Act.69
<Act.69 7/18(日) 18:00>
【扶桑朧】
「……、センパイ」
とっぷりと日も暮れたコンテナ場で、あの二人――――仄宮とベルンハルト、請負人の二人が去った後もなお、俺たちは依然としてそこに留まっていた。
そろそろ時間的に、戻らねばならないことは理解している。ただでさえ明石機関から命令された『皇太子の護衛』という任務を、一時的にとはいえ抜け出してきている状態だ。皇太子の機嫌を損ねることは、なるべく避けたい。
そういう思いがありつつも、しかしままならぬ自分自身と状況というものにどうしても足が動かなかった。既に空を覆いつつある暗闇が足を掴み、そして縛り付けるかのように縫い留めて離さない。
センパイの茶色の髪が、海風に大きく舞ってたなびく。それでもその大きな背中は動かない。俺に背を向けたまま、瞳を俺に見せぬまま、ただ愚直なまでに広がる海原を見つめ続けている。
嗚呼、そこには言い知れぬ悔恨があることだろう。二十も生きていない小娘と得体の知れないドイツ人に、己が半身とも言うべき親友を託さねばならない無力さが、きっと地獄の焔のようにその背中を焼き焦がしている。
扶桑朧と彼らが過ごした年月より、鈴谷抹巴と熊野静桐が過ごした年月より、飛龍伊織と鈴谷抹巴が過ごした年月の方が、よっぽどずっと久遠のように――――永いのだから。
――――俺と彼らが出会ったのは、大学生になった時。俺が一年生、熊野センパイが二年生、飛龍センパイと鈴谷センパイが三年生。俺が入学するころには既に三人は仲良くなっていたし、鈴谷センパイと熊野センパイの二人は付き合っていた。
例に漏れずそれなりにやる気のない大学生として進学した俺は、「楽に単位が取れるから」という理由で選択した学年混合の授業で彼らと出会った。それから徐々に仲良くなり、一緒につるむようになったのだ。
学生らしくつるむ中で、気付いたことがあった。
鈴谷センパイと熊野センパイの繋がりは、強い。彼女が一年生の頃に出会ってほどなくして付き合い始めたというから、取り立てて長い年月ではなかろうに、彼らは尋常でないほど互いを深く好き合っていた。
というよりもどちらかといえば、鈴谷センパイが熊野センパイに心酔していた。そう、心酔だ。夢中だとかぞっこんだとか、そんな可愛らしい言葉では溢れてしまいそうなくらいに、彼は彼女のことを深く深く愛していた。他の女のことなど眼中にない。他の男も飛龍センパイ以外は目の敵。仲良くなるまでは、俺に対しても警戒があったくらいだ。
彼のそれが、他の男を寄せ付けまいとするくらいであったならばまだ可愛いものだった。だが俺は鈴谷センパイのその瞳の中に、もっと底知れない恐ろしいものを垣間見ていた。熊野センパイを見つめる黒曜石のような球の中に、『愛情』を超えたもっと恐ろしい獣のような性を、見つけてしまっていたのだ。
大人しく、どちらかといえば中性的なまでに麗しいその見た目にはあまりにもそぐわない狂暴性。性欲などではない、そんな一面的な欲求ではない。『熊野静桐』という存在を、どこまでも完全に己の中に閉じ込めてしまいたい、とでもいうような。
正直に言って、恐ろしかった。どこまでもどこまでも純粋にただ一人の存在だけを恋い慕い想い、願ってやまない信仰じみた愛情が。そんなものを持ち得るものの存在が。
人間とは、基本的に様々なものを心に持つ存在だ。大切なものは一つではない。家族、恋人、ペット、友人、それらへの温かい気持ちが、まるでよく煮込んだシチューのように混ざり混ざって、『心』という核になる。
俺だってそうだ。大切なのは妹の望月――――けれどそれだけではなく、易々とは捨てられない時を過ごしたセンパイたち三人、自分が見守っている生徒たち、大事なものは多くある。でも鈴谷センパイには、「熊野センパイしかいなかった」。少なくともそういう風に俺には見えたし、異様なまでの排他性に薄気味悪さを感じることも多々あった。
