第6話 蓋をする
エリザベートは走っていた。
確信がある。奴は必ず追ってくる。だから走る。
逃げているのではない。
問題は地形だ。
魔法使いである自分が、狂戦士と一騎打ち。正気の沙汰ではない。
距離を詰められたら終わる。
だからこそ、魔法を活かせる場所を。
距離を取って戦うことのできる、開けた場所を探さなければいけない。
心臓が焼けるように熱いのは、走っているせいか。それとも激情のためか。
と、背後で石の砕ける音がした。来る。
振り返り、魔法陣を展開する。
「来やがれ……来いよ……!」
普段なら口にしないような乱暴な言葉を、あえて口にする。ルーカス、私に力をちょうだい。
崖の下から、手がゆっくりと伸びてくる。
2、3度確かめるように地面を撫でた後、指が食い込み、そのまま体を引きずり上げる。
顔が見えた瞬間、叩きこんでやる。
魔力を高め、魔法陣に注ぎ、限界まで魔法の威力を上げていく。勇者一行の魔法使いを、舐めるな。
腕が曲がり、登ってくる。来る。来る。今!
火球が爆ぜる。会心の一撃。
崖にしがみ付いたまま燃えるソニー。
――これで終わった。
エリザベートの胸中に安堵が満ち——いや、待って。
なぜ、焼け死んだはずのソニーが、まだ崖にしがみ付いていられる?
なぜ、炎に包まれたまま、まだ登ってくる?
なぜ、立ち上がる?進んでくる?
なぜ、焼けただれた顔面で、エリザベートの前に立ち、見下ろしている?
「あ……あ………」
気が付けばエリザベートは、地面に座り込んでしまっていた。
それを見下ろす眼の奥には、底の見えない暗黒が沈んでいた。
鉞が今、ゆっくりと振り上げられる。
エリザベートの脚に向けて振り下ろされ——
「動かないで。その位置がいいんです」
不意に、男の声がした。
冷淡なほどに落ち着いた声。
それと同時に、ソニーの足元から影が立ち上り、巻きつく。瞬間、ぴたりとソニーが止まる。
「影同士を干渉させています。動くと解けますよ。ああ、立ち上がるのは構いません」
エリザベートの知らない魔法。少なくとも、王都の魔法学体系には存在しない。
「はじめまして、人間の魔道士」
場違いに燕尾服を着こんだ青白い顔の男は、悠然と歩きながら言った。
「私はデンケ。『呪縛の』デンケ」
「魔王軍四天王、その最後の一人です」
話している間にも、デンケは魔法を編みこんでいた。懐から杖のようなものを取り出し、ソニーの足元に突き立てる。影を地面に縫い留めるかのように。
「――はい。もう動いていいですよ」
エリザベートは二人のほうを向いたまま、後ずさりする形で距離を取る。
ソニーはもとより、デンケも人類の敵である。
ソニーを優先すべきか、それとも―—
今、どちらを敵と定めるべきか。
「……想定以上ですね。これでも完全には止まりませんか」
観察するようにデンケは呟く。
「単独では拘束しきれません。よろしければ、ご協力いただけますか」
「この呪縛はあと7秒持ちます。どうされますか」
その間にも、ソニーの顔が、ゆっくりとエリザベートへ向く。
――6秒。
ソニーの体が軋む。
――5秒。
軋む音がだんだんと強くなる。
……4……3……2……
デンケは既に次の魔法陣を展開していた。空中に描かれた黒い幾何学模様から、漆黒の蛇が何匹も顔を出している。
――1秒。
エリザベートも、負けじと魔法陣を結ぶ。青白く光る魔力が走り、稲妻を呼び出す術式を描く。
「――乗った!」
「助かります。では、動きを止めます」
影が弾け、同時にソニーが飛び上がる。
そこに漆黒の蛇が群れを成して襲い掛かる。毒牙が焼けただれた肌を穿ち、呪いを撃ち込んでいく。
まともな相手ならば、これだけで決着がつくところだ。
「キャハハーッ」
しかしソニーは、蛇を掴んでねじり、無理矢理自分の体を一回転させて拘束を抜け出す。牙に割かれた肉が飛び散るが、ソニーの動きはまったく鈍らない。
鉞を木に食い込ませて樹上へ登ったかと思えば、すぐさまそこから再びの跳躍。
向かう先は、デンケ本体だ。
