15話 ありがとうございました
映像制作サークルへ正式に入った翌週、僕は前回撮影したライブ映像を編集していた。
大学の授業が終わった午後五時、サークルが借りた教室の後方へノートパソコンを並べ、撮影に参加した部員たちで素材を確認していく。
三台のカメラと、会場の音響設備から録音した音声。
同じ演奏を撮影したはずなのに、映っているものはそれぞれ違った。
舞台全体を収めた固定映像。歌っている人物へ寄った映像。演奏者の手元や、観客の反応を追った映像。
僕が担当した固定カメラの映像も、最初から最後まで残っている。
「まず一曲目だけ、全員で編集してみよう。完成したものをそのまま使うわけじゃないから、好きにつないでいいよ」
栗原さんから素材の保存場所を教えられ、編集ソフトへ読み込む。
上映会の体験では三分の素材から三十秒を作った。今回は一曲分だけでも、複数のカメラを合わせれば二十分を超える。
『最初は何から?』
『各映像と音声の時間を同期してください。会場の音響設備から録音した音声のみを使用すると、客席の反応がほとんど残りません。会場内で収録した音も、補助的に混ぜることを推奨します』
『歓声まで消すと、スタジオで演奏してるのと変わらないか』
『はい。ただし、客席側の音量を上げすぎると演奏が不明瞭になります』
映像の波形と音を合わせ、同じ瞬間が横に並ぶよう調整する。
その後で、使いたい場面を選んだ。
歌い始めは正面から。
ギターの音が前へ出たところで手元へ切り替え、観客が反応した瞬間だけ後方の映像を混ぜる。
『二十七秒の切り替えが、音より〇・一四秒遅れています』
『そんなに小さなずれも分かる?』
『聴覚上も、映像上も確認できます』
切り替える位置を少し前へ動かす。
さっきまで僅かに鈍く感じた場面が、音と同時に映像まで前へ出たように見えた。
『この後は、ボーカルの視線に合わせれば自然につながりそうだね』
『はい。画面外へ視線を向けた直後に、その対象を映しているカメラへ切り替える方法が適切です』
『観客を見た瞬間に、観客へ変える』
『その認識です』
操作に迷う時間は、最初の体験会より減っていた。
どのボタンを押せばいいかだけでなく、映像を並べたときに何が起きるのかも少しずつ分かってきている。
隣では、玲奈が別の曲を編集していた。
画面を覗くと、演奏者より観客を映した場面が多い。
「玲奈の映像、ライブというより思い出の記録に近いね」
「駄目?」
「駄目じゃない。演奏してる側が見たら、こっちのほうが嬉しいかもしれない」
「佐村君のは?」
「一曲目。今できたところ」
「見せて」
イヤホンを片方ずつ使い、最初から再生する。
玲奈の髪が肩へ触れたが、本人は画面に集中していた。
「すごい。サークルの公式に出しても違和感なさそう」
「ありがとう。思ってたより上手くつながった」
「編集を始めて一週間の人が言う台詞じゃないよ」
「教えてくれる人が多いからね」
「それだけじゃない気がするけど」
再生を終えた玲奈はイヤホンを外さず、もう一度見たいと言った。
二度目は、映像が切り替わる位置を確認している。
「ここ、音にぴったり合ってて気持ちいい」
「少しずれるだけで変わるよ」
「わたしのも見てくれる?」
「もちろん」
玲奈の映像を再生し、気になった部分を伝える。
直したほうがよい場所だけではなく、僕なら選ばなかった場面もあった。演奏中に観客の一人が友人へ顔を寄せて笑う短い映像は、曲そのものに必要な場面ではない。
しかし、その一秒が入るだけで、会場全体が楽しんでいることは伝わった。
『この場面は残したほうがいいと思う』
『告知を目的とする場合、観客の肯定的な反応は次回の参加意欲へ影響します』
『ジンも同じ意見なら、このままでよさそうだね』
「ここ、いいね。残したほうがいい」
「本当? 栗原先輩には、演奏者をもっと映したほうがいいって言われるかと思った」
「長くしなければ問題ないと思う。むしろ、この一秒が玲奈の映像で一番好きかも」
玲奈は一度画面を見た後、僕のほうへ顔を向けた。
「そういうこと、普通に言うよね」
「思ったことを言っただけだけど」
「だから困るの」
困っている理由は何となく分かるが、そこへ触れれば玲奈が余計に意識しそうなので、僕は映像へ目を戻した。
