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7.プリンテュクスとの別れ

「レオ様!」


 この2週間でトリニティはレオの事が大好きになっていた。少しぶっきらぼうな所はあるが、とても心の優しい人だ。彼がどんな立場の人間か詮索しようとも思わなかった。トリニティにとってはこの楽しくて幸せな毎日がずっと続いてくれればそれで良かった。


「レオ様、お早うございます。本日もお招き頂き、ありがとうございます」


 毎日会うのに毎日丁寧に挨拶をしてくれるトリニティに微笑むと、レオンハルトは腰をかがめてトリニティを見つめた。


「お早う、リニ。今日はプリンテュクスを連れて少し遠出しようか」

「遠出ですか?はい!」


 2人と1匹は馬車に乗って別荘を後にした。いつものように他愛ないおしゃべりをしていると、馬車は街を通り抜け民家がほとんど無い場所へやって来た。その間もおとなしくトリニティの隣で座って背中をなでられている子鹿を見て、レオンハルトは本当に不思議だなと思った。


 野生の鹿がこんな風に馬車に乗って落ち着いていられるだろうか。犬でももっと動き回るぞ。そう思いつつプリンテュクスを見ていると、ふと目が合い、何故かプリンテュクスはスッと目を逸らした。まるで人間のような反応にレオンハルトが眉をひそめた時、馬車は目的地に着いたようで、御者を務めていたジャンが扉を開けた。レオンハルトが先に降りてトリニティを下ろした後、プリンテュクスもトリニティの後を追って馬車を飛び降りた。


 馬車の前に降り立ったトリニティは目を輝かせて叫んだ。


「わあ!ステキです!」


 目の前にある小高い丘の一面に青いネモフィラが咲き誇っている。たおやかな花々が風に揺れる度、まるで鮮やかな海が波打っているように見えた。


 しばらくネモフィラの花畑の中ではしゃいでいるトリニティとプリンテュクスを見た後、レオンハルトは彼等を丘の上まで連れてきた。頂上に座って周りの風景に目をやる。遠くに見える深い緑の森、キラキラと日の光に輝く小さな湖。早春の風が心地よかった。


 しばらく2人で景色を眺めていたが、レオンハルトが不意に口を開いた。


「プリンテュクスは、すっかり良くなったね」


 その言葉で、トリニティは次にレオが何を言うのか分かってしまった。トリニティ自身もプリンテュクスの回復と共に別れの予感を感じ取っていた。思わず涙が溢れてくる。それを見られないようにトリニティは俯いた。


「プリンテュクスは・・・とてもいい子です。私の言う事も聞くし、私の側にいつも居て・・・。それでも、それでもお別れしなくてはいけませんか?私はプリンテュクスと離れたくないです」


「今はまだ子供だからおとなしいけど、その内成獣になれば、人間の言う事など聞かずに本能で動くようになるだろう。鹿はね、とても悪食なんだ。草食動物だが、草だけでなく木の皮でも何でも食べるし、時には人里に降りて、麦の新芽や穂、野菜や果樹の樹皮まで食べ、たくさんの農作物に被害を与える。多くの農家が今も被害を受けているし、人間の生活にも大きく影響を及ぼしているんだ。もしプリンテュクスがそんな事をして君の家の領民に被害が出たら、君のお父さん達もプリンテュクスを放置出来なくなる。それがどういう事か分かるね?」


 分かっている。間違いなくプリンテュクスは処分されるだろう。それを思うと余りにも辛くなり、更に涙が止まらなくなって、膝の上に握りしめられた両手を次々に涙が濡らしていく。その手の上にレオンハルトは優しく自分の手を重ねた。


「ごめんね。辛い事を言っているのは分かっているんだ。でもプリンテュクスの為には、餌も豊富で人里から離れた深い森の中へ帰すのが一番いいと思う」


 レオンハルトの言葉は幼いトリニティにも良く理解できた。それでも余りの辛さに涙が止まらなかった。


「私とプリンテュクスでは、生きる場所が違うのですね・・・」

 少女の小さく震える肩をレオンハルトはそっと抱き寄せた。

「それでもプリンテュクスと君は友達だ。どんなに離れていても、どんなに時間が経っても、それは変わらないんだよ」


 レオンハルトの言葉を聞きながら、トリニティは今この瞬間を忘れないでいようと思った。


 明日になれば離れなければならない友と過ごすこの時を。

 優しく慰めるように降り注ぐ温かな春の日差しを。

 周りを全て青く染める、海のように広がるこの花々を。

 そして隣に居る、この大きくて温かい手を持った優しい存在を・・・。


 次の日、彼等は再び馬車に乗って新しくプリンテュクスの住処になる森へ向かった。ジャンが事前に鹿が住みやすそうな森を調べておいたのだ。

 プリンテュクスを連れてトリニティとそしてジャンが森を少し入った場所で立ち止まった。昨日覚悟を決めたものの、それでも寂しくてトリニティはプリンテュクスの首に抱きつき涙を流した。


「プリンテュクス。離れてもずっとずっと友達だからね。愛しているわ、プリンテュクス。元気で暮らしてね」


 プリンテュクスはトリニティの顔を愛おしそうに舐めると、何故かジャンの方を一瞥してから森へ向かって走り出した。その姿が見えなくなるまで一度も振り返らずに森の中へ消えた事に、トリニティは寂しさもあったがホッともしていた。やはりプリンテュクスを森へ帰して良かったのだ。きっと彼はこの森で立派に成長して生き続けるだろう。


 そして彼等は再び別荘へ戻って来たのだが、トリニティにはもう一つ不安があった。ここへ来ていたのはプリンテュクスが居たからだ。彼が居なくなった以上、もうここへ来る必要は無くなった。それはもうレオとも会えなくなると言う事だろうか。


 帰りの馬車の前でトリニティは見送りに来てくれたレオの顔を見上げた。


「あの、レオ様。プリンテュクスは居なくなったけど、又ここへ遊びに来てもいいですか?」


 レオンハルトはじっとトリニティを見つめると、その前にしゃがみこんだ。もうこれ以上この少女を泣かせたくないと思う。だがトリニティがプリンテュクスの為に別れを決めたように、俺もこの小さなレディの為に離れなければならないのだ。


「リニ。私ももう家に戻らなければならないんだ。色々な仕事や、やらなければならない事がたまっていてね。だからこの別荘にはもう居られないんだよ」


 やはりそうなのだ。プリンテュクスだけでなく、レオまでも去ってしまう。こんなに楽しかった事など一度も無かったのに、この先この人と出会ったあの場所へ行っても、もう二度とあの馬車は迎えには来ないのだ。プリンテュクスと同じようにレオ様とも二度と会えないのだろうか。そう思うと、泣いてはいけないと思うのに又涙が溢れてくる。


 レオンハルトはそっとトリニティを抱きしめると優しく頭をなでた。


「リニ。君はきっと立派なレディになる。そして誰よりも幸せになるんだ。そうなるように心の底から祈っているよ」


 レオからはいつも柔らかな優しい香りがする。その香りの記憶も彼の暖かさも、この2週間の全ての大切な思い出を、トリニティは心の奥底にある小さな宝箱にしまい込もうと思った。決して忘れない。でも思い出さない。思い出したらきっとこの日々の事を追い求めて前に進めなくなるから・・・。


 切なくなるようなレオのぬくもりを感じながら、トリニティはそっと瞳を閉じた。


“ さようなら、レオ様・・・・ ”



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