Act.62
<Act.62 6/6 15:05>
【仄宮秋流】
「秋流」
絶望と混乱の坩堝に囚われ、膝をつきそうになっていた心を支えたのは、彼の――――ほかでもないハルトの声だった。
背後から彼の腕が私の体を優しく包む。彼の体が持つ熱は、私の中の動揺を打ち払い、鎮めるように私の体に染みていった。
「俺だ。お前の俺だ――――よくやったな、秋流」
私は、じくじくと痛む右手で抱きしめる彼の腕を掴んだ。未だに続く、焼けるような痛みのせいで力が入らないそれは掴むというほどのものにはならず、半ば添えるだけのようになってしまったが――――縛った布でも抑えられない血が服につこうとも、彼は私を離そうとはしなかった。
「……ッ、遅ェ、っつの……」
「なに、その分のことはこれからの働きで返すさ。俺と、お前なんだから」
「……ああ、」
こみあげてくる暖かい気持ちに、言葉がつっかえそうになる。怒りとも哀しみとも違うその感情は、目の前を霞ませてしまいそうではあったけども、決して不快なものではなかった。
これを安心した、というのだろうか。誰かの存在に対して安堵した経験なんてなくて――――しかし人肌とはこんなにも暖かいものであっただろうかと追憶する。ただ魔術師を殺すためだけに生きていたこの数年で、私はありとあらゆる体温を失ってしまっていたような気がした。だが今の私を見れば、どうだ。
信念を曲げてまで魔術師であった友人を『殺さない』選択をしたのは私だし、それに対する後悔など微塵もなかった。
彼女に対する煮え切らない気持ちを切り捨てなかったからこそ、ようやく真正面から『友人』だと認めることのできた人を見捨てずに済んだ。
今までは孤独が当たり前であったのに、今では彼がいることで平静を取り戻し、あまつさえ『どうにかなる』とまで考えている私さえいる。
周りを見回せば、今の私の周囲には当たり前のように様々な人がいた。私が気付いていない振りをしていただけで、世界は孤独などではなかったし、世界の方が孤独になどさせてくれなかった。
「お前は、……私が呼べば、いつでも応えてくれるんだな」
「当たり前だ。お前のためなら、俺はなんだってしてやるさ。世界を暗闇に包むことだって、――――お前の大切な友人を、救うことだって」
さも当然のように答えるのだから、卑怯な男だ。どうして私のような人間に執着するのか不思議なくらい。それでも今は――――その言葉が何より頼もしくて、有難かった。
「なあハルト。……助けてくれ」
「助けるさ。お前がそう願うなら」
何度か同じように繰り返したやりとり。しかし今日この時ほど、その言葉に唇を噛み締める時が来るとは思ってはいなかった。
彼がいれば――――私は、立ち続けることができる。
自然と体が離れる。彼も私も、もう頽れることはないという確信が得られた以上、思考は速やかに現状の方へと向くべきだった。
「屋上に魔術の陣があった。おそらくあれがこの学校全域に巡らされた陣の中核で、二つあるエンジンのうちの一つだろう。片方が破壊されたとしても、儀式だけは完遂できるように――――という」
ちらり、とハルトの視線が蹲ったままの巡さんの方へと向かう。しかしそちらにかかずらっている場合ではないとの判断か、すぐさまその視線は私の視線へと戻り交錯する。
「一応、お前に電話を寄越した時点で“爆弾”は仕掛けてある。起爆させれば陣一つを破壊させるだけの威力は出せるだろう。おそらくの話だが」
「おそらく? またえらく自信のねェ物言いだな、自信過剰のお前らしくもない」
「そう褒めるな。その陣自体、俺にとっては未知だったからな。どれだけの魔力で干渉すれば破壊しきれるか、あくまで推測するしかできないってわけだ。確実を期すなら俺本人が破壊を行う必要がある」
「……でもお前が行けば、絶対に壊せると?」
「もちろんだとも。ようは、これ以上なく丁寧に調整された精密機械に、馬鹿でかい電力を無遠慮に流してお釈迦にしてしまおうというだけの話だ。俺でなくともお前でもできる――――が、お前はここでやることがあるのだろう?」
そう言って、彼は小さく口を笑みの形に歪めた。悪戯っぽいそれは、既にプールの中に在るものまで見当がついているのだろう。
