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帝國ロストヰデア  作者: 聖木霞
Ⅱ 狭雲月編
31/76

Act.29

<Act.29 5/7(土) 14:35 満月>


【仄宮秋流】



「飛龍組の他の人間は知りませんけどぉ――――飛龍伊織が頭である限り、それはありえません」


 相も変わらないふわふわとした口調にそぐわない断言。それに眉を顰めれば、水蓮は「くふふ」と金の瞳を僅かに覗かせて笑みを深めた。

 「飛龍伊織であるならば、約定に対する裏切りはありえない」。茨衆という「歌舞伎町に対するあらゆる害を弾く」ことを役目とする彼女たちは、よほどのことがなければ“絶対の信頼”などという嘘くさいものを置きはしないのが常だ。請負人を始めてこのかた、長いこと彼女たちの依頼を請け負ってきている私でさえそこまでの信用などされているか怪しいというのに、ましてや裏切りの代価があまりにも大きすぎるヤクザなど、と――――思うのも、道理だろう。

 仮に私が裏切ったところで、彼女たちにとっては大した脅威にはなり得ない。便利な道具が一つなくなる程度で済む。しかし飛龍組の乱逆は、商売に悪影響どころではなくそれこそ町を挙げての抗争に発展しかねなかった。

 ゆえにこその懸念。それに彼女の言い方では、「飛龍組の組織体制や性質」に対する信頼というよりは、「飛龍伊織という一個人」に対する信頼のようにとれる。それはそれで、きっと危うい。ヤクザの頭などという役職が手綱をとらなければならない相手とは、高校のいち教師がとりまとめる子供ほど容易い相手でもないはずだった。

 それらの危惧など、既に通り過ぎたと言わんばかりの表情だった。水蓮が浮かべていたその笑顔は。

「……そう断じるに足る根拠は?」

 ベルンハルトが問う。

「彼は、ぼくが見てきた中で一番筋の通った極道ですぅ。仁義を守り、約束を守り、堅気と極道の境目を守る。されたことに対しては苛烈なまでの制裁を加えますが――――交わされた契約に対しては、どこまでも実直にそれを守る。飛龍伊織は、そういう人間ですぅ」

 それはきっと、貴女もよくご存じのはずでしょう?

 薄らと開かれた瞳が、まるで猛禽類のように瞬いて暗に問いかけてくるようだった。ああ、確かによく知っているとも。彼のその実直さと誠実さがなければ、学生としての私は今ここには絶対に存在などしていないのだから。しかし私が今までに見てきたその彼の美点だけでは、極道などというアンダーグラウンドを渡り歩けるほどのしたたかさにはつながらないような気がして――――どうにも、納得はしきれなかった。

「言ったでしょう? されたことに対しての制裁はきちんと行う、と。あの協定にしたって、もちろんつつがなく、とはいきませんでしたよぉ。あっちは極道、こっちはこっちであんまり……まあ、少しは? まともじゃないところもある集団ですからぁ、いざこざの一つや二つや三つや四つはありましたぁ」

 どうやらコイツらにも小指の先ほどはまともでない自覚はあったらしい。実際はそれどころでなく極道とどっこいなレベルでぶっとんだ部分のある連中だが、まあそのツッコミは本筋ではない。口には出さず置いておくとして、彼女の言葉を待つ。

「そのどれもこれも、飛龍伊織自らが出向いて、ぼくらの目の前で制裁を加えましたよぉ。流石に真昼間から口外していい内容ではないのでぇ、どんな『落とし前』だったかはまぁ、割愛しますけどぉ……その時彼はこう言ったんですぅ」


『下の粗相は上の責任だ。暴対法なんぞなくたって、上が下の始末つけるのは当然だろうよ。下が誰だろうって、それは同じだ』


 って、やらかした下っ端の顔を踏みながら。と添えられた言葉に眉を顰めながらも、少なくともそれが「言葉と行動の伴った実直さ」の証左であることは理解できた。

 それもきっと、いつも通りの真っ直ぐな瞳、中にいつもとは違う異質の光を宿したあの黒瞳のままで。悪さをした生徒を叱るのと同じように――――迂闊なことをした組員に対して、見せしめの意味も込めた制裁を下したことだろう。その様がありありと思い浮かべられて、しかし私の想像はあくまで「いつも教壇の上で見る飛龍伊織」の姿のままで。


 未だにそれでも、飲み込むことができなかった。

 「飛龍組組長」としての飛龍伊織の姿を、間近に聞いて、そして何よりも自分の目で見てしまった今でも。


 アンダーグラウンドの代表といえる水蓮の口から、私の中のささやかな「日常」を象徴する存在についてが話される。その腑に落ちない違和感が喉元につっかえ、どうにも不快な感覚が拭えず――――しかしそれも素知らぬ顔で、水蓮は続ける。

