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七月も残り一週間となった木曜日。つまりは学生達が合法的に長期休みを手に入れるわけで。結果的に、ウチにも天下御免で無敵な学生様が誕生する。
まあ世間様が夏休みだなんて喜んでいても、もともと毎日が夏休みみたいな大学生のお兄ちゃんと、ずっと冬休みの延長をしてるわたしにはありがたみが薄いけど。
「毎日わたしの部屋に来てないでどっか出かければいいのに」
パソコンのモニターを見たまま背後の気配に向けて声をかける。
夏休みに入ってから、アカリは毎朝わたしの部屋に来るようになった。別に一緒に何かするでもなく、いつもちょこんとわたしのベッドに座って本を読んだり問題集を解いたりしてる。お昼ご飯の時間までそうしているもんだから、見張られてるみたいで少し居心地が悪い。
「いつも遊びいってるよぉ」
漫画でも読んでいるのか、少し間延びした声が返ってくる。勉強してるならページをめくる音以外に何かを書く音がするはず。
「昨日はサツキちゃん家で遊んでたんだ。その前はみんなで自転車乗ってたよ。でも学校の決まりで午前中は家にいなさいってあるからまだ外に行けない」
あー、あったなそんな規則。守ってた記憶は一切ないけど。今はむしろ午前中どころか一日のほとんどを部屋にいるわ。なんかの皮肉みたい。
「今日もどっか行くの?」
「行くよぅ。ルイちゃんとサツキちゃんとプール行くんだ」
ちらりとカーテンの隙間に視線を移す。細くて眩しい線が部屋を横切って中空のホコリが見える。心なしか窓から見える景色も蜃気楼みたいに揺れてるみたい。ヤバそう。暑さが。
「アキナちゃんも行く? プール」
わたしが視線を動かしたのを、プールに興味があると勘違いしたのかアカリが訊いてくる。
「行かない」
即答。もちろんね。
縦横無尽に降り注ぐ殺人的な熱光線。公害に近い蝉のリサイタル。内心じゃ相手のことをどう考えているのか分からないのに笑顔で歩く人々。とにかくマイナスな可能性を頭に浮かべる。
それから、そっと左手の指をお腹の辺りにあててみる。
……うん。こっちもヤバそう。
「プールきもちいいのに」
お子様は悩みがなくていいね。そう返そうと思ったとき、タイミングよく階下からアカリとお兄ちゃんを呼ぶお母さんの声。壁の時計が、正午の少し前を指していた。
アカリが元気よく部屋を出ていき、ぼんやりと彼女の足音を耳で追っていたら、開けっ放しのドア越しにお兄ちゃんと目が合った。お兄ちゃんは何か言おうと口を開いたけど、わたしはとっさに目線を逸らしてヘッドホンを耳に当てた。音楽が流れてないヘッドホン越しにお兄ちゃんが階段を降りていく音が聞こえるまで、わたしは動かなかった。
はぁ。
わたしはのろのろと部屋のドアを閉め、わずかにアカリの体温が残るベッドに倒れこむ。仰向けに寝返りを打ったら、今度はベッドに置いたぬいぐるみ達と目が合う。いつもなら撫でたいところだけど、今はそんな気分じゃない。
わたしは伸ばしかけた腕を顔の上にもってくる。カーテンの隙間からの光すら拒絶した暗闇が広がる。
両腕で目元を覆っているのに、さっき見えたお兄ちゃんの顔がちらつく。
昔から、お兄ちゃんは自己主張が強い方ではなかった。優柔不断で、わたしやアカリの意見にも少し困ったような笑顔で頷いてくれた。何か言おうとするときは、必ず一拍考えてから発言していた。
だから、さっきも。お兄ちゃんの顔を、目を見たときに、分かってしまった。
哀れんでいるんじゃない。蔑んでいるんでもない。ただわたしを、心配しているってことを。
なんて声をかければいいのか分からなくて、でも放っておくこともできなくて。お兄ちゃんのそんな気持ちが分かっちゃうから、わたしはとっさに拒絶した。
お母さんにしてもお兄ちゃんにしても、わたしはまっすぐ向き合えない。わたしは二人に心配されるだけの価値がないのだ。
階下から響く別世界の存在みたいな生活音を聞きながら、ぼんやり意識が落ちていく。
