第2話 もしかすると、スパイの方が楽だった
【政府】解雇された翌日、スパイになると思っていたのに、結局ベビーシッターになってしまった。
―期待と現実は、しばしば大きく異なる。―
解雇された翌日。
望月茜。
私は政府機関へ。
新しい仕事。
極秘任務。
秘密組織。
スパイ。
潜入捜査。
それが私の予想だった。
しかし…
私を待ち受けていたのは…
眼鏡をかけた真面目そうな教授。
そして、人形。
そして…
私の人生は…
あの日から…
すべてが狂い始めた。
朝は、きれいに晴れていた。
鳥のさえずり。穏やかな風。
ヨーグルトのCMに出てくるような朝だった。
望月茜のアパートでは、一人の人間が枕に沈んでいた。
頬は布に押しつけられ、よだれは地図を描き、髪は物理法則に挑戦していた。
何も後ろめたいことのない人間の眠りだった。
あるいは、責任感のない人間の眠り。
見方による。
茜は片目を開けた。
もう片方は目やにでくっついていたため、動作には手動での補助が必要だった。
十秒ほど、そのまま天井を見た。
自分が存在していることを、まだ理解していない顔だった。
それから、伸びをした。
ゆっくり。
罪悪感もなく。
急ぐこともなく。
「ああ……」
悟りを開いたような、穏やかなため息だった。
「仕事のない日って、こんなに気が楽なんだ……」
もう一度、伸びをした。
ヒトデのように両腕を広げて。
「目覚ましなしで起きられたし……」
沈黙が答えた。
とても、とても怪しい沈黙だった。
茜がまばたきをした。
目覚まし時計を見た。
目覚まし時計は、真っ暗な画面で見返してきた。
電池切れ。
「……」
その声は、低いところから始まった。
徐々に高くなり、最後には、向かいの老人ホームにいる高瀬さんのベッドまで、はっきり届く音になった。
「やあああああああああああああ!」
ベランダで、高瀬さんがまばたきをした。
――ここに来なくても、ちゃんと私を起こす仕事はしてくれるんだねえ。
心からの愛情を込めて、そう思った。
街の反対側では――
そう、地理的な緊迫感の出番が再びやってきた――
中瀬俊介が、キッチンのテーブルについていた。
スーツ。
整えた髪。
正しい姿勢。
右手にコーヒー。
左手に新聞。
人生で一度も遅刻したことのない人間の顔で、時計を見た。
「電車まで、あと七分」
家は駅のすぐ隣だった。
当然のように。
「あのズボン、どこおおお!?」
茜の声が、何かに取り憑かれたようにアパートへ響いた。
「あああ、なんで暑いの!?」
スラックスを手にして、廊下に現れた。
長年の宿敵を見るような目で、それをにらんでいた。
政府のところへ行くには、きちんとした服が必要だった。
日本の夏を生きるには、死ぬ覚悟が必要だった。
その組み合わせは、明らかに茜個人を狙った陰謀だった。
犯していない罪で罰を受けるような顔をして、ズボンをはいた。
コーヒーを取った。
それからパンも。
チョコレートをたっぷり塗った、自分へのご褒美のパンだった。
時計を見た。
そして――
「あと七分って、どういうこと!?」
食べる暇はなかった。
バッグとパンをつかみ、玄関から飛び出した。
階段では、登校途中の二人の少年が、うれしそうに手を振った。
「望月さん!」
「早く学校に行きなさーい!」
茜は走りながら答えた。
止まらずに。
二人は笑った。
茜は、この辺りではよく知られていた。
どういう人なのか、うまく説明できる人はいなかった。
でも、みんな何となく好きだった。
ホームでは、中瀬が発車の七分前に電車へ乗り込んでいた。
バッグを肩に掛け、静かに立ち位置を決めた。
人生で走る必要など一度もなかった人のように。
ドアが閉まろうとしていた。
外では、駅の階段に、不規則な速度で走る人影が現れた。
茜は、閉まり始めたドアを見た。
計算した。
行動した。
バッグを投げた。
ドアに向かって。
必要な四秒を稼ぐために。
問題は、バッグが飛びすぎたことだった。
そして、飛んだ先には、ちょうど中瀬がいた。
ぺちん。
顔面直撃。
中瀬には何も見えなかった。
予告もなかった。
宇宙のどんな論理を使っても、説明できない出来事だった。
一秒、動きを止めた。
今起きたことを処理するために。
茜が電車へ乗り込んだ。
「ふう……」
顔にバッグが張りついた男性を見た。
「あ」
少しだけ、後ろめたそうに目を泳がせた。
「あああ、すみません!」
叫ぶような小声で、駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
隣の乗客が、強く「しーっ」と言った。
茜はその人を見た。
中瀬を見た。
そして、必死に声を抑えた顔で、「この人、大丈夫?」と身振りで訴え始めた。
中瀬は、茜の指をそっと下ろした。
苦しむことを生き方として受け入れた男の顔で、茜を見た。
小さくうなずいた。
その仕草は、はっきりこう言っていた。
――大丈夫です。これ以上、恥ずかしい思いをさせないでください。
「あ……はい」
こうして二人は、並んで立った。
同じ電車で。
同じ方向へ向かいながら。
電車が止まると、二人とも降りた。
そして、同じ方向へ歩き始めた。
中瀬が前を歩いていた。
何も気にしていない顔だった。
茜が後ろを歩いていた。
中瀬以外の、あらゆる場所を見ながら。
――ああ、ストーカーだと思われたらどうしよう?