わかっているのならば話は早い。私が頷けば、彼は「ぱちんっ」と指を鳴らし、自らの影の中からいつか見た蝙蝠を一匹生み出した。
「『意思疎通にはこれを使おう。ただな、秋流。二つだけ注意すべき点がある』」
通信媒体としての蝙蝠が傍にいるせいだろう、目の前の本人からと蝙蝠からと、二重で声が響く。
「『精密機械とあの陣が異なる点は、自己修復が可能だという点だ。機械ならばエンジニアなくして修復は不可能に近い――――だが、あの陣はよほど緻密に組まれているのか、おそらく大元を壊したところで完全な破壊には至らない。それこそ“聖杯”級の魔力量でなければ完全破壊は無理だろうな』」
途端に雲行きが怪しくなってきた。私が眉を顰めれば、彼は三本指を立てて続ける。
「『だが、三秒だ。三秒だけならば、俺の魔力でもショートさせることはできる。それ以上は維持ができない。その三秒で割込み、中身を引きずり出す……できなければ、このまま術式の完成を成すすべなく見ているしかない』」
それでもやるか、と紅い瞳が問いかける。いつもの碧眼ではなく、それは吸血鬼としての彼が力を見せる時の色。
ここに来て引き下がる選択肢などない。私は一つ嘆息し、「やるさ」と短く答える。
「で、もう一つの注意ってのは」
「『よくぞ聞いてくれた。古来から、努力した者には褒美が与えられるべきというのが通説だ。これは最早真理といっても過言ではない』」
私は沈黙。
……なんだか雲行きが(別の意味で)怪しくなってきた。胡散臭いという思いをひたすら視線に込めてその長身を見上げれば、彼は相変わらずキザったらしい笑みを深める。だからなんだよと渋々返せば、
「『褒美を所望しよう。お前から、俺への。そうだな……デートでいい。俺とお前で、今度の日曜日に出かけよう。それでいい、それがいい』」
うんうんと何やら頷いているイケメンに対し、私はただただ呆れた視線を投げかけることしかできなかった。今までの緊張感などどこへやら、いっそ肩を落としそうなくらいに気の抜けた声が出る。
「褒美とかお前、子供かよ……デートつったってどうせ買い物だろ? 毎週してんじゃねェかそんなモン」
「『まあ買い物というのもある。だが半分だ。きちんと着飾って、それで二人ででかけよう。秋流』」
「……、」
彼がその要求に何を求めているのかは、私には掴めなかったが――――単なる買い物のついでではなく純粋に彼との時間を過ごすということ自体は、さして悪くはないように見えた。
だが素直に認めるのは癪だったので、仕方ないという風にわかったよと答えれば、ハルトはごく自然な動作で私の額に一つ口付けを落とし、一歩下がった。その足が影を踏む。
「『楽しみにしていよう――――そして楽しみにしているといい。さあ、喜劇にはさっさと幕を下ろしてしまおう』」
ずるり、と影が液体のように流動性を帯びる。それは迎え入れるように彼の体を飲み込み、ハルトは言葉を残してその場から消えていった。
つくづくやることが芝居がかっている。しかしその見目の良さから他の人間がやるのとは一線を画して様になっている上、それを彼自身自覚していそうなあたりがこれ以上なく最高に腹立たしい。無自覚でやられても困るが、格好つけが似合う自信というのもまた絶妙に殴りたいものだ。
私はそう益体もないことを考えながら、いつの間にか本当に肩の力が抜けている自分に気付いた。上手いこと彼の口車に乗せられ、あれよあれよと気負いを外されていることに舌打ちこそするものの、悪い気分ではない。
『秋流。こちらの準備はできたぞ』
蝙蝠はハルトの声を伝えると同時、私に擦り寄るようにのっぺりとした顔を寄せてきた。デフォルメされたそれは、よくよく見れば可愛らしいと思わないこともない。刀を握っていない右手でぎこちなくあやせば、それは懐くように指に纏わりついた。
『……、秋流。それくらいならいつでも出してやるから、今は』
「わァってるよ別に可愛いとか思ってねェし!」
どこか呆れたような複雑な声色を向けてくるハルトに慌てて叫び返せば、蝙蝠はぴたりと私の体操服の襟の部分にしがみついた。落ちないようにということだろう。左手で刀を構えれば、ハルトは『行くぞ』と今までのトーンを一転、静かな声で告げた。
