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帝國ロストヰデア  作者: 聖木霞
Ⅰ 花残月編
11/76

Act.9


<Act.9 4/20(火) 18:56>


【仄宮秋流】


 遥の店からの帰り道。そういえば水蓮からの依頼のターゲットについての情報をアイツに頼み忘れたと思いつつも、今更かと人通りを行く。早く帰ろうと選んだのはあまり人気のない場所だった。

 ちょうどビルとビルの隙間というべきか。帰り路を急ぐ忙しない雑踏も遠く、そんな中で“何か”が不意に訪れ来た。

 人波の間隙、ぽっかりと空いた空虚の刹那。


「――――“バートリの鋼鉄処女アイアンメイデン”ッ!!」


 瞬間的に耳朶を劈く若い男の――――聞き覚えのある声、そして雷光の如く体を一直線に駆け抜ける警報。本能が何よりも早く四肢を駆動させ、足元のアスファルトを砕かんばかりの力で前方へと身を逃れさせる。汚れた地面に左手をつき一回転する最中に視界に捉えたのは、今まさに私が立っていた場所に佇む巨大な鋼鉄処女だった。

哮之零コウノゼロ、」

 空中で身を捻りながら息を吐き出す。右手に携えた扇子の周囲で「ばちり」と火花が明滅し、宙にその軌跡を残しながらその姿が炎に包まれる。

 その色は紫。何者をも触れること叶わぬ禁色のそれは、宵闇の怜悧な空気を引き裂くように迸る。そうして目を灼くような鮮烈な蘭の中から、光を照り返して鈍く蒼銀に光る白刃が現れ出でゆく――――。


「――――<蘭帝ランテイ飛燕招来ヒエンショウライ>ッ!!」


 招来の詔と共にその全貌が冷気に晒され、まとっていた紫炎が爆発した。炎の華が束の間宙を彩り、ローファーが地面を叩く音と共に刃が振り抜かれる。

「なんでテメェが生きてやがる……ッ!」

 そうして私が殺意を余すことなくぶつけたのは、聖母マリアが象られた禍々しき拷問具の傍で、追撃することもなくこちらを見ていた男だった。

 にやにやと、こちらを値踏みするかのような表情で佇むスーツ姿の男。手には刀身まで真っ黒な長剣を持ったその男こそ、

「テメェは、私が殺したはずだろうがッ!! 扶桑朧ふそう・おぼろ……ッ」

 太刀・飛燕ヒエンの柄を握りしめそう問えば、彼はより一層唇を醜悪な形に歪めて嗤った。唇から漏れるのは「ハハッ」という抑えきれないとでもいうような嘲笑。

「生憎と、そう簡単には死ねない体でね。仄宮秋流――――今度は俺がオマエを殺す番だ」

 彼の手が触れた途端、超重量と共に目視した者をすべからく圧殺する鋼鉄処女が嘘のように消え失せる。そして、その黒瞳が溢れんばかりの殺意を湛えて真っ直ぐに私を射抜いた。

 あの晩と同じだ。降る闇、全身から喜色を立ち昇らせて待ち構える真っ黒の男の姿。違いと言えば仕掛けたのが今日はたまたまアイツだったというそれしかない。

「ざっけんじゃねェ、二度も殺されてやるほど殊勝な性格してねェんだよ私は。テメェと一発なんて気分じゃねェ、再戦したけりゃもっと私の気分がマシな時に来やがれこのクソ野郎」

「ハッ、吠えるな女子高生風情が。っていうかなに? オマエあの後一回死んだの? 俺を殺した後で? ッハァ~~~超ウケるッ! ッハマジかよホントかよ、ッハハハハハハ」

 チッと舌打つ。鼓膜を犯してくる哄笑に心の底からの不快感が堪らない。何がそんなにおかしいのか、否全てがおかしいのだろう、腹を抱えて爆笑しているのに付き合う義理はない。

