Act.64
<Act.64 7/13(火) 21:35>
【?????】
「それでね、先輩、」
「ああ、」
――――二人の男と女が街を往く。その足取りは軽く、絶え間なくざわめき続ける群衆とネオンの中においてもなお、軽快に鳴り響くかのように軌跡を紡ぎ続ける。
先輩、と女が男を呼ぶ。男はそんな彼女の様子に淡々と答えるものの、一見女性にも見える端麗な面立ちと艶めきを帯びた声には愛情を溢れさせている。すらりと伸びた細身の体でありながら、しかしその歩みが頼りなげなことはなく、全身を包む黒は優しい雰囲気さえ漂わせていた。
道行く女の誰もが振り返る。そして、あわよくばそのぬばたまの実のような美しい瞳に映されたいと淡い願いを込めて視線を投じて――――しかし、ほどなくしてその願いが叶うことはないと知るのだ。
彼の視線はただただ一心に一つを捉えている。それは、ほかでもない彼の傍らで幸せそうな笑顔を浮かべている彼女だった。
女は決して、秀でた風貌をしているというわけではない。しゃなりしゃなりと滴るような気品を漂わせる新宿の遊女たちに比べれば、取るに足りないと言われても仕方のない――――不細工ではないが、しかし抜きんでた鋭利さもけざやかさも持ってはいない。
良くも悪くも平々凡々でありながら、しかし男はそんな彼女をこそこの世の誰よりも愛していた。誇張ではなく、誰に問われようとありのままに返せるほどに深く、これ以上なく。
そして女も同様に男を愛していた。彼らは彼らだけで完結する完全な球体のように、決して壊れることのない永遠の楽園を享受する――――そう、思われていた。
けれどその楽園は、ある時突然失墜する日を迎えるのだ。
ざッ
他愛もない会話をしながら、流されるがままに雑踏を歩いていた彼らは、ふと目を留めた。前方、自分たちが行く方向に何やらぽっかりと開いた空洞があることに気付く。
誰もが気付いていそうな往来の真ん中で、だが誰もが気付くことなく自然にその周囲を通り過ぎていく。それはいつものように過ぎ行く日常の中で、あまりにも当たり前のように、されど見過ごすことのできない決定的な齟齬を持って存在していた。
「……?」
やがて二人は否応なしにその空洞に辿り着く。導かれたかのように、それはさながら必然のように彼らは立ち止まる。
その中心にいたのは二人の少年だった。
漆を塗りこめたように艶めく短い黒髪。黒曜石の輝きを思わせる、男女の境を揺らめくような大きな瞳。大人と子供の境目のような危うさを湛えながらも、未だ稚気を捨てきることのできていない唇。爪を立てれば引き裂くことさえできてしまいそうなほど、人間離れして白い肌。
しかし何よりも彼らが異様だったのは、その細部に至るまで彼らが『同一』だったからだ。
人間であれ人間以外の生物であれ、同じ種ではあっても一つ一つの個体を見比べれば差異があるのが当然だ。それは髪の長さであったり、唇の薄さであったり、肌の焼け具合であったり、見た目というのは遺伝によって継承するだけでなく、その個体が『どういった人生を歩んできたか』を示すある種の尺度ともなり得る。
同じ人生を歩むものなど一人としていない以上、同一の姿かたちを持つものも一人として存在しないのが当たり前――――だが彼らの目の前にいるその生物たちは、真理を根底から覆すように不安定で、異常の存在だった。
そして、異常が口を開く。
「貴女が」「熊野静桐ですね」
二対の瞳が、爬虫類のような無機質ささえ伴って女――――熊野静桐の方を見やる。まるで男の方になど微塵も興味はないと言わんばかりに、四つの瞳はただただ彼女の方をのみ探るように注視する。
「ええ、……そう、だけど。貴方たちは」
怪訝そうに眉を顰めながらも、彼女は気丈に問いを返す。迷子なのかな、だとしたらこのへんの交番は――――などと、いかにも教師らしく、それでいてこれ以上なく場違い極まる、平凡な思考を巡らせながら。