彼にとって俺のことなんかは、まあそこらへんのぺんぺん草よりかは上かもしれないが、よくてもその程度だろう。彼のことを好く思う俺からすれば、少なからず悲しいが――――しかしまあ、今までに過ごしたのは数年程度。露骨に邪険にされているわけでもなし、そういう人間なのだと考えてしまえば割り切れなくはなかった。
だが飛龍センパイはどうか? これについては正直――――鈴谷センパイと同程度に、いやそれ以上に恐ろしい。
飛龍伊織は鈴谷抹巴の幼馴染だ。幼少期について、彼は時折俺と熊野センパイに語ってくれた。周りに同い年の子がいなかったのもあり、高校を卒業するまで毎日を一緒に過ごしていたと。彼が話す思い出話には必ず鈴谷抹巴が存在していて、むしろそれ以外の存在の匂いが全くと言っていいほどなかった。
「あの時抹巴が、」「抹巴があんなことして」「そうだったよなあ、抹巴?」
彼の世界はそれほどまでに鈴谷抹巴で一杯だったし、おそらくは鈴谷抹巴にとってもそうだった。だが世界は、熊野静桐という『運命』によって突如捻じ曲げられたのだ。
飛龍伊織の半身は鈴谷抹巴だった。けれどある日突然、鈴谷抹巴の半身は飛龍伊織ではなく――――熊野静桐になってしまった。
どうしようもない一方通行。決して報われることのない感情。愛でもない。恋でもなかろう。だがそんな淡く頼りないものよりよっぽど強烈で鮮烈で、刻み付けるように深い絆が断ち切られてなお――――飛龍伊織は、鈴谷抹巴の傍を離れようとはしなかった。
それが、彼の答えなのだろう。己の、己だけの世界が決して完結しなくなってしまったことを理解しながらも、心を二つに分かって、たった片方の理性で最善を望み続ける。
飛龍センパイが公私の切り替えに長けるのは、そうでもしなければ生きてはゆかれなかったというだけの話なのではないか――――と、俺は踏んでいる。なまじ頭が良すぎるせいで、そんな素振りは全く見せないけれど。
だからこそせめて、彼らには共に在ってほしかった。飛龍伊織と鈴谷抹巴、そして熊野静桐という、俺の愛すべきセンパイたち――――そこに歪みはあろうけれど、だがこのまま不本意な形で引き裂かれたままよりは、よっぽど良いと思うから。
「――――センパイ、そろそろ戻りましょう。流石にあの皇太子がおかんむりでもおかしくない、」
「ほう、よく分かっているな機関の雑兵共よ。分かった上で、余の護衛を放り出して郷愁にでも浸っていたのか?」
なかなか度胸の在る臣下共だ。褒めて遣わそう。鷹揚と傲岸、不遜と威厳を併せ持った、若い男の声が漣の間を走る。
いつからそこにいたのかと慌てて振り向いてみればそこにいたのは、件の皇太子・鳳凰院燈夜その人だった。
全身に纏う王者の気風。生まれながらにしてこの国における最上位を約束された、膝下に屈さざる者全てを燃やし尽くすというような苛烈の体現者。黒髪をハーフアップに纏め、薄闇の中でこちらを真っ直ぐに見据える瞳の色は、暗がりの中で燃え盛る篝火のように赫々としていた。手遊びのように持つのは、赤い組紐が特徴的な十手。
「っ、燈夜サマに、お兄さん……」
「……」
口元に笑みを佩いた皇太子の傍には、まるで影のように控えるお兄さん――――二宮灰、否、皇太子が側近たる龍凰院灰が佇んでいた。
彼は黙したままで何も言わない。先月共闘した時とは打って変わった別人であるかのように、頑なに話そうとしない――――それは俺に対し身分を偽っていた気まずさからか、それとも“己の主を立てるべき局面”だと判断したからなのか、それは俺には判別の仕様がない。
「良い、言い訳は貴様ではなくそちらにさせよう。何かあるか? 飛龍伊織」
そんなお兄さんを一瞥することもなく、皇太子はただただこちらを見つめている。それは怒っているというより、どこか面白がっている色だ。自分の立場と、あちらの立場を十二分に理解した上で、それでもなおどんなことを口にするのか――――そんな風な。