その日の作業が終わる頃、僕の編集した一曲目が、全体版の基礎として使われることになった。
栗原さんが細部を確認し、別の部員が色と音量を調整する。完成した映像から、次回のライブを告知するための短い動画も作ることになった。
「佐村、三十秒くらいにまとめられる?」
「明日まででいいなら」
「授業もあるだろ。明後日でもいいぞ」
「一度作って、修正する時間が欲しいので、明日出します」
「分かった。無理はするなよ」
「睡眠時間は削らないので、大丈夫です」
授業、語学、運動、投資、映像制作。やることは増えているが、翌日に疲れを残すような予定にはしていなかった。
翌日、昼休みに亮太から声をかけられた。
「佐村、最近ずっと生沢と一緒にいるよな」
「同じサークルに入ったからね」
「昨日も二人で残ってたんだろ?」
「ほかの先輩もいたよ」
「いや、別に問い詰めてるわけじゃないけど」
「ずいぶん詳しく聞くから」
亮太は笑いながら、購買で買ったパンの袋を開けた。
「付き合ってるのかと思っただけ」
「付き合ってないよ」
「生沢のほうは?」
「一緒にいるのを嫌がってはいないと思うよ。それ以上は、本人にしか分からない」
「佐村なら分かってそうじゃん」
「何でも分かると思われても困るよ」
玲奈が僕と過ごすことを好んでいるのは、言葉や態度から伝わってくる。メッセージの回数も、最初の一週間より増えていた。
ただ、それだけで恋人になりたいと考えているとは限らない。
そこへ玲奈が昼食を持って現れた。
「何の話?」
「佐村が、意外と人の目を気にするって話」
「そんな話してないだろ」
「へえ。佐村君でも気にするんだ」
「二人とも、僕を何だと思ってるの?」
亮太は答えず、玲奈のために隣の椅子を引いた。
話題は次の授業へ移り、玲奈もそれ以上は聞かなかった。
その日の夜、告知用の映像を作る。
最初の三秒で照明が点き、演奏が始まる。
曲名や出演者の名前を長く表示せず、映像の勢いを止めない位置へ置く。最後に次回の開催日と会場だけを残した。
『公開するなら、何時がいい?』
『対象となる学生の利用傾向では、金曜日の午後八時十四分から八時三十七分の間が最も反応を得やすいと推定します』
『随分細かいね』
『過去の投稿時刻と、閲覧数の増加を比較しています』
『八時二十分で予約しておこう』
『適切です』
題名と説明文も、過去の投稿より短くした。
誰の、何の映像なのか、初めて見る人間に必要な情報だけを前へ出す。
金曜日の夜、動画は予定した時刻に公開された。
最初の一時間で、過去の告知動画が一日かけて集めた再生数を超える。
翌朝には三千回、週明けには一万二千回を超えていた。
有名な投稿者から見れば小さな数字だが、これまで同じサークルが投稿した映像は、多くても三千回前後だった。
《再生数、すごいことになってる》
玲奈から、数字を丸で囲んだ画面の画像が届いた。
《出演した人たちが拡散してくれたのも大きいと思う》
《それにしても、今までの四倍だよ》
《最初の三秒を変えたのも効いてるかもしれない。次の集まりで反応を比べてみたい》
《佐村君、もう次の動画のこと考えてる》
《せっかく数字が出てるからね》
《そういうところ、佐村君らしい》
栗原さんからも連絡があり、次の集まりで公開後の反応を分析することになった。
告知動画が公開されてから四日後、サークル宛てに外部から撮影の依頼が届いた。
都内の小さなライブハウスで、ゴールデンウィーク中に開かれる音楽イベント。
複数の出演者が参加し、主催者は当日の記録映像と、後日公開する短い告知映像を求めている。
僕たちの動画を見て、連絡してきたという。
「前にも頼んできた人?」
サークルの集まりで玲奈が尋ねると、栗原さんは依頼内容を表示した画面を皆へ向けた。
「初めて。向こうも大きな会社じゃないし、個人に近い規模でイベントを開いてる。予算も高くない」
「いくらですか?」
「撮影と編集を合わせて六万円。交通費と機材費は別。参加人数で考えれば、仕事としては安いよ」
六万円。
株で稼いだ二万七千円より多いが、サークル全体で受け取る金だ。撮影と編集に使う時間を考えれば、一人当たりの利益は大きくない。
「受けるんですか?」
「受けようと思ってる。金額より、外部の依頼を一つ完成させた実績のほうが大きいから。佐村と生沢も参加する?」
