Act.58
<Act.58 6/6(日) 14:55>
【八榛キオ】
兄は諦めないし、弟も諦めない。
決着は、どちらかが倒れることでしか決めることはできない。
――――噎せ返るほどに濃い瘴気と冷気の中においても、兄貴の振るう鎌の銀閃は光を失うどころか、むしろ研ぎ澄まされていくようにさえ感じた。
「二重・刺部陀地獄ッ!!」
戦意の滾る声を上げると同時、兄貴の周囲の冷気が瞬く間に凝固し氷柱の形をとる。それらは空を裂いてフラウロスへと一直線に向かっていく。
『OouuUUaaaッ!!』
フラウロスは滑らかな身のこなしでその全てを避けきる。肌のすれすれを通り抜けた氷柱が、あまりの高熱に潰れた音を立てて融解しながら俺の足元に突き刺さった。
兄貴が氷柱を生むのなら、フラウロスは炎の球で応戦した。炎豹が唸り声を上げるとその周囲に五つの燃え盛る火の球が浮かび上がり、弾丸となって兄貴の元へ飛来する。
しかしそれは兄貴の読みのうちだったのか、彼は特に驚いた顔を見せることもなく駆け出し、突撃――――するのではなく、突如体制を低くして地面に手を触れた。
「凍て付けッ!!」
発破と共に兄貴の前に氷の盾が現れる。それらは放たれた火球を全て受け止めると同時、地獄の氷さえも融かす高熱で見る間に蒸発させていく。
フラウロスは盾ごと兄貴を食い千切ろうと歩を緩めることなく飛びかかる。その体が盾を融かし破り、兄貴の頭上へと差し掛かった瞬間。
「そりゃッ!」
兄貴の体が、地面についた手を支点にぐるりと宙を舞う。伸ばされた足はフラウロスの顔面の真ん中にちょうど直撃し、彼が呻き声を上げ怯んだと同時――――『ジュウッ』という肉の焼ける音が鼓膜を叩いた。
「ッ、」
豹を自身の右足のふくらはぎで殴打した――足自体が長いせいで踵は当てられなかったようだ――兄貴は、自身の肉が焼ける感触に顔を歪める。フラウロスの持つ温度の前には、たかがズボンの一枚程度は無いにも等しい。
兄貴の動きが一瞬止まる。そのまま足を振り抜き、フラウロスが吹き飛ばされる内に一回転して立ち上がろうとしていたようだが、その一瞬の隙を悪魔が逃すはずもなく。
『AAAAaaaッッ!!』
「ぁ、がッ!」
フラウロスは衝撃から立ち直り、空中で身を捻ってそのまま兄貴の足へと噛みついた。牙が足へ食い込めば、その瞬間体内の酸までもが直接流れ込む。
その痛みは酸の霧を浴びるよりも数倍は苦しいことだろう。何せ内臓器官を苛む毒液を直接血管へと注がれているのだ、この時点で普通の人間ならば絶命していて然るべき――――
だが兄は最早普通の人間ではなかった。歯を食いしばり、身を捻って空いた左足で思い切りフラウロスの腹を蹴飛ばす。
『Oaaaannnnッ!!』
「づ……ッ!」
左足から着地する――――しかし、超高温で焼かれ、酸を直接注がれた右足は使い物になるまい。履いていたズボンは無残に千切れ焼け焦げ、その隙間からはどす黒く焼け爛れた皮膚が見えた。
それでも兄は、痛みに顔を歪めながらも、唇の端から血を流しながらも、瞳に宿らせた戦意を鈍らせることはなかった。
うずくまる兄貴が不意に自身の右手で右足を覆った。布が擦れるだけでも激痛が走ろうものなのに、一体何を――――そう、思った時だった。
すっくと立ち上がる。
その立ち姿に淀みはなく、視線を下げれば右足を蒼い氷が覆うところだった。
「な、……」
流石に絶句した。兄貴はあろうことか患部を全て氷で覆い、無理やりにでも止血と毒の拡大を防ごうとしていた。
あまりにも、やり方が乱暴すぎる。いや、確かに体内を侵蝕する毒に対処するには、患部を“隔離”することが最も早い。だが人体で普通それは『不可能』に属することで――――だというのに、彼は一瞬の躊躇いもなくそれをやってのけた。
痛みはあろう。ないほうがおかしい。しかしああまで完璧に覆ってしまっては、最早感覚の一つすら残ってはいまい。痛覚も封じることはできようが、使い物にならなければ同じだ。
そう――――思ったのだが。
「八重・摩訶鉢特摩地獄……ッ!」
兄貴の唇が紡いだ瞬間。
「消え――――た?」
彼の足元に虚無が口を開き、そして飲み込んで――――消えた。
死神、彼の世の番人、守り人、というのだから、地獄にでも行ったのだろうか。いや、そんなまさか。“地獄”というのはあくまで比喩であり、それはこのフラウロスたちのような人間よりも上位の存在たちが棲まう場所を呼称するだけで実態は、
「“神様”を信じるお前が地獄を否定するのも、なかなかおかしい話じゃあないか?」
「ッ、!!」
後ろ。
振り向いた時にはまた兄貴の姿は消えていて――――見透かされたような言葉を残して、どこだと彷徨う俺の視線の中に現れた。
即ち、突然に獲物を失って惑う、フラウロスの直上。
「あんまり長期戦は、僕としても好みじゃないからね――――七重・鉢特摩地獄ッ!!」
フラウロスが振り仰いだ時には、もう既に“それ”は広がっていた。
兄貴が直下に向けて差し出した掌。叫びに呼応して、フラウロスに蓋をするかのように蓮華の花が咲き誇る。
蕾から花へ。瘴気と冷気が吹き荒ぶ中で咲き誇るそれは、泥の中から手を伸ばし世界を芳しくするような蒼い色をしていた。それは大気を舞う氷の破片にちらついて煌々と反射し、深い青として俺の視界に灼き付く。
そしてそれは、さながら“的”に銃口を向ける砲身のようにも思えた。
「――――――――塵になれッ!!」
世界が静止したかのような瞬間。
刹那を切り取り、その最中――――蓮から海のように蒼く、氷のように透き通る業火が舞い踊った。
轟――――――――ッ!!!!
