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帝國ロストヰデア  作者: 聖木霞
Ⅱ 狭雲月編
41/76

Act.XX

<Act.XX 5/29(日)>


【七木遥】


●5:00


 ――――自然と目が覚めた。障子越しの柔らかな光が瞼の上に降り、夜明けの訪れと共に一日が始まったことを感じる。

 むくりと体を起き上がらせ、座ったままで小さく伸びをする。既に経てきた年が年だからかあまり寝起きが悪いということもなく、目覚ましなどなくともいつもこの時間に起きてしまうのだった。共に生活しているエスカラーチェ兄妹が起きるにはまだまだ時間がある。彼らはちょうど成長期だ、年寄りの起床時間に付き合わせるのは流石に忍びない。

 世間様は休日だが、私は生憎休みではない。世間様が休みの土日にこそ飲食店は稼ぎ時だ。まあとはいえ、大手チェーン店でもなし、個人経営なのでそこまで厳密に開けているわけではないのだが。

 ともあれ。もう六月である。梅雨前線の足音が微かに聞こえても良い頃だが、障子を開ければ暗雲の一つもない透き通った黎明の空が広がっていた。雨音はしばらく聞くことはできないらしい。私は雨も晴れもそれぞれ趣があって好きなのだが、まあ若者たちにとって梅雨時などというのは非常に煩わしいことこの上ないのだろう。

 などと色々思い巡らせつつ、寝乱れていた襦袢から普段の着物へと着替える。時代が移り変わるに従い、私もずっと和装のままでいるというわけにもいかなかったから洋装も持ってはいる。動きやすく、なんならこの間飛龍くんとの取引に向かった時も身にまとってはいたが、やはり妖怪の性というべきか着ていて一番「落ち着く」のは着物のほうなのだった。

 まあ着物とはいっても適当に散歩にいくだけだ、浴衣で十分だろう。その上に羽織を纏い、まだ夢の中であろうエスカラーチェ兄妹を起こさないよう私は静かにマンションを出た。

 まだ本格的に起き始める前の静かな新宿の街は、ネオンもとっくに落とされてどこか廃墟のような空気が漂う。からんからんという軽やかな下駄の音に反応して光を瞬かせるのは、せいぜいが二十四時間営業のコンビニくらいなもの。妓楼の遊女たちが客と共に目覚めるのももう少しあとのことだろうから、この時間は歓楽と遊興の街新宿で鳥の声だけを聞こえる唯一の時間帯といってもよかった。

 この散歩はほぼ毎日――――それこそこの街に居着いた頃からずっとしてきた日課だった。晴れの日も雨の日も、よほど天候が荒れない限りは毎日、ずっと。

 ほぼ一帯が不夜城である新宿の、唯一静かな時間になんとなく歩くだけでも、いろいろと見えてくるものがある。街の変遷。建物の移り変わり。そこに暮らす人々の顔もなんとなく見えてくる。人に混じって暮らす、どうぞくの気配も。最早何年経ったかすらもわからないほど永い間を生きて、激情といえるほどの感情はその中に置いてきてしまった。長い道のりを歩いてくたびれた老人の目には、この街で暮らす数多の人々の――それが良きにつけ悪しきにつけ――色とりどりの感情はとても鮮やかに見えて。

 だからだろう。若い頃はあれこれと周りの人間の世話などしてはこなかった。今になって様々な子たちの面倒を見たがるようになったのは、きっとそんな鮮やかさをもっと間近で見、できることなら守ってあげたい、と思うからだ。

「……私も、丸くなったよぬぇ」

 ふと苦笑がこぼれる。本格的に白み始めてきた空の中で、最早霞の向こうと違えるくらいに遠くなってしまった過去をわずかに思う。

 若い頃は――――それこそ二百を少し超えてきた頃なんかは、もう少し血気盛んだったような気がする。ちょうど秋流ちゃんくらい。というのは言い過ぎだろう、まあ秋流ちゃんほどではないにしろ、そこそこに短気でそこそこに無鉄砲で、そしてそこそこに未熟だった。

 いろんなものを守って。いろんなものと戦って。いろんなものを喪って。そして、いろんな傷を負った。

 だからあまりこの体は見せられない。それこそ極道者もかくやと言わんばかりの傷跡に溢れていて、到底見せられたものではないから。

 武士の世ならば「誉」と映ったかもしれない。しかし黒船がこの国の戸を開け、めまぐるしい改革が成され、世は変わった。私のような老骨は既に時代遅れで、ゆえに私の中の激情はきっと、遥か昔に置き忘れたまま。

