Act.40
<Act.40 6/6(日) 8:20>
【仄宮秋流】
朝のホームルーム前である。大半の生徒は既に教室に揃っているが、担任の飛龍がまだ来ていないということもあり各々好き勝手に友達同士で話している、そんな緩い時間だった。年に一度の体育祭当日ということもあり、どことなく教室全体が浮足立っているように思える。
とはいえ目つきも悪ければ付き合いも悪い私に話しかけてくるような物好きなど茅野以外にはおらず、その茅野も何故かこの教室には不在だった。いつもなら私などより早く登校しているのだが、何かあったのだろうか。
まあそれもいずれ分かろうと適当に窓の外に目をやり呆けていようと思ったところで、思わぬ珍客が来た。
「あ、あの、仄宮さん」
「……?」
おずおずと声をかけてきたのはクラスメイトの女子だった。ふいと視線を寄越せば、一瞬だけそれに怯えたような仕草を見せたものの逃げ去ることはなく「えと」と口を開く。
「その、仄宮さんの出る競技……なんだけど。決める時にいなかったから、こっちで勝手に決めちゃってて……あっでも最低限しか入れてないから、その……走順とか全員参加の競技とか、一応確認しておいてもらえるかな、って」
差し出されたのは、数日前から黒板にマグネットで留めてあった紙だった。もちろん私はちらとも目を通してはいない。
そういえば、先月はやれ飛龍組だやれエスカラーチェ兄妹だと面倒くさいことを請け負っていたから学校も適当にサボっていたのだった。どうやらそのサボっていたところでいつの間にか競技の出場者を決めていたらしい。頷ける話だ。
「本当はもう少し早めに教えたかったんだけど、仄宮さんいなかったから……ご、ごめんね」
なるほど、まあそれはそれで仕方あるまい。不良に話しかける勇気をそう何度も起こしてはいられないのも理解はできるし、彼女は彼女でうちのクラスの体育祭委員としての仕事を立派に全うしようとしているのだから、それを私如きが積極的に挫きにいく理由もなかった。
ので。
「分かった、見とく。……悪いな」
頷き、受け取れば彼女は驚いたように目を見開き、次いで嬉しそうに「今日は頑張ろうね」と残して友達たちの輪の中に戻っていった。何がそんなに嬉しいのかは分からないが、まあ大方「あの不良が!」みたいな話で盛り上がっているのだろう。どうでも良いが。
さて、と自分の出場競技を確認する。彼女の言っていた通り私が出るのは学年全員のものといくつかの競技のみだった。借り物競争など面倒くさそうなもろもろには入れられていないようで一安心といったところである。
目を通し終わったところで、教室の前扉がガラッと開かれる。そこから出てくるのはいつもと違い動きやすい服装の飛龍伊織その人。うちの担任だった。
「おうホームルーム始めるぞー。座れ座れ~」
教室のあちこちで固まって話し込んでいた生徒たちが蜘蛛の子を散らすようにわらわらと席に戻っていく。ただそれでもクラスの中で二つだけ席が埋まらず、出席を確認していた飛龍が、
「茅野と八榛は……あー、委員会の方の仕事か。保健委員は大変そうだよなぁ毎年。先生が先生だから……ってのは、まぁいいか。今日の日程についてだが――――」
合点がいった。そういえば茅野は保健委員会の所属だった。体育祭とケガは切っても切れない関係であるがゆえに、体育祭中の対応は養護教諭一人が常駐している保健室ではなくグラウンドのすぐ傍にある弓道場を特別に借り受けて臨時の保健室とするのが慣例だった。開設にあたっては救急セットや熱中症患者用の布団など救護に必要なものを全て運び込む必要が当然あるのだが、その搬入は毎年当日の朝、つまりまさしく今のこの時間に行われているのだ。
例によって茅野、そしてうちのクラスのもう一人の保健委員である八榛もそちらに駆り出されているのだろう。大概の係はもう朝のこの時間には一通りの仕事を終わらせ教室に戻ってきているのだが、保健委員会だけは毎年「ガチ」で臨戦態勢を整えているらしく合流するのは開会式となる。しかしはて、うちの学校の養護教諭はそこまで厳しい人物だったろうか。
「――――連絡は以上だ。そろそろ移動だな、放送がかかったら始めるようにー。それじゃ、優勝目指して頑張れよ! 俺は涼しい職員席から応援してるからな!」
私が養護教諭の顔を思い出す前に、飛龍はホームルームを締めくくりそう捨て台詞を残して教室を去っていった。なんとなく腹が立ったので、次どこかですれ違ったら今日も今日とて相変わらずぴろぴろしているあの後ろ髪を引っ張っておこうと思う。
そしてやがて放送が響き、身の回りのものだけを持ってぞろぞろと太陽が燦燦と輝き始めているグラウンドに出、開会式。男女それぞれ出席番号順に二列で並ぶのだが――――
「(……茅野がいない?)」
おかしい。開会式は仕事が残っていようがいまいが全員出席が原則だ。事実八榛のほうは隣の列の少し後ろの方にいるのが見えるし、茅野が今日自体欠席、あるいは遅刻だというのなら、先ほど飛龍が「委員の仕事で抜けている」という認識を持ったことがそもそもからして矛盾となる。欠席あるいは遅刻ならば少なくともあの時間までに連絡があるのが普通で、そうであるなら飛龍は知っていて当然なのだ。