「行きます」
僕が先に答えると、玲奈も頷いた。
「わたしも行きたいです」
「連休中だけど、予定は大丈夫?」
「今のところ何も入れてません」
僕も家族へ帰省すると約束しているわけではない。
大学から実家までは、予定を決めなければ帰れない距離でもなかった。
撮影日は四月二十九日。
完成した映像は、五月中旬までに納品する。
初めて、知らない相手から金を受け取って映像を作ることになった。
その間も、株式市場は動いていた。
西浜光機を売った後、僕は十営業日ほどで二度取引した。
一つの企業だけに固執せず、決算前に公開された取引先の販売実績や、新たに公表された受注記録から、短期間で市場の評価が変わりそうな銘柄を選ぶ。
二度の取引を合わせた利益は、税金と手数料を差し引いて一万六千円ほど。
西浜光機を売却した時点で約七万一千円だった資金は、四月二十六日には八万七千円を超えていた。
『今回は、連休をまたがず全部売るんだね』
『はい。明日から五月六日まで国内市場は休場します。十日間売却できない危険に対して、現在の候補から得られる利益は十分ではありません』
『海外で何か起きても、国内株は五月七日まで動かせない。今の候補を持ち続ける理由はないか』
『その認識です』
『米国株なら連休中も動かせるけど、今から口座の手続きを増やすほどでもないね』
『国内市場だけでも、現在の資金規模で利用できる機会はあります』
『なら、連休中の情報を見て、五月七日に選び直そう』
『承知しました』
次に条件のよい機会が現れるまで、口座の数字はそのまま置いておけばいい。
四月二十四日。
大学の授業が午前で終わったため、午後から卒業した高校へ顔を出した。
合格したことは電話で伝えている。入学式の写真も母が送っていたらしく、担任からは、大学生活が始まったら一度くらい報告に来いと言われていた。
大学から電車を乗り継ぎ、二か月前まで毎日通っていた駅で降りる。
駅前の店も、学校までの道も、大きくは変わっていない。制服姿の生徒と何度も擦れ違ううちに、自分だけがこの場所から先へ進んだような、不思議な感覚があった。
『卒業から五十四日です』
『数字にすると、思ってたより短いね』
『周辺の建物や店舗に、大きな変化は確認できません』
『そういう意味じゃないよ』
校門を通り、受付で名前と訪問先を伝える。
来訪者用の札を首から下げて廊下へ入ると、授業中らしく校舎は静かだった。教室の中から教師の声が聞こえ、階段には上履きの擦れる音が響いている。
二か月前まで毎日歩いていた場所なのに、制服を着ていないだけで、自分がいてはいけない時間に入り込んだような気がした。
職員室へ向かう途中、進路指導室の前に置かれた掲示板が目に入る。
今年度の大学合格実績。
国公立大学と私立大学の名前が並び、その一番上に東京大学と書かれていた。
合格者数は一人。
『僕だ』
『はい。和希以外に、同年度の東京大学合格者は確認されていません』
『分かってる。言いたかっただけ』
自分の名前は載っていない。
東京大学、一名。
それだけだ。
センター試験まで十一日という時期に志望校を変え、教師や家族を驚かせ、朝から夜まで勉強したことも、その一行からは分からない。
それでも、学校の記録に残った一人が自分なのだと思うと、足を止めてもう一度見たくなった。
職員室へ入ると、近くにいた教師が僕へ気づいた。
「あれ、佐村か?」
「お久しぶりです」
「本当に東大へ行った佐村?」
「同じ名前の後輩がいなければ、たぶんそうです」
教師の声を聞き、職員室の奥から何人かがこちらを見る。
「雰囲気が変わったな。大学生らしくなった」
「まだ入学して一か月も経ってませんよ」
「東大はどうだ?」
「今のところは楽しいです」
「今のところ、か。余裕があるな」
話しているうちに、元担任が自分の席から立ち上がった。
「本当に来たか、東大生」
「来いと言ったのは先生でしょう」
「報告を聞くのと、学生になったお前を見るのは違う。学生証は?」
「確認するんですか?」
「一度くらい見せろ。東京大学の学生証なんて、そう何枚も見る機会はないからな」
財布から学生証を取り出して渡す。
担任は、顔写真と名前、大学名を順番に確かめた。近くにいた教師まで席を立ち、その手元を覗き込む。
