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帝國ロストヰデア  作者: 聖木霞
Ⅲ 鳴雷月編
66/76

Act.63

<Act.63 6/6(日) 15:15>


【茅野夏目】


 闇色の紗に覆われ、そして私の中の大事な『核』までもが流体になり、どこかに流れ出してしまいそうな感覚に陥りかけた――――まさしく、その時だった。


『茅野……ッ!』


 何処からか、声が響いた。苦しそうで、されど絶対に諦めはしないという決意の込められた、力強い――――稲光を思わせるような呼びかけ。


 ほのみや――――さん?


 虚ろな思考がかろうじてその名前を弾き出す。最早記憶も人格も、自分の名前さえも消えてなくなりつつある中で、何故だかその名前だけはやたらとはっきり思い出すことができた。

 仄宮秋流。

 雷光のような瞳を持ち、咲き誇る桜の群れを切り裂くように歩き去る、まるで夜の海の如く深い黒の髪を靡かせた彼女。

 紫電と見紛うかのような少女。

 たった一人だけ、このなにもかもが色褪せた世界の中で鮮烈に色づいて見えて――――そしてなお、たった一人で戦列に加わっているかのような孤高の人。

 その彼女が綺麗に整ったかんばせを苦悶と焦燥に歪めている様子が、水面に揺らめいて暗闇の中に映っていた。私は水面より下に沈んでいて、ぱちりと目を開いて周囲を見渡しても見えるものは漆黒だけだった。

 意識がはっきりする――――今までどうしてか曖昧だった思考が急速に自我を取り戻し、手放しかけていた記憶を手繰り寄せる。


 私は一体どうした?

 今朝、いつものように登校しようとして――――仄宮さんの活躍にほんのりと胸を高鳴らせたところで、綺麗な着物の女の人とすれ違って、背中に熱さを感じて――――それから?

 それから、まるで穴が開いたかのようにぽっかりと記憶が抜け落ちている。

 かろうじて理解できたことは、私はどうやら相当にまずいことに巻き込まれてしまっていたということと――――このままでは、私自身が消滅してしまうということだけだった。


 明白な根拠はなく、それはあるいは本能的な危機感からかもしれない。だがこのままこの空間に居続ければ、否、囚われ続ければ、私の『全て』がこの暗闇の中に流れ出し融け合って、得体の知れないものに成ってしまうということだけ分かった。

「(……ッ)」

 ――――途端、全身を包み込むような悪寒が私を襲う。意識していなかった周囲の暗闇の冷たさが私を押し隠し、奔流でもって水底へと沈めてしまおうという意志さえ感じて息が詰まる。

 いやだ、と思った。このまま消えてなくなるのは、それはきっと、ただ死ぬことよりも恐ろしい。

「(私はまだ――――まだ、仄宮さん(あのひと)のそばにいたい)」

 それが許されるのなら。彼女が例え、私のことを「ともだち」だと思ってくれていなかったとしても、それでも良い。


 ただ、ひとえに、――――消えたくない。


『――――夏目……ッ!』


 手を伸ばす。差し込む一条の光に向かって懸命に。私の名前を呼んでくれる彼女に向けて一心に。

 助けてもらうのを待っているだけでは駄目だ。殻に閉じこもっているのではなく、繭に閉じ込められているのではなく、私からそれを破る努力をしなければ――――私のために力の限りを尽くしてくれているのだろう彼女の呼び声に、報い応えることなどできはしない。

 奔流が私の腕を攫う。ともすれば濁流のように全てが飲み込まれてしまいそうになるのを、必死に堪えて名前を呼ぶ。


「秋流――――秋流ちゃん……ッ!」

 私は、私のままで生きたい。何かの器にされるなど、死んでもごめんだ。


 一差しの光が、徐々に大きく溢れんばかりのものになっていく。それは雷鳴さえ伴うかのように轟と渦巻き、私の視界を奪う間際――――奔流はぴたりと動きを止め、凪が訪れる。

 一瞬の揺蕩う感覚。かと思えば空間を満たしていた液体が、全て一つの指向性を持ち始め――――私へと殺到し、私の中へと流れ込んでく。

 私という体が弾け飛んでしまいそうな圧迫感を覚えるが、それは刹那のもの。流れ込むそれらは『私』をぐちゃぐちゃに壊してしまうこともなく、ただただ私の中に収まっては私という『器』に馴染むようにして染み込んでいく。

 それは不思議と、先ほどまでとは異なってまるで人肌のように暖かく――――温もりともいうべきものを持っているようにも思えた。


 そして光は視界を全て染め上げる。意識が束の間飛び去り――――。


 *


【仄宮秋流】


 光が視界を全て染め上げる。繭を破壊することに成功したと安堵した直後、しかしプールの中でなみなみと揺れていた水が急速に渦潮となって茅野――――夏目を飲み込み始める。