***
「アキナちゃんどっか具合悪いの?」
体を揺すられる感覚と懐かしい匂い。なんだっけこの匂い。
変な姿勢のまま寝てしまったようで右肩が痛い。それでもわずかに動かして目の上から腕をどかす。視界は少し薄暗いけど、ベッドに腰かけてわたしを覗き込むアカリがぼんやり見える。肩より少し長いアカリの髪がわたしの顔を擦ってくすぐったい。
「元気だよ。眠いだけ」
これ、プールの匂いか。たしか塩素だっけ。アカリが遊びから帰ってくるまで寝てたのか、わたしは。
心なしかアカリの肌が黒くなった気がする。部屋が薄暗いせいだけど。
「よかったぁ。アキナちゃんちょっと苦しそうな声出してたからびょーきかと思った」
たいして心配してなさそうな、どこかお気楽な話し方。こんなアカリだから、家族の中で一番普通にわたしに話しかけてくるんだろうな。
「アカリこそ気を付けなよ。プールなんて他人の汗とか体液が混ざりまくってるんだから。ちゃんとシャワー浴びた方がいいよ」
「神経質だなぁ。そんなの気にしてる人はプールに入ってないよ」
わたしが心配してあげているのにけらけらアカリは笑う。
「それよりっ、アキナちゃん元気ならこれあげる」
そう言って、アカリは右手に持った小さい袋を揺らした。それがぺちっとわたしのほっぺに当たって、わたしはゆっくり体を起こす。
うぅ。なんだか頭がくらくらする。
「どら焼きねぇ」
わたしは受け取ったお菓子を見て呟く。茶色い円形のそれは、誰がどう見ても青いタヌキ型ロボット……じゃなくてネコ型ロボットが大好物のアレ。てか包装に思いっきしどら焼きって書いてある。
まあ、くれるというならもらうか。
山があるから登る、みたいな単純さで袋を破いて口に運ぶ。パサつく感じのあとにあんこのずっしり感。
「それおいしいでしょ。さっきあたしも食べたんだ」
美味しい、のかな。どうなんだろ。食べる姿をじっと見てくるアカリを見つめ返して考える。なんか記憶にあるとおりのどら焼きの味だから特に違いも分かんないけど。
「有名なお店のなの?」
「知らない」
あっそう。
食べ終わって「喉渇いたなー」って思ってたら、アカリが牛乳の入ったコップをくれた。我が妹ながらなかなかできる女ではないか。
「ありがと。美味しかったよ」
「うん。よかった」
わたしがコップをベッドの脇に置くのを、アカリはやっぱりじっと見つめている。
「どうかした?」
「そのどら焼きね、お母さんがさっきくれたんだ」
もうかけらも口の中には残ってないのに、無意識にわたしは何かを飲み込んだ。
「アキナちゃん明日暇でしょ?」
「……うん、……まぁ。特に予定はないけど」
おそるおそる答える。なにか良からぬ予感がする。
「お母さんにね、明日アキナちゃんと一緒に買い物行く予定なんだーって言ったらね、すごく喜んでくれたんだ」
……なに言ってんだろこの子。
かわいらしい、それこそ赤ちゃんみたいな笑顔。
アカリが部屋の電気のスイッチに手を伸ばす。ぱっと明るくなる室内。アカリの髪が、嬉しそうに笑う彼女に合わせて左右に揺れる。
「さっきのどら焼きおいしかったよね」
……妹よ、それはずるくないか? 無邪気な瞳に、わたしは頷くことしかできなかった。
***
それからはひと騒動。。ドタドタと部屋から出ていったアカリは、塩素の残り香が消える前に新聞と雨ガッパを持って戻ってきた。
「なに、それ」
「まずは髪きらないと」
そう言いながら適当に新聞を広げていく。
「アキナちゃん早くこれ着て」
「本気?」
突き出されるカッパ。クーラーが多少温度を下げてくれてはいるけど今は真夏だ。絶対蒸れる。
「そんなボサボサな髪じゃ笑われちゃうよ」
……そうか、わたしは人前に出たら笑われるくらいボサボサだったのか。
「ハサミもトキちゃんのお母さんから借りてきたんだ」
右手に持ったそれを嬉しそうに開閉するアカリ。はたから見たら危ないヤツだろうな。てかさっきから色々周到すぎて怖いわ。
「じゃあ、いっくよー」
