Act.26
<Act.26 5/6(金) 0:28>
【仄宮秋流】
――――図らずも私とハルト、両がエスカラーチェの二人の襲撃を受けた、その夜。
白樺組という衝撃的な発言に端を発するさまざまな情報については既に共有を済ませ、できるならば緊急対策会議と銘打った夕飯後のぐーたらタイムを怠惰に過ごしたかったのだが、それはそれとして仕事があった。依頼とはすべからくこちらの状況を考えずに舞い込んでくるものである。
「今回もまァ、例の如く水蓮からの依頼だ。ようは運び屋、港湾倉庫でここ一帯を仕切るヤクザからあるものを受け取ってくれってさ」
「ふむ。犯罪の片棒を担ぐというわけだ」
「馬鹿言え、ヤクだって立派な商品だよ」
あるもの、と言葉こそ濁されど、まあ十中八九中身と言えば世間様には胸を張れない白いお粉とかそのあたりであろうことは想像に難くない。しかしまあそこは私たちの仕事の範囲外だ。中身については一切関知せず、ただただ純粋に頼まれたことだけを遂行する。それこそが一番厄介を避けるのに効果的な手法だと、私は請負人を始めた頃に既に悟っていた。
「しかし信用されるのか? 花街のお得意様と言うのは簡単だ、それを立証しろと言われたりはしないのか。相手はヤクザだろう」
「持ってる」
花街、それも蘭玉楼の主・九重狐呑の信頼を得ているという何よりの証明を、私は随分と昔に水蓮から渡されていた。
蘭紋。見た目はただの木札だが、その中心にあしらわれているのは誰が見ても感嘆することは必至の精緻な蘭の紋様である。その紋様自体もただの塗料ではなく、通常の塗料よりも劣化がかなり遅い上、一際強い光沢を放つ紫色の特殊な塗料を用いている。見る者が見れば一瞬で本物か偽物かを見極められる、まさしく照合にうってつけのものだった。
「ここらのヤクザ――――飛龍組との取引なんざ、私は初めてじゃねェからな。既に何度かしたことがあるし、だからまァ顔も覚えられてはいるが……通過儀礼みてェなモンだよ。そういうのが、大事なのさ」
「つつがなく一連を終わらせるための行程、か。まあ合理的だな」
というわけで、新宿は港湾倉庫。ざざ、という波の音がコンテナだらけのところに静かに響き渡り、鼻腔を突くのは新宿一帯を包む中でも一際強い潮の匂いだった。
周囲を見回す。いつもなら飛龍組の黒服たちのほうが先に来ているのだが、今日に限っては私たちの方が先だった。珍しいことがあるものだとのんびり構えていれば、やがて複数の足音が聞こえた。
とっとと済ませて帰ろう。そう思い気軽に振り返ればそこにいたのは、
「お前らか? 待たせて悪いな」
「――――は?」
気のせいだと、思った。もしくは、きっと何かの間違いであると。
どうしてこの場面で、どうしてこの時間に、――――飛龍伊織が現れる?
