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帝國ロストヰデア  作者: 聖木霞
Ⅲ 鳴雷月編
55/76

Act.52

<Act.52 6/6(日) ??:??>


【茅野夏目】


 ここがどこなのか、私が誰なのか。一瞬、わからなかった。

 何かが私を包んでいる。液体のような被膜のような、息苦しさはなかったが、しかしまるで体など存在しないかのように四肢の感覚は奪われていた。それでも、この状況にあっても私の意識は半ば夢現であって――――遠く僅かに聞こえる漣のような音に、絶え間なく晒され続けていた。


 ――――揺蕩うような温さの中で、ユメを見た。

 それは私の過去だった。生まれてからここまで。覚えていないほどに幼い頃の出来事さえも、このぬるま湯のような場所では穏やかに流れだしあふれだした。

 柔らかな過去の記憶。まだ仲睦まじかった両親と、何も知らない無邪気な私の姿が見える。僅かに覚えのあるような光景がよぎって、私は少しだけ口元を綻ばせた。

 しかしそれもまたじきに終わる。私が中学生になった頃だった。

 私の母は元々質素な人だった。それが打って変わった華美な服装をして、荷物を持って家を出ていく――――何もできず、泣きかけの顔で後ろ姿を見ているしかできなかった私を見て、「この時縋っていたら」と夢想を巡らせる。

 縋っていたとて、それは無駄に終わっていたことだろう。既に母の――――『母だった人』の心は決まっていて、私と父に、それを変えるだけの力はもう残ってはいなかったから。

 そこからは早かった。私は間もなく父と二人になり、妻という存在を失ったあの人は、以来一日酒に浸るようになって当然のように職も失った。

 祖父母からの支援がなければとっくに二人で野垂れ死んでいたことだろう。それでも仕送りだけでは私の学費と生活費を賄うには厳しく、なんとかバイト代を足すことでやりくりしている状況だった。

 ありふれたドラマによくある「設定」、そんな家庭だった。だが世間的にはありふれていてもいざことが自分の身に降りかかれば笑ってはいられない。実際家計は厳しいし、かといって父に再就職や「せめてお酒だけでも」と進言しようものなら殴られて――――そして、我に返って青ざめて必死に謝ってくるのが面倒くさいと思う自分もいて。

 幸い、バイト先の店長である遥さんはとても良い人だし、学校も楽しい。しかしどうしても母のあの変わりように端を発する「女」というものに対する嫌悪と、「男」というものに対する不信がこびりついて離れなかった。

 父を捨て私を捨てた『母だった人』と、それでも私はどこまでいっても同性なのだ。生きる限り「女」という性からは逃れられないし、日を追うごとに女性らしさを増していく己の体を見ればその思いはますます強くなっていった。根本的な部分で、私を捨てたあの人と自分は同じだ、と。

 さりとて、男であればよかったなどとも思わなかった。以前は優しくもどちらかといえば厳しかった父が、たった一人を失っただけでここまで見る影もなくなってしまうものなのかという一種の失望が根を張り、それはやがて私と父の間に壁としてそびえるまでになった。


 ――――嗚呼、冷え凝り固まった心がぬるま湯の中でかたちを失っていく。既に軋み、たわみ、歪んだ心が、軋轢のやり場を見つけたかのように流れ出していく。


 そして高校生になった時、私は”彼女”に出会った。

 ほかでもない仄宮秋流、あの彼女に。

 入学式当日だった。狂ったように咲き乱れる桜が吹雪き、舞い上がって、束の間視界が遮られて――――開いた時に目の前を通ったその姿に、私は釘付けにさせられた。

 春のうららかな日差しの中で映える濡れ羽色の長い髪を翻し、一瞬たりとも足を止めることもなく校舎へと消えていく姿はほかの何より鮮烈で。しかしそれよりも何よりも印象的だったのは、真新しい制服に弾んだ気配も見せず、ただただ冷ややかに何かを見据える黒瞳だった。


 雷鳴のような瞳をしていた。常人には持ち得ない荘厳で以て相対する者の心の臓を撃ち抜き、眼光が閃いては異を唱える者を射殺すかのような。


 戦場に挑むかのような孤高の佇まいでありながら、そこに在るというだけで存在感を持ち否が応にも目を引く彼女の姿に、私は一目で心奪われてしまったのだ。

 女などと男などと、そんな些細なことは一息に飛び越えてしまうだけの、紫光のような力が仄宮秋流という人物には在った。

 きっと彼女の瞳の端にさえ私の存在はかかってはいないだろう。それでも構わない。クラスが異なっていても、朝礼など様々な折にその眼差しを見ることができるだけで、私は満足だった。

 ある意味で私は彼女を神聖視していたといっても過言ではない。雷鳴のような彼女。触れるもの全てを威圧し、寄るもの全てを切り裂く鋭利さを瞳に宿した彼女は、女だからと男に阿ることも媚びを売ることもなく、かといって男になるわけでもなく、ただただ自身の性別を彼岸に押しやったかのような立ち居振る舞いが、いっそのこと神々しいこの世ならざるナニカのようにも思えたのだ。

 そして二年生になった折、クラス替えで彼女と同じ組になった時のことは忘れない。


 奇跡かと思った。

 それと同時に、私は葛藤した。


 ただただ遠くから見ていられれば良かっただけの彼女に、話しかけるだけのチャンスがある――――あったとて、私などという存在が声をかけて良いものかと思ったのだ。

 しかし煩悶しているうちに、その機会は案外あっさりとやってきた。遥さんのお店でバイトに勤しんでいた時、なんの偶然か彼女が店にやってきたのだ。話を聞くに彼女はバイトを探しているらしく、その上遥さんと知り合いだという。

 たった数言、やりとりしただけだった。それだけで私の心は誰かに聞かれてしまいそうなほど高鳴ってしまっていて、本当にどうにかなってしまうかと思った。

 同級生であるわけで、ゆえに私が彼女の教導役を仰せつかるのは自然な流れだったのだが、しかしそのことにさえも私は感謝をやめることができなかった。そのことをきっかけとして彼女との会話も増え、今ではお昼に一緒にお弁当を食べるくらいだったし――――それこそ「ともだち」、といっても良いくらいだった。


 ……でもそれは、私の勝手な思い上がりかもしれなかった。


 彼女は孤高である。それなりに関わるようになって、彼女の「人間らしい」様々な面を目にするようになって、それでもなお私の中で「雷鳴のような彼女」というイメージは崩れることがなかった。

 彼女のことを不良、などと呼ぶ周りの人間たちはわかっていない。彼女の振る舞いはそんなちゃちな言葉で片付くような低俗なものではない。

 今まであまり積極的に他者と関係を持たなかった彼女がこの二ヵ月の間に何か変化したかといえば、お世辞にもそんな風には見えなかった。彼女は依然として変わらず雷のように鮮烈な瞳を持っていたし、この平凡な世界の中でたった一人だけ、別の場所に立っているように見えた。

 だからそんな彼女が、私のことを同じように「ともだち」だと思ってくれているかなど甚だ怪しい。むしろ鬱陶しがられていないかとさえ考えてしまっていた。

 降る雷のような彼女が、「ともだち」などというものを果たして求めるだろうか――――。


 心が薄い闇色の紗によって覆われていく。価値のない私など捨ててしまいたい――――そんな考えが過って、そしてそれを掬われるように、再び私の意識は水底へと落ちていった。

2017年の更新はこれでいったん終わりとなります。良いお年を。

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