横を見た。
閉まっている店に、興味があるふりをした。
――私が、この人に何かしたいと思ってると思われたら?
無意味に二歩、脇へずれた。
――いや、待って。おかしいのは、この人のほうでしょ。私と同じ方向へ歩くなんて、どういうつもり!?
顎を上げた。
取り戻した尊厳とともに、歩き続けた。
建物のロビーに入ると、中瀬はそのまま受付へ向かい、腰を下ろした。
茜は受付の女性に直行した。
「おはようございます!」
知らない人を驚かせる、あの勢いだった。
「日本の教育を担当している、一番偉い方に会いに来ました!」
「日本の教育」の部分に、妙な重みがあった。
そこに至るまでの事情が、たっぷり詰まった強調だった。
受付の女性は、仕事の姿勢を崩さなかった。
「おはようございます。申し訳ありませんが、今すぐお取り次ぎすることはできません」
「できない!?」
茜がまばたきをした。
「私だって、仕事がないままじゃ困るんです!」
三メートル離れた席で、中瀬はさりげなく床を見ていた。
でも、全部聞いていた。
「いいですか」
茜の声が、危険な低さになった。
「私は、その日本の教育ってものと、何の関係があるのか知りたいだけなんです」
「ありません」
返事が、速すぎた。
怒りが、茜の足先から頭まで駆け抜けた。
「そのとおりです」
受付の女性は深呼吸した。
この女性は、本気で怒っていた。
その怒りは、部屋全体を占領する種類のものだった。
「あの……事前に何か通知を受け取られましたか?」
「通知!?」
茜は信じられない顔で繰り返した。
「知らせてくれればよかったんですけどね! 私、解雇されたんです」
受付の女性がまばたきをした。
解雇?
茜が差し出した紙を受け取った。
三行読んだ。
理解した。
「望月さん、少々お待ちください」
茜は驚いた。
目に注意が戻り、姿勢も普通に戻った。
座ろうと振り向いた、その瞬間――
どん。
誰かに、顔からぶつかった。
「おっと、望月さん」
見上げた。
電車の男性だった。
中瀬。
一度の朝に、これ以上攻撃を受けたくないという顔だった。
「あっ! す、すみませ――望月さん!? 何で私の名前を――」
「中瀬です。どうも」
簡潔な自己紹介だった。
大げさな挨拶もなかった。
返事を待たず、受付へ向かった。
茜は立ったまま、目で追った。
――何、この人?
――ケンカ売ってる!?
受付でしばらく待ったあと、二人は呼ばれた。
部屋は奥行きがあり、天井も高かった。
自分たちの重要さを、非常に真剣に考えている場所の空気だった。
立派なテーブル。
整列した椅子。
重要な会議の顔で待つ、三人ほどのスーツ姿の男性。
――ここに、こんな部屋が入るんだ。
茜は天井を見ながら思った。
横を見た。
――中瀬くん……。
この男性は、好きではなかった。
本来なら、嫌われるのは茜のほうだった。
顔にバッグを投げつけたのだから。
でも、中瀬は何の恨みも見せなかった。
感情すら見せなかった。
何も。
不気味だった。
テーブルの奥にいた男性が立ち上がった。
「おはようございます、望月さん。中瀬さん」
中瀬は落ち着いた顔でお辞儀をした。
茜は、早く解決して帰りたい顔でお辞儀をした。
「私は、日本の教育行政の中でも、最も慎重な扱いを要する分野を担当する大臣です」
一拍置いた。
「その意味は、すぐにお分かりになるでしょう」
茜は大臣を見た。
――早くして。
「まず、突然の解雇で驚かせたことをお詫びします。これからお願いする仕事に、専念していただく必要がありまして」
仕事。
その言葉が、茜の頭の中で何かを点灯させた。
――ああ……政府のスパイになるの!?
