Act.46
<Act.46 6/6(日) 10:17>
【二宮灰】
知覚が遠のく。感覚が揺れ動いて、自らが何処にいるのかさえ曖昧になる。
己を含めた世界が十重二十重にブレて、――――次いで『僕たちは超高濃度の魔力に飲まれたのだ』と現状を認識するまでに一秒。
そうして自然に振り返った先には、異形の“竜”が存在していた。
「な、……んだ、アレ?」
全身を打ち据える強圧的にも過ぎるプレッシャーが僕と扶桑くんの身体をコンクリートへと縫い留める。その竜――竜といって良いのかわからない異形のモノ――は、犬と鷲の首を生やし、胸の中央部、不気味な紫色に滑り輝く鱗の中に埋もれるようにあるのは人間の顔か。男のものか女のものかはわからない。しかしその瞳は正視に堪えぬほどに血色に濁り、造り自体の端正さがむしろ逆にその悍ましさを喚起させていた。
背の翼が柔くはためく――――否、校舎の二階にも届かんばかりの巨体にとってはそれこそまさに身動ぎした程度の動きで、気を抜けば吹き飛びかねないほどの突風を巻き起こした。敵対行動ですらない仕草の一つで、僕たちは呆気なく打ち砕かれるかもしれない――――そんな予感が背を舐め回し、しかし、されど。
『我を呼び出しし者は汝らか。不遜なりや』
その人面が青白い唇で紡ぎだした声は思いの外高く、口調と相まって威厳でこちらを屈服させんばかりの荘厳さを孕んでいた。脳裏に直接響くかのようなそれに顔を顰めれば、竜は涎を零す犬の首をずいとこちらに寄せ、僕たちの上から下までをじっくりと見据える。
さながら蛇に睨まれた蛙。恐怖という感覚さえ麻痺しつつある中で、僕と扶桑くんはちらりとお互いを見やる。
彼の瞳は、僕と同じように怯みを見せつつも――――それでもなお、不退転の意志が垣間見えた。
『されど、我が仕えるに値する資格――――“レメゲトン”を、汝らは持っていない。鍵すらなく我を従わせようなどとは笑止千万。さすれば、分不相応なる愚かな者どもは罰せられるが道理』
矮小なりや。そう続けた異形の言葉を、しかし僕らはそのまま受け入れることなど到底できはしなかった。
そもそも僕らは、何を望んでコイツを召喚したわけでもない。召喚したつもりもない。おそらくは防衛術式としてあらかじめ仕込まれていたものだったのだろう――――それに迂闊にも触れてしまったことには歯噛みするが、しかし今更悔いたところで目の前のこの異形が消えるわけでもない。
で、あるならばどうするか。粛々とその罰とやらを受け入れるか?
「――――黙ってやられる馬鹿がいるわけねーだろ、バーカ。なァ、お兄さん」
まさかブルっちまったなんてこたぁねーよなぁ、と挑発じみた声が横合いから上がる。視線をやれば、こちらに寄越していた眼光と交差してその口元がにやりと弧を描いた。
それに応える。右手を虚空に伸ばせば、揺蕩っていた魔力を追い払いながらその場に亀裂が入る。空間そのものをハサミで切り取ったかのようなその切れ目は、僕が手を入れると同時真円に開き、中の空虚を覗かせた。
その先は深淵。生者である者が触れるべきではなく、また同様に触れることのできない不可侵領域――――またの名を“彼の世”と呼ばれる虚の世界。本来ならばこの世においてその先を観ることなどあり得るはずもなく、ましてやそこに触れることなど凡人には不可能。
ただこの世において唯一、それを可能とする力と権限を持つ者たちがいる。
いうなれば黄泉平坂の守護者。現し世と彼の世が交わらぬように、二界を隔てる千引の岩が砕かれぬように――――伊弉諾と伊弉冉が別たれたその時から、未来永劫千々の年月を経てもそれらが交わることのないように。
黄泉の女神の「千の人を殺す」という呪いが、罷り間違ってもこの世を浸食せぬように。そのために僕らは、僕ら“死神”は存在する。それは龍凰院家の端くれで、同時に異端である僕でさえも例外はない。
ゆえにこそ僕は刃をとる。虚空に差し伸ばした手は深淵から確かな柄を掴み取り、ずるりと引き出せばそれは僕の身の丈ほどもある大鎌となって顕現する。
「――――勿論だ。喧嘩を売られてそれを受け入れられるほど、僕だって殊勝な性格はしていない」
傍らの彼は「応」と一つ応え、そして僕とは反対に左の手を虚空に差し伸べる。その掌の中に現れたのは漆黒の柄に錆びついた黒の刀身を持つ長剣――――どうやら覇気も武器も整い、万端らしい。
互いのスタイルについての情報など勿論持ってはいない。しかし生半可な実力者ではないということはこの場に及んでなお怯えを殺しきれるその態度が示していたし、それよりなにより、『守るべきものがある人間は強い』ということを身をもって知っていたから、不安らしい不安は抱かなかった。それに連携くらいなら土壇場ででもいくらでもとってみせる。
『平伏せよ人間、今ならばその無礼を斬首のみで許そうぞ。不埒なりや』
そう告げた瞬間、異形の足元から濃い、色を持つほどに濃密な魔力が沸き上がり、やがてそれらは複数のある形を描き出した。その形は、――――死体。血色を喪い、腐敗を惜しげもなく見せびらかす肉の塊。なまじ人の形を留めているために醜悪さはひとしおで、しかし僕が顔を歪めた理由はそれだけではなかった。
