Act.67
<Act.67 7/18(日) 14:40>
【仄宮秋流】
煙管から浮かぶけむりが夏風に揺らめいてはくゆり、開かれた窓からふわりと飛んでいく。
目の前の紅裙がその裾野を翻す度に、美貌を飾るささやかな――されど素人目にも逸品であることは明白な――装具が沙羅沙羅と雅やかな音を立てた。
日差しから身を守るように美姫は日避けを降ろし、次いで滑らかに視線を移す。品の良い香と煙管の匂いが混ざり合う。意識をはぐらかす麻薬のような艶やかさを纏った目元がふっと緩み、私とハルトを見据えては微笑んだ。
「――――よく来たね、秋流。お連れの色男も、歓迎しようじゃないか」
「どうも。姐御も、変わりはないようで」
私とハルトが揃って正座して向かい合う座卓のその正面に、姐御――――九重狐呑もまた座り直した。品がありながらも隙だけは見せない、表と裏の“ぎりぎり”の境界を渡り歩く彼女ならではの所作は、何気ないものであってもいちいち目を惹く。
「雰囲気が変わったね、秋流。今までは触れるものみな切り裂く刃物のような子だったのに、柔らかくなった。いいことだよ」
紅を引いた唇が口火を切り、次いで弧を描く。告げる彼女の笑みこそ、まるで愛娘を見るような柔和なものであるのにと不思議に思えば、私のその様を見てまた姐御は笑みを深める。
「最初はその色男も、ロクな奴じゃないんじゃないかと思ってたんだけどね。水蓮から聞く限り、そしてこの街の風聞を聞く限り、そう悪いモンでもないようだ。疑っていて、悪かったねェ。色男」
実際ロクな奴ではない、と内心では零しながらも、彼女に対して以前行った偽の事情説明を考えれば迂闊には口に出せない。彼と私が諸々事情のある「恋仲」であるという建前は、依然としてこの人の前では有効なのだった。
そしてまともな奴だと思っていなかったという暴露をされても、当の色男の方はどこ吹く風という表情をしている。
「気にするな、自分と親しい娘がいきなり『恋人だ』と男を連れてきたりすれば、誰だってそいつを疑うものだ。俺個人としては心外だが、常識に照らし合わせればむしろ当然。俺と彼女は以前貴女に会った時から三ヶ月、順調に愛を育んできたぞ」
「なんか腹立つな……」
わかっていたことではあるが、なかなかにコイツの面の皮も分厚い。私が微妙な顔を作り、「本題は」と呟けば、姐御はひとくち煙管を口に含む。
吸い口を離せば、紅の唇の間からぼうと煙が揺蕩い、私たちと姐御の間に薄い膜を隔てるかのように静かに吹き去った。
「まァ、そう慌てなさんな。久々に顔を見たんだ、少しくらいは話に付き合っておくれよ。時間はあるだろ?」
「……時間はあるが……大した話のネタは、期待されてもねェぞ」
「そんな冒険譚を期待してるわけじゃァないさ。アタシは、アンタの日常のとりとめもないことを聞きたいだけなんだから」
それが一番困る、と小さく呟けば、耳聡くそれを拾ったハルトが「あるじゃないか」とこちらに視線を寄越した。
「あるって、何が」
「とっておきが。『友達』が、できただろう?」
悪戯っぽく小さく笑う彼に、私は返す言葉に詰まる。それはそうだが、確かにそうだが――――それを姐御の前で言うのは、なんというかこそばゆい。
大したことじゃない、と返そうとして、思った以上に私を見つめるその瞳が優しくて。
「そうかそうか、友達が、ね……どんな子だい?」
纏う衣装は目に眩いほど華美なのに、細められた黒瞳だけが不思議と柔らかだった。夜闇をそっと照らす、行灯のように。
少しの沈黙の末、はぐらかすこともしきれずに、結局私は話すことにした。母のような姉のようなこの人に、初めてできた普通の友人のことを。
――――先月、初夏の季節に起こった一つの事件。神無月巡と八榛キオによって引き起こされかけた、“聖杯”を巡る事件。結局は未遂で終わったものの、あの事件自体のことを話すわけにはいかなかった。
だから私は、正直に自分が彼女を――――茅野夏目をどう思っているかだけを、話すことにした。
「……最初は、私に話しかけてくるなんて奇矯な奴だなと思った。それこそ他の連中との罰ゲームにでも体よく使われたとかで、長くて数日すれば勝手に愛想を尽かして離れてくだろう、くらいだったんだ。けど一週間してもそんな素振りもなくて、むしろ話しかけてくる頻度は増えて、昼飯を一緒に、なんて言ってくる始末だった」
「その子が話しかけてくるの、嫌ではなかったんだね?」
「嫌では……無かったな。変わった奴だと思ったし、なんで私にとも考えたが、それでも鬱陶しいとは感じなかった。アイツ自身大人しい性格で、他の連中みたくむやみやたらとうるさいわけじゃなかったってのもあるだろうし、……まあ多分、嘲るでも嘲笑うでもなく、普通に笑いかけてくる人間ってのを、邪険にゃできなかったんだろうな」
「その頃からだったな、ポツポツとお前が俺に彼女の話をし始めたのは」
