》


《近いうちに》


 すぐに既読がつき、笑顔の絵文字が一つ返ってきた。


 画面を閉じても、部屋に残った日菜の気配までは消えない。


『午後の予定は?』


『確定している予定はありません。映像制作サークルの共有場所へ、新たな撮影依頼が一件届いています。また、連休明けの取引候補として、条件に合う企業が三社あります』


『先に確認するなら、投資候補かな』


『はい。一社について、連休中に公開された海外情報が、国内市場の再開後に株価へ影響する可能性があります』


『映像の依頼も、その後で見よう』


『承知しました』


 僕は洗ったばかりのグラスへ水を注ぎ、机の前へ座った。


 証券口座の画面を開いても、朝から続いていた気分が急に消えるわけではない。


 日菜とは、また会える。


 その約束を残したまま、僕は次に増やせる金と、新しく届いた仕事について考え始めた。


 連休は、まだ終わっていない。




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