少し揉めただけです〜
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は「Xin chào」
「こんにちは」という意味です。
「最初なんだから普通だな」
「清河、何を期待してたの?」
「お前が最初から物騒な単語を出すかと」
「まだ何もしてないよ」
「“まだ”って言ったな?」
朝から母は鶏を追いかけていますが、私は捕まえる気がありません。
たいへん平和です。
「その言い方やめろ。絶対何か起きる」
Xin chào。
では、平和な一日を始めましょう。
たぶん……
私が初めて役人と揉めようと思った日の朝、母は鶏を追いかけていた。
たいへん平和な光景だった。
九真の山は朝靄に沈み、家々の屋根から炊事の煙が細く上がっている。
犬は軒下で腹を出し、豚は朝飯が遅いと柵を鼻で押し、母は昨日から四度目になる脱走を成功させた鶏へ、娘の前ではあまり使わない方がよい言葉を浴びせていた。
「氏貞! そっちへ行った!」
「見えています」
「捕まえて!」
「嫌です。昨日は私が捕まえました」
「昨日と今日は別でしょう!」
「同じ鶏です」
母が何か言い返す前に、鶏は私の足元をすり抜け、畑を横切り、隣家の垣根を越えた。
昨日より速く、逃走経路まで変えている。
学習しているではないか、と感心したが、母に言えば今度はこちらが追われそうなので黙っておいた。
この頃の私は趙氏貞という、軍安県の山中に住むごく普通の娘だった。
後世の人が聞けば異議を申し立てるかもしれないが、本人がそう思っていたのだから仕方がない。
朝は畑へ出て、必要なら薪を背負い、家へ戻れば布を織る。
山へ入れば薬草や木の実を採り、祭りの日には髪も整え、同じ年頃の者たちと酒を飲んで笑った。
ただ、少し背が高かった。
少し、というのは母の言い方である。私が立てば村の男の大半と目線が合わず、こちらを見上げる者も珍しくなかったが、母が「女にしてはちょっと大きいだけ」と言い張るので、我が家ではそういうことになっていた。
顔について家族は何も言わなかった。よその者だけが妙な反応をする。
女は私を見ると一度黙り、それから声を柔らかくして「まあ」と言う。
男はもっと分かりやすく、顔を見たあと、どういうわけか必ず胸元へ視線を落とし、慌てて顔へ戻す。
それで済めばまだよいが、しばらくするとまた下がる。
十八になった頃、隣村から縁談が来た。
相手の男は父親に連れられて我が家へ入り、私を見るなり茶椀を落とした。
慌てて拾い、顔を上げ、こちらを見たところまでは普通だった。
その後が長かった。
視線が胸元で止まっているので、私は自分の服を見下ろしてみたが、破れてもいなければ虫もついていない。
何を見ているのか確かめようと男の目を追うと、相手は耳まで赤くして顔を上げた。
父親に脇腹を突かれ、男は立ち上がった。
向かい合ってみると私の方が頭半分高い。
それでも男はなぜか急に勇ましい顔になり、胸を張った。
「お、俺が、一生、守ってやる」
何からだろう?
熊なら私の方が先に棒を持つと思う。山賊なら人数次第だが、少なくともこの男より私の方が足は速い。
今すぐ必要なのは、この男自身の視線から私を守る者ではないだろうか?
