第30話 検証の犠牲者
【緊急速報】「尊い犠牲でした」――中瀬、二階から落下!?
― つむぎちゃんの能力を確かめるだけのはずが、検証方法があまりにも物理的!! ―
不気味なほど、静かだった。
中瀬の家が、こんなにも静かになったのは初めてだった。
二人の超常的な生き物が――
そのうち一人は、ただ変わっているだけなのだが――
この家にやって来てから、初めて。
つむぎが突然赤ちゃんになった理由を、散々考えた。
子どもの取扱説明書まで作った。
光合成。
宇宙人。
幽霊。
風船みたいになったスーパー。
茜は、いくつもの結論にたどり着いていた。
証明されたものは、一つもない。
それでも、自分の勘は外れないと言っていた。
外れていた。
ちなみに、スーパーも出入り禁止になっていた。
けれど、その程度の、よくある小さな間違いを除けば。
今のところ、何も起きていなかった。
今のところは。
静寂の中。
中瀬は、不安そうな顔で茜を見ていた。
何かが起きようとしている。
それを、分かっている顔だった。
「もし望月さんが、本当に不思議な力を持っていたら……」
ゆっくりと言った。
「今、髪は緑になっている気がします」
「なってる!?」
茜はまだ、自分でも知らない能力が眠っていると信じていた。
「いいえ」
そっけなく。
当然の答えだった。
茜は、つむぎを見た。
つむぎは、サングラスまで外していた。
茜が何をするつもりなのか、理解しようとしている。
純粋な好奇心だった。
(今度は、何を壊すんだろう)
予想していた。
茜が、つむぎに笑いかけた。
あの笑顔で。
周りのみんなに迷惑をかける子どもの、あの笑顔。
「つむぎちゃん。中瀬くんを助けて!」
中瀬が振り向いた。
その時には、もう――
茜に両腕をつかまれていた。
そして、窓から放り投げられていた。
また。
「うわあああああああああ!!」
「な、なか――!」
つむぎは、名前を最後まで言えなかった。
目の前で起きたことを見ていた。
信じられなかった。
あまりにも、一瞬で――
ぼふっ。
「……中瀬くん、落ちた?」
茜は、本気で聞いた。
窓から下をのぞく。
「落ちたね」
自分で答えた。
つむぎは、茜を見ていた。
信じられないという顔で。
すると――
「……えへへ」
赤ちゃんの笑い声が、小さく聞こえ始めた。
少しずつ、大きくなる。
かわいくて。
素直な笑い声だった。
つむぎは、ぱちぱちと手をたたいた。
その髪が、茶色から緑に変わった。
一瞬で。
茜が驚いた。
男を二階から投げ落としたことは、完全にそっちのけだった。
「うまくいった!! あはは、中瀬くん! 成功だよ!!」
チャイムが鳴った。
茜は、つむぎを抱いたまま玄関へ駆けていった。
大喜びでドアを開ける。
そこにいたのは、中瀬だった。
擦り傷だらけ。
あちこちを痛めて。
頭からは、少し血がにじんでいた。
あちこち腫れてもいた。
それでも、苦しむことを生き方として受け入れた人のような落ち着きで、後ろのドアを閉めた。
「中瀬くん、成功! 成功だよ! ほら、見て!!」
茜は笑いながら、緑の髪のつむぎを見せた。
中瀬は、二人を見た。
「似てますね、あなたたち」
そして、言った。
「私が落ちて、嬉しそうです」
「嬉しいんじゃないよ!」
一拍、置いた。
「感謝してるの!」
「……」
この部屋に、普通の日常が訪れることはない。
中瀬は、その希望を捨てた。
そのまま、洗面所へ向かった。
茜は、同じくらい嬉しそうなつむぎを抱いて、後ろをついていった。
まだ、いい考えだったと説得しながら。
「本当だよ、中瀬くん! これで、つむぎちゃんに異常はないって分かったでしょ! 赤ちゃんになっただけ!」
「……ええ」
中瀬は鏡を見ながら、絆創膏を探していた。
「ああ、中瀬くん。みんなのために、自分から協力してくれてありがとう!」