「(まず……ッ!)」

 彼女を捕えていた檻は壊した。しかしその意識が戻らなければ、このまま水に飲まれ溺死することも考えられる。せっかく救い出すことができたというのに、それだけは真っ平ごめんだった。

 魔力同士の反発により浮いていた体が、とうとう重力に絡め取られる。疲弊していた体は諸に水流の直撃を受け、刀が手を離れて思い切り水を飲みかけ――――気付く。


 これは――――本当の水ではない。

 おそらくは水に見せかけられた別物。というよりは、水の形を与えられた別物。

 即ち――――魔力だ。


 口腔を直撃した水が、私の気道を塞ぐ前に霧散したことで理解した。このプールの水はきっと、一連の術式を動かすための燃料ガソリンでもあり、“聖杯”を目指した“偽典聖杯”の核となる魔力の貯蔵庫プールだったのだろう。

 “聖杯”自体は単なる膨大な量の魔力の塊だ。それを目指すには、まず魔力を収めるための器と、その器を形作るための下地となる魔力が必要だった。せっかく集めた魔力も、それを受け止めるための皿がなければ霧散して仕舞いなのだから。

 そして、儀式を進めるための陣の片方は数秒とはいえ回路を絶たれ、もう片方は術者自身の手によって折られた。そうして行き場を失った魔力たちは、霧散するのが定めだろうと思ったのだが――――。

「(ああクソッ、流れが止まらねェ――――全部、夏目の中にッ!)」

 歯噛みする。元々“偽典聖杯”に収められる予定だった魔力の総量を思えば、この量の魔力など些末にも思える。だがそれはあくまで相対的な評価であって、人体に無理矢理押し込むには有害であることには変わりがないのだ。

 “何か”を追い求めた末に、大量の魔力を取り込み――――挙句の果てに、人外にすらなりきれなかった人間を、私は一人知っている。

 ずきり、と脳髄が軋んだ音を発する。奔流の中を必死に掻き分け掻き分け、そしてようやっと手を伸ばした先に――――茅野夏目の手がかかる。



「(――――――――掴んだッ!!)」



 『今度こそ』逃がさぬと、『今回こそ』救い出すとばかりにその手を手繰り寄せ、抱き寄せる。

『あき、……――――る』

 荒れ狂う流れの中で、襟元に必死にしがみつく蝙蝠からハルトの声が微かに響いた。しかし、それに返答する余裕もない。

 括っていた髪がとうとう解かれ、ゴムが流されて私の黒髪が水中に広がる。水流に弄ばれ引っ張られ、――――やがて、全ての水流が夏目の中へと収まる。

「夏目ッ、」

 足が空っぽのプールの底に触れ、意識のない夏目の体の重みが一気に襲い来る。疲労と傷とが合わさりそのまま立っていられなくなった私は、半ば崩れ落ちるようにしゃがみこみ、彼女の鼓動を確認する。

 息は――――あった。しかしそれは、必ずしも人間的な生を意味しない。身体的には生きていたとしても、中身が廃人になっていればそれは――――。


「あ、……き」

「――――!」


 そんな私の心配を杞憂と押し流すように、その瞳が開く。張り付いた前髪の隙間から見える瞳の色は、いつものように透き通った黒色をしていて――――次いで浮かべられた笑みで、彼女は彼女のままだということを知る。

「馬鹿、さんざん心配させやがって……ッ」

 茅野夏目が生きているという安心感と、全てをやり遂げたという達成感が私を包む。濡れた体操服越しに感じる彼女の体温は、凍り凝っていた私の中の何かを融かし、やがて瞳から熱い雫を滴らせた。

「ごめん、ね――――助けてくれて、ありがとう、……秋ちゃん」

 どこか恥ずかしそうにはにかむその笑顔は、いつもの控えめで心優しい友人のもので。

 私は、頬を流れるそれを拭うこともせず、同じように口の端を歪めて、

「当然だろ……『友達』、なんだからよ」

 私と彼女の交流が始まってから二ヶ月――――ようやく互いを『友達』と認め合うことができた私たちは、そうして一連の事件の終わりを迎えるのだった。




 ――――その後、何故だか私に上着を着せてきたハルトと共に二宮の元に戻れば、彼らは彼らできちんと兄弟喧嘩を終えられたようだった。神妙な顔をした八榛から「ごめん」と謝られたが、兄貴によって十分お灸は据えられたようだったし私が特に責めることはなかった。脚に酷い怪我を負っていた――激戦具合が窺える――二宮が、別れる前と異なり晴れやかな表情をしていたのが印象に残っている。

