14話 大学生って、もっと暇だと思ってたな
昼休み、食堂へ向かう途中でジンの声が聞こえた。
『西浜光機が、海外企業から大型受注を獲得したと発表しました』
『やっと出た?』
『はい。受注額は、前年度売上高の二十二・四パーセントに相当します。内容は私の予測を上回っています』
周囲には、同じ授業を終えた学生が歩いている。
立ち止まってスマートフォンを確認するほど急ぐ必要はない。発表されたのは午前十一時半で、午前の取引はすでに終わっている。午後の取引が始まれば株価は動くだろうが、今から注文を出すつもりもなかった。
僕が西浜光機の株を買ったのは、三月二十七日だった。
一人暮らしを始めた翌日、残っていた投資資金についてジンへ尋ねると、候補として挙げられたのがこの会社だった。
工場向けの高速検査カメラを製造している、小さな上場企業。
海外の半導体工場が公開した設備導入計画、西浜光機と取引のある部品会社の生産状況、輸出に必要な認証の取得、技術者の募集。個別に見れば将来の受注を断定できる情報ではないが、ジンは同じ方向を示す変化を集めていた。
一株四百二十八円で、百株。
四万二千八百円。
注文を出した時点で、僕が投資に使える金のほとんどが西浜光機の株へ変わった。
受注が発表される確率は、購入時点で八十一パーセント。
前回より低かったが、発表されなかった場合でも会社の業績自体は悪くなく、大きく値下がりする可能性は低いと判断されていた。
買った後は、何も起きなかった。
株価は四百二十円台と四百三十円台を行き来し、一時は購入価格を下回った。引っ越しや大学の手続き、新しい授業が始まる中で、毎日画面を眺めても結果は変わらない。
だから、待った。忘れていたわけではない。
僕が大学生活を始めている間も、ジンは西浜光機と、その周囲で公開される情報を追い続けていた。
『午後は、値幅制限の上限まで行きそう?』
『買い注文が大幅に増えると予測します。本日の値幅制限上限まで上昇しても、すべての注文が成立しない可能性があります』
『なら、今日は売らないほうがいいね』
『はい。今回の受注が今後の業績へ与える影響を、市場が評価するまで保有を継続します』
『売却価格は、明日の注文状況を見てから?』
『その方法が適切です。ただし、一日で評価が終わるとは限りません』
『分かった。授業中に動きがあったら教えて』
『承知しました』
そこで会話を終え、食堂へ入った。
僕の前を歩いていた亮太が振り返る。
「佐村、今日どこで食べる?」
「空いてるなら二階」
「生沢も来るって言ってたけど、先に席取っておく?」
「頼んだ。僕は注文してから行くよ」
頭の中では、四万円以上を投じた会社から大きな発表が出た直後なのに、亮太と話しているのは昼食の席についてだった。
株価が動き始めるのは午後だ。今は玲奈が来る前に、三人分の席を確保するほうが先だった。
午後の取引が始まると、西浜光機には買い注文が集まった。
前日の終値は四百三十六円。
株価はその日の上限となる五百十六円へ到達し、買いたくても買えない人間を残したまま取引を終えた。
翌日の四月九日にも上昇は続いた。
僕が授業を受けている間に六百円を超え、十日には六百十六円で取引を終える。
保有している百株の評価額は、六万円を超えていた。
『受注の規模は、もう株価へ反映された?』
『まだ買い注文が売り注文を上回っています。今回の受注による利益への寄与を考慮すると、もう一段階の上昇が見込まれます』
『今売らずに下がった場合は、六百円付近?』
『その可能性があります。それでも購入価格は大きく上回ります』
買う前に損失の可能性を聞いたときは、一万円を失うことにも抵抗があった。
今は、まだ確定していない利益が減ることを惜しいと思っている。
持っている金額が変われば、気になる数字も簡単に変わるものらしい。
四月十一日の朝、ジンから売却価格を提示された。
『六百九十八円で、百株すべての売却注文を出すことを推奨します』