「ええ……みんなのために、自分から協力しましたからね……」
明らかな皮肉だった。
茜は真に受けて、嬉しそうにした。
しばらくして。
外は、暗くなっていた。
中瀬の家の中も、暗かった。
照明は消えている。
ベランダの灯りだけが、廊下に細い光を落としていた。
居間を照らしているのは、テレビの青白い光だった。
つむぎは、『ピポとゼリーのほし』を見ていると言い張っていた。
本当ではなかった。
三人は、同じソファにいた。
真ん中には、茜。
脚を組み、左へ少し体を傾けている。
その右側では、つむぎが完全に眠気に負けていた。
茜の太ももに倒れ込んで。
すっかり身を任せて。
少し、よだれまで垂らしていた。
左側の中瀬は、右へ――茜の方へ体を傾けて座っていた。
茜は、彼の傷の手当てをしていた。
ゆっくり。
丁寧に。
急がずに。
中瀬は、その様子を見ていた。
「……ごめんね」
茜は、自分が悪かったと分かっている顔で、少し口を尖らせた。
「大丈夫です。みんなのためでしたから」
冗談を言っている顔ではなかった。
茜が笑った。
中瀬も、少し肩の力を抜いた。
「でも、これで元に戻れるって分かったね」
「ああ、そうですね……証拠が足りませんでしたからね……」
中瀬が、からかった。
足りていた。
「うーん……そうだけど……これで絶対に確かでしょ」
「……ええ」
沈黙。
茜は、中瀬と目を合わせないようにしていた。
中瀬は、まったく気にしていなかった。
彼女の目を見ていた。
「あっ! 今日、つむぎちゃんを見てて思い出したんだけど……中瀬くん」
「はい?」
「この子がちゃんと学べる場所、考えないと! 中瀬くんは先生だから、分かるでしょ……五歳くらいの姿でいるうちに、お友達も作ってほしいの!」
「ええ、そうですね。この子にとって、大事なことかもしれません」
中瀬は、茜の脚によだれを垂らしているつむぎを見た。
(……一つ、思いついた)
「明日、電話してみます」
「うん、分かった!」
また、静かになった。
小さなテレビの音だけが、背景に流れていた。
外を、一台の車が通り過ぎる。
「……」
「……」
「望月さん」
「は、はいっ!」
「赤ちゃん、あまり好きじゃないんですよね?」
茜は、隠そうとした。
表情の方が先に答えていた。
「うん……何を考えてるのか、分かりにくくて」
「そうですか。では、これから大変ですね」
「……」
(こ、こ、これから!? これから。これから!? いつ大変になるの!? 将来!? 赤ちゃん!? これから!? 将来、赤ちゃんがいるってこと!? 私と、中瀬くんに!?)
「ど、ど、どういう意味、中瀬くん!?」
「つむぎちゃんがこのままだと……赤ちゃん二人の相手は、さすがに大変ですから」
「!!」
突然、衝撃の波が走った。
茜の小さな世界で爆弾が破裂したみたいに、髪が全部後ろへ吹き飛んだ。
心の中で、大騒ぎが始まった。
小さくはない。
心の中の大騒ぎ、その一。
今回は、大きい方だった。
(わ、わ、わ、わ、わ、わ、私!? あ、あ、赤ちゃん!? 中瀬くんにとって!? 私、赤ちゃん扱いだったの!? やあああああああああ!!)
先に言っておこう。
そのまま、三人ともソファで眠った。
テレビは、まだついていた。
静かな夜。
窓から入る車の音が、小さく部屋に流れていた。
背景の音みたいに。
中瀬は、ソファにすっかり横になっていた。
首と頭が、端からはみ出している。
つむぎのお尻は、中瀬の顔の上にあった。
足は、彼の耳に乗っていた。
茜は、中瀬の上に寝ていた。
脚は、ソファの外へ投げ出して。
穏やかだった。
三人とも。
まるで、そのソファこそが。
三人にとって、世界でいちばん自然な居場所であるかのように。
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