「……さてと。そろそろ良い頃合いだぬぇ、帰らないと」

 踵を返す。さりとて今のこの時代は決して悪くない。今の私には私の生活があり、同様にするべきこともしたいこともあるものだ。

 本格的に昇り始めた太陽、その向こうの過去を閉じるように。下駄をからんからんと鳴らして、私は来た道を引き返していった。


●12:00


「じゃあ、気を付けて行っておいで。くれぐれも刃傷沙汰には巻き込まれないようにするんだよ」

「はあい! いってくるね、はるかさん!」

「いってきます、遥さん」

 散歩を終えて帰宅し、朝食を済ませ、兄妹に洗濯と掃除をさせている間に店の方の開店準備をし、少々早い昼食を十一時頃に摂り、そして昼。

 ウィアくんとトリファちゃんにお金を渡し、食品や日用品といったものの買い出しを任せ、マンションの前で彼らを見送った私はそのまま自分の店へと戻る。彼らのことがあるから私は一度家に戻ってきたが、お店のほうは従業員の凛太くんが見てくれている。もうそろそろバイトの夏目ちゃんや秋流ちゃんも来ている頃だろう、憂雲亭はようやく開店だ。

 彼らを引き取って数日は、お店のほうを見ている間ほったらかしにしておくのもまずかろうと店を閉じていた。しかし彼らはまだ幼いからか吸収が早く、地域こそ違えどもともと日本育ちで日本語も堪能だったから、すぐに様々なことができるようになった。基本的な炊事洗濯に掃除。新宿の地理を覚えてからは今のように買い出しにも行けるようになって、憂雲亭のほうも積極的に手伝ってくれている。

 現代で生きることに必要なことの大半は教えただろう。彼らが私の元を巣立った後も裏社会で生きていくことを選んだとして、その場合はこのままだとかなり不安があるが……まあ、そのあたりは今後教えていけば良いだろう。というよりはむしろ、今は彼らの世界を広げるような手段を与えるべきだ。

 そのためには、やはりどうしても小学校、ないしは中学校に行かせないことにはどうにもならないだろう。彼らは、特にウィアくんは年に比べて幼すぎる。幼さは一概に悪いとは言えないが、無知は良くないことの方が圧倒的に多い。つながりを作り、世界を広げるという意味において学校というのは最適だろう。ちょうど秋流ちゃんという実例があるところからもそれは窺える。

 ガラガラ、と戸を引いて店の中に入る。するとフロアでは既に秋流ちゃんと夏目ちゃんが掃除をしていてくれていた。

「遅ェぞ遥、オーナーだろテメェ……って、今日はあのチビ共はいねェのかよ」

「買い物にいかせてるからぬぇ。気にしてくれてありがとう、秋流ちゃん」

「……べつに」

 彼女はふい、と顔を逸らしてさっさと箒をしまいに行ってしまった。流れる黒髪と支給した制服の裾が翻るが、その姿も随分と様になったものだと思う。

「おかえりなさい、店長。そろそろ開店でいいですか?」

「うん、いいよ。私と凛太くんで厨房は回すから、フロアは夏目ちゃんと秋流ちゃん、お願いぬぇ。いつも通り」

「はーい」「ハイハイ」

 夏目ちゃんの真面目な声と秋流ちゃんの面倒くさそうな(しかしなんだかんだ仕事については律儀な)声を背に、私は厨房へと入る。そこでは既に凛太くんが指示した通りの仕込みをしていてくれていた。「凛太くん」と声をかけると、金髪を揺らして人懐っこそうな狐目がこちらを捉えた。

「ああ、おかえりんさい店長。仕込みは終わったさかい、こっちも頑張りまひょかね」

「そうだぬぇ。今日もよろしく頼むよ」

 微笑めば、青年もにっと笑って仕事へと取り掛かった。ちょうどフロアの方から響いてきた、「いらっしゃいませ」という二人の声を聞きながら。


●25:00


 ――――ウィアくんもトリファちゃんもとっくに就寝し、私も情報屋としての仕事を一通り終えて、そろそろ寝ようかという時間である。自室にて、私は窓を開け放って空に輝く月を眺めていた。