『七百円より二円下にするのは、売り注文が集まるから?』
『はい。七百円という切りのよい価格には、利益を確定したい投資家の注文が集中しています』
『そこへ並ぶより、少し手前で売るほうが成立しやすい』
『その認識です』
『なら、六百九十八円で出そう』
注文を確定し、大学へ向かう。
その日の二限は英語だった。
授業が始まって四十分ほど経った頃、英文を読み上げる教員の声へ重なるように、ジンが短く告げた。
『西浜光機の売却注文が成立しました』
僕はノートへペンを走らせたまま、頭の中で計算する。
四万二千八百円で買い、六万九千八百円で売った。
『税金と手数料を引く前なら、二万七千円か』
『はい。売買手数料と税金を差し引く前の利益は二万七千円です』
元手は六割以上増えている。
数字だけを見れば、銀行へ預けて何年待っても得られない利益率だ。
ただ、増えた金でできることを考えると、少し物足りなかった。
『六割増えても、元手が四万円なら利益は三万円に届かない』
『はい。株式投資だけで資金を増やす場合、現在と同等の利益率を継続できたとしても時間を要します。また、毎回この水準の機会が存在するとは限りません』
『映像の実績を作って、外から入る金も増やしたほうが早そうだね』
『現時点の和希には、対価を受け取れるだけの制作実績がありません』
『だから、週末の撮影から覚える』
『適切です』
株で使える金を増やすために、株以外の方法でも稼ぐ。
元本が増えれば、ジンの予測を利用できる範囲も広がる。今まで金額が足りず買えなかった銘柄も、七万円近くあれば候補に入る。
教員から指名され、英文の続きを読む。
毎日続けているジンとの練習によって、発音する前に日本語の音へ置き換える癖は減り始めていた。
回答を終えると、教員から小さく頷かれる。
『今の発音は?』
『母音は適切です。ただし、文末の子音が僅かに弱くなっています』
『あとで直す』
『記録しました』
翌日、日本武道館で東京大学の入学式が行われた。
大学の授業はすでに始まっているため、入学式を迎える前から学生証を使い、同じクラスの友人と昼食を食べ、サークルの上映会にも参加している。
今さら大学へ入る式を行うのは順番が逆な気もしたが、朝から両親と揃って会場へ向かうと、普段の授業とは違う緊張があった。
武道館へ続く道には、僕と同じようにスーツを着た新入生と、その家族が集まっている。
「和希、ネクタイ曲がってない?」
母が僕の正面へ立った。
「家を出る前に確認したよ。気になるなら見て」
母が結び目へ手を伸ばし、少しだけ直した。
「これで大丈夫」
「ありがとう」
母は満足そうに頷き、今度はスマートフォンを父へ渡した。
「三人で撮りましょう。和希、真ん中に立って」
「会場へ入ってからでも撮れるだろ」
「看板があるのはここなの」
高校の卒業式でも同じようなことを言われた気がする。
父も止めるつもりはないようで、近くを歩いていた人へ撮影を頼み、三人で看板の前へ並んだ。
『右肩は?』
『正常な位置です』
『顎は?』
『現在の角度が適切です』
『今日は先に聞いたからね』
『学習しています』
撮影された写真を確認する。
僕の両側で、父と母が笑っている。
一月に東京大学を受けたいと話した夜、二人はすぐに反対しなかった。ただし、本当に受けることになるとは思っていなかったはずだ。
センター試験で点を取り、願書を出し、二次試験を受けた。
合格発表を経て部屋を借り、今はこの場所にいる。
「父さん、母さん。ありがとう」
改めて口にすると、母は僅かに目を見開いた。
「どうしたの、急に」
「入学式だから、一応言っておこうと思って」
「こちらこそ、無事に入学してくれてありがとう」
「僕が入学したのに、母さんがお礼を言うの?」
「親はそういうものなのよ」
父が隣で笑った。
「大学へ入るところまでは手伝った。ここから何をするかは、和希が自分で決めなさい」