母を見ると、母も同じことを考えていたらしく、たいへん冷たい顔で男を見ていた。
その縁談は翌日なくなった。
似たようなことは他にもあった。
祭りで酒を二杯飲んだだけの男が突然「お前だけは俺が守る」と宣言し、別の男は私が薪束を担いだ途端に奪い取ろうとして腰を痛めた。
私は頼んでいないのだが、男たちは時々、私を見ると自分に何らかの使命が与えられたと思い込むらしい。
しかも困ったことに、その使命は長続きする。
薪を奪おうとして腰を痛めた男など、翌日から私の家の前をうろつき、「重い物があったら呼んでくれ」と言い続けた。
自分の腰を先に治した方がよい。
だから、自分が人を従える側になるとは考えたこともなかった。
まして、反乱軍など。
呉の役人が来るまでは。
もっとも、役人そのものは以前からいた。
この地方には、かつて士王と呼ばれた士燮という男がいて、長く交州を治めていたらしい。
老人たちは「あの頃も取られたが、今ほどではなかった」と口を揃える。
昔話というものは、死んだ人間と昔の役人を少し善人にする。
若い頃の米は今より旨く、雨は必要な時だけ降り、役人は話を聞いたと言い始めたら、半分ほどは思い出の中で勝手に良くなっている。
ただし、最近の取り立てがひどいことだけは、倉を見れば分かった。
米を出せと言われて出せば、次は布を求められ、布を渡すと香木を数えられる。
山崩れで畑が潰れたと説明すれば、「建業ではそんな話は聞いていない」と返される。
こちらも建業で誰が何を食べたかなど知らないので、その点だけはたいへん公平だった。
互いに相手の暮らしを知らない。
それなのに、向こうだけがこちらの倉へ手を入れられる。
その日の昼、役人が兵を十二人連れて里へ来た。
税を取りに来るだけにしては槍が多いと思ったが、当時の私は軍隊に詳しくなかったので、税というものは十二本の槍がなければ集められないのかもしれない、と考えた。
役人は里長の家の前へ腰掛けを置かせ、自分だけ座った。
「今年の納めが足りぬ」
「先月も納めました」
「記録では足りぬ」
「その前にも出しております」
「記録では足りぬ」
便利な記録だった。
こちらが何を出しても、最後に「足りぬ」と書けば絶対に負けない。
里長は山崩れで畑が二枚潰れたことを説明した。
役人は一応最後まで聞き、三日以内に不足分を出せと言った。
「三日では、とても」
「ならば人を出せ。壮丁を六人だ」
周囲の空気が変わった。
米を持っていかれれば腹が減り、布を取られれば寒くなる。
それでも翌年まで何とか生き延びられるかもしれないが、働き手を六人持っていかれれば、畑そのものが死ぬ。
「六人も出せば、秋の刈り入れができません」
「では米を出せ」
「米がないから申し上げております」
「ならば人を出せ」
見事に元へ戻った。
私は少し感心した。
このやり方なら、相手の倉か家族が空になるまで話を続けられる。
両方なくなったら、家でも持っていくのだろう。
たぶん持っていく。
里長の息子が役人を睨んだ。
口答えもしていない。
ところが兵の一人が立ち上がると、若者の頬を殴り、倒れたところを蹴った。
母親が駆け寄れば肩を突き飛ばし、里長が兵の足へ縋ったところで、役人がようやく竹簡から顔を上げた。
「逆らえば賊として扱う」
賊――
その一言だけが妙にはっきり耳に残った。
税を払いきれなければ賊になり、息子を連れていかないでくれと頼んでも賊になり、殴られた家族を庇えば、やはり賊になるらしい。
ずいぶん簡単な仕組みだった。
兵は里長の息子の髪を掴み、「一人目はこいつでいい」と言った。
隣にいた母が、すぐ私の腕を掴んだ。
「氏貞、やめなさい」
「まだ何もしていませんが?」
「お前は何かしてから止めても遅いのよ」
母は私をよく知っていた。
昨日までの私は兵士でも武芸者でもなく、反乱軍など見たこともなければ、反乱というものがどこへ届け出れば始められるのかも知らない。
ここにいる者たちだって同じだった。
畑を耕し、豚を追い、水路の順番で隣家と喧嘩し、それでも日が暮れれば同じ酒を飲む者ばかりである。
だから、誰も最初には動かなかった。
兵が若者を引きずり始めるまでは。
私は母の手を外した。
「少し話をしてきます」
「お前の『少し』は信用してないわよ」
「最近、私もそう思います」
役人の前まで歩くと、十二人の兵が揃ってこちらを見た。