 ――――最大戦速で地を蹴る。踏み出した衝撃に砂礫が浮き上がり、されどそれに頓着することなく突き進めば巻き起こった風に吹き散らされて僅かな軌跡を作る。それすらも押し退け、蒼銀を街灯の光に煌かせて振り抜けば、響くのは甲高い金属音。

「ッヒヒ、ハァー……ハ、おいおい人が笑ってる時は攻撃しちゃイケマセンってママに教わらなかったのかぁ?」

 漆黒の西洋剣が私の太刀と鍔で競り合い、間近で鈍い光がぎらりと瞬く。それはまさしく処刑人の刃と評するに相応しき、血を吸った末の汚れた鉄の光だった。

「テメェみてェなクソッタレ相手に守る礼儀なんざ私のママは教えてくれなかったンでな。一体どんな手品で生き返ったのか知らねェが、そンならもう一回ブチ殺すだけだ。その腹ァ決まってンだろうな」

「え? ナニナニ? オマエをぶっ殺す覚悟? それならもう十分、いい加減発散しねーと溢れちまいそうなくらいには十分、だッ!」

 ギィンッ、と鈍い音を響かせて奴の剣が振り抜かれる。勢いを殺すために一歩跳び退ったところで、

「――――“ヴラドの杭”ッ!!」

 奴が均衡を破った。またも本能が警鐘を撒き散らし、更に後方へと宙返りで逃れる。

「……つくづく悪趣味だな。処刑道具しかレパートリーねェのかよ?」

 呆れ半分に嘆息する私が一瞬前までに足をつけていたところには、一本の鉄杭が突き立っていた。ぬらりと光る鉄の色、そこに込められた嗜虐性の元ネタはおそらく。

「俺は処刑人だ。そして何より拷問屋だ。それゆえの“処刑博覧会サンソンズオーフルコレクション”、ストックにはありとあらゆる拷問処刑道具がよりどりみどりだ。何ならお前のリクエストに応えてやってもいいぜ?」

 ちなみに今のはルーマニアはヴラド三世の杭だ、と依然にやにやと気色悪い笑みを浮かべながら嘯く奴に、もう一度「趣味が悪すぎる」と吐きだす。

 ヴラド三世。襲い来るオスマントルコを串刺しで晒しあげ、死体の密林と化したその威容でもってワラキアへの侵攻を断念させた串刺し公(ツェペシュ)。――――広義において、“吸血鬼ドラクレア”の起源ともいわれる人物。

 もちろん彼の恐怖公は、あのベルンハルト・レヒト・シャルラハロートという化物とは名称こそ同じであってもその本質を全く異にする人物だ。だが表の歴史で高らかに語られるそれは、裏の歴史における真の吸血鬼と私自身との間で否応なく結ばれたあの忌々しい契約を思い起こさせて、どうにも腹立たしい。

 そしてその腹立ちの元凶、全ての元凶とは、つまるところ目の前の悪趣味男そのものだった。

「少なくとも、その杭で死ぬことだけは無ェよ。そんなことになるくらいなら自分で首掻っ切って死んでやる」

「ははァン? そんなこと言われたら応えねーわけにはいかねぇなァ。全力で刺し殺してやるよ。そンでもって死体は市中晒しの刑に処してやる。どーだ嬉しいだろ?」

「心遣い痛み入るね。このクソッタレが」

「それで? お前はこういうの使わねえの? 魔術師嫌いの魔術師サンよ」

 挑発混じりに投げかけられた言葉。それが一気に思考を沸騰させ、更には余計なノイズを引き起こす。私の内に蟠り凝り震える衝動が「殺せ」と、「あの魔術師を生かしておくな」と叫び猛る。

 アイツだけではない。私は全ての魔術師という魔術師を殺さなければならない。何があろうと。どんな理由があろうと。一度で足りぬなら二度を捧ぐだけ。それでもなお達成し得ぬなら三度目を送ろう。殺して殺して殺シて、その末にあの、“鬼”を被ッた魔術師ヲ、