「東京大学教養学部、理科一類。本物だな」
「偽物を作って高校へ来るほど暇じゃないですよ」
「お前なら、驚かせるためにそのくらいやりそうな気もするけどな」
「僕を何だと思ってるんですか?」
担任は笑いながら学生証を返した。
財布へ戻そうとしたところで、進路指導を担当していた教師から声をかけられる。
「少し、俺にも見せてくれ」
「どうぞ」
再び学生証を渡す。
「合格したことは知ってるのに、実物を見ると違うな」
「先生まで疑ってたんですか?」
「疑ってはいない。お前の自己採点を最初に見たときも、数字の書き間違いじゃないかとは思ったが」
「疑ってたじゃないですか」
「センターの直前に東大を受けると言い出した生徒が、あの点数を持ってきたんだぞ。教師だって驚く」
自己採点の結果を提出した日、担任と進路指導の教師は、何度も教科ごとの数字を確認していた。
当時の僕は二次試験へ向けた勉強のことしか考えていなかったが、教師たちにとっても、簡単に受け止められる結果ではなかったのだろう。
学生証が僕の手元へ戻る。
担任が空いている椅子を示した。
「少し話していけるんだろ?」
「そのつもりで来ました」
担任の机の横へ座る。
「電話でも言ったが、お前が東大を受けると言い出したときは、本気で止めるべきか迷った」
「覚えてます」
「あの電話は合格した後だったから、笑って話せたんだ。実際には、お前が帰った後、進路指導の先生とも相談した」
「相談までしてたんですね」
「センター試験まで十一日しかなかったからな。無責任に背中を押して、それまで目指していた大学まで落ちたらどうするのか。学校としては考える」
「それで、どんな結論になったんですか?」
「止めても受けるだろう、という結論だ」
思わず笑ってしまった。
「進路指導として、それでいいんですか?」
「よくはない。ただ、あの日のお前は相談しに来たというより、必要な手続きを確認しに来た顔をしていた」
「受けることは決めてましたからね」
「だから、せめて邪魔はしないことにした。調査書を間に合わせて、必要な資料を渡して、それでも無理だと思ったら自分で判断するだろうとな」
願書や調査書の準備も、学校側で可能な限り早く進めてもらった。
僕は受験勉強だけで余裕がなく、その手間を細かく考えたことはなかった。必要な書類が予定どおり手元へ来ることを、どこかで当然のように受け取っていた。
「ありがとうございました」
改めて伝えると、担任が僅かに眉を上げる。
「急に素直になるな。調子が狂う」
「今日は、そのために来たんですよ」
「東大生になった姿を見せに来たんじゃないのか?」
「それも少しあります」
「そこは否定しないんだな」
近くで聞いていた教師たちが笑う。
合格発表の日、電話で結果を伝えたときにも喜んでもらった。
ただ、画面に表示された番号や電話越しの報告ではなく、学生証を持った僕がここへ戻ってきたことで、教師たちにとってもようやく一つの結果になったのかもしれない。
「大学はどうだ?」
「授業は、今のところ問題ありません。フランス語を始めました」
「英語以外もやるのか」
「一年から初修外国語があるので。英語も続けてます」
「サークルは?」
「映像制作のサークルに入りました」
「映像?」
担任が意外そうに聞き返す。
「この前、学内のライブを撮りました。今度は、外部から依頼された音楽イベントも撮ります」
「撮影の仕事を頼まれたのか?」
「サークル全体への依頼です。報酬も出ます」
「入学して、まだ一か月も経ってないよな?」
「はい」
「東大へ入っただけでは、満足できないらしいな」
「入った後に何もしなかったら、受験した意味がないでしょう」
担任は少し呆れたように僕を見る。
「映像を仕事にするつもりなのか?」
「まだ決めてません。今は面白いからやってます」
「それでいい」
返事が早かった。
「高校にいた頃のお前は、大抵のことはそれなりにできた。でも、これをやりたいというものは、あまり見えなかったからな」
「そんなふうに見えてたんですか?」
「成績も人間関係も、うまくやっていた。ただ、何かへ夢中になっている姿は、あまり覚えていない」
自分では、そこまで退屈していたつもりはなかった。