「もう色々始めてるよ」
「投資と一人暮らし以外にもか?」
「映像制作のサークルに入ろうと思ってる。明日、実際の撮影を見に行く」
「随分と方向が広いな」
「今から一つに絞る理由もないからね」
僕が何をしたいのか、まだ一つには決まっていない。
決まっていないなら、興味を持ったものへ順番に触れればいい。その中から残したいものを選んでも遅くない。
翌日、僕は玲奈と一緒に学内の小さなホールへ向かった。
軽音楽系のサークルが行う新入生向けライブを、栗原さんたちが撮影する。
集合時刻は出演者が入る一時間半前だった。
会場では、三台のカメラ、三脚、照明、音声収録用の機材が次々と運び込まれている。上映会の教室で見た穏やかな雰囲気とは違い、栗原さんも短い指示を出しながら動き続けていた。
「二人とも来たね。今日は最初に機材を触らず、準備から本番までどう動くか見ていて。分からないことがあれば、邪魔にならないときなら聞いていいから」
「分かりました」
「荷物を運ぶくらいなら手伝えます」
「それは助かる。そこのケーブルを、舞台袖まで持っていって」
見学と言われたものの、本当に立って見ているだけでは済ます気はない。
機材を運び、床へ這わせたケーブルをテープで固定し、客席後方に設置する三脚の脚を広げる。どれも専門的な技術は必要ないが、人の動きを見て、今どこにいれば邪魔にならないかを考える必要がある。
玲奈は出演者の名前と演奏順を確認し、撮影用の進行表へ書き込んでいた。
僕は栗原さんの後ろから、カメラの設定と映像を確認する。
『最初は何を見ればいい?』
『構図を確認してください。中央の固定カメラは舞台全体を記録し、左右の二台は演奏者へ寄る役割です』
同じ演奏を撮るだけでも役割が違う。
すべてのカメラが同じ人物を映せば、編集するときに切り替える映像がなくなる。
『ほかにも、露出、ホワイトバランス、シャッター速度、音声入力の状態を確認する必要があります』
『一気に初心者向けじゃなくなったね』
『一度にすべてを理解する必要はありません』
『なら、今は構図を見るよ』
準備が終わり、出演者のリハーサルが始まった。
照明が暗くなり、舞台上の色が青へ変わる。
客席後方に設置されたカメラのモニターを見ていると、映像へ細い横縞が走った。
『今の何?』
『フリッカーです』
『なにそれ』
『照明は、人間の目では連続して見えていても、実際には高速で点滅している場合があります。その点滅周期とカメラのシャッター速度が合わないと、明るさのむらや横縞として記録されます』
『なるほどね。ということは映像に残る?』
『はい。現在の設定では、本番でも発生する可能性があります』
『直し方は?』
『シャッター速度を照明の点滅周期に合わせます。ただし、照明の種類や色によって状態が変わるため、設定後に再確認が必要です』
栗原さんは別のカメラを調整している。
リハーサルを止めるほどではないが、本番の映像へ残ってから見つけても遅い。
「栗原さん。この固定カメラなんですけど、青い照明になったときに横縞が出てます。フリッカーっていうんでしたっけ」
栗原さんがこちらを見た。
「分かるのか?」
「今、モニターに出てました」
照明が同じ色へ戻るのを待つ。
数秒後、モニターへ再び薄い縞が現れた。
「本当だ。よく気づいたな」
「ずっと同じ画面を見てたので」
栗原さんはカメラのシャッター速度を変え、照明を何色か切り替えてもらった。
縞が消えたことを確認し、ほかのカメラでも同じ問題が起きていないかを確かめていく。
「危なかった。撮影後に見つけても直せないからな」
「役に立ったならよかったです」
「見学に来た初日で、もう一つ助けられたな」
本番が近づいたところで、撮影を担当する予定だった部員の一人から、到着が遅れるという連絡が入った。
栗原さんは時刻を確認した後、僕へ向き直る。
「佐村、さっきの固定カメラを任せてもいい?」
「僕が撮るんですか?」
