Act.61
<Act.61 6/6(日) 15:00>
【仄宮秋流】
満身創痍に近い状態ながら、それでも私は笑みを絶やすことはなかった。
全身、特に上半身は肩や頭などを彼女の銀の棒で殴打されたせいでじくじくと痛むし、一番酷いのは右手だ。矢で貫かれたせいで未だに失血が止まらないし、かといって凍った表情の彼女は止血する時間など与えてくれそうもない。
スマホだって安かないし、極めつけに痛いのは、何よりもハルトとの連絡手段がなくなったことだった。
「(啖呵切ったはいいが、いやしかし――――この状況は、あまり芳しくない)」
あの時電話をかけてきたのはハルトだった。画面を確認したから間違いない。しかし術式の捜索を頼んだ彼がわざわざ電話をかけてきたということは、私に報告すべき何かの特異な点が見つかったということに相違ない。
あれは聡明な男だ。おそらくは、私が見てきた誰よりも頭が回るし聡い――――聡いのに、なんでか私に執着する。執着するからこそ、彼は私の邪魔をしようとしたことなど一度もなく、その点において私は彼を信用していた。……口に出しはしないが。
だから、その彼がわざわざ電話を寄越したということは、それ自体が只事ではないということの証左になる。術式は彼が探しに行った屋上ではなくこのプールにあったから、そうではない別のものがあったと考えるのが妥当だ。
ではその別のものとは、
「考え事かしら? 随分余裕なのね」
飛っ!
まただ、またどこからか矢が飛んでくる。反射的に回避行動をとるが、一拍遅れたせいで足首を掠ってしまった。脳裏を引き裂くような鋭い痛みが走り、それに顔を歪めるが、動きを止めることはしない。
転じて、駆ける。未だに最初に展開された仮想重力、彼女の言うところの「空想神域」とやらのせいで最善の動きがとれているとは言い難いが、それでも止まってしまえば良い的になることは火を見るよりも明らかだった。
「<蘭帝>――――<朱天紅鏡>ッ!!」
感覚を刃にまで『伸ばす』。身を常に苛む重力に抗うため、気を許すことなく回転させ続けている体内の魔力の輪を、ただ飛燕にまで伸ばすだけの話だ。
この状況では龍を撃ち出すのも、それに似たような事象も、実行するにはリスクが大きい。ああいう力を『放つ』タイプの行動は、そのために回転を止めなければならない。それを実行して良いと断じられるのは、その一撃で仕留める確信を得られた時と、その一瞬で潰されるのを防ぐ手立てがある時のみだ。
まだ彼女は――――神無月巡は、手の内を明かしきっていない。ゆえにこちらも手札を切るべきではない。そう私の直感が告げていた。
刀身に焔が宿る。それは目に見える炎の形こそとりはしないが、絶え間なく降り注ぐ日光がそれを照らせば、銀刃の中に紫炎が揺らめいては燃え盛った。
鋼、鋼、鋼
――――――――鋼ッ!!