「それに彼は、物欲と性欲に塗れたそこらの御山の大将のように、分不相応な権力を求めようとはしませんよぉ。手に負えないものには手を伸ばさない、それを判断できるだけの思慮分別がなければ極道の頭なんて務まらないでしょうしぃ――――何より、ぼくらもそもそも好んで関わりを持とうなどとは、思いません」

 どちらも危ない橋を渡る――――どころか、危ないことが恒常化している場所で生きる人間たちですからぁ。

 そう付け足し、彼女は朗らかに笑った。

「そんなわけでぇ。ぼくら茨衆の飛龍伊織に対する評価は、『信頼のおける信頼相手・筋の通った極道・できる限り敵に回したくはない類の人種』って感じですねぇ。ああいう切れ者は、相手するだけでかなりしんどいですからぁ。こんなものでご満足頂けましたかぁ? 秋流ぅ」

 一瞬の間。思考を巡らし、欲しい情報は得られたと判断する。しかしここまで聞いていて、不思議なことが一つあった。

「なんでお前は素直にこれを話した。お前にとっては、私も飛龍も顧客の一人であることには変わりねェだろ。そんなにほいほい情報バラして、テメェの首は大丈夫なのかよ?」

「おや、心配してくれるんですかぁ? お気遣いなく、漏らしてはいけない情報と伝えてもいい情報の精査くらいは、頭の中でできますしぃ。無理に慣れないことをしなくてもいいんですよぅ……それに」

 にま、と瞳が弧を描く。


「貴女は余計なビジネスのお話なんて、知ってて便利、どころか煩わしいと思う方でしょう?」

 長い付き合いですからぁ、と。その奥の金月が、見透かしたように笑った。


 ああ、その通りだ。長い付き合い、ゆえにこそ彼女も、私が必要以上の情報を「何かに利用できるかもしれない鍵」ではなく、「面倒事に巻き込まれかねない厄介」としか認識していないことも十二分に理解しているようだった。しかしそこまでにんまりと微笑まれては、逆に奥底まで見透かされていそうで――――僅かな苛立ちが浮かびかけて、しかしこれ以上の発露は時間の無駄だと別の言葉を選びながら立ち上がる。

「……邪魔ァしたな。とりあえず仕事自体はそれで終わりだ、金は忘れるなよ」

「ええもちろん、つつがなくぅ。それではまたぁ、依頼する時はよろしくお願いしますねぇ」

 愛想無く座敷を出ていく私たちを、歌舞伎町の華の茨を自負する少女は手を振って見送っていた。


 ***


 帰宅して、少し辛めのカレーを食べて――――終始よくわからない苛々を抱えながら、そして風呂にて。


 シャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ

 出しっぱなしになったノズルから放たれる水滴が、絶え間なく私を叩く。俯いた視界を立ち込めた湯気が遮り、思考までも鈍らせていくかと思えば存外そうではなく――――むしろ、どんどんと悪い方向に回転してしまっているのが容易に自覚できた。


 飛龍伊織。私の知る彼と、私の知らなかった彼。実際考えてみればそれは普通のことだった。人間、一面だけのはずがない。相手。状況。そういった様々な要素の中で、様々に側面を切り替えて対応するというのは生きる上でも必須のスキルだ。飛龍伊織というあの教師にしても、教師ではない別の一面があって然るべき――――だというのは、理解できる。

 しかしそれが、なぜよりにもよって極道の組長などという、とっぷりと新宿の暗闇に満たされた場所に在るのか。それが未だに、どうしても飲み下すことができなくて。


 体が熱い。ノズルから吐き出される温水を、ずっと頭から被り続けているせいだろうと思い温度を無言で下げる。

 肌を打つ雫が徐々に温く、そして冷たくなる。滑り落ちるそれの冷たさに身震いしたものの、しかしそれが火照った体には心地良かった。


 だが飲み下せなかったところで、極論どうでも良いことではある。金輪際きっと、組長としての彼と請負人としての私は交わることがないだろうから。

 彼としても、ある時には教え子、ある時には請負人なんていう私を相手にして、動揺はしたことだろう。したに違いない。私がここまで混乱しているのだから、さぞ――――と、ある種願うかのような自分がいることに、自嘲する。


「…………無様だな……、自分が狼狽えてるからって、向こうにもそれを期待してるなんざ」

 無様、そう無様だった。昨日の彼の『驚いているが、逆に言えば驚いているだけ』という様子からすれば、私ほどの混乱も狼狽も、しているはずがないというのが理解できるというのに。

 あれは、その時目の前に現れた状況にそのまま驚き、そのままそれに対応した。そんな風情だった。


 くらくらする。立ち込めた湯気が今度は冷やされ、肌に水滴と共にまとわりつくようで気持ち悪い。流れた髪が胸元を伝って張り付いた拍子に心臓が「どくり」と一つ大きく脈打ち、それに耐えきれずに崩れ落ちる。