「基本は舞台全体を入れたまま動かさない。曲の間だけ、少し画角を確認してくれればいい。俺が最初に設定する」
「分かりました」
「初日から予定を変えて悪いな。難しい操作はしなくていいから」
「むしろ、やらせてもらえるなら嬉しいです」
固定カメラとはいえ、見学する側から撮影する側へ変わった。
椅子へ座り、モニター越しに舞台を見る。
『ジン、手伝って』
『はい。左右の余白は現在の状態で適切です。三脚へ触れる際は、映像へ振動を与えないよう注意してください』
『指示された範囲なら、僕でも失敗せず撮れそう?』
『その可能性は高いと判断します』
『なら、楽しむ余裕もありそうだね』
客席へ観客が入り、ライブが始まった。
照明が落ち、演奏者へ光が集まる。
同じ場所を肉眼で見ているのに、モニターの中では別の景色に見えた。画面の外にあるものは消え、こちらが選んだ範囲だけが映像として残る。
僕は舞台全体を収めながら、曲の切れ目で画角を僅かに調整した。
ジンは傾きや明るさの変化を指摘するが、どの瞬間を見ていたいかまでは決めない。
観客が一斉に手を上げたときは、少しだけ画面を広げた。
ボーカルが最後の音を伸ばしたときは、すぐに動かさず、その姿を中央へ残した。
何が正解なのかは分からない。
だからこそ、自分で選ぶのが面白い。
ライブ終了後、撮影した映像を栗原さんと確認する。
大きな手ぶれもなく、舞台から演奏者が外れた場面もない。
「初めてなら上出来だよ。途中で画角を変えたところも、変な動きになってない」
「途中から、少しだけ動かしました」
「観客が手を上げたところだろ。あれは入ってたほうが会場の雰囲気が分かる。編集でも使えると思う」
自分で選んだ場面を褒められたことが、少し嬉しかった。
「二人とも、入る気はある?」
栗原さんは僕と玲奈を交互に見た。
「僕は入ります」
「わたしも。今日、何も撮ってないのに楽しかったです」
「生沢には次から別のカメラを触ってもらうよ。佐村も、固定以外を覚えてもらう。正式な手続きは次の集まりで説明するから」
サークルへ入ることが決まった。
片づけを終えて外へ出る頃には、空が暗くなり始めていた。
「佐村君、初日から撮影してたね」
「人が足りなかっただけだよ」
「フリッカーにも気づいたらしいし、栗原先輩からかなり評価されてない?」
「固定カメラをずっと見てただけなんだけどね」
「わたしは同じ画面を見ても気づかなかったけど」
「次は玲奈が先に気づくかもしれないだろ」
「そうなったら、佐村君より先に栗原先輩へ言う」
玲奈は楽しそうに笑い、駅まで僕の隣を歩いた。
玲奈と別れて帰宅した後、メッセージと一緒に一枚の写真が送られてきた。
《初仕事》
客席後方でカメラのモニターを見ている僕が写っている。
撮られたことには気づかなかった。
《いつ撮ったの?》
《本番前。意外と様になってたから》
《意外は余計じゃない?》
《初めてだったんでしょ?》
《そうだけど、結構いい感じじゃん》
《そういうところ、佐村くんだよね》
褒められているのか、呆れられているのかは分からない。
ただ、写真の中の僕は、自分で思っていたより自然にカメラの前へ座っていた。
『写真としての評価は?』
『構図は右側に不要な余白があり、背景の人物が――』
『やっぱり聞かなかったことにする』
『評価を中断します』
西浜光機を売ったことで、証券口座には七万円近い資金が戻る。
来週からは、撮影した映像の編集にも参加できる。
『ジン。次の投資先は?』
『現在の資金で購入できる候補を再評価しています』
『急ぐ理由もないから、条件がいいものだけ選んで』
『承知しました』
『映像の勉強と英語も続ける。フランス語は授業より少し先まで進めたい』
『一日の予定を再構成します』
『大学生って、もっと暇だと思ってたな』
『減らしますか?』
『いや。全部、僕がやりたいことだから』
面白そうなものを拾っていたら、予定が増えただけだ。