左手で振るう刀が彼女の銀棒に受け止められる度、高い音が水の揺れる音の合間に響き渡った。そうして幾合も打ち合っているうちに、次第に分かってきたことがあった。
一つ。彼女はおそらく、こういった『戦闘に慣れていない』。
私が利き手を失い、普段両手で踏み込んでいるところを片手分の膂力でしか扱えない上、体勢の維持に魔力を回さざるを得ないことで攻め切れないという点を差し引いても、彼女のそれは稚拙に過ぎる。手にしているそれをなんとか振り回して受け止めているので精一杯といった風情で、私のがら空きの右半身に攻め込もうという気概すら感じられないのは、純粋な経験値の差であることがうかがえる。
二つ。これは一つ目と関連するが、彼女は『戦術に乏しい』。
先ほど彼女はこういった。『これは私の心象。苦悩の重さ。私が苦しんだ分だけ、貴女にかかる重みは増していく』。それが彼女の魔術の本質であるなら、ここはいわば彼女のテリトリーで、彼女の発想次第で様々なものが生み出せる状況下にあると仮定できる。そうであるなら、射出装置らしきものが見当たらないにも関わらず矢を受けた理由にも納得がいくのだ。
そういう圧倒的有利を作り出せる状況にも関わらず、彼女は攻勢に転じることができない。なぜなら攻勢に転じるための方策を捻りだす発想と、そもそもの余力がないから。
三つ。彼女はきっと、未だに『躊躇いがある』。
そもそもの話だ。ここが彼女の思ったものを作り出せる術式の内部なら、なぜ彼女は棒などという中途半端なものを武器として作りだしたのか。
本気で私を殺す、倒すのならば、正直なところこれまでにいくらでもそのタイミングはあった。刀や剣とまで言わずとも、せめてナイフや包丁といった刃物であれば、私が初撃を受けて動けなくなったところで首を刎ねるなり心臓を衝くなり四肢の腱を切るなり、それこそ無限通りに動きを封じる手立てはあったのだ。
彼女は最愛の夫を取り戻したいと熱望しながら、そのために私を排除することに踏み切れないでいる。それは甘さだ。であると同時に、付け入る隙となり得る彼女の中の迷いだ。――――善性は、そう簡単に悪性へと翻ることはできない。
全身を侵すこの重みが彼女の苦悩であるならば、その内に具現するのも偽りのない彼女の心そのものだ。明かすだけの手の内など端からなく、掌はこの術式だった。彼女の身を焼き焦がすその動機は、残念ながら完全な悪に身を染めるだけの熱量には達しきれなかった。それは決して悪いことではない。彼女の心には、巡さんの心には、それだけ根深く根強く善性が根を張っているということの証左なのだから。
その善性なら、きっと哀しみさえも受け止めていける。その心の清さを、まともさを、賢明さを、むざむざ捨ててほしくなどなかった。
救いなどと大層な口を利くつもりはない。これは既に捨ててしまった者である私の願い。かつてあったかさえも定かではないものを、血腥さでもって染め上げてしまった者の我儘。
――――――――だからこそ、止めなければ。
「らあぁあああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!!!!」
「ッ、」
――――轟ッ!!
咆哮を上げ、埒のあかない応酬を半ば無理矢理に断ち切るように渾身の一撃を繰り出す。果たしてそれは、紫炎の暴龍と化して彼女を包み、彼女の細く白い手が懸命に握る棒をも弾いて彼方へと吹き飛ばした。
龍はいつも見るものに比べれば笑ってしまうほどに弱々しかった。それでも彼女から、目の前の女性から武器を奪うだけならば十分で、期待通り銀棒は上空へと舞い上がり、陽光に刹那瞬いた後――――攫った龍と共にふっと掻き消えた。
己の手から武器を失った巡さんは、ちらつく焔の合間に一瞬泣き出しそうな悲痛な表情をしたものの、すぐに諦めたような顔をしてその場にへたりこんだ。俯くことで眼差しが陰り、まるで首を斬られることを待つかのように無言で頭を垂れる。ダメージを負ったというわけではなかろう、見た目こそ派手でも、あの龍に人をまるまる焼き殺すだけの火力はなかったはずだから。
彼女に対して私は刀を突きつけ、
「アンタは魔術師にゃなれはしねェよ。アンタは善人で、安易に悪に堕ちなかった、堕ちることのできなかった“強さ”がある。……だから、私はアンタを殺さない。背負ってくれ、――――巡さん」