 このまま溶けて流れて消えてしまえれば良いのに。そんな胡乱な考えが脳裏を過って、自分が思いの外大きな衝撃を受けていたという事実を目前に突き付けられたようで――――唇が、己を嘲笑う形に歪む。


「……秋流? 秋流、どうした?」


 浴室の外、脱衣所から声が聞こえた。長いことシャワーを浴びたままでいる私を心配し、どうやらハルトが様子を見に来たらしい。人が風呂に入っている間に入るとは――――そう思いつつも、しかし私が思考の片隅で勘繰ったような下種な目的で入ってきたわけではないというのは、その声のトーンから察せられた。

 なんでもねェ、出てけ。そう声を返す気力もなかった。脳に霞がかったようで、しかしそれでも体の表面は熱にでも浮かされているかのように熱い。弾く冷水が心地よい反面、流れ落ちるそれが肌を這う感覚には気持ち悪ささえ覚えた。どくどくと心臓が妙に大きく鼓動し、その音はさながら耳の裏で鳴っているかのように耳障りに響いた。


 暫しの沈黙の後、「入るぞ」との声を置いて――――浴室の扉が開かれた。

 部屋の方の温い空気が浴室に雪崩れ込み、空気同士が混ざり合ってじわりとまとわりつく温度となる。


「おい、秋流ッ! しっかりしろ、何してるんだッ!」

「……ンだよ、入ってきてんじゃねェよ……」

「あんだけ長いこと風呂に入っていたら嫌でも気になる! 全く、あまり異状が見られなかったから大丈夫かと思ったが、案の定だったか」


 わけのわからないことをほざいた彼は無理矢理私の身体を押しのけ、自身が濡れるのにも構わずシャワーを止めた。次いで私の身体にタオルを無理やりに巻き付け、そのまま姫抱きにして浴室から軽々と運び出す。

「……部屋に入るが許せ。緊急だからな」

 口早にそう言うハルトに、律儀なものだと他人事のような感想を抱く。しかしその間にも彼は手早く私の身体を拭き、寝間着を着せさせ、気付いた時には私は布団に寝かされていた。

 しかしその間にも、体を苛む熱は消えてはくれなかった。まるでシャワーの熱が肌の上に残っているようで、しかしそれでも不思議と汗は出ず、風邪とも違う我が身の異状が苦しい。

「秋流」

 私の枕元に座り込むハルトが手を伸ばし、私の首筋に触れた。その体温の低い白い掌は心地よく、触れたところから熱が逃げていくようだった。それに応じて閉じていた瞳を僅かに開けば、彼は妙に神妙な面持ちで言葉を続ける。

「説明は、後で果たそう。勝手にやったことについてはその時にいくらでも叱責は受ける。……その熱は、このままでは終わらない」

 次いで彼は首筋に触れた手をそのまま首の下に回し、私の上体をゆっくりと起こさせた。熱に浮かされ朦朧とし始めた意識の中で、かろうじて彼の空いた左手が私の寝間着のボタンを外し、首元をくつろげたことを把握する。

 いつもの私ならば突き飛ばし抵抗したことだろう。だがこの時はそれどころではなかった。絶え間なく律動する鼓動の音がうるさくて、自分が今あげられる掠れ声ではあっさりと掻き消されてしまいそうだった。

 彼は私の上体を支えるように後ろに回り込み、攫うように腰を抱き寄せた。そしてその顔が私の無防備な首筋に寄せられ、さらさらと流れる金髪が目の端に映る。かかる息が擽ったくて、だが腰に腕に触れる手の冷やかさが心地良い。


「――――――――終わらせてやる。我慢しろ」

 それはさながらおわりを齎すかのような睦言で。

 しかし突き立てられたのは刃ではなく牙で――――自分の何かが流れ出すような感覚と共に、彼の何かが流れ込んでくるような感覚が私を襲った。


「……ん、く……ぅ、ぁ……ッ、」


 抑えきれない息が漏れる。痺れるような甘い感覚が背筋を這い上り意志とは関係なく震える私の身体を、より強く引き寄せるように彼の腕がしっかりと抱く。得体の知れないその感覚に反射的に縋る場所を探れば、それが辿り着いたのは彼が抱き寄せるその腕だった。

 暴れていた脈動がようやく少しずつ収まっていく。耳朶を叩く耳障りな音が、まるで安らかな眠りへと誘うかのような微かな音へと変わっていく。それを感じながら、――――私はあっさりと意識を手放した。


 ――――――――薄らと雫の浮かんだ目の端に映った月は、綺麗な真円を形作っていた。

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