「――――吠えろ鬼殺しの紫炎ッ!!」


 降る夜闇の帳を突き破るように上げた咆哮。ざわりと大気がさざめき、揺らいでは私の髪を浮かせて火花を散らせた。脳裏に瞬き閃くその姿を振り払うように、刀で花を断ち切る。

 銘を“灼熱は哮として紫を齎す”。何よりも忌むべきあの日に覚醒させられた、仄宮秋流の持つ咆哮と紫炎の術理。

「ご期待通りカマしてやるよ……お前を殺す理由が増えたからな」

「ほお。一応聞いといてやるが、どんなくだらない理由なんだそいつは?」

「お前が魔術師だから。そして私を同様に扱いやがったから。人を殺すのに、それ以上の大層な理由なんて必要か?」

 く、と口の端を吊り上げて笑み、刃の切っ先を扶桑へと差し向ける。奴の処刑道具と比較しても決して劣らぬ量の血を吸い続けてきた太刀は、照らされるまでもなく僅かな血色と共に白銀を返した。

「ッハハ、馬鹿なことをほざくだけが能かと思ったら存外正しいことも吠えるじゃねーか。見直したよ」

「テメェなんぞに見直されたところで毛ほども嬉しくないね。じゃあ訊くが、お前が私を殺そうとする理由はなんだ?」

 一拍。星の光を吹き飛ばすように一陣の風が吹き抜け、月の光がその顔を明らかに照らす。

「お前をこの手で殺したいからだよ。ちゃんとこの手で」

 殺しかかられて殺されたんだ、倍にして返したいと思うのは普通だろ?

 そう続けた奴の眼光がぎらりと光る。それはさながら飢えた獣のように獰猛で。おそらくは相対する己のそれも劣らず畜生じみているのだろうと思い。

「“普通”は殺されれば死んでるよ。テメェの理由ソレはなかなかにイカレてる」

「ならイカレ者同士、一発と洒落込もうじゃねーの?」

「一緒にすンじゃねェよバァカ」

 嘲笑を顔にはいたまま、切っ先を振って正眼に構える。そして――――一閃。

哮之壱コウノイチ、――――<蘭帝・我龍走破ガリュウソウハ>ッ!!」

 咆哮と共に軌跡より出ずるは迸る紫炎の龍。轟と灼熱を撒き散らし、散らばる酸素を端から喰らって扶桑へと一途駆け抜ける。

「“バートリ”ッ!!」

 奔流を防いだのはまたしても現れた鋼鉄処女。龍は鉄塊にぶち当たろうともなおも食い潰さんと殺到し、されどそれも叶わず無残にも夜闇に融けて消え逝く。

 だがそれで十分。もとよりたかが一発で仕留められるほど安い相手でないのは百も承知。

「ッらぁッ!!」

 龍が消え去る間際。疾走し、まだかろうじて実体を保っていたその頭蓋を踏み砕き、階段代わりとして鋼鉄処女への上へと躍り出る。飛び越え、扶桑の頭上へ。

「おまッ、」

「前ばっか見てんじゃねェぞド三流ッ!!」

 空中で体を捻り、放物線を描きながら奴の背後に落ちる軌道で刃を振り落とす。顔を引きつらせながらも奴は手にした剣でそれを受け止め、

「“ヴラド”ッ!!」

 私の足元に先ほどの鉄杭を召喚してきた。だが生憎慣性に引きずられた私の体は間一髪でそれを避け切る。招かれた杭はすぐに血飛沫のように霧散し、すかさず突き出された剣に掻き消された。鉄臭さが鼻につき、

「ッ、」

 視界を霧で遮られていたため上手く回避機動が取れない。剣が左の脇腹を掠り、肉を抉り取られる激痛に顔を顰め声を詰まらせると、奴はそのまま体を前へと押し込み斬り込んできた。飛燕と処刑剣が擦れあい耳障りな金属音を立てる。