『準備はいいな。五秒カウントする、俺は零と同時に魔力を流して陣をショートさせる。お前はその間に』
「あァ――――術式に割り込んで、茅野を引きずり出す」
確認するように返しながら、助走ができる位置にまで下がる。彼女を包んでいる繭は、既にその白い肌に触れるか触れないかというところにまで迫っていた。このままでは茅野夏目は全て偽典聖杯とやらに食い尽くされ、巡さんの言に則れば『この領域内の全ての人間も犠牲になる』。
儀式の代償は、多くの人間の命と一人の人間の全て。術式自体が明石高校全体を覆い、そしてほかでもないこの体育祭という日取りに実行されたのは、少しでも多くの人間から生命力を奪い取り、魔力として還元し、茅野夏目という器の中に封じ込めるためだろう。私はそう推論を立てていたし、それが仮に間違っていたところで、私にとって一番忌避すべき『茅野夏目が犠牲になる』という事実だけは覆りようがない。
だから、それを今から覆すのだ。
『五』
踏み締める。体制を低くし、次の瞬間を待ち焦がれるようにプールサイドの床を靴の裏で擦った。
『四』
地を蹴る。駆け出す。目掛けるのはただ一点のみ。仄かに漂う塩素の匂いが鼻腔を刺激した。
『三』
突き抜ける。瞬く間に最高速度に達する。熱気を孕んだ空気の中を、己の体が弾丸の如く駆け抜けていく。
一瞬だけ――――そう、ほんの一瞬だけ、俯いていたはずの巡さんと視線が交わる。
『二』
踏み切る。砕けよとばかりに地を離れた私の体が浮遊感に包まれ、括った黒髪が風を受けて大きく靡くのを感じた。
『一』
振り被る。左手で懸命に、されど強く強く握り締めた刀を大きく構え、ちょうどぴたりと落下点に合わせる。
振り切った重力が私を絡め取り、――――そして次の瞬間。
『零ッ!』
「らぁああああああああああああああああッッッッ!!!!」
一刀が、繭に突き刺さる。それは大切なものを捕える檻を砕くように、渾身の力を込めて繭にぶつかるが――――じりじりと押しては押し返され、振り切ることができない。
繭には黒い、影のような蔦が絡みついている。ハルトの魔力の影響だろう、それが繭、儀式の中核を担う陣と他の術式とのつながりを遮断し、孤立させている。好機は今この瞬間のみ。
『三、』
再びハルトのカウトダウンが響く。その声は食いしばった歯の隙間から漏れるようで、彼にかかっている負荷の重さが窺い知れた。
ハルトは『術式に干渉し、流れを止める』ことをいとも簡単にできるかのように――――できて当たり前であると告げた。だがよくよく考えなくともそんなことが簡単にできるはずがない、それはともすれば自分の魂すら呆気なく消し飛ぶような行為で、自分のありとあらゆる力を振り絞ってこそ成し得る行為だった。
だが彼はそれを実行している。ほかでもない私の願いのために。なら私は、届かせるのが役目だ。
それが願いだ。
『二』
力を込める。心臓が弾けるほどに脈打っているのを感じる。繭の中に込められた魔力と、私の中でうねり拍動している魔力が反発し合うことで、私は落下を免れていた。
この身がどうなったとて構わない。衝動のままに右手を左手に添え、強く握り込む。叩きつけるかのような右手の痛覚をただただ感情だけで捻じ伏せ、刃を一歩、もう一歩を踏み込ませていく。
「茅野……ッ、」
しかしそれでも――――届く――――届かない――――?
『一……ッ』
耳朶に響くハルトの声は、その限界を物語っていた。それでもまだあと一歩が――――一歩が足りない。いつもなら詰められる一歩が、この時に限っては彼岸と此岸の間のように永遠に思えた。
届く――――届かない――――否、
――――不意に、体にかかる重力が増した。それは先ほど私が苦しめられ封じられた、巡さんの<空想神域>によって再現せしめられた加重にほかならず。
そしてその主など、神無月巡以外にいるわけがなく――――やはり貴女を殺さないでよかったと、安堵が胸を衝く。
「――――夏目……ッ!」
届く――――届く――――届かせるッ!!
斬ッ――――――――!!
切っ先が、ついに茅野夏目を捕えた檻を切り裂く。
その瞬間、私の視界は耐えられないほどの閃光に包まれた――――。