さりげなく天井を見た。
――スパイ? 忍者? 潜入捜査官? 私が? エージェント!? ああ、木曜日に見る映画と同じだ!
大臣は続けた。
「現在の状況を、簡単にご説明します」
「本当に、よろしいのですか?」
隣の男性が、小声で尋ねた。
「構わない。二人には知ってもらう必要がある」
茜は中瀬を見た。
――うわあ。秘密のエージェントに誘われても、喜ばないんだ。変な人。
大臣が話し始めた。
何世代も前から、政府が秘密裏に進めてきた計画があった。
超常的な能力を持つ人間は、存在していた。
昔から。
一世代に一人。
同時に二人いたことはなく、同じ家族に生まれたこともなかった。
だから、見つけることが非常に難しかった。
そして、いつも圧倒的な少数だった彼らは、隠れることを選んだ。
注目を集めないように。
同じ能力を持つ子どもが生まれた例もなかった。
その存在は、一人で現れ、一人で消えていた。
今までは。
「前の世代で――」
大臣は、慎重に言葉を選んだ。
「まだ解明の途中にある出来事が起きました。その結果、これまで記録された範囲を超える能力を持つ子どもが生まれたのです。そして、こちらの博士によれば――」
部屋の隅の男性を示した。
研究室には長くいるが、日光にはあまり当たっていないような姿だった。
「この子は先週生まれたばかりですが、骨の発達は生後三か月の子どもに相当します」
茜がまばたきをした。
待った。
――分からない。
「成長が非常に速いのです」
大臣が補足した。
「しかも、通常であれば、これほど早い時期には現れない能力を、すでに見せています」
中瀬が、部屋に入ってから初めて動いた。
ポケットから小さな手帳を出し、メモを取り始めた。
「この子の世話をし、教え、育てる大人が二人必要です。能力を抑える方法を学ばせ、人前で振る舞えるようにするために」
沈黙。
「それは、どちらの子どもの話でしょうか?」
中瀬だった。
声は平静。
純粋な質問だった。
茜が振り向いた。
「どういう意味ですか!?」
遠回しに自分のことを言われた気がした。
大臣が、小さく笑った。
茜は、自分でもうまく説明できない理由で傷ついた。
中瀬はメモを続けた。
茜は、ゆっくり、痛みを伴いながら気づいた。
自分もメモを取ったほうがいいのかもしれない。
そして、子どもがこれから学ぶことを、自分も中瀬に教わることになるのかもしれない。
その考えを、力いっぱい追い払った。
「お二人にお願いする期間は、約一か月です」
大臣はテーブルの上で手を組んだ。
「吉本博士によれば――」
「すみません、誰ですか?」
茜は、考えるより先に尋ねていた。
大臣が、隅にいる研究者を指さした。
茜はその人を見た。
資料の名前を見た。
もう一度、その人を見た。
「ああ」
無表情だった。
「話を戻しますと」
大臣が続けた。
「一か月後には、ある程度、自分の判断で行動できるほど成長していると考えられています。ただし、すべての面が同じ割合で発達するわけではないため、期間の終わりには――」
「報酬は?」
また中瀬だった。
手には手帳。
大臣は一秒止まった。
「まだ算定中ですが、おおよそ――」
金額を告げた。
中瀬が片眉を上げた。
片方だけ。
ここまで表情の動かない男にとっては、ほぼ精神崩壊だった。
一方、茜は。
顎が下がった。
目が見開かれた。
瞳が、輝く二つの円マークになった。
口を開けた。
閉じた。
もう一度、開けた。
その金額は、一度に頭へ収まりきらなかった。
もう少し時間が必要だった。
「では」
大臣が立ち上がった。
「ご質問には、あとでお答えできます」
ドアを見た。
「女の子を連れてきてください」
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