デンケは慌てる様子もなく、後退しつつ空中に「拒絶」の魔法陣を張ってソニーの直進を妨害する。
その魔法陣を足場にソニーは再度跳躍。再び木に登り、樹冠から樹冠へ、高速で移動して攻撃の機会をうかがっている。
移動が速い。速過ぎる。これではエリザベートの大技は当たらない。
小技による援護に切り替えるべきか。
「私が止めます。あなたは火力を優先してください」
エリザベートの逡巡を見透かすように、デンケが言う。
デンケの足元から、周囲の木々へと影が静かに伸びて、木々を侵すように絡みついていた。
「今です」
木々を覆うデンケの影は粘性を帯び、今まさに木を蹴って跳躍しようとしていたソニーの足を絡めとった。跳躍に失敗したソニーが、その勢いのまま回転して幹に衝突し、肉が潰れる嫌な音を立てた。
エリザベートの魔法が起動する。エリザベート背後の魔法陣が二つに分かれ、一方がソニーの背後へ飛ぶ。
瞬間、轟音が鳴り響き、目も眩む閃光がふたつの魔法陣の間を繋いだ。
稲妻召喚魔法。エリザベートが使える魔法の中で、対生物における破壊力はこの魔法が最大だ。
たっぷりと溜めを必要とするが、溜めの分だけ電圧と電流が大きくなる。最大で数億ボルトに達する電撃が、あらゆる生物を焼き尽くす。
数秒にわたる音と光。
その後、血と肉と骨が焼ける、嫌な臭い。
黒焦げの体が地に墜ちて、それきり動かなくなった。
「……やれやれ。想定以上に手こずりました」
言いながらデンケは、衣服についた埃を払う。
エリザベートの顔は汗と涙でぐちゃぐちゃだった。
「……ありがとう」
ぽつりと、エリザベートが言う。
「あなたのお陰で、あの怪物を倒すことができた。仲間の仇を……本当に、ありがとう」
魔族に礼を言うことになるなど、ついさっきまで、エリザベートは想像もしていなかった。
「礼には及びません。あれは私の同僚を二人も殺していますし、魔族にとっても脅威でしたから」
淡々と答えるデンケに、張り詰めた糸が切れたように、エリザベートは声を上げて笑った。
デンケはその様子をしばらく眺めていたが、急に眼を見開き、再び魔法陣を展開した。
エリザベートも反射的に臨戦態勢に入る。
—―やるのか。デンケと、自分が。
魔族と人間。決着は避けられないのか。
しかしデンケの目線の先は、エリザベートではなかった。
「――死体がありません」
……え。
理解が一瞬遅れた。
「ヒャハーッ」
血が迸る。
絹を裂く悲鳴が、遅れて響いた。
エリザベートの左脚が、膝のすぐ下で、切断されていた。
漆黒の蛇の群れがソニーを弾き飛ばす。デンケが駆け寄る。
「負傷しているところに申し訳ありませんが、彼を倒すのは難しそうです。やむを得ません」
ふう、と息を吐いてから、デンケは言った。
「――封印します。……手を貸してください」
もはや有無を言わせぬ口ぶりだった。デンケにも余裕はないのだろう。
「――〜〜ッッ、上等っ!!」
泣きたい。叫びたい。
痛い。怖い。帰りたい。
すべて呑み込んでエリザベートは吠える。
火炎魔法で傷口を焼き血を止める。激痛。
木の枝を杖代わりに、やっと立ち上がる。
その間にもデンケはソニーと戦っていた。さきほどまでとは違い、距離を詰めて、無数の蛇で攻撃と防御を繰り返す。
ソニーの鉞が蛇を薙ぐ。蛇の数が、だんだんと減っていく。
「デンケ!」
エリザベートが火球を連射する。先程までと違い、温度や殺傷力よりも物理的な圧力を優先し、ソニーを押しのける。
手が空いたデンケは、両手を広げて詠唱を開始する。巨大な黒い魔法陣が幾重にも重なる。
何百年もかけて編み上げた、封印呪法の極致。本来なら魔王の復活に使うはずだった術式。
それを反転させて、封印のために使う。使い切る。
ソニーは火球に押し返される。それでも、徐々に、徐々に近づいてくる。
と、突如ソニーが後ろへ跳んだ。
まずい。また木に紛れるつもりか。
「うらぁぁぁあああああ!!」