しかしいないものかのように扱われていた男の方は異なっていた。というより彼は、この場に満ちる危うさをいち早く感じ取りつつあった。このまま彼らと同じ空間にいてはいけない、決定的な瞬間を迎えてしまえばその時、瞬きさえ置かずに自分たちの楽園は跡形もなく崩れ去る――――そんな予感じみた思いさえ抱いて、逡巡した時だった。
「獅凰院家当主名代、飯綱天日と白夜の名において申し上げます」「貴女が受け継がれた『八尺瓊勾玉』を、今この場でお渡しください」
その言葉は、群衆のざわめきをすり抜けるように二人の耳にまで届いた。二人で言葉を紡いでいるはずなのに、まるで一人の人間が話しているかのように滑らかで――――ぞっとするほど鮮やかな声に、静桐は震えが這い上がってくるのを感じ。
少年たちの視線が、いっせいに自分の胸元、そこに提げられている勾玉を抉り取るように貫いて。
カツン、と後退った静桐のヒールが地面を叩く音が響いた瞬間。
「――――静桐、走るぞッ!」
一瞬の沈黙を破り、男は女の手を取って踵を返し、さながら津波のように容赦なく押し寄せる人波を掻き分け掻き分け――――そして、瞬く間に夜の街の隙間に姿を晦ましていった。
飯綱天日、そして白夜と名乗った彼らは、それを追うでもない。ただ依然としてぽっかりとした空洞に佇み、彼らが消えていった先を見通すかのように視線をただ、まっすぐに投げかけていた。
そしてこの夜を境にして、男と女は――――鈴谷抹巴と熊野静桐は、忽然と姿を消した。
その足取りは親友たちにさえ杳として掴むことはできず、また同様にこの夜に出現した双子の存在さえも、まるで妖異であったかのようにあっさりと消えてしまったのだった。
**
<7/16(金) 17:21>
【仄宮秋流】
「夏目、バイト行こうぜ」
「うん、ちょっと待っててね秋ちゃん。委員の人に書類、出してきちゃうから」
「ン」
放課後。一学期の終業式を間近に控えた七月半ば、既に帝国中を席巻しつつある夏の日差しに例外なくうんざりとしつつも、私は平和な学校生活をのんべんだらりと過ごしていた。
六月のあの一騒動を経て、私と夏目は改めて友人として日々を重ねていた。今までは少しよそよそしさを感じさせていた彼女も、あの一件を経てより屈託ない表情を私に見せるようになっていたし、私の方も気の抜いた付き合いができるようになっていた。
肩の力を抜いた、とでも言うべきだろうか。それらを受けてだろうか、今までずっと私を遠ざけ怖がっていたクラスメイトたちも、この頃はぽつぽつと話しかけてくるようになったというのも変化の一つだった。今までは間違いなく鬱陶しがっていただろうそれらも、今の私は不思議と邪険にする気持ちも特になく、普通程度には会話をするようになっていた。性分などと厄介なものは早々には変わらないが、それでもなんとなく、私の中でのささやかながら確実な変化というのはそう悪くはなかった。
自分の席――窓際の列の一番後ろ――で直射日光から逃れるようにカーテンの影に隠れつつ、手にした扇子でぱたぱたとやる気なく仰いでいれば、クラスメイトの元にいっていた夏目が忙しなく戻ってくる。
「お待たせ。そろそろいこっか」
にこ、と笑う彼女の顔は自然なものだ。あァと答えつつ私はのそのそと立ち上がり、うなじに張り付く髪を生温い空気の中に払って教室を出る。うだるような暑さが体全体に吹き付け、陽炎のように熱気が泡立つ感覚さえ覚えながら、二人てくてくと歩いていく。
「そういやお前、確かこないだあたり検診だったよな……どうだった」
検診というのは、これまた六月の一件で彼女が吸収してしまった“聖杯”級の魔力炉心、“偽典聖杯”のことだ。
通常普通の生き物が魔力を取り込めば、それは例外なく元の形を破壊することになる。その法則が適用されないのは、“聖杯”自らが素体として選んだハルトたちシャルラハロートの一族、及びハルトが“聖杯”の共有者にと選んだ私のみだ。