「背負え、だなんて……今更、止められはしないのに……?」
「何度でも私が止める。酷だと怒鳴ってくれてもいい、殺さなかった私を憎むもいいし軽蔑するもいい。ただ、私はアンタが止めてほしがってるように見えたんだ」
そしてそれは。
「それは、アンタの弱さじゃない。他人を犠牲にすることを良しと割り切れなかった、紛れもないアンタの善性だ。悲しみを受け止めて、背負って、――――そしてこの先も生きてくれ」
例えもう話すことが叶わなくても、以前のようにささやかな世間話をすることさえできなくても。
この先を生きてほしい――――この善き隣人に生きてほしいと願った私の我儘が、貴女をどうしようもなく苦しめるとしても。
刀を振るう。しかしそれは斬るためではなく払うためだった。纏った不可視の紫炎を解くように飛燕を翻せば、それと同時に私を押し潰さんとしていた仮想重力が掻き消え、術式の消失を悟る。
彼女は、動かない。しかしそのたおやかな手は下を向く花のかんばせを覆い、その隙間からは僅かにすすり泣くような声が聞こえたが、先ほどまでの張り詰めるような敵意は消え失せていた。
ふ、と一つ息を吐く。
「(あとは……、茅野か)」
とはいえ、私の失血もそろそろ危うい。足下は見事な血だまりを作り、よくこれで死ねないなと一周回って呆れるような様相を呈していた。“聖杯”が体を維持しているわけだから、それがなくならない限りは疑似的な不死なのだろう。つくづく自分の人外さ加減を認識させられたところで、諦めて上の体操着の裾を破ってきつく右手を縛り付ける。
動脈や静脈を切ったわけではないし、応急処置はし終えたとはいえ、これで水の中に飛び込むのはいささか不安ではある。だがまあ“聖杯”もあるし、肝心の儀式を遂行する術式の方は止めたのだから多少の無理は押し切れるだろう、と考えながらプールの方を見やる。
「……?」
まるで変化は見られなかった。この領域自体を包む術式は破壊されたし、それならば何か変化が起きても良いはず――――
――――まさか。
そうだ。
儀式を実行する術式がたった“一つ”だと、一体どこの誰が明言した?
考えてもみろ。私をトリガーとみなしていた八榛は、何故扶桑と二宮が掘り当てたという術式の場所に私を連れて行かなかった。何故彼らが見つけたその術式だけ、誰の手にも壊されぬよう本気で防衛するためのトラップが仕掛けてあった。それらがここに在ったものと同一であるなら、八榛は私をそこに連れていく必要があったし、過剰なほどのプロテクトをかける必要もなかった。
いや、もしかしたら彼らが設置した全ての術式に対し、第三者が介入した際の迎撃装置としてのプロテクトは張ってあったのかもしれない。だがそうだとしても、前者の謎をパスできない。
こう考える。元から儀式を行うための術式が二つで、扶桑と二宮が掘り返したそれらはその二つ目――――いわばバックアップのほうだとすれば?
文字通り血の気が引いた。これではまだ終われない――――終わらせることができないのだ。もしかしたらハルトは、それに気づいて電話を寄越してきたのかもしれない。
壊されたスマホの残骸を悔し紛れに見つめるが、それで元に戻るわけがなかった。焦りだけが私の脳を蝕む。思い込みがこれまでの行動の全てを無に帰し、――――大事な友人を喪うことになるかもしれないという恐れが胸を灼く。
……次いで、己の感情に自嘲の笑みが零れた。
「……ッ、今になって、気付いたのかよ」
茅野夏目を、とっくの昔に友人だと思っていたことを。
気弱ながらに私に構ってくるこれ以上なく“普通”な彼女を、奇特だ変わり者だと思いながらも――――どうしようもなく、大切だと考えていてしまっていたことに。
大切なものなど要らないと思っていた自分が、耳元で嗤っているようだった。気付けば私の掌の中には、色んな者共が我が物顔で居座っていたのだから。
その中の一つ、笑顔で私に接してくる大事な友人が、今まさに零れ落ちようとしている。掴もうと懸命に伸ばした掌が、届かない場所へと行ってしまおうとしている。
どうすれば良い。どうすれば彼女を助けられる。どうしたら、どうしたらどうしたらどうしたらどうしたらどうしたらどうしたらどうしたら――――――――
「秋流」
思考が、渦に呑まれんとした時だった。
無条件に私を信頼し、そしてまた私も信頼するあの男の声が、すぐ傍で響いた。