 今日も今日とて三人の優秀な従業員とバイトたちのおかげでつつがなくお店の方は終えられた。常連さんである鈴谷くん・熊野ちゃんの二人や、どうやら主に秋流ちゃんを冷やかしにきたらしいハルトくんなど今日はそこそこに顔見知りの来店が多かったのが出来事と言えば出来事か。途中で買い出しを終えたウィアくん・トリファちゃんの二人も手伝いに入ってくれたから、後半は業務としては手すきの時間も案外多かったから上々だろう。

 秋流ちゃんもハルトくんも、この間といいなんだかんだとうまくやっているようで私は少し胸を撫で下ろしていた。あの人慣れしていない猫のような秋流ちゃんと、あからさまに貴族然としたハルトくんという取り合わせはお世辞にも相性が良いようには見えない。ただそれも実際彼らと関わってみれば表面上だった。

 秋流ちゃんは言動こそひねくれたスタンスをとってはいるものの、下地の善性がなんとなく滲み出ているのは隠しようがない。どれだけ斜に構えていようと、どれだけ無関心な方を装っていようと、自分の知る人物の不遇に対しては見て見ぬふりができない――――そんな、損も多いけれど絶対に彼女自身を裏切らない性質を持っている。本人に言っても「とうとうボケたか?」とでも言われそうだし、そもそも言う必要もないことなので口は噤んでおくが――――私の見る限り、あの子は根っこのところでは結局『良い子』だった。

 そしてハルトくん。彼は彼で、一見高慢ちきでプライドばかり高い鼻につく貴族と言った佇まいだが、その実世話焼きなのは秋流ちゃんとの会話を聞いていれば嫌でもわかる。彼らの生活を詳しく知るわけではないが、秋流ちゃんのことを慮り、つぶさに観察し、そのスタンスから敵を作りがちな彼女のサポートを上手いことこなしているということは容易に知れた。秋流ちゃんは彼に任せれば大丈夫だろう。それに口では色々言ってはいるが、彼は根本的なところで紳士だ。私が刀を抜かざるを得ない状況には早々なるまい。

 あの二人は若い。ゆえに危ういところもある。見ているとついつい手を出してしまいそうになるが、しかし当分のところは必要あるまい。ちょっかいを出しつつ見守るのが良いだろう。当然、求められれば手を伸ばす準備はできている。

 まだ青い冷たさを孕んだ夜風が部屋の中に流れ込む。高層階であるから吹き付ける風はそれなりに強く、流すままにしている朽葉色の髪がぶわりと煽られて背中に広がった。

 気づけば髪もこんなに伸びてしまっていた。前切ったのはいつだっただろうか、それももう覚えてはいない。私たち鵺は永きを生きるがために成長・変化というものが非常に遅く、必然的に髪が伸びるのも遅い。そろそろ切らないととは思いつつ、日々の忙しさに紛れて忘れてしまっていたような気がする。

「(……ま、気が向いた時でいいや。夏は暑いけど、それでもなんとかならないわけでもないしぬぇ。それよりはウィアくんとトリファちゃんの学校のことのほうが大事だ)」

 手続きと話し合いはもうほとんど終わっているから、あとは必要なものを買ったりするだけだ。制服やランドセル、教科書などなど。独り身ではあるが稼業が稼業だ、私一人では使い切れないだけの貯金はある。……まあ、その貯金も途中で価値が変わったりしているからアレなのだが。

 彼らがこれからの未来をつつがなく生きていけるように。遠い先に――――私にとってはさほど遠くはない先に、例え絶対的な『わかれ』が待っていようとも。

 どれだけ深く入れ込もうと、決して同じ時を刻めることはないとわかっていても。


「それが、私の生き方だからぬぇ」

 選んでしまったものは、今更変えられやしないさ。


 数多と背負ってきた悲しみも、いずれ抱えることになるだろう寂しさも、幸せな今は。

「……流石にそろそろ冷えてきたかぬぇ。さて、寝るとしよう」

 静かに窓を閉め、障子を引く。電気を既に落としていた部屋は月光が遮られたことで影に覆われ、そしてその中で私も目を閉じる。

 変わらない明日が来ることを信じながら。




 ――――憂雲亭の一日 改め、七木遥の恙無き一日 終幕

五月編番外編、というよりはスピンオフですね。遥さんの一日と、少しだけ過去のお話でした。

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