『OOOOOOOOOOOOOooooaaaaaaaAAAAAAAAAAAAaaaaaaaaaaaaaaッッッッッ!!!!』
「フラウロス……ッ!」
絶叫が耳朶を叩く。さながら檻のように蓮華に閉じ込められたフラウロスが、成す術もなくその濃密な魔力の端から焼かれて消失していくのが感じ取れた。
氷のように光を通し揺らめいておきながら、その端々にちらつく目も覚めるような蒼の色に、ようやくそれが「炎」であると認識する。広く広がる海原の底、蒼海を沈み沈んで逝った先に在る地獄の焔のように、それは不可思議な色合いでもってフラウロスを蹂躙していた。
正直に言おう――――俺は、その鮮やかな青に見惚れていた。
と同時に、愕然としていた。
「(――――嗚呼、皮肉なものだ。兄が遠くへいってしまうと嘆いていたのは俺なのに)」
望みを求めれば求めるほど、彼がもう取り返しのつかないところにまで行ってしまったことを、まざまざと見せつけられる。
八榛灰はもう人間ではない。ただの人間には、青がかる霞が何枚も折り重なったように蒼い焔を――――あんなにも綺麗で苛烈なものを操ることなど、決してできはしない。
そしてその焔に惹かれてしまった以上、俺の完敗だった。
彼女の炎は朱い炎。何よりも尊く、そして容赦なく命の灯火を喰らう一方、潰え逝くものに道標を与える炎だった。
だがそれよりも、よりけざやかで彰々とした焔を見せつけられてしまえば――――膝を折ること以外、俺にはできなかった。
彼女を愛したのは本当だった。彼女のためにしようと思ったことを、五体が裂けようと『間違いだった』ということはできない。
それでも八榛灰に負けた以上、これ以上今までと同じ道を進むことはできなかった。
「――――……キオ」
フラウロスが消滅し、くずおれた俺の前にいつの間にか兄が佇んでいた。影が差し、見上げれば彼は、にっこりと微笑んでいた。
彼はしゃがみこみ、俺を抱きしめて言う。
「謝りに行こう。大丈夫、お兄ちゃんも一緒だから」
どこに、とか誰に、とは言わなかった。
人間でなくても、以前とは異なっていても。――――それでも彼は、俺の唯一人の兄だった。
「ごめん、……ごめん兄貴」
「いいよ。僕は、他人を犠牲にする方法をとるようなお前と、……それに気づけなかった僕自身に対して怒ってただけだから」
でも、わかってくれたなら、それでいい。
抱きしめた兄貴の体は、焔のようでも氷のようでもなく、ただ人間らしい体温を持っていた。
「(仄宮は果たして、間に合ったのだろうか)」
彼女にも酷いことを言ったし――――茅野にも、悪いことをしたと思う。
今更謝ってどうにかなるわけでもないし、手筈通りであれば“彼女”が、計画の片割れを担う「相棒」ともいうべき彼女が陣を完成させる頃合いだ。それでいうならば俺が足止め目的でここに向かい、兄貴を留めることができたのは、目論見通りと言っても過言ではない。
ただ、もしまた会うことができたなら。
仄宮にも茅野にも、素直に謝りたいと、俺はこの時心から思った。
――――すぐそこのはずのグラウンドから、遠い歓声が聞こえる。激闘の校舎裏は過ぎ去り、勝負は流転して別の場所へと移る。