 飛龍と一緒にいた扶桑に一応の報告をしにいけば、彼は意外にもほっとした顔をしていた。そこで一応、明石機関の設備が整っている場所で後日夏目の診療を行い、後遺症などがないことを確かめてもらう手筈になった。初めてアイツが養護教諭でよかったと思ったというのは余談である。

 ちなみに、結局事件の何をも知らずに収束を迎えた飛龍は、私を見るに「どっかで水遊びでもしたのか?」と暢気なことをのたまったので、無言でまた髪の毛を引っ張っておいた。

 そしてこれも扶桑と話を付けたことなのだが、今回の首謀者である八榛キオと神無月巡の処遇と身柄は、明石機関が預かることとなった。私は単なる請負人だから誰かを「裁く」なんていう立場にないし、そうなると明石機関の手に委ねるのが最良だという判断だ。本人たちもそれを受け入れていたし、結果的には儀式が未遂で終わったこと、「自首」という形で扱われることでいくらか罪は軽くなるらしい。

 扶桑は「俺はあくまでヒラの機関員であって、刑罰を下す立場じゃないからアテにはしすぎるな」とは言っていたが、同時に「なるべく軽くなるようには力を尽くす」とも告げていたから、彼らと再び会うことも遠くはないかもしれない。

 今回の中心人物ともいえる夏目は、彼女は彼女でなぜか清々しい表情をしていた。夏目は夏目なりに、色々と思うところはあったのだろう――――それが何かは、私にはわからない。だが一緒にいればいつかは分かる時が来るのかもしれないし、あるいは来ないかもしれない。未来は不定で、人間だって不定だ。どのように転がるかなど、誰にもわからない。

 私、私はといえば――――そう、あの時の私は、世界のことが嫌いだった。扶桑に殺され、ハルトに生き返らせられたあの時は、こんな世界などすぐにでも滅んでしまえば良いと願っていた。

 今でもそれはあまり変わってはいない。相変わらず私は、この世界のことを理不尽で、気紛れで不安定なクソッタレだと思っているが――――それでも少し、ほんの少しだけ、捨てたものではないのかもしれない、そう感じたのだった。


 全ては終わった。自らの変化をそう悪しく思うこともなく、安堵のうちに六月の一騒動は終幕を迎えた――――。


 *


<6/6(日) ??:??>


【?????】


 ぱち、ぱち、ぱち。

 まばらな拍手の音が、豪奢な調度品が誂えられた部屋の中に虚ろに響く。

 その発生源はといえば、まるで一度も日光に当たったことのないような、白く艶めくたおやかな手だった。持ち主はといえば、どんな人物も目を瞠るような花のかんばせの持ち主。――――隔絶された空間に棲む、時の流れから切り離された唯一の存在だった。

「ええ、ええ。拍手を差し上げましてよ、仄宮秋流。『今度こそ』、貴女は救うことができたのですわね」

 彼女はいつにも増して昂っていた。それは目の前の映像で控えめに破顔する少女に対してであり、世界の終わりなき輪廻を断ち切る可能性を持つ唯一の少女の行いに対してだった。

 少女はいつも失敗していた。誰かを救えば誰かが死んだ。誰かを救うためには、別の誰かを犠牲にするしかなかった。酷い時には、その全てが犠牲になり誰も救えない時さえあった。

 だが彼女はようやくそれを超えることができた。神無月巡という人間を赦し、八榛キオという人間を知り、二宮灰という人間に託し、扶桑朧という人間に頼り、ベルンハルト・レヒト・シャルラハロートという人間を信じ、――――そして、茅野夏目という人間を救った。

 それは少女にとってとてつもなく大きいことだった――――少女自身が自覚しているよりも、遥かに大きいものなのだ。そしてそれは、彼女にとっても同様に。

「その成長は評価します。わたくしは、評価すべきものには真っ当な評価を下しますわ。素晴らしい――――貴女はついに、予定調和を少しだけ破ることができた」

 小さいながらも確実な進展だった。少女にとっても――――彼女にとっても。

 彼女はその興奮を飲み干すようにして紅茶を口に含み、嚥下しては目も覚めるような紅の塗られた唇を艶やかに歪めた。可憐な笑みは、絶世という言葉ではなお足りぬほどに麗しい。

「貴女は未だ自覚には至らないでしょう。ですがきっと、絶対にこの日この時の『奇跡』を――――否、『努力』に感謝する日が来る。そして今度こそ、完全なる脱出を」

 見上げるほどの楼閣も、まずは石の一つも積み上げなければ建つことはありえない。その一歩を踏み出すことに成功した少女に、彼女は心からの称賛と祝福を送りつつ――――しかして、六月の幕は降りる。






 ――――鳴雷月編  終幕

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