Act.41
<Act.41 6/6(日) 9:00>
【????】
ちゃぷ、とプール一杯に満たされた水が、校庭に響く歓声を乗せた風に揺れて小さくさざめく。明石高校校舎五階、来るべき猛夏に向けて綺麗に掃除がなされたプールサイドに、あまりにも場違いな着物を纏って彼女は佇んでいた。
なんということはない。この学校の生徒でもなく、ましてやその地下組織である明石機関の一員でもない彼女がここにいるのは、体育祭という一種の非日常に乗じてある計画を実行に移すためだ。
教員と見学者用にと設えられた大きめのパラソルの下から出れば、彼女は六月初めにしては厳しい日光に晒された。しかしそれでも汗一つ掻く様子もなく、また暑そうな素振りすら見せないのは、今これから自らが行おうとしていることに対する恐怖ゆえか――――あるいは、それを押し殺してなお目的のために実行せんとする緊張のためか。
ちらり、とその黒星が背後の簡易的なベンチを捉える。正確にはその上に横たえられ、意識を喪ったままの少女のことを。
少女の名前は茅野夏目。この高校に通う、少しばかり家庭に事情を持つものの、それでも己や彼女の友人に比べれば十分に一般人と呼べる、ただの無力な少女である。
少女はこれから“依代”となる。彼女が一応の籍を置き、そしてまたその集団から持ち出してきた魔力の凝縮体――――仮称「偽“聖杯”」を宿し、行使するための依代に。
彼女の目的の果てに、少女の人格が残る余地は存在しない。一点に圧縮された膨大な魔力の塊は、たった一人の普通の人間の魂など軽く凌駕し押し潰してしまうほどの質量を持つ。それを彼女は葛藤した上で、苦悩した上で、承知し、容認した。
無辜の人間を犠牲にしてでも成し得たい願いを持つ彼女は、もう止まるための術を持たなかった。
彼女はまずしゃがみこみ、プールの縁に手をついた。そして静かに瞑目し、あらかじめ仕込んでおいた術式へと呼びかける。
「起動――――仮想神域」
その瞬間、ついた掌から青白い線が浮き上がり、そしてプールサイドまでもを含めたこの領域全てへと放射状に広がり――――何事もなかったかのように消え失せた。
傍目には何も変化はない。しかし敏い者であれば気付いただろう。今までは誰のものでもなく誰の支配下にもなかった空間が、たった一瞬にして何者かの制御下へと置かれたことが。
その何者かというのは言うまでもなく彼女以外にはありえない。変哲もない普通の高校のプールは、この時より儀式を司る祭儀場へと変貌する。初夏の日差しはグラウンドに注ぐものとは異なって僅かな屈折すらして見え、燃えるような熱さの中にどこか冷やかな眼差しすら纏うようだった。
祭司は艶やかな着物を纏う彼の麗人。捧げられるのは罪なき少女の全て。信仰されるべき神は――――されど、この場においては道具以上の意味を持つことを許されない単なる魔力の塊。
祭司は結界がきちんと作動していることを確認し頷いてから、ゆっくりと立ち上がって後ろを振り向いた。
供物として捧げられるべき少女のことを。
少女の胸は小さく上下し、傍目からは単に眠っているようにしか見えないし、事実それに近い状況にある。だがその眠りは今後一切覚めることはない。
彼女は細腕にも関わらずその少女の体を壊れ物を扱うようにゆっくりと持ち上げ、プールに満杯に満たされている水へと浸けた。意識のないその体は沈むかと思いきや物理法則に逆らって浮き上がったまま、ひとりでに水面を滑り始める。
短く切られた黒髪が小さく波打つ水面に洗われ流されるが、それだけだ。少女の身体は沈むこともあらぬ方向に向かうこともなく、ちょうどプールの中心にさしかかったところで停止した。
そして、彼女は大きく腕を広げ、
ぱんっ
一つ、柏手を打った。
――――途端、プールの水が粘性を帯びる。今まで湛えていた何物をも包み込むかのような透き通る青を脱ぎ去り、それは胸に抱くもの以外を拒むような深遠の蒼へと色を変えたのだ。
満ち満ちるのは塩素ではなく魔力。さながら羊水のようにそれは少女を飲み込み、自身の奥底へと沈め込んだ。既にそれは青く飛沫く水滴の集合ではなく、溢れんばかりの偽“聖杯”の魔力を少女へと封じ込めるための媒体となり果てた。ゆえに少女に溺死という結末は訪れるべくもなく、しかし末路を考えればそちらのほうがどれほど良かったか――――と思考の端で考え、不要な考えだと彼女は頭を振り、それを断ち切る。
少女を犠牲にしようとしている己が、その幸せをちらとも考えるのはあまりにも失礼というものだし、そしてなにより極めて滑稽だった。
ここまでは、順調だ。あとは共犯者である相棒が、うまいこと「あの人」を誘導してくれれば良いだけ。少女と仲の良い「あの人」ならばきっと興味と関心を持ち、動いてくれることだろう。
ひねくれているように見えて、そして実際ひねくれているところもあるものの、その根底の部分はただ素直になれない少女であるのが透けて見える隣人。
自分の店に常連としてやってきては学生らしからぬ金遣いでもって贔屓にしてくれる良き客人。
その笑顔はきっと素敵だろうと思わせてくれる造形と心根を持つ彼の少女――――されど、その身はどこまでいっても“聖杯”所持者。
