Act.71
<Act.71 7/20(火) 21:50 新月>
【仄宮秋流】
朔の日。
今夜ばかりは煌々と照らす月も帳の向こう側へと姿を隠し、夜の闇は深く街を覆っていた。それらを押し開くように、妓楼のネオンは色鮮やかに咲き誇っては看板の後ろに影を落とす。
目の前には、既に使われていない打ち捨てられた妓楼。その影の中で、私たち三人は作戦決行の時を待っていた。
「――――本当は、お前を連れてくるつもりは無かったんだがな。鈴谷」
「静桐が奪われたのは、俺の不手際だ……行かない、という選択肢は、無い」
「まあ、今のところ飯綱双子の顔を知っているのは彼だけだ。致し方あるまい」
作戦とは無論、二日前攫われた熊野静桐の奪還作戦のことである。水蓮がぼやいていた「歌舞伎町周辺、茨衆と明石機関が鬩ぎ合う境界地帯に潜り込んだ双子の鼠」が飯綱天日と白夜であると踏んだ私たちは、茨衆に応援を頼みつつ作戦決行の手筈を整えた。本当に熊野がここにいるのかというのも、水蓮の「若い女性が連れ込まれるのを見た」というタレコミによってほぼ裏付けられたようなものである。
鈴谷抹巴はといえば、襲撃を受けてから二日経ったことで少なくとも動けるまでには回復した。元々怪我人を連れてくるつもりは毛頭なかったのだが、本人が頑として譲らないのと、ハルトの言う通り飯綱双子の顔を知っているのがこの場では彼しかいないということで許可せざるを得なかった。今はまだ見た目は平静だが、しかし起きた直後のあの錯乱具合を見るに、現場を見てしまえば一体どんなことになるかわからない。熊野静桐の救出自体は、なるべく私とハルトで行うべきだった。
「仄宮殿。我々は如何様に致しましょう」
す、と進み出てきたのは水蓮と似た服装纏った忍の者たちのうち、リーダー格と思しき女性だった。彼女たちは今回水蓮から借り受けた精鋭たちであり、熊野救出作戦にあたっての補佐をしてもらう予定だった。
水蓮はその際、「無理を言った手前、ぼくの仲間を少しお貸ししますぅ。いえいえ遠慮なさらず、貸すからにはしっかりきっちり駆除の方、していただければ結構ですのでぇ」と抜け目ない笑顔で言い放ったということもここに言い添えておく。
「あァ、奪還自体は私たちでやる。だからお前らは、蜘蛛の子一匹さえ通さないよう、楼の周囲を張っててくれ」
「御意に。囲い込み漁は、得意ですゆえ。お任せください」
ふっと笑みを残し、彼女もまた空気に融け込むようにして去っていった。普段から楼の中で狼藉を働く男共を囲い込んで摘み出すのが仕事の彼女たちにとっては、確かにその程度の仕事は朝飯前だろう。
ちなみに、準備に要した二日間はもちろん学校があったが、鈴谷に「出欠は誤魔化しておく」と確約を取ったことで事なきを得た。これで全くもって問題ない。
「さて、まァ――――そろそろ、始めるか」
今宵は朔日。隠密にはうってつけの夜半時に、私たちは静かに動き始めた。
***
【熊野静桐】
「……う」
意識が浮上する。汚れた川の流れの中から顔を出すようにして浮き上がったそれは、しかし依然として混濁したままで明瞭とは言えなかった。
目の前は、暗い。まるで機能しない視覚をなんとか開けば、どうやらここは自分の知らない場所らしい、ということだけが理解できた。まだところどころに残る壁の模様や家財の様子からして、元は妓楼だったのかもしれない。自分以外に人はいない、広い部屋だ。しかし使われている様子はなく、自分の体が横たえられている固い床には分厚い埃が積もっている。迂闊に息をすれば吸い込んでしまいそうだった。どこか古びた空気が鼻腔を衝く。手足を動かそうとしてみればそれらは縄で縛られていて、ばたばたと身動ぎをした挙句ようやく体を起こすことに成功した。パニックに陥ってしまいそうな心を必死に抑えつけ、どうしてこのような状況になっているのかを思い出す。
先輩と二人でいるところに突然、襲われて――――先輩が大きな刀? 剣? を取り出して玄関に向かって、あたしは動けなくて――――襲ってきた二人のうち一人がこっちにやってきて、逃げようとしたけど抑えられてしまって、口に何かを当てられて――――それから?
