Act.57
<Act.57 6/6(日) 14:37>
【八榛キオ】
九年前のあの日、俺たちは兄弟になった。
俺の両親と兄貴の両親が離婚し、そして俺の母と兄貴の父が結婚して、俺たちは戸籍上の兄弟になったのだ。
その時俺は八歳、兄貴が十三歳だった。まだ年端もいかない幼い俺は、それでも両親の不仲に気付かないほど鈍感ではなかったし、さりとて「今日から兄だ」と言われた年上の少年をすんなり受け入れられるほど物分かりの良い子供ではなかった。
兄は心優しい人だった。中学生という多感な時期に両親の離婚、再婚を経験し、無愛想で無口な子供が「今日から弟だ」と言われても嫌な顔すらせず、にっこり笑ってくれるような人だった。
彼は彼で、きっと最初は戸惑ったことだろう――――それでも少なくとも、俺の前ではそんな戸惑いも不安も見せることはなく、『優しい兄で在ろう』と努めてくれていた。休みの日には忙しい両親に代わって俺を連れ出し、手を引いて歩き、精一杯俺を愛そうとしてくれていたのは十二分に伝わっていた。
兄弟になってから一年経った頃だった。俺はいつものように兄と遊びに出かけていた。彼は『神社を見つけたんだ、探検しにいこう』といって俺をそこに連れて行った。
既に管理する者も訪れなくなって久しいのか、廃れた神社だった。家から少し離れたところにある小さな山の、その麓にひっそりとたたずんでいる神社だった。そこまで大きくもない社を仰ぎつつ苔だらけの鳥居をくぐり、落ち葉と埃に覆われた参道を、俺は兄に手を引かれながら歩いて行った。
兄は俺にいろんなものを見せたがっていた。多分その神社もそのうちの一つだったのだろうし、表情のあまり変わらない弟を脅かしたいという悪戯心もあったのかもしれない。廃神社というものに普通一般人が抱くであろう薄い躊躇い、仄かな恐怖感というものをたまに表情に滲ませながらも、彼は『お兄ちゃんがいるから大丈夫』と、気丈な笑みを絶やすことはなかった。
対して俺は、幼さゆえの好奇心か、または無知がもたらす恐れ知らずのせいなのか、特に怖じることもなかった。既に半分が朽ちつつある賽銭箱の前で立ち止まった兄の隣で、食い入るように社の方を見つめていたのを覚えている。
その時だった。
燃え盛るような朱い髪を靡かせたヒトガタが、俺の前に現れたような気がしたのだ。
否、それは気のせいなどではなかった。だってその時にはもう既に俺は“彼女”の領域へと招かれ、攫われていたのだから。
彼女の領域は霧と焔の世界だった。先ほどまで確かにいた兄はおらず、しかし朽ちかけの社に苔むした鳥居、落ち葉が掃かれることのない参道が在り、そして彼女は社の手前、階段のところに座り込んでいた。
同じ世界のようで、決して現実とは交わることのない世界だと思った。幼い俺は恐れ知らずにもとことこと彼女の傍へと歩み寄り、彼女と同じように階段の隣に腰掛けた。
そして、見上げる。
彼女の顔は、正直よくは見えなかった。焔そのもののような朱い髪は常に橙色の光を失うことはなく、その光が眩しかったせいで顔かたちを直視することは叶わなかった。
だがそれでも理解した。この領域にただ一人存在する彼女は、既に信仰を失い外界との――――現実との繋がりを失ってしまった、神様なのだと。
包む霧は壁。きちんと崇められ、拝せられていた時分にはきっとなかったであろうもの。しかしそれらが次第に失われ、彼女を“認識”する者がいなくなった今では、彼女の持つ威光は――――焔の光は、この霧を突き抜けては届かない。
彼女が俺を攫ったのは、俺がまだ不安定で引きずり込みやすかったからというのもあろう。だが純粋に、彼女は人々に忘れ去られ、寂しかったからではないか、と。
ぼんやりとそう思った時、幼い俺は告げていた。
『ぼくが、あなたをつれていくから』
――――それが、俺が今ここに立つ理由。八年前のあの日に出会った名も知れぬ神様に俺は恋をして、そしてあの寂しい一人だけの世界から連れ出すと決めた。
今の俺はただただそのためだけに存在していて、そして悲願はあともう少しで叶うのだ。
なのに。
「お前が諦めないなら、僕も諦めない」
優しい兄が、どうしようもなく邪魔をする。
俺は、どうすれば兄が溢れんばかりに与えてくれる愛情に報いることができるのか、わからなかった。それは今も変わってはいないし、むしろわからなくなるばかりだ。
貴方の隣に立ちたかった。俺は彼女を愛していたけれど、それでも確かに貴方も愛していたのだ。無愛想で話し方もわからない可愛くない弟を、それでも懸命に愛そうとしてくれた貴方に――――応えたかったのは、本当だった。
「でも、誰かの命を代償にして叶えるのだけは、絶対に、だめだ」
――――でも俺の願いを否定する貴方を、このまま許しておくわけにはいかなかった。