「だーれがド三流だだーれが。あとお前、どうせ見せるんならもっと色気のあるパンツ履いてこいよなァ。なんだよ赤って。バリバリ攻撃色じゃねーか」

「どさくさ紛れにキッチリ見てんじゃねェよ気色悪ィ、テメェにパンツの色まで指定される覚えも義理もねェってンだバーカ!」

「どうせならサービス精神出してくンのが礼儀ってモン……まァいいや、テメェのパンツなんて中身がコレじゃあズリネタにもなりゃしねー。おい“マリー”、ギロチンを寄越せ!」

 呼ばわった瞬間、彼の左手に禍々しいギロチンが現れる。実戦向けにコイツが改良したのか、いわゆる断頭台に設置されているようなものではなく振り子の形で顕現したそれは、当然のように私に向かって振り抜かれた。

 下から上に向けた一閃をかろうじて避けるが、一瞬間に合わず右頬に鋭い痛みが走る。だがその隙の扶桑の胸がガラ空きだった。

 後ろに移動させた重心を再び戻すなどという二度手間はしない。刀を左手だけで握り空の右手で奴の右手首を掴み引き寄せつつ――――無防備な右の脇腹に捻りの入った蹴りを叩き込む。

「ッが、てめッ……」

 インパクトの瞬間に掴んだ手は離している。奴の体はそのまま軽く吹っ飛び、道路脇の塀に激突した。そこそこな轟音がすっかり闇に覆われた夜の道に響き、人通りが少ない道とはいえやりすぎたかと僅かに思考する。

 ――――余計なことを思考した、そのことこそ失敗だったか。後悔した時には既に、接地面を一分の隙間もなく針で覆い尽くされた巨大な車輪が目前に迫っていた。

「(――――ッ!!)」

 回避は――――間に合わない。互い以外のどうでも良いことに浮気していて勝てる相手ではないことを失念していた。ほぼ等身大のその処刑具に刺し貫かれ蹂躙される予感に縫い留められたその時――――見覚えのある“闇”が、私の目の前に立ちはだかった。

 まるで私を守るかのように。

「どうも帰るのが遅いと思ったら他の男と戯れていたとはな。あれほど言い含めたというのに、もう忘れたか」

 闇の中から響く声。車輪が硬質化したそれに衝突しガラスをひっかくような音を立てたのとほぼ同時、闇の中から私の側に現れた奴の手が私を抱き寄せた。

 既に幾度も嗅いだ匂いが香る。鼻腔を擽る花の香。夜闇でも変わらず輝くその白皙は、纏う薫風で私の周りに立ち込める血臭を残らず吹き飛ばす。

「……、なんでいるんだお前……」

「迎えに来たに決まってるだろう。まさかこんな市街地のド真ん中で一発など馬鹿げたことをしているとは思ってなかったが」

 彼が告げると同時、「ギャリギャリギャリッ」という耳障りな音が止まった。攻め方を変えてくるかと次撃を警戒したものの、それは「仄宮」という奴の声で杞憂に終わる。

「余計な邪魔が入ったみたいだしな、今日は俺が退いてやるよ。俺の機嫌が良かったことに感謝するんだなァ」

「……誰が感謝するかよ」

「クハハッ、けどよ、一応言っておくぜ? これは、『お前が売って』、『俺が買った』喧嘩だ。そうだろ? だから次は、次は無い。いいな」

 笑みは、つい零れてしまったそれを噛み砕いたかのようなもので。それはつまり、忠告のつもりなのだろう。私ではなく、ベルンハルトへの。牽制とも言い換えられるそれは、即ち『巻き込まれたくなきゃ首を突っ込むな』という至極シンプルな諫言に過ぎない。

 寸でのところで私を庇ったこの男も、それには当然気付いていただろう。自分に向けられる殺意に鈍感でいられるほど、この男は暢気ではない。だがそれにも関わらず、ベルンハルトはさした反応も見せなかった。

