第9話 戦争はチョコから始まった
【超速報】真夜中の大騒動!?望月茜、幽霊から逃げて中瀬家へ全力疾走!!
― 深夜2時37分。
幽霊から逃げる望月茜。
なぜか肩にはつむぎ。
手にはニンニクと十字架!?
逃げ込んだ先は、
もちろん中瀬俊介の家。
しかし待っていたのは――
カップ麺事件。
そして怒りのあまり、
中瀬先生が窓から空へ!?
さらに、
つむぎの超能力が初めて目を覚ます――!?
午前二時三十七分。
仕事のために起きる人。
旅に出る人。
遊び疲れた足を引きずって、帰ってくる人。
そんな人々がいる中で――
望月茜は、子どもを肩に乗せて道を走っていた。
つむぎは、右側の何もない空間へ、楽しそうに話しかけていた。
空いている方の腕で、身振りまでつけて。
とても面白い話の途中らしい。
見えない友達は、聞き上手のようだった。
茜は、まともに息ができていなかった。
鼻から入ろうとする空気が、肺から出ようとする空気に正面衝突する。
体内まで、大混乱だった。
通りの先に、中瀬の家が見えた。
到着。
茜が扉をたたいた。
中からは、独特の沈黙が返ってきた。
起きている。
ノックも聞こえた。
そのうえで、人生の選択肢を検討している。
そういう沈黙。
中瀬は、留守のふりを考えた。
死んだふりも考えた。
けれど、扉の向こうにいるのは望月茜だった。
帰らない。
絶対に。
何があっても。
煙草を取った。
玄関へ行く。
開けた。
彼女がいた。
青白く、生気の抜けた顔。
片手には、まだついたままの懐中電灯。
もう片方には、ニンニク。
肩の上では、つむぎが緑の髪で笑っていた。
今夜は、とても楽しかった。
そう、はっきり分かる笑顔だった。
「はい!」
爆弾を別の人へ渡すような手際で、茜はつむぎを中瀬の腕へ移した。
何も分からないまま、彼は受け取った。
けれど、先に確認すべきことがあった。
「どうして……そんな格好なんですか? パジャマですか?」
指に煙草を挟んだまま、聞いた。
「パジャマ!? 冗談でしょ、中瀬くん!」
つむぎが、腕の中で笑った。
「世界を救ってるの、私は!」
中瀬の頭に、声が届いた。
小さく、聞き覚えがあって。
面白い秘密を教える時の声。
(中瀬くん。友達が茜さんと遊んでるの。すっごく怖がってる)
中瀬は、つむぎを見た。
つむぎは、頬を持ち上げて笑った。
彼も笑った。
「何、笑ってるの!?」
納得できる答えは、返ってこなかった。
「とにかく、扉閉めて!」
茜は扉を押し閉めた。
内側へ向き直り、十字架とニンニクを扉へ突きつける。
すぐに何かが起こるのを、期待するように。
沈黙。
三人とも、扉を見た。
扉は、何もしなかった。
「望月さん……」
中瀬が、慎重に沈黙を切った。
「ただ……疲れているだけでは?」
「つ、疲れてる!?」
「大丈夫だよ、中瀬くん」
つむぎが、親切に教えてくれた。
「友達は、二人に悪いことしないから」
「もう、その友達の話はいい! 私を驚かすの、やめてって言って!」
「でも、茜さんのこと気に入ったんだって」
つむぎは、本気で首をかしげた。
「見えないの、残念だね」
茜が口を開いた。
閉じた。
「ああ……残念……」
言いたかったこととは、明らかに違う調子だった。
けれど、言葉は判断を通り抜ける前に出てしまった。
つむぎは、見えない友達を見た。
見えない友達は、面白がったらしかった。
空気は、ほぼ落ち着いていた。
ほぼ。
茜が、顔を横へ向けた。
見た。
鍋。
台所のカウンターに、証拠はそろっていた。
ビーフ味のインスタントラーメンの、空袋。
まだ少し汚れた、小鍋。
夜中に使われた罪悪感まで背負っていそうな、置き去りのフォーク。
茜の表情が変わった。
ゆっくり。
髪が、持ち上がる。
部屋の温度が、二度下がった。
つむぎは感じ取った。
抱いていた小さな体が、わずかにこわばったので、中瀬も彼女を見た。
つむぎは、茜を見つめていた。
あ、まずい。
そういう顔。
「中瀬くん……」
低く。
ゆっくり。
雷が落ちる前の、あの響き。
茜が振り向いた。
「私のオムレツを食べたのに、ラーメンまで食べたの!?」
「それは――」
「信じられない! どういうこと!?」
「食べたあとも、お腹がすいて――」
「私のオムレツ、おいしくなかった!? そういうこと!?」
「違い――」
「よくも! せっかく作ったのに、ビーフ味のラーメン!?」
「も――」
「この……面倒くさいおじさん!」
半秒、静かだった。
(悪い言葉は使わない。子どもがいるから)
「おじさんではありません」
「そう!? 面倒くさいおじさんでしょ!」
「違います。むしろ、望月さんの方が年上でしょう」
「私!? 私が!? 何歳だと思ってるの、中瀬くん!」