エリザベートは即座に火球の攻撃対象を周囲の木々に切り替える。森を焼き払ってでもソニーの奇襲は防ぐ。
木々をへし折り、数秒で周囲を切り開く。
デンケの目前の地面が陥没し、黒々とした魔法陣が広がった。
「封印完了までの約5秒間、この魔法陣に彼を」
「ぶち込んで、三人の影を重ね続ける!!」
エリザベートがデンケの言葉を遮る。
異界の魔法術式を魔法陣から瞬時に読み解く。死に瀕して高速回転する頭脳のなせる業。
「話の早い方は好きですよ。付け加えるなら、詠唱も二人がかりです。今のあなたなら読んでいるでしょうが」
話す間に、倒れた木の上にソニーが現れる。
全身が黒焦げで、片目は潰れて、それでも立っていた。
愛用の鉞を左手で持ち、利き手であるはずの右腕はだらりと垂れていた。
顔が焼けただれてもはや唇もないが、それでも、口の端が耳の近くまで上がっていることだけは、遠目にも見て取れた。
「キ……キキキ……」
何がおかしい。
エリザベートはそう問いたくなるのを我慢しながら、無数の火球を空中に放つ。火球はエリザベートの背後に浮かび、停止する。
奴は必ず向かってくる。それを迎撃し魔法陣へ叩き込む。狙うは脚だ。転がしてやる。
決意を固めた瞬間、鉞がエリザベートの眼前に迫っていた。
顔を逸らして避ける。左肩から血飛沫。
武器だけ投げたか。本体はどこだ。
足元!
今まさにソニーの顎が、エリザベートの残された右のアキレス腱を噛み砕かんとしていた。
上から叩きつける火球。物理的な圧力をもって、ソニーを地面に押し付ける。
一瞬、動きが止まる。
それで充分だった。既にデンケの放った蛇が、ソニーの右足に幾重にも絡みついていた。
「放せ!食べさせろ!!」
ソニーは手指を地面にめり込ませて抵抗するが、蛇は構わずソニーを引きずる。封印の魔法陣まであと一歩だ。エリザベートの火球がソニーの顔を叩いて加勢する。
骨と肉をねじ切る、嫌な音が響いた。
ソニーがデンケの左腕に噛みついている。魔法陣の中には、膝上で引きちぎられた脚。
デンケの顔に苦痛が浮かぶ。
「……往生際が悪いですよ」
言うや否や、デンケの右腕が黒い蛇を纏い——そのままソニーの顔面を、強かに打ち据えた。
肉が千切れ飛び、血が噴き出す。ソニーのものと、デンケのもの。
ソニーはそのまま態勢を崩すが、その右腕がデンケのネクタイを絡めとる。ともに、穴の中へ。
エリザベートは火球を背負い、自身の影を穴まで伸ばす。
「黄昏よ黄昏よ、影編む者の命に応えよ」
デンケの詠唱が始まる。
「黄昏よ黄昏よ、陽受ける者の祈りを聞け」
エリザベートの詠唱が応える。
「射干玉、黒猫、真理の瞳」
「粉雪、白鳩、硝子のかけら」
交互に紡ぐ言の葉が、灰色の粘りとなってソニーを包む。
「隔て、分かち……ッ」
デンケの言葉が止まる。ソニーはデンケの口に何かを突っ込もうとしている。
それは、千切れたソニー自身の脚だった。
爆発音。
一瞬遅れて、ソニーの右肩が貫かれ、地に縫い留められた。
「舐めるなぁぁああああ!!」
エリザベートが叫ぶ。
エリザベートは火球の爆発で跳躍し、落下の勢いのまま、杖にしていた木の枝でソニーを貫いたのだった。
「隔て、分かち、石に閉ざせ!」
デンケの詠唱が終わる。
「貫き、縫い留め、光に透けよ!」
「待って、ひとくち……ひとくち……ッ!」
ソニーの左手が枝を掴み、手繰り寄せる。
ずぶり、ずぶりと傷口が広がる。ソニーは構わない。
顔が近づき、そのままエリザベートの右頬に噛みついた。
血が噴き出す。肉が千切れる音。
それでも、エリザベートは笑った。
「「氷晶玻璃剥離」」
二人が唱え終わると、ソニーを覆っていた灰色が透き通り、雲母のように剥がれ落ちていく。
その内側からにあるはずのソニーの肉体もまた、灰色に透き通る。
エリザベートからは白いものが、デンケからは黒いものが剥がれ落ちていく。
気づけばソニーは、齧りついたその姿勢のまま、薄灰色の水晶の像として、そこに残った。
獰猛な笑顔だけが、その像がソニーである証であった。