きっと別の出会い方をしていればもっと良い終わり方もできたことだろう。しかし自分は魔術師で、そして彼女は世界に二つとない絶対なる願望機・“聖杯”のもう一人の持ち主だ。
そうである限り、この結末は変わらない。彼女が彼女で、隣人が隣人である限り、きっと何周したところで同じ結末に至る。
理解できていても、彼女は嘆かずにはいられなかった。我が身の不幸と、彼の身の不幸と、もしかしたらあるかもしれない“運命”などという不可抗力の力とを。
体育祭が始まる。きっと終わる頃には――――彼女たちは新たな力を手にし、そして生死の境を超える。
決意は変わらず。プールの底を見つめる眼差しには、既に冷徹の光しか宿ってはいなかった。
**
<6/6(日) 9:30>
【二宮灰】
「ついに……」
ついに。
「来てしまった……!」
見上げるのは明石高校の立派な校舎。校門の前、目深に被った帽子の隙間から見えるそれは普段の僕ならば入ることの叶わない学び舎であるが、今日だけは、そう今日だけは別である。
校門の前で立ち止まる僕を邪魔そうに不思議そうに一瞥していく人々がさっさと通り過ぎていくのは、「明石高校体育祭」の文字が躍る看板の横。今日は、僕の大事な弟が通う高校に堂々と入ることのできる日だった。
高校生の弟に対して、僕は既に社会人だ。最初はモデルから始まり、最近になって歌や役者としてのお仕事もやらせてもらえるようになったのは非常に有難いことなのだが、しかしいかんせん忙しい。死ぬほど忙しい。ゆえに両親はおろか大事な弟との時間もとれず、だからこそこうして弟――――キオの晴れの日くらいはと思い足を運んだのだった。
「(普段は父兄参観なんかにも行けてないのだが……でも、今日だけは別だ。なんせこのためにお仕事頑張ってマネージャーから休みをもぎとってきたんだからな!)」
売れっ子となった僕に何が何でもいろんな仕事をさせたがるマネージャー対何が何でもこの日だけはと休みを求めて懇願する僕の戦いは、ふとした瞬間に思い出すと思わず怖気が走るほどに熾烈なものだった。マネージャーのその内心も、「モデルあがりだとナメてくる周りの先輩アイドルたちに二宮灰の力を見せつけるため」そしてなにより「僕自身に様々な経験を積ませるため」であるということは理解している。しかしそれでも僕のへたくそな取引と懇願に折れてくれたのは、たまの休みくらいは必要だと考えてくれたからかもしれない。
それはともかく閑話休題。僕のことなんてどうでも良いのだ。例え明日から鬼もかくやという過密スケジュールが組まれていようとも、既にグロッキーになることが確定していようとも、今日だけは休みなのだからそれで良いのだ。大事なことはキオが体育祭で活躍しているところを見ることであり、僕のことなんでどうでも良い。
彼には今日僕が来ることは伝えてはいない。両親も仕事であるし、彼は今日誰も見には来ないと思っているから、そこに僕が来ることでささやかなサプライズになるかもしれないとほくそ笑んでいた。
喜んでくれるだろうか。驚きながらも優しい弟のことだ、なんだかんだで拒むようなことはないと思う。
わくわくしながらようやく校門を踏み越えた、――――その時だった。
ずぷり
「――――……ッ!?」
まるで水の膜を通り抜けたかのような感覚が僕を襲った。そう、まさしく校門を境目としてこの学校の敷地を全て覆うように張られている“膜”に押し入り、受け入れられたかのような感覚。
気のせいではない。僕はさる事情から、表のアイドルとしての仕事とは別に裏の顔――――『死神』としての役目を持っている。
生と死の境目を守る番人。そこにどんな些細なブレも生じないように――――黄泉平坂の大岩が決して砕かれたりなどしないように、と生者側から秩序を守る防人。であるからには当然僕たち死神は魔力の変動には敏感で、今回も例によってそれを拾ってしまったというわけだった。
これは、『気のせいではない』。その証左として、まず『空気の感覚が違う』。
その感覚は、校門を超える前と超えた後とで全く異次元の場所にいるかのようにすら思える。わかりやすく砕くならば水の外と水の中。ただ魔力漂うはずの普通の場所とは異なって、この敷地内はまるで海の中にでもいるように絶えず魔力が循環し、巡り、流れている。しかもわかりにくいながらも非常に規則的に。
規則的な流れがあるということは、それを生み出している、作り出している――――法則を与えている何者かがいるということに他ならない。
ゆえに、ただごとではなかった。これを放っておいては、一体何人の人間に被害が及ぶかもわからない。特に今日は体育祭という生徒の倍に及ぶ数の保護者や家族が訪れる日だ。そしてそのほとんどは魔力の流れなどあろうがあるまいが気付くことなどない一般人――――抵抗することは、できない。
「……ッ」
歯噛みする。弟の姿を見たい気持ちはあるが、しかしこの異常事態を看過することはできない。弟の無事を確保するためにも、この状況をどうにかするほかには選択肢はなかった。
「僕は、……」
くっと顔を上げ、帽子を深く被り、そして僕は歩き出した。他でもない弟の日常を守るために。
しかしこの後、その弟が思わぬ形でこの事態に関わっていることを、僕は思い知らされることになる――――。