つむぎの声が、急いで頭へ届いた。
(答え、気をつけて……)
中瀬は答えた。
「三十歳」
「三十歳!?」
「……!?」
「違うわよ、この四十歳のおじさん!」
「四十? 三十八です」
「私は、ぴっちぴちの二十五! お・じ・さ・ん!」
「年上に見えますけど」
落ち着いて、煙草を吸い続ける。
「あなたは、本当に年上でしょ! バカ!」
「でも、見た目は――」
中瀬は諦めた。
煙草を消し、捨てた。
文の途中で、ただ諦めた。
背を向ける。
周りの混乱とは正反対の丁寧さで、つむぎを台所のカウンターへ座らせた。
戸棚へ行く。
何かを探し始める。
「待って……またラーメン取るつもり!?」
答えなかった。
怒ってはいない。
いら立っても、悲しんでも、喜んでもいない。
普通。
ただ、普通。
世界が崩壊していく中で、中瀬俊介の通常運転が続いていた。
「中瀬くん……」
茜が、大きく息を吸った。
「今日は機嫌がいいから、このくらいで済んでるのよ。そうじゃなかったら、窓から投げてるからね、このバカなおじさん!」
怒って、背を向けた。
そのまま、止まる。
つむぎは、中瀬を見た。
反応を待った。
何もなかった。
茜を見る。
懐中電灯。
サングラス。
ニンニク。
十字架。
床を引きずるシーツ。
恐竜のスリッパ。
髪は、全方向へ。
白いタンクトップと、星柄の青いショートパンツ。
そんな独特な一式に、宇宙すべての怒りが詰まっていた。
中瀬が、ようやく探していたものを見つけた。
茜へ向かう。
つむぎもカウンターから降り、冷たい床に静かな足音を立ててついていった。
中瀬は、茜の横で止まった。
彼女は背を向け、肩をこわばらせていた。
まだ戦いが終わっていないように、十字架を扉へ向けている。
「望月さん」
「何」
乾いた声。
疑問符はない。
怒りと、認めるつもりのない疲れ以外、何もない。
「どうぞ」
手を差し出した。
茜は、見もしなかった。
「いらない」
「受け取ってください」
「いらない」
中瀬は深く息を吐いた。
前へ回る。
膝をついた。
つむぎも隣で、同じように膝をついた。
誰も頼んでいない真剣さで。
おかげで、その場が必要以上に厳かになった。
二組の目が、茜を見上げる。
普通の大きさの目。
小さな、ピンクの目。
中瀬は、組まれた腕と、下がった顎の間へ、板チョコを差し入れた。
ゆっくり。
辛抱強く。
「どうぞ、望月さん」
目より先に、鼻が気づいた。
茜が固まる。
「チ、チ、チョ……チョ――」
「チョコです」
中瀬が確かめるように言った。
「チョコ!?」
「チョコ」
つむぎも繰り返した。
その言葉が言えることを、確かめるために。
茜の目が、輝き始めた。
どんどん。
どんどん。
包装を見るまでは。
沈黙。
それまでとは、違う沈黙だった。
「……」
「……」
中瀬は、見るより先に変化を感じた。
「もしかして……」
茜の声が、危険なささやきになった。
「私の家のチョコ、取ったの……あなた!?」
「違い――!」
茜が、彼の足をつかんだ。
回した。
その体格の人間には、物理的な説明のつかない力で。
そして、投げた。
中瀬は窓から飛び出した。
宇宙に、わずかばかりの慈悲が残っていたおかげで、窓は開いていた。
物理の許す限りの速さで。
夜明け前の空気が、彼を迎えた。
午前二時五十二分。
中瀬俊介は、地上四メートルに浮かんでいた。
空中で、動かない。
パジャマ姿。
ここへ至るまでの人生の選択を、見直している顔。
窓辺には、つむぎがいた。
小さな両腕を、少し伸ばして。
新しい力を使うのが楽しくて仕方がない。
そんな集中で、目が輝いていた。
髪は緑。
ものすごく、緑。
茜も隣の窓辺に現れた。
まだ十字架を持ったまま、外の中瀬を見る。
三人は、しばらく黙った。
道には、人がいない。
空には、星。
中瀬は、浮いていた。
「……戻してあげて、つむぎちゃん」
ようやく、茜が言った。
そして、その夜の終わりには。
中瀬が、ソファで眠っていた。
眼鏡をかけたまま、深く。
つむぎと茜は、中瀬のベッドで板チョコを食べていた。
二人とも、幸せだった。
正確には、夢の中にいるようだったのは茜の方。
「最高!」
顔中に、チョコをつけていた。
つむぎが、茜を見る。
「茜さん。ラーメンとオムレツよりおいしいものって、これだったの?」
「そう!」
つむぎは首を傾けた。
本当に、不思議そうだった。
「じゃあ、最初からここにいればよかったんじゃない?」
「……」
「しーーーっ!」
茜は、この戦いには負けたと分かっている顔をした。
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