「そうだっけか? 覚えてねェよ、そこまで。……他人よりは近くて、でも友人と言い切るには少し遠い。それくらいの淡い縁だと思ってたんだが、なんでかな。いつの間にか、アイツはしっかりと私の心の中に居座っていて、私自身もそれを悪く思うどころか大切に思ってた。それに気付くのが、だいぶ遅くはなっちまったけど」
「お前は自分に無頓着だからな。俺に彼女のことを話している時のお前は、いつもより楽しそうだぞ」
「余計なことまで言わんでいい……ただまァ色々あって、彼女を助けることができた。それでようやく、『友達になることができた』のさ。随分と遠回りをしたと、我ながら思うけどな」
出された冷たい茶を小さく口に含み、言葉を切る。吐露した言葉は全て、偽りのない本心だった。
この場において、言葉で偽るべき人間はいない。嘘と裏切りばかりが星のように散らばっていて、己さえもあやふやになりがちな真夜中の世界で生きているばかりでは、早々得られない場所だった。
過剰な装飾で欺く必要のない言葉は、熱い身体に冷たい水を通すように心地良い。
「そうか、アンタにも心から思える友達ができたんだね。良かった。本当に」
良かった、と零す美姫は、手のかかる子供がようやく親離れを果たしたかのような、嬉しくも寂しい、そんな顔をしていた。
決して夜伽の際には見せないようなその表情は、おそらく彼女にとっての嘘偽らざる素直な心なのだろう。親の涙を見た子供のような居た堪れなさと、付かず離れずで接してくれていたこの人が裏でどれほど私を心配していたかを感じてしまって、束の間口を噤む。
そうして生まれた沈黙の狭間を、上手く継ぎ合わせるようにハルトが口を開いた。
「そういえば……貴女と彼女は、どのように知り合ったんだ? 後見人と聞いているが、学生の秋流と遊郭の主の貴女とでは、なかなか接点はないように思えてね」
私としては彼女と私の後見関係は特におかしいことではなかったし、姐御も良い人だったから疑問に思ったことはなかったが、なるほど確かに傍目から見れば不思議な組み合わせではあろう。私は一つ頷き、
「姐御は、私の爺様と元々知り合いでな。帝都に戻ってくるときに、爺様が私の後見を頼んだのさ。そこからの縁ってわけだ」
「この子は、親がいなくてねェ。爺さん自身もう大層な年で、この子に付き添って京を出てくるのはしんどいってことでね。上京した先で孫が困らないように……ってンで、よりによって遊郭の主に世話を頼むんだから、アレも相当変わり者だよ」
全くもって否定できない。そう、私の爺様はやはりというべきか変人だった。変わり者だったが――――しかしそれでも、優しいひとだった。
心が死んでいるような。うれしいとかたのしいとか、そういう感情を全て氷の張った湖の中に沈み込めてしまったような当時の私にさえも、春芽にささやかな日を零すように慈しみを注いでくれたことを覚えている。
惜しむらくは、そして悔しがるべきは、その優しさに応えることができなかったこと。
そして――――
「あの爺さんも、今頃は京で元気にしてンのかねェ……」
滲む姐御の感慨に、私は返す言葉を持っていなかった。
「……姐御」
「ン」
「そろそろ、私たちを呼んだ本題を」
「そうか、そうだったね。随分と話し込んじまったみたいだ。悪いね」
返事の代わりに催促をする私に気を悪くした風もなく、彼女は喫い終えたらしい刻み煙草を灰皿に開けながら一つ頷いた。ハルトが物言いたげな視線を送ってくるが、私はそれを無視する。
「先に言っとくが、この情報がアンタの役に立つかどうか、アタシは知らない。秋流、アンタは聡い子だ。だからこの情報を持つことによる害よりも、持たないことによる害の方がきっと大きいだろう。……そう判断して、伝えるよ」
いやに改まった物言いに、そしてその仰々しい回りくどさに僅かな寒気が背筋を駆けあがる。今から音として吐き出される情報は、きっと爆弾となり得ることだろうと直感した。
「――――今新宿に、皇族が来ている。それも皇太子が。護衛つきで、けどお忍びで。目的は分からない。だが、市井見学なんて甘っちょろいモンではないだろう」
皇太子。この国を牛耳る皇帝、その直系の息子――――この国をどうとでもし得るだけの権力と信仰を集める国家の要が、新宿に。
遥が零していた噂が裏付けられるのと同時、見る間に昨夜の妄想が具現化していくように思えて――――仕組まれたかのようなタイミングに、今までの会話の全てが吹き飛ぶ心地だった。
「本当に市井見学なら、アタシたちには関係のない話だ。けれど噂じゃ、『何かを探してる』だそうじゃないのさ。もしその探し物が、アンタの近辺に落ちていた場合」
その時は、皇族との交戦さえあり得る――――決して高くない可能性だが、しかし零でない限りは無視しきることもできない。
なるべく楽観的に行きたいところだったが、しかし――――蘭玉楼を出てのち、私たちは決定的な事実を知ることとなる。