しかし今は、授業、語学、投資、映像制作で予定が埋まり、次に何をするか考える時間まで足りなくなり始めている。
「今は、やりたいことが多すぎるくらいです」
「なら、東大へ行かせて正解だったのかもな」
「僕が勝手に受けたんですけどね」
「調査書を用意して、願書の確認までしたのは学校だ」
「そこは感謝してます」
「映像を続けるなら、いつか学校の紹介映像でも作ってくれ」
「仕事として依頼してくれるなら考えます」
「卒業生価格にはならないのか?」
「僕が有名になってから頼むなら、高くなってるかもしれませんよ」
「もう自分が有名になる前提か」
「そのほうが、先生も頼み甲斐があるでしょう」
担任は呆れながらも、楽しそうに笑っていた。
職員室を出る前に、何人かの教師から改めて声をかけられた。
授業にはついていけているか。一人暮らしで困っていないか。東大の学生は全員賢いのか。卒業から二か月も経っていないのに、質問は遠くへ進学した人間へ向けるものに変わっている。
最後に進路指導の教師が、僕の肩を軽く叩いた。
「お前が受かったことで、今の三年生にも東大を目指したいと言い出した生徒がいる」
「僕のせいですか?」
「お前のおかげだ。身近な先輩が受かれば、自分にも可能性があると思える」
「十一日前から目指しても間に合うとは、言わないでくださいね」
「そこまで無責任なことは言わない。ただ、最初から諦める必要はないとは話している」
廊下へ出る。
授業が終わったらしく、教室から生徒たちが出てきていた。
僕を知っている下級生が足を止める。
「佐村先輩?」
「久しぶり」
「東大、本当に受かったんですよね?」
「本当に、は余計じゃない?」
「すみません。でも、すごいって学校で話になってたから」
周囲にいた生徒まで僕を見る。
受験勉強をしていた頃、僕が何をしているのか知っていた人間は多くない。冬休みが明けてから突然成績を上げ、本当に東大へ合格した先輩として、僕の知らないところで話が広がっていたようだった。
「大学、難しいですか?」
「まだ始まったばかりだからね。高校より、自分で選べるものは多いよ」
「俺も東大、目指してみようかな」
「目指すのは自由だよ。ただ、十一日前まで待たないほうがいい」
生徒たちが笑う。
「頑張って」
それだけ伝え、階段へ向かった。
進路指導室の前を通ると、掲示板にある東京大学の文字が、先ほどより少し違って見えた。
一人。
学校にとっては合格者数の一つでも、その数字を見て、自分も目指してみようと思う後輩がいる。
『東大へ合格した影響が、和希以外にも生じています』
『そこまで大げさなものじゃないよ』
『少なくとも、先ほどの生徒は志望先の候補へ東京大学を加えました』
『本当に受けるかは、まだ分からないけどね』
『はい。ただし、選択肢が増えたことは事実です』
校舎を出る。
外から見れば、二か月前までと同じ高校だった。
けれど、もう明日の時間割を確認して戻ってくる場所ではない。何かを手に入れたとき、報告に来る場所へ変わっている。
校門の前で一度だけ振り返る。
次に来るとき、僕は何を持っているのだろう。
東大の学生証より教師たちを驚かせるものは、まだ思いつかなかった。
『考えますか?』
『今はいいよ。先に実際に手に入れるから』
高校を出た後は、そのまま実家へ寄った。
夕食の席で学校へ顔を出したことを話すと、母は担任が元気だったかを尋ね、父は学校側にも随分心配をかけたんだなと笑った。
美咲からは、東大の学生証を教師へ見せに行くのは少し自慢したかっただけではないかと言われた。
否定はしなかった。
助けてもらった礼を伝えたかったのも本当だが、東大生になった自分を見せたかったことまで嘘にする必要はない。
家族と夕食を終え、自分の部屋へ戻る。
二日後の四月二十六日の夜には、サークルの新入生歓迎会が開かれた。
四月二十六日の夜には、サークルの新入生歓迎会が開かれた。
大学近くの飲食店に、二十人ほどが集まる。
二十歳を超えている先輩の中には酒を注文する者もいたが、僕と玲奈の前にあるのは烏龍茶だった。
《先に着いた。隣、空けてあるよ》
店へ向かう途中で玲奈から届いたメッセージどおり、奥の席に一人分の場所が残されていた。
「ありがとう。ほかにも空いてる席はあったけど」
「嫌なら移る?」
「嫌とは言ってないよ」