思考が止まる。いつも通りだとさほど緊張もしていなかった体が、唐突に吐き出された脳のエラーを処理できずぎこちなく制御を止める。
伸ばしっぱなしの茶髪をうなじでくくっただけのぞんざいな髪型。すらっとした180cmの身長。行儀悪く口に咥えた紫煙燻る煙草の影。いつになく隙無く着こなした黒のシャツとスーツに、そこだけ一際色を放つ赤のネクタイ。真っ黒な闇の中に融けて沈んでいるようで――――されどこの場の誰よりも強く存在感を醸し出すその姿は、服装こそ違えど紛うことなき明石高校数学教師・飛龍伊織の姿だった。
「……っておい、仄宮か? その隣にいるのは……どうしてこんなところにいるんだ? もう良い時間だろ、とっとと家に帰った帰った」
「なん……でってそりゃ、こっちのセリフだっつの……」
驚いてはいるものの――――逆に言えば、驚いているだけだ。飛龍のその所作やテンションといえばたったこれだけの会話だけでもわかるほど「いつも通り」で、だがその「いつも通り」がこの場においては何よりも一番相応しくないものだった。
昼の「教師」としての飛龍が、何故かいつもと違う服を着て、いつもと違う役割を着てこの場にいる。その違和感が、あまりにも脳裏に根強くこびりついて――――その異常さに、事態をうまく飲み込むことができない。
「……知り合いか?」
飛龍があっさりと背後を向き、周りの黒服たちと話し始めた時。ハルトがそう耳元で問うてきた。
正直言って、答えるどころではなかった。その背中は紛れもなく黒板に板書をする時のその背中で、その所作は間違いなく普段私たちと話している時のその所作だったから。
それでも。脳内を席巻し搔き乱す違和感をかろうじて押し込めて、必要最低限の情報だけを口にする。
「飛龍伊織。明石高校、うちの、数学の教師で……私の担任だよ。間違いなく、本当なら、」
「絶対にこの場にいるはずのない人物、と?」
「……ああ」
私がフリーズした衝撃を、それだけでも彼は悟ったようだった。扶桑ならばわかる、鈴谷もまあ、納得できなくはない――――だが何故、何故よりによって一番夜が似合わないこの男がこの場に現れた?
「しかし、一般人が紛れ込んでくるようじゃあいけねぇな。請負人が来る、とかいう話だが……手間だが、場所を変えるしかねーな」
ふう、と煙を一吐き。それすら職員室で吸っては殴られる姿とだぶってしまって、しかし請負人としての私は苦虫を噛み潰したような表情のまま。
「……変える必要は、ねェよ。私がその請負人で、花街との仲介人だ」
乱暴な仕草で懐の蘭紋を掴み取り、まざまざと見せつけるように掲げる。紫色の光沢が、遠く高楼のネオンに光っては瞬き、そしてそれが飛龍の黒い瞳に映り込む。
視線が滑り――――私を、そしてハルトの上を過る。その瞳にいつもと違う光を見つけた気がして、私は反射的にさっと目を逸らしてしまった。
「(なんだってンだよ……別に飛龍がヤクザだろうとンなこと、私の仕事には関係ねェじゃねェか)」
そうは思う一方で、私の知る「飛龍組」と「飛龍伊織」、そこには名前が同じという偶然性以上のものがあってほしくないと願う自分もいて。
「組長」、と。組長。その言葉を私が思考の中で反芻する間にも、黒服の一人が彼に何事かを囁きかける。それに頷き返せば、彼は手にした煙草を揺らし慣れた仕草で黒服に指示を下した。
「そうか、お前が請負人だったか。悪いな。じゃあほれ、これが例のブツだ。花街は自警団、茨衆宛の」
黒服がスーツケースを持ち、私へと差し出す。私が請負人だと言った後も何ら変わることのないそのあっけらかんとした態度に一体何と返せばよいのかわからず、結局私は無言でずっしりとした重みのそれを受け取るのだった。
「受け渡しは頼んだぞ、仄宮」
「……、」
ああ、と頷く私の声は遠く。これ以上この場にいたくはなかった――――私はこれ以上の異常さを目にして、思考の回転を保っていられる気がしなかった。
すれ違い様。その黒と私の黒が交錯し、細波の中を漂って結び――――それに耐えきれず解いたのは、案の定私の方で。覗いてはいけないようなものを覗いたかのような後ろめたさと、信じたくはないという否定の念。それらがないまぜになって、私は足早にその場を離れる以外にできることがなかった。
後ろに影のように付き従い、やがて私の手から静かにスーツケースを奪い取ったハルトは何も言わない。その沈黙が、憎らしくも今は有難く思えた。
――――知りたくはなかった事実。今はまだ受け容れられぬまま、変転した状況が更なる混沌を呼び起こす。