だから札を切った。できれば使わずに済ませたかった奥の手。俺が揃えた“道具”の中でも、とりわけいっとう危険度も反抗心も高い七十二柱の悪魔のうちの一。
第六十四柱、フラウロス。蠢く火炎の豹――――だが既に信仰し畏れるべき炎を持つ俺にとっては、それもただの道具でしかない。
「――――食い殺せ、フラウロス」
『OoOoo』
地獄の底から響くような唸り声を絞り出し、豹は兄貴に向かって疾駆した。
その姿は空気を切り裂く刃物のようにも見えた。体長こそ大きくはないが、触れただけで全てを融かし焦がし灰に戻すその体は、並の人間ならば瞬きの間に食い殺すほどのものだ。
だが兄貴は、驚いたことに並の人間ではなかった。というより、いつの間にか並の人間を脱していた。
兄貴は虚空から取り出した大きな鎌を躊躇いなく振り抜いてフラウロスに対するカウンターを仕込みつつ、その弱気な口が開いて、
「一重・鞍部陀地獄ッ!!」
一瞬にしてこの場を冷気が覆った。相当鈍感な人間であろうと否応なく気付かせるほどに強烈な、空間をまるごと支配下に置くようなあまりにも強引かつ強力な力――――。
なるほどこれが、“死神”か。兄貴は一体どんなろくでもない権能を手に入れたのかと思ったが、確かにこれは凄まじい。何せ“死”という概念そのものを掌握し、それを氷の世界として顕現させるというシロモノだ。それは人間が扱える規模にまで縮小されてはいるが、それでも根底に横たわる概念はあまりにも絶対的な“死”という権能である。基本的に、“生”を持つ俺たち生物が太刀打ちできるようなものではない。力量の差云々ではなく、根本的な相性の差なのだ。
こればかりはどうしようもない――――ないが、しかし幸か不幸か、俺が道具として『使用』する悪魔には生死は存在しない。
彼ら悪魔は確固たる自我を持たぬ上位世界の存在、突き詰めればただの魔力の塊だ。それを伝承と法則に則り機構を構築してこの世界に『引きずりおろして』いるだけであり、元々生物ではないため生死といった概念は通じない。この場に至っては、単純な熱量が勝負を分けるといっても過言ではなかった。
『OOuaaAaaaOッ!!』
炎の豹が唸りを上げる。その体が飼うのは地獄の炎、彼の世の底で煮え滾る火炎だ。その熱量は単純な炎など足元にも及ばない、纏わりつく冷気をものともせず駆け抜ける。
「二重・刺部陀地獄ッ!!」
兄が高らかに声を上げる度氷が生まれては消えていった。氷柱が豹の軌跡をなぞるように地面から勢いよく突きあがり、そして誘導したところで的確に鎌でもって一撃一撃を加えていく。
シュゥゥウウウウッ!!
「ッ、なんだこれは……ッ!」
しかしフラウロスとてただ殴られるだけが能ではない――――鎌が触れ、斬られた部分からは大量の瘴気が噴き出した。それは至近距離で戦っていた兄貴に諸にふりかかり、彼は顔を顰め片手で呼吸をふさいで大きく距離を取る。
「――――“フラウロス”の銘は、黄熱の意味をも持つ。流石にそれそのものの再現はできないけれどね……似たような芸当なら、十分」
「ッ! ぐッ……ぁ」
フラウロスという名が示す意味の中には、「黄色」転じて「黄熱病」が含まれる。この隠喩は本来は熱帯のアフリカや中南米に存在するものだが、記されているのならば再現くらいは可能だろうと思った結果、俺は『浴びた者の体内にダメージを与える』酸の霧に転じさせることに成功したのだ。
兄貴は口元を抑えたが、「かはッ」という喘ぐような声をあげ咳込んだ。その掌の間からはどす黒い血がぽたぽたと滴り落ちる。
「今はまだその程度で済んでいるけれど、何度も浴びれば浴びるほどその傷は蓄積していく。退くなら今のうち、」
「退かないッ!!」
「ッ、」
意地でも退いてなるものか。
膝をついてなるものか。
その意志は最早マグマとすら言えるほど、滾っていた。先ほどまでは仄宮が怒っていたのに、その怒りを移されたように兄貴の瞳が瞋恚に染まっていく。
「その程度で怖気づくと思ってもらったら困る。僕はもう人間じゃない、多少の無理は利くし――――利かなくても、なんとかするッ!」
「気合か……」
流石に突っ込んでしまった。だがこの人は昔からそうだった――――力技というか脳筋というか、多少の無理をごり押しで解決してきた思い出が大いにある。それに何より、兄は“一度決めたら譲らない”。
俺が止められても止まらないように、彼もそうなのだ。ここは兄弟の数少ない共通点ともいえる。
つまるところ、頑固なのだ。頑固者同士、もうどうあっても半端な決着では終われない。
「わかった。退け、なんてもう言わない。止まらないよ。兄貴が死んでも」
「屍になったとしても、お前を止めるのは僕だよ。キオ」
口元をぐいと乱雑に拭った兄の顔は、遠く液晶の中の彼のように格好良く――――しかしそれとも異なって、怯えを振り払った男の姿だった。