顔を見る者もいれば、胸元で視線を止める者もおり、私と目が合った途端になぜか姿勢を正した者までいる。
役人も一瞬黙ったが、職務の方が勝ったらしい。
「何だ、お前は?」
「この里の者です」
「女が口を出すな」
「でしたら、女からも税を取らないでください」
役人の眉が動いた。
「男の言葉だけ聞くのでしたら、男が作った米だけお持ちください。女が田へ入り、刈り取り、機を織って作ったものまで持っていかれるのに、その女は黙れというのは、少し都合がよろしいのではありませんか?」
里長は青くなった。
母はそれ以上に青くなった。
役人だけが赤くなったので、色合いとしてはたいへん華やかだった。
「捕らえろ!」
話し合いは終わったらしい。
兵の一人が腕を掴もうとしてきたので、半歩避けた。
相手は前へつんのめり、それを見た後ろの兵が笑った。
恥をかかされた男は今度こそ本気で掴みかかってきたため、私はその手首を取った。
山で薪を背負っていると、束が傾くことがある。
力任せに支えるより、重さの流れる方向を変えた方が楽だ。
同じように身体を動かした。
兵が飛んだ。
予想以上に飛んだ。
地面へ落ちた男を見て、笑っていた兵の顔から表情が消えた。
私もさすがに笑えない。
十二本あった槍のうち、十一本がこちらへ向いた。
「だから言ったでしょう?」
背後から聞こえた母の声だけが、妙に普段どおりだった。
役人が私を指した。
「賊だ!」
早かった。
朝には娘だった。
昼には口答えする女になった。
そして今、賊になった。
嫁にはなれなかったのに、賊には半日でなれた。
世の中、何が向いているか分からない。
兵が槍を構えた、その時だった。
「氏貞に近づくな!」
後ろで男が叫んだ。
振り返ると、さっきまで震えていた村の男が鍬を握っている。
その隣では別の男が鉈を抜き、里長の息子も血のついた口を袖で拭いながら立ち上がった。
「氏貞は俺たちが守る!」
私は困った。
今のところ、最も派手に兵を投げたのは私である。
「皆さん、無理をなさらなくても」
「そういうところだ!」
何がそういうところなのだろう。
女たちまで鎌や棒を手にし始め、年寄りも前へ出ると、誰かが私の横へ並び、その後ろへまた一人加わった。
役人の顔から赤みが引いた。
こちらは二十人を越えていたが、軍ではないし、訓練もしていない。
昨日まで誰の豚が逃げたかで笑っていた者たちが、今日は武器らしい物を持ち、なぜか私の返事を待っている。
その中の一人が訊いた。
「氏貞、どうする?」
どうして私に聞くのだろう。
朝には母の鶏すら捕まえることを断った女である。
それでも十一本の槍はこちらへ向き、役人はすでに私たちを賊と呼んだ。
一度つけられた名札というものは、役所ではそう簡単に剥がしてもらえないらしい。
私は足元に落ちた兵の槍を拾った。
思っていたより重く、手にしっくり馴染むこともない。
英雄が持つ物には、とても感じられなかった。
ただ、突けば人が死ぬ。
それだけは分かった。
「まず、この人たちを山から追い出します」
「その後は?」
「知りません」
強がりではなかった。
この時の私はまだ、郡県を攻めるつもりなどなかったし、象に乗って戦う予定もなかった。
何千、何万という人間が私の名を呼ぶことになるとも、呉が交州刺史を送り込んでくるとも、その男が最後には服まで脱ぐとも知らなかった。
ただ一つだけ、この瞬間に決まったことがある。
私は、もう黙って米を渡す女には戻れなかった。
その日の夕方、軍安県の役所へ早馬が一頭走り、山中で起きた騒ぎを知らせたという。
報告は短かった。
――九真の山中に、女の賊が出た。
そして翌朝、私の家の前には、昨日の十二人とは比べものにならない数の兵が並んでいた。
呂清河だ。
今日のベトナム文化は、米。
ベトナムでは昔から稲作が暮らしの土台だ。米を食うだけじゃなく、田を耕す人間がいて、水を引き、刈り取り、次の年へ種を残して、ようやく村が続いていく。
「だから米を取られると困るんだね」
「今さら分かったのか?」
「人まで六人取るって言われたし」
「そっちの方がもっと困る!」
米がなくなれば腹が減る。
人がいなくなれば、次の米までなくなる。
だから氏貞は役人と揉めた。
「少しだけね」
「兵を投げた奴が言うな!」
次回。
十二人を追い返した翌朝、山道を埋めるほどの兵が来る。
昨日までの喧嘩は、もう喧嘩では済まない。
「……何人?」
「百人だ」