そこで記憶は途切れていて、次目覚めたのが今だった――――というわけだ。
怖い、という感情は不思議とあまりなかった。起きる前と後とでは景色が一変していて、そのことに混乱こそしたものの、『自分は攫われたのだ』という事実をびっくりするほど自然に受け入れてしまっていた。両手両足を縛られてしまっていては、凡人のあたしではどうにもできないし――――ただただ、先輩の身を案じる心だけが募っていく。
巻き込んでしまった――――と、思う。仄宮や遥さんに対しても思うけれど、しかし何より一番心を蝕むのは、先輩を――――抹巴さんを巻き込んでしまったというその事実だった。
正直言って、どうして自分がこんなことになっているのかさえ分からない。けれどそこに彼が巻き込まれるべき必然性は、おそらく存在しなかった。この出来事の発端となったあの双子――――空恐ろしささえ感じてしまうほどに似通った双子の視線は、徹頭徹尾あたしだけを捉えていた。つまり彼らの狙いはどこまでいってもあたし、もしくはあたしが持つ何かであって、決して抹巴さんが傷を負う謂れなどなかったのだ。
「目が覚めましたか」「呑気なものですね」
「ッ、」
不意に声が落ちる。まるで一人が話しているかのように淀みなく継ぎ目なく投げかけられた言葉に、無意識に下げていた視線を上げれば、そこには飯綱天日と白夜――どちらがどちらなのかはわからないが――、その二人が立っていた。
あたしが部屋の奥側、彼らは部屋の入口。室内に入り、彼らは色褪せた襖を静かに閉める。
「貴女を攫った目的はただ一つ」「首に提げているその勾玉を頂くこと、ただそれだけです」
「……逆に言えば、これを渡しさえすれば無事に帰してくれるの?」
「思ったよりも気丈ですね」「この場においてもまだ話せるとは」
彼らはあたしの問いには答えなかった。徐々に暗闇に慣れてきた目が、彼らの風貌をなぞる。
高校生くらいだろうか、やはりうちの生徒たちくらいの背丈だが、その瞳はぞっとするほど無機質だ。その癖まだ体つきには幼いところが残っていて、いかにも事務的な口調とちぐはぐを形作っていた。
カツカツと、靴音を鳴らして彼らはあたしの前へとやってくる。目を瞑っていれば一人だと錯覚してしまいそうなほど、綺麗ぴったりに重なった足音だった。
「勾玉を渡したからと言って、そのまますんなり帰すわけにはいきません」「そもそもこの勾玉の現在の継承者は貴女。であるからには、継承権自体も渡して頂かなくてはならない」
今も首から下げて服の中にしまい込んでいる、この暗緑色の勾玉。ただのアクセサリーであるこれらに、“継承者”などという無骨な言葉は何より似合わないようにあたしには思えた。
「貴方たちは何か勘違いしているわ。これは亡くなる前にお母さんがくれた、ただのアクセサリーよ。皇族だとか、そんなのとは全くの無縁で」
二人の瞳が、何かに煌いた気がした。探していたものをみつけたかのような。しかし次いで、そこにいくらかの蔑みと哀れみの色が混じる。
「本当に、貴女は何も知らないのですね。幸せな方だ」「説明して差し上げよう。貴女の母君は、決して普通の人間ではない」
一拍。
「貴女の母君は、熊野家に嫁入りしたが――――その本名を、獅凰院雫」「紛うことなき、獅凰院一族の長子であらせられました」
彼らが紡いだ事実はそして、自動的に『熊野静桐は獅凰院家の血を引く』ということをも指し示していた。
思考が――――硬直する。目を見開く。緩く頭を振って、「うそ」と呟く。そんなわけない、だって証拠がないじゃないの。そう呟くものの、だが同時にそれは『あたしが獅凰院ではない』と否定する明確な証拠がないことと同様であり。
「いいえ、証拠はあります」「その勾玉が、八尺瓊勾玉が何よりの証拠です」
二つの指が、同時にあたしの胸元を示す。恐る恐る服の下から取り出してみれば、しかしそれはなんの変哲もないアクセサリーでしかなく。
「それは、獅凰院家が代々司る三種の神器が一角」「人を守り、地を守る、この国を守らんとする護国の要」
だが彼らは、この代わり映えしないアクセサリーを『神器』と呼ばわった。今まで単なる地味なネックレスだと何も考えず身に着けてきたものが、いきなりそんな立派なものであるなんて――――言われても、にわかには信じられなかった。
変わらない自分と、しかしそれに対して付随する価値だけが変わっていく。およそ平凡だと認識していたものが、全て他者の手によってひっくり返されていく。望んでなどいなかった変化によって、――――あたしはただびとであることを奪われる。
「その勾玉はまだ主を定めてはいませんが、貴女以外の手が触れることを拒んでいる」「それは、今この世界の中で貴女だけが勾玉を、獅凰院を継承し得るということの証左」
「そんなの、……あたし、知らない……ッ!」
「貴女にできることは二つだけ」「選択肢を差し上げましょう」
彼らは淡々とあたしに現実を突きつける。そんなの知らないと嘆いてもみても、それこそ知らぬと彼らの表情が変わることはなかった。
そして、彼らは告げるのだ。
「一つ。貴女が獅凰院家を継承するか」「二つ。その勾玉を渡し、命を絶つか」
そこに『熊野静桐で在り続ける』という選択肢は、存在しなかった。
それはさながら今までのあたしという人生を全て否定されているようで。――――凡人の熊野静桐になど用はないと言われているようで。
おそらく、あたしが獅凰院家を継いだところで、立派な当主となるという未来は存在しないだろう。しょせんは彼らの傀儡に過ぎないことは見えている。
操り人形が嫌だからと言って、死ねるかと言われたら否だ。そんなの、嫌だ。
あたしは、死にたくない。あたしは、『熊野静桐』を喪いたくない――――。
祈るように胸元の勾玉を握り締め、ぎゅっと目を瞑った――――その、瞬間だった。
スパンッ!!
「熊野静桐ッ! こんなとこでチンタラしてんな、とっとと帰るぞッ!」
「御用改めである、とでも言うべきかな。そういうわけで、彼女は返してもらおう」
「静桐……、すまない、遅くなった……ッ!」
鋭く襖を開け放つ音、その向こう側に立っていたのは先輩と仄宮、そして見慣れない長身の男性だった。三人ともが大小それぞれの刃物を手に提げていて、仄宮が持つ紫がかった明かり――まるで掌の上で炎を燃やしているようだ――に照らされてはぴかぴかと輝きを返していた。
「邪魔が入りましたか」「多少分が悪いですね」
双子が振り返り、三人と相対する。仄宮と男性は彼らを真っ直ぐに見ている。抹巴さん、とあたしが零せば、愛するあの人と視線が交わった。
そして、ふ、と微笑んで。
「今助けるから」
――――そしてこの夜、月のない宵の日に激闘が幕を開ける。




