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第2話 屋根の上に

 迎えの時間を少し過ぎてしまい、マリナは息を切らせて保育所の門を押し開けた。油の切れた蝶番が、きい、と高い音を立てる。

 中庭にはまだ子どもたちがいたが、いつもより静かだった。数も少ない気がする。

 いつもなら庭中を走り回っているはずの子どもたちが、今日は建物の近くに固まっていた。保護者たちもまた、ひそひそと集まって話し込んでいる。


「あの、ココの母のマリナです。すみません、少し遅れてしまって……」


「大丈夫ですよ。お気になさらず」


 謝るマリナに、保育士は優しく声をかける。


「あの……いつもより園児が少ない、ですか?なにか流行り病でも……?」


「いえ、そういうわけではないんですけど、今日はみなさんお迎えが早くて……」


 保育士が気まずそうに答える。

 訝しむマリナに、横から別の親たちが声をかける。


「マリナさん、聞いた?勇者クライド様のこと」


「え、なんですか?」


「……亡くなったのよ。殺されて……官憲の人も何人か一緒に」


「それも……首が、見つかってないって」


「えっ!」


 勇者様が。しかも勇者クライドといえば、勇者の中でも腕利きとして有名なはずだ。

 魔王軍四天王との激闘は吟遊詩人の語りぐさで、子どもたちにも大人気のお話だ。

 ココもその話が大好きで、何度もせがんで聞きたがった。


 その勇者様が、殺された?

 マリナには、現実のこととは思えなかった。


「勇者様が……でも、どこか遠いところで、ですよね?」


 答えは沈黙だった。

 変な質問をしてしまったかも、とマリナが思ったとき、建物からココが飛び出してきた。ゴムまりのように跳ねて、マリナの胸におさまる。


「ママ!きょうは勇者ごっこで、ぼくがクライドのやくだったんだよ!」


 あたたかく、柔らかい感触がマリナを安心させた。


 大丈夫。勇者とか魔王とか、そんなのは私たちの暮らしとは遠いところでの出来事だ。おとぎ話や、ごっこ遊びの中の話。

 私はただ普通に働き、ココを育てていけばいい。

 マリナはそう自分に言い聞かせた。

 実際、夫に先立たれて母一人子一人で暮らすマリナにとっては、それが精一杯だ。


 夜、マリナが絵本を読んでやると、ココは早いうちに眠ってしまった。

 保育所でたくさん遊んできたのだろう。

 眠るココの髪を撫でた後、マリナは家事をするために階段を降りた。食器を洗い、明日の朝食のために野菜を切っておく。

 まな板を打つ包丁の音に、階段を降りる小さな足音が混じる。


「ママ……」


 振り向くと、眠たげに目をこすりながら、ココが歩いてくる。


「どうしたの?あたたかい牛乳でも飲む?」


 言いながら鍋に伸ばした手が、ココの言葉でぴたりと止まる。


「やねのうえに、だれかいる」


 どくん、と心臓が大きく脈打つ。

 動物だろうか。大型のものだと怖い。

 魔物だったらどうしよう。

 いや、ココは「なにか」ではなく、「だれか」と言った。

 昼間の噂話が、頭の中で反響する。


「ママ、いたいよ」


 気づくとマリナは、ココを強く抱きしめていた。抱きしめすぎている。慌てて力を緩め、小さく謝罪する。

 ココを椅子に座らせ、おそるおそる二階へ向かう。右手にはフライパンを握っている。勇者殺し相手には気休め程度だが、ないよりは長生きできるかもしれない。


 一段ずつ、確かめるように階段を上る。心臓が冷たい。足元が妙にふわついて頼りない。

 しかし、確認しないわけにもいかない。


 大丈夫、きっとフクロウか何かが、うちの屋根でネズミでも食べているのだろう。その音をココが勘違いしたんだ。

 そう思わなければ一歩も進めない。


 ようやく二階にたどり着き、耳を澄ます。直後マリナは、二階に来たことを後悔することになった。


 明らかに、人間の、笑い声だ。おかしくてたまらないのを、押し殺すような。


 マリナの口から、ヒッと、息をのむような短い悲鳴が漏れた。口を押さえるのがほんの少し遅れた。

 直後、笑い声がぴたりと止まった。


 気づかれた。


 転げ落ちるように階段を下りる。驚くココを無理やり抱えて、クローゼットの中に駆け込む。手がもつれて扉が閉められない。早く、早く——かちり、とようやく閉まった。

 ココが声をあげないように、ココの口を手で押さえる。

 抱きしめて、背を撫でる。それがココを落ち着かせるためか、それとも自分を落ち着かせるためかも、もうわからなかった。

 暗闇の中、ココの体温と、自身の心臓が早鐘を打つ音だけが、マリナがまだ死んでいないことを示していた。


 不意に、ガラスの割れる音がした。

 少しして、階段を重いものが転がり落ちる音がした。続いて、足音だろうか。上から下へ。だんだんと大きくなる。近づいてくる。

 大声で悲鳴をあげたいのを、必死で堪える。

 手元には武器もない。フライパンさえ、二階に放り出してきてしまった。

 涙が頬を伝っても、拭うことすらできない。足音はどんどん近づいてくる。


 足音が、止まった。クローゼットの、目の前で。


 —―どれほどの時間が経ったのだろう。音は止まったままだ。

 もしもこの扉が開いたなら、その瞬間に飛び出して体当たりをする。その間にココが逃げられればいい。それしかない。

 できるならココの成長をもっと見守りたかった。早くに父を亡くしたココに、母まで失わせたくなかった。

 もっと生きていたかった。

 涙が止まらない。


 ふと、ふたたび足音が動き始める。遠ざかっていく。助かったのか。

 足音が向かう先は、玄関ではなかった。台所。

 食糧目的か。食糧ならいくらでもあげる。だから、助けて。マリナは祈っていた。


 調理の音が聞こえる。

 しかし、妙な音だ。大型の刃物で骨から肉を乱暴に剥がすような、おぞましい音がする。骨付きの肉などマリナの家にはないはずだ。

 昼間の噂が、嫌でも再びマリナの脳裏をよぎる。

 みつかっていないものが、ある。


 ひくべき血の気などとうにないはずなのに、血の気がひいていく気がした。

 がつがつと肉を喰らう音がやんで、玄関の扉が開く音がしても、マリナは息をひそめ続けていた。


 朝になっても、マリナは扉を開けられなかった。

 破られた窓と開けっぱなしの玄関を見た官憲に見つけ出されるまで、マリナたちは暗闇で息をひそめていたのだった。

 黒く艶があったマリナの長髪は、一夜にして白髪混じりになっていた。

 官憲たちの話も、マリナの耳には遠く聞こえていた。

 マリナたちはいつの間にか、衛兵の宿所に保護されていた。

 しかし、官憲たちが繰り返し口にした名だけが、妙にはっきりと耳に残っていた。

 狂戦士ソニー、と。

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