そんなことは些細だとでもいうように、開会式はつつがなく進んでいく。ざわざわと落ち着かない私の思考とは真反対に、何事もないかのように。しかしその、ささやかなれど放置しきってはいけないような私の中の「異常」を裏付けるかのように、
どくっ
「ッ、」
今度ははっきりと感じた。今朝校門で覚えた違和感は決して私の勘違いではなかったのだと思い知る。
いつにもまして強い魔力の気配。掻き回され撹拌される渦の中にいるような感覚。世界が遠のいて、私一人だけが取り残されたかのような錯覚。波打ち、脈打つように一際強く私を打ち据えたその感覚は、今この時この学校に何らかの異変が起こっているということを私に理解せしめるには十二分すぎるほどだった。
これは――――放置していては、いけない。正体をろくに掴めてもいないのに私にそう思わせるほどにこの魔力の集中の仕方は異常だったし、そして何より、そんな状況下でよりによって茅野の姿が見当たらないということが私の心を搔き乱していた。
拳を握り締める。何故茅野の不在がここまで私を駆り立てているのかはわからない。私にとって彼女はただの一介のクラスメイトであって、ただ少し周りより話す回数が多いだけの他人であるはずなのに、しかしそれでもなお放っておくことを拒否するのか理解できない。それが私を、なおのこと戸惑わせた。
照り付ける太陽が本番とばかりにじりじりと私の脳を焦がし、思考までも焼き付かせて役立たずにしていくように思えて、それを振り払うように小さく頭を振る。
うだうだと考えているよりは行動だ。とにかく彼女に一度、そう一度会えさえすればそれで良い。そして何事もないことを確認できれば、それで少なくとも杞憂の一つは消えるはずなのだ。例え徒労になろうとも、それでこの、まるで梅雨空のようなうんざりとした気持ち悪さを払拭できるのならば安いものである。
「――――正々堂々と戦い抜くことを誓います。選手代表、――――」
宣誓の言葉がマイクを通して僅かな反響を伴いながら響き渡る。残念ながら競技などよりもやらなければならないことができた。ホームルームで声をかけてきた彼女には悪いが、正々堂々と戦い抜くことを私に期待することは諦めてもらおう。
開会式が終わり、最初の競技へと会場が動き出す。座席においていた扇子を回収したのち、その流れの中に紛れ込むように私も動き始めた。まず真っ先に向かうのは言わずもがな弓道場である。
競技も始まっていないのに保健室にいくというのもなかなかおかしな話だ。事実人波の行く先からは外れた保健室に真っ直ぐに向かう私を通りすがる幾人かは不思議そうな目で見てくるが、正直そちらに構っている暇はない。
弓道場のドアノブに手をかけ、開こうとした瞬間。
「!」「わ」
私が開く前にそれは向こう側から開かれた。タイミングをずらされ思わずたたらを踏めば、目の前にいたのは八榛キオだった。
明石高校2年C組に籍を置くクラスメイトの一人で、茅野と同じ保健委員。表情の変化にこそ乏しいもののそこそこ整った顔立ちを持つ細身の青年である。休み時間友達とぎゃいぎゃい騒ぐタイプというよりは一人で静かに読書しているほうが似合いの風貌で、私の雑な観察の限りではその想像は概ねアタリといっても良かった。
「驚いた。どうしたの、まだ競技も始まってないのに。足でも捻った?」
「あー……別にケガではねェよ。……茅野はいるか?」
出会い頭の多少の驚いた顔はすぐにいつも通りの無表情へと戻ったものの、次いで発せられた「いない」という言葉に今度は私が渋面をすることになった。
予想はしていた。予想はしていたがしかし――――どうも、芳しくない。
「これから探しに行こうと思ってたんだ。それで、仄宮のところにも行くつもりだった」
「なんで私なんだ」
「普段、仲良いだろ。だから仄宮なら茅野がどこに行ったか知ってると思ったんだけど……その様子だと、クラスの方にもいないみたいだね」
「……ああ」
嫌な予感ほど当たるものだということを痛感せずにはいられなかった。クラスにもいない、弓道場にもいない――――いるべき場所にいない。となれば一体、彼女はどこへ。
暫しの沈黙が私たちを覆う。私たちなどお構いなしにざわざわと浮足立つ雑踏との間に見えない壁を感じて唇を噛めば、八榛は「仄宮」と顔を上げた。少し上のところにある静かな双眸が私を見下ろす。
「俺は、やっぱり探しに行く。仄宮はどうする?」
黙る。ここで八榛だけに任せ、私自身は素知らぬ顔をしてのうのうと元の席に戻るか。
そんなこと、考えるまでもなくこちらから願い下げだった。
「私も行く」、と一つ頷けば、八榛は頷き返し一度身を翻して弓道場の中に顔を突っ込み、
「扶桑先生、俺、茅野を探してきます」
「おーう」
「扶桑先生」という言葉と、中から返ってきた間延びした応答にぎくりとした。
そういえばアイツ、うちの『黒衣の天使(笑)』だった……ッ!
思わず顔を覆う。確かにアイツならば、そうアイツならば飛龍に「先生が先生だから」と言わしめるのも満場一致の納得だった。
「……大丈夫か?」
「……、いや、なんでもねェ……それより行こうぜ」
「うん」
へたりこみそうになるのを必死に我慢し、頭を振って悪夢のような事実から目を背ける。今はそんなことにダメージを受けている場合ではなかった。
八榛と二人、雑踏の中を逆らうように歩き出して――――そして、六月が動き出す。
私の不安とは裏腹に、空はどこまでも底抜けの蒼さを纏っていた。