ゆえにその例外から外れるただの一般人である茅野夏目が、“聖杯”ほどではなくともそれに比肩し得るほどの魔力を取り込んだからには何か不調があってもおかしくない――――どころか、あって然るべきとさえ考えていたのだが。
「あぁうん、特に異状は見られないって。私自身も、おかしいところはないし、至って普通だもの」
「あンだけの魔力を取り込んどいて普通、か。それはそれでキナ臭くはあるが……言ったところでわからねェモンはわからねェしな」
「一応まだ、今後も定期的に診てくれるんだって。扶桑先生、優しいよね」
「……アレが優しい、ってのも甚だ疑わしいンだよな……」
私と扶桑の確執を知らない夏目は純粋にハテナを浮かべて首を傾げている。完全に私や扶桑といった関係者の予想を裏切り、彼女の体は元気そのものだった。多少儀式の影響を受けて衰弱していたが、それも数日療養することで十分回復してしまったから拍子抜けだった。まあ、元気なのは良いことなのだが。
それはともかく。扶桑朧とかいう、いけすかないクソ野郎の無性に腹立つ笑みを頭から追い払っていると、夏目がなにやら言いたそうに視線を彷徨わせていた。
瞳にそろそろ暮れなずむ頃の日の光の色を溶かし込み、彼女は意を決したように言葉を継ぐ。
「それでね。……お父さんの、ことなんだけど」
こちらのことも、あの後私は大体のことを当人から聞かされていた。彼女の実母が蒸発したのち、実父は荒れ、次第に彼女自身も愛想を尽かしつつあったこと。
その話を聞いた時、私はなるほどと思ったものだ。おそらく巡さん――――あの事件の首謀者の一人で、現在明石機関に収容されている神無月巡は、その点も鑑みて彼女を儀式の生贄にしようと画策したのだろう。魔力の器にするのならば、なるべく不安定で、確立しきっていない自我のほうが融かすには容易い。
そして、彼女はまさしくそれについてだと言うのだ。私は沈黙し、言葉の続きを待つ。
「実はね……この間、思い切って話をしてみたの。このままじゃいけないって思ったし、このままならまた何か別のものに付け入られるかもしれない……って思って。そしたらね、お父さん、お酒もやめて、働くっていってくれて」
花開くように、その顔が綻んだ。その不安定さが弱味になり得るということを、彼女自身も察していたらしい。そしてどうやらきちんと向き合うことはできたようで、私もつられて口の端を緩める。
「……そうか。良かったな……バイトはやめんのか?」
「ううん、お父さんもこれから会社を探すわけだから、当面お金が厳しいのは変わらないんだ。だから続けるよ。……秋ちゃん、私が辞めたら寂しい?」
「……べつに」
「ふふふ、」
夏目の冗談を鼻で笑い飛ばすこともできず、顔をふいと背ければ私の方こそ笑われてしまった。こんな風に、冗談を言ってくることも以前はなかったから、なんとなく新鮮な気持ちだった。
その後、鈴谷と熊野が揃って休みみたいだがそろそろ産休かとか、今日はやたらと飛龍の髪が跳ねていたとかたわいもない話をしていれば、いつの間にかバイト先――――憂雲亭に辿り着いていた。社員の凛太に挨拶を投げかけつつ、会話もそこそこに制服に着替え、遥のところへ出向く。
「学校お疲れ様、二人とも。今日も緩く頑張ってぬぇ……と、言いたいところなんだけど」
ふ、とその好々爺じみた柔い視線が私の方に向く。いくらか目尻を下げ、彼女は申し訳なさそうな表情で、
「秋流ちゃん、君にはお客様だ。待たせてあるから、仕事の方は私や夏目ちゃんに任せてそちらの方に行ってきなさい」
私に客。それは果たして、学生としての私への客なのか、ここのアルバイトとしての私への客なのか、それとも請負人としての私への客なのか――――答えなど、考えるべくもない。
夏目に「任せた」と言い残し、私は何度か使ったことのある座敷の方へと爪先を向ける。そして意を決して襖を開いた時――――この国の裏側にある隠れた真実と、今まで当たり前だったものが裏返る大きなうねりの中に、巻き込まれたことをこの時はまだ知る由もなかった。