「あばよ仄宮。近いうちに会おう。そン時こそ、気兼ねなく殺し合おうぜ」

 闇で形作られた盾のその向こう、今まで濃密なほどに存在していた扶桑の気配が消える。一拍遅れて盾が解かれ、地面の影へとほどけ融け込むように消えていった。

「……、おい離せ馬鹿吸血鬼」

「お前こんなにスカート短くしてるから変なのに絡まれるんだぞ」

「お前を超える変態なんて早々いねェよ」

 扶桑も大概アレだったがと思いつつも、どさくさまぎれでスカートの中に手を伸ばしてきた馬鹿の手を払い右腕で肘鉄を打ち込む。打ち込もうとしたのだが。

「づッ……!」

 体を捻った瞬間、左の脇腹に激痛が走る。それが扶桑に抉り取られた箇所だと気づくのに秒と要らず、反射的に飛燕を地面に突き立ててどうにか体制を保つ。

 それを見たベルンハルトは「はぁ」と一つ溜息をつき、何を思ったかおもむろに私の前に背中を向けて跪いた。……どうやら乗れ、ということらしい。

「ほら」

「要らねェよ……血は止まった、歩いて帰れる」

「説得力がまるでないな。その傷以外にも消耗があるだろう。どうせ着くまでに行き倒れるのがオチだ」

「それくらい……ッぁ、」

 じくじくとした痛みが思考を蝕む。思ったより深いらしい、血こそ止まれど一向に痛みが引く兆しはなかった。それか奴が悪趣味な呪いでもあの剣にかけていたか。

「ほらみろ。別にこの程度で恩を着せるようなこともしないさ。そんな小さい男だと思われても癪だしな。とにかく、グズグズするなら家に帰ってからにしてくれ。いい加減冷える」

 冷えるというのは、どちらの体のことなのか。問う気力すらも湧かず、どうやら譲るつもりはないらしいと感じ諦める。飛燕を掌の中でくるりと回し元の扇子に戻せば、つい先ほどまで燻っていた戦意も見る間に萎んでいった。

 刀を持つ相手に無防備な背中だ、と。私が自分の死すら厭わず首を刈り飛ばす可能性というのを、コイツは考えてはいないのだろうか。考えつつ、ゆっくりと己が身をその背中に預ける。

 考えないのだろう、きっと。何故ならば彼の価値観は私ほど破綻しているわけではなく、己の命、生涯、意志といったものを容易く蔑ろにできるような人格ではないからだ。

 私とはまさしく正逆。正しく逆を往く――――この歪な世界においてもそれだけは確かに正しいことであり、ゆえに間違っている私は早々に芽ごと摘み取られた、そのはずだったのに。

 何の因果かそのとうの正逆に呼び戻されて、あろうことかこうしてだらしなく負ぶわれている。ここは帝都新宿、世界に根付く龍脈の中心地だ。どんな稀有ですらも起こり得る土地ではあるが……それにしてもこの不可思議に過ぎる奇妙な縁に、私はどうしても運命じみた予定調和を覚えるのだった。

 人気のない道を、制服姿の少女を負った長身が行く。包むような夜闇にまぎれまいと月光を照り返すその白貌は、ぶっきらぼうな口調とは裏腹にこちらには僅かな振動も寄越すまいという心砕きが感じられた。おかげで傷が痛むこともなく、私が今更のように暴れる口実もない。

 そして予想にも反し、奴が何を訊いてくることもなかった。ただただ沈黙の帰り路、あれは誰だどこで知り合っただのと少なからず問い質されるだろうと身構えていたのだが、拍子抜けの感は否めなかった。まあ、家に着いてからということかもしれない。

 静かに目を閉じる。まだ道程は長い、首筋に顔を埋めれば仄かに薔薇の香水が香った。

 耳に届くのは遠く、繁華街の喧騒と一人分の足音のみ。冷たい夜の帳の中で、その背中だけは確かに暖かかった。

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