「じゃあ座って」
玲奈の隣へ腰を下ろす。
料理が運ばれ、乾杯が終わると、上映会や撮影のときには話せなかった先輩たちとも会話が始まった。
サークルの卒業生には、映像制作会社や広告会社へ進んだ人間もいる。テレビ局で働く者、芸能事務所で所属者の映像を担当する者、大学在学中に会社を作った者もいた。
「学生のうちから外の仕事を受けてたんですか?」
「人によるけど、早い奴は一年からやってたよ。最初は知り合いの店とか、学生イベントが多いかな。そこで失敗しなければ、次を紹介してもらえる」
「機材は自分で買うんですか?」
「最初はサークルのものでも足りる。仕事が増えたら、自分で必要なものが分かってくるから、そのとき買えばいい。高いカメラを先に買って、使わなくなる奴もいるし」
数十万円から、業務用なら百万円を超える機材もある。
今の僕には簡単に買えないが、必要になった時点で金を用意できればいい。
『僕が個人で映像制作を受注するまで、どのくらい必要?』
『技術面だけであれば、短期間で到達できます。依頼者へ提示できる実績と、契約や納品を含む一連の経験を得るには、今回の仕事へ最後まで参加することが有効です』
『六万円という予算も、現時点なら実績を含めて考えるべきだね』
『はい。作業時間だけを基準にすれば安価ですが、実績と紹介につながる可能性を含めれば、受ける価値があります』
『栗原さんと同じ判断か』
『はい』
僕が頭の中で話している間に、玲奈が取り皿へ料理を分けていた。
「佐村君、食べる?」
「もらう。ありがとう」
「さっきから黙ってたけど、疲れた?」
「少し考え事してただけ」
「また次に何をするか考えてた?」
「どうして分かったの?」
「佐村君、楽しそうなときほど次の話をするから」
知り合って一か月も経っていないのに、よく見ている。
「玲奈は、映像を仕事にしたい?」
「まだ分からない。映画を見るのは好きだけど、作る側が自分に合ってるかは始めたばかりだし。でも、今は楽しいよ」
「なら、続ける理由としては足りるね」
「佐村君は?」
「僕も今は楽しい。それに、映像を作れたら、今まで入れなかった場所へ行けそうだから」
「テレビとか映画?」
「それも。広告やイベントも見てみたい」
「何になりたいか、決まってないんだね」
「決まってないよ。玲奈は決まってる?」
「全然。東大に入ったら決まるかと思ってた」
「入っただけで決めてくれるほど、大学も親切じゃないみたいだね」
玲奈が笑った。
食事会が終わり、店の前で解散する。
連休中の撮影に向け、前日に機材と進行を確認することになった。
編集作業の場所について話していると、栗原さんが僕へ尋ねた。
「佐村の家、大学から近いんだよな?」
「歩いて二十分かからないくらいです」
「ノートパソコンも持ってたよな。撮影後、三人くらいで作業できる?」
「できます。机だけだと狭いですけど、床にも座れるので」
「じゃあ、仮編集は佐村の家を借りてもいいか? 大学の教室は連休中に使えない時間が多いから」
「大丈夫です」
栗原さんと日程を決め、玲奈にも伝える。
帰宅してからメッセージが届いた。
《今度、佐村君の家で編集するんだよね?》
《その予定。栗原さんと三人で》
《一人暮らしの部屋、ちょっと楽しみ》
《何を期待してるの?》
《佐村君が普段どんな生活してるのか》
《普通だよ》
《普通かどうかは、見てから決める》
部屋を見られて困ることはない。
家具を選んだ時点で、僕以外の人間が入っても不自然に見えないよう整えている。掃除も洗濯も、溜め込む前に終わらせていた。
『撮影の翌日までに、部屋で必要な準備は?』
『三人で編集する場合、追加の椅子、電源、画面の共有方法を確認する必要があります。来客用の飲み物も用意できます』
『玲奈が部屋を見たいって』
『文面から、その意図を確認しています』
『何か言うことは?』
『編集作業とは無関係の評価が必要ですか?』
『いや、やっぱりいい』
玲奈が僕の部屋に興味を持っている理由は、編集だけではないのかもしれない。
今、確かめる必要はなかった。付き合いたいと言われたわけでも、僕が何かを約束したわけでもない。
来週、玲奈は栗原さんと一緒に僕の部屋へ来る。
その前に、初めて金を受け取る撮影を成功させるほうが先だった。