気に入らない。全くもって気に入らない。だがこいつだけは別だ。気に入らないものだいたい全部をぶった切ってきている俺でも、しかし完全に理性をかっ飛ばしているわけではない。こいつを斬れば、即ち国を敵に回すことになる。そしてなにより、後ろのあのおっかない目をしているお兄さんを相手にすることになる。
『燈夜を斬るのなら、例え君でも僕は斬る』。掌で地獄を押し広げる死神を積極的に敵に回すなど、それこそ死んでも死ななくても御免だった。その力は、嫌というほど知っている。
「……いや、申し開きはない。勝手に抜けたこと、申し訳ありません。皇太子」
振り返り、飛龍センパイは申し訳なさそうにそう答えた。相変わらずの鉄のような理性で、傍目からすればその内の葛藤など微塵も感じ取れない顔をする。
皇太子はそんな彼の様子を見、一瞬沈黙した後「そうか」とつまらなそうに呟いた。しかし次の瞬間にはまたすぱっと笑みを浮かべ直し、元の調子で言葉を紡ぐ。十七の少年らしくはない所作だ。
「まあ、余の新宿入りも急なことだった。貴様たちとしても寝耳に水、慌ただしいのも理解できる。此度の不審は不問としよう。余は寛大だ、なあ灰?」
「……そうだね」
「微妙な沈黙が気になるが、まあ。しかし、なあ扶桑朧、そして飛龍伊織」
コツコツコツ、と革靴の音を響かせて皇太子が距離を詰めてくる。お兄さんは動かないまま。俺も飛龍センパイも――――足を掴まれたように、微動だにできない。
「貴様たちとて人間だ、余の護衛という光栄なる任務を与えたとて、それだけでは気は紛れまい。ゆえに貴様たちに『一切動くな』とは言わぬが……」
笑みが、凄む。手にした十手が飛龍センパイの顎をつい、と掬い上げ。
「此度は皇族の継承権問題だ。不埒な輩と、不確定要素は容認できぬ。――――動くならば、上手くやれ。余の目を掻い潜らねば、羽虫は叩き潰してしまうぞ?」
俺よりも少し低いところにある視線が、しかしなんら臆することもなくぎらりと光る。
俺たちが独自に動くことを妨げはしないが、しかしひとたび自分たちの目につけば、その時は共々に灰燼に帰す。
そしてその覚悟がないのならば、皇太子たる自分に大人しく従っていろ。
言わんとしていることをこれでもかと俺たちに叩きつけたのち、彼はすっと身を退いた。そのままくるりと踵を返し、何事もなかったかのようにお兄さんの元に戻って「灰、余は疲れた」などと言っている。
恐ろしい。たった十七歳の少年が、自分が持つ影響力とその手の中に在る権力を寸分の互いもなく把握し、それを大人に行使することに微塵も躊躇いを感じていないことが、この上なく恐ろしかった。
彼はきっとこの上なく頭が良い。幼い頃から帝王学と政治と権力のなんたるかをその身に受けて生きてきた少年は、俺なんかよりよっぽど先のことを見据えて振る舞っている。
「……扶桑」
「! センパイ?」
ようやくまともに話し出した、と思い視線を上向かせる。しかし彼の視線は俺を捉えてはおらず、それどころか皇太子さえも見てはいなくて。
「『バレなければ、何をやってもいい』。そういうことだよな、扶桑。――――やるぞ。俺たちの手で」
そしてようやく、視線が合う。そこにはもう郷愁も惑いもなく、いつものひたすらに真っ直ぐな強い光があるのみで。
ああ、これでこそセンパイだ。そう思いながら俺は、しっかりと「はい」と答える。俺たちにこそ、できることがあるはずだった。
「ああそうだ、扶桑朧。今日からこの一件が片付くまで、貴様の家に泊まることになった。妹君の了解は得ている。本意ではないが、遠征先ゆえ我慢してやろうと言うのだ。余を泊めること、光栄に思うが良いぞ」
「ごめんね扶桑くん、言おう言おうと思ってたんだけど、どう説明しても納得してくれそうになかったから……」
「そんな理由でしおらしい顔してんじゃねーっつの!! 紛らわしいなァホント、そりゃ納得なんてしませんよ当たり前じゃないスかアンタ!!」