あれはつまり、死した魂の具現である。死体はあくまで見かけ、腐敗した肉など本来そこには存在しない。だがよりによってこの異形は、ゲテモノは『本来なら輪廻に還るべき魂を無理矢理に引きずり出し、魔力によって半端な形をとらせた挙句手駒として使役しようとしている』。
紛うことなき死者への冒涜。同時に生者の弔いという行為に対する汚濁。安らかに眠るべき魂を無理矢理に叩き起こし、だけでなく彼らの魂がかつて在った場所さえも穢すこれ以上のない涜聖。
「ぉ――――ぁ――――ァ」
聞こえる。魂の泣き声が聞こえる。今すぐにでも解放してほしいという叫び声が聞こえる。鼻腔を貫く腐臭が、耳に届く呻き声が、溶けかけた眼球が、全身で僕に訴えかける。『たすけてほしい』、と。
『我は地獄の番竜、三十の軍団を率いしは悪魔の大公爵・第26柱ブネである』
怨、と魔力が渦巻く。決して在ってはならない彼の世の汚濁した空気が、徐々にこの世界を侵蝕していく。
悪魔、第26柱――――ブネ。すぐ思い当るのは彼のソロモン王が使役したという72柱の悪魔群のうちの一柱、それならばこの圧力も頷けると納得する一方で、だがそんなものを何故あのカード一枚で召喚せしめたのか理解するには時間も手掛かりも足りず、――――それでもなお、今は純粋に挑発に対する感情の方が勝った。
挑発、否、宣告なのだろう。本当に悪魔であるというのならば――――僕たち死神が境を守るその先の“触れざるべき深淵の存在”であるというならば、それもまた分かる。
だがそれをハイそうですかと頷いて許容できることはできなかった。事態はもう「この高校を守る」というだけではなく、この存在の出現によってより大きな状況へと悪化している。
即ち生と死の境界が揺らぎかねない現象。この存在が生存し続けることをこれ以上の一分一秒でも許してしまえば、その更に一秒先には世界の理が崩れてしまいかねない。絶対なるその理が乱れることだけは、何としても防がねばならない事態だった。
「僕は、僕のこの死神という責務に賭けて誓おう。おまえを今、ここで撃滅すると」
なんのために? 世界のために――――そして、愛する弟のために。
だから僕は今も――――昔も、等しくこの大鎌を手に取ったのだ。
同時に地を蹴る。僕は宙へ、彼は足下へ。悠々と僕らを睥睨するその犬の首からまず斬り落としてしまおうと空を裂いて大鎌を振るう。
「ァ」
不意に上向き、僕に向かって縋るように亡者が手を伸ばす。その先に澱んだ魔力が集まり、それはさながら銃弾のように滞空中で回避行動の取れない僕を貫――――
「させるかよッ!」
――――くことは、なかった。
「お兄さん、地上のアレは俺に任せてください! ――――ヴラドの杭ッ!」
僕に向けられた腕を容赦なく切り落とした扶桑くんは、亡者たちに向かって怯む様子もまるでなく突撃していく。剣を持たぬ手が小さく振られ、動く度にどんな原理か地面からは杭が生え死者たちを貫いていくが、しかし一体が霧散すると同時に他方でまた一つ魂が無理矢理に呼び出されるのが見えた。
加速度的に魂が“消費”されていく光景に顔を歪めるが、しかし扶桑くんのいっそ清々しささえ感じるほどに躊躇いのないあの手捌きがなければ、僕が集中してこの悪魔に挑むことができないのは明白だった。正体不明の相手など手慣れていると言わんばかりに斬り、貫き、さりとて深追いすることはなく的確に僕に対する妨害を阻止していく手腕は、彼が「誰かと共に戦う」ことに存分に適応していることを感じさせた。
そして何より、イレギュラーかつ論外な現界方法のせいで苦しむ亡者にとってはこの世に留まり続けることこそが苦痛である。その気持ちを鑑みれば、下手に心情を差し挟んでその苦しみを長引かせるよりも、ただただ機械的にその魂を還していく彼はこれ以上なく適任で、まさしく『処刑人』の名に相応しかった。
「頼むッ!」
一言頷く。僕は僕でこの大物を相手取らなければならないのだ、余所見している暇はない。
「九泉、」
大鎌の名を呼ばう。それは八つに重ねられた地獄の意。彼の世において悪人に罪科に処すそれらの力を束ねるこの大鎌は、死神の手によってのみ扱うことのできるいわば縮小された地獄の門である。そして僕は『世界の理を乱すことなく』開門を可能とする権利者であり、同時に『世界の理が乱れる』開門を厭う門番だ。
何度も言う。何度でも言う。この悪魔は存在そのものが禁忌だ。彼の世と此の世を隔てる千引の岩を砕きかねないそれは、一分一秒たりともその現界を許してはならず、また正統な門番である僕手ずから抹消しなければならない存在だった。
「地獄の苦しみを味わうがいいッ!」
異形の真上へと到達した体が、徐々に落下の軌道を辿るが、犬首がぱっくりと口を開き僕が自ら喰われに行くのを待っているほか、鷲首もこちらを「脆弱な人間」と侮っているからか手出しはしてこない。
それが甘いと、言うのだ。
「五重・劉之杜地獄ッ!!」
奈落の如き大口へ向け、思い切り大鎌を振り切る。その残像から飛び散るのは氷の破片で、一つ一つが極小のそれらは瞬く間に寄り合い容を成して顕現するは氷龍。
ひたりひたりと忍び寄るが如き“死”の冷やかさが、地獄の門を通り意志を得ることで触れるもの全ての温度を奪う猛吹雪へと転ずる。そしてそれは僕を待ち受けていた犬の口の中へと飲み込まれていき――――。
夏休みのロストヰデア強化月間、もとい毎週更新期間はこれにて終わりです。次の更新は10/4予定になります。