別にハサミに屈したわけじゃない。自分にそう言い聞かせながら、わたしはカッパを羽織って新聞紙の上に座り込む。
「あんまり短くしないでよ」
「へーきへーき。ととのえるだけだから」
ヘアブラシでわたしの髪をとかしていたアカリは、最後に「あっ」と付け加えた。
「頭動かしちゃだダメだよ」
あのーアカリさん? 雨ガッパ着て動物のぬいぐるみとにらめっこするのって案外きついのですけど。
それから二十分? 三十分? 体感でしか分かんないけど、そのくらいの時間わたしは座り続けた。
「いい感じだよ」
シャクン、と音が鳴るたび、ひらひらと目の前を黒い影が落ちていく。目を隠すように垂れていたカーテンがどんどんなくなっていく。シャクン、のたびに、わたしの目に飛び込む光が強くなっていく。
「どうだろ。こんなもんかな?」
アカリがそういう頃には、いつもより光が強い世界が広がっていた。
「あんた……けっこうやるじゃん」
手鏡に写る自分が目を丸くしている。モニターを消したときに時々画面に反射している顔とは違う顔。自分の目を見たのなんて、いつぶりだろう。
「しらなかったの? あたし自分の髪は自分できってるんだよ」
少し自慢げなアカリの表情。
「初めて知った。美容師になりたいとか?」
「そんなのかんがえたことないよ。フツーに美容院に行く時間とお金があったらもっと遊べるから」
なんて呆れたことを言って、手際よくハサミやら新聞やらを片付けていくアカリ。
「明日ホントに出かけるの?」
一応確認してみる。
「いまさらなに言ってるのぉ? 夏休みなのにお部屋にいるなんて不健康だよ」
あの殺人光線浴びてる方が不健康な気がするけど。そんな風に思うのに、焼けた肌で笑うアカリの顔がなんだか眩しくて。なんとなーく、アカリの提案に乗るのもいいかなって。
「明日、なんじ?」
いつの間にか、わたしも立派に夏のエネルギーに惹かれていた。
「いいねいいね。お昼食べたら行きたいっ」
りょーかい。
頷いて、いつもは煩わしく目の前を揺れる髪がないことに、少しだけ嬉しくなった。
***
人の熱と空気の熱。太陽からの紫外線と他人からの視線。平日だからきっと人は少ないだろう、なんて甘かった。わたしは大きい公園の端っこにある日陰のベンチでため息をついた。
アカリが行ってみたいとわたしを引っ張ったのは、電車で四駅離れたショッピングモールで、久しぶりの電車の揺れでまずわたしはクラクラした。
「これさ、すごくない?」
肩を出した思いっきり涼しげな服装のアカリが取り出したのは、若者夏服半額セールのチラシ。平日限定七月ラストウィークセール、らしい。ただの不人気商品整理じゃん。
「これでアキナちゃんの水着もやすく買えるよ。よかったね。プール行けるよ」
「水着って夏服に入んないでしょ。てかプール行かないのはそういう問題じゃないし」
ほらぁ、とアカリが指差す部分には水着も半額と書いてある。
はぁ。
これが昨日の行動の原因ね。多分一緒に行く人いなくてわたしを誘ったな。どうせなら学校の友達と行けばいいのに。
四駅なんてあっという間で、暑さから逃れるみたいに二人でショッピングモールに飛び込んだ。
もうそのあとのことはよく覚えてない。エスカレーターに乗って服とか靴とかいっぱい見て、アカリに言われるがままに買い物かごに入れていった。わたしの分が二割くらい、アカリの分が八割くらい。お金どうするんだろうって思ったら「だいじょぶ。お母さんがおこづかいくれたから」って言ってささっと会計を済ませてしまった。
「ごめんアカリ。ちょっと休ませて」
人混みに疲れたわたしは六軒目のショップで音を上げた。暑さもだけど、なんか人からの視線が怖い。前はこんなことなかったと思うんだけど。
数ヶ月ぶりに人混みにもまれたわたしには、ショッピングモールの横にある公園が安息地に見えた。
これはなんというか、かなりしんどい。足元を見下ろして深呼吸を繰り返す。
「アキナちゃん熱中症? アイス食べれる?」
ふと視線を上げると、どこから買ってきたのかアカリがアイスを二つ持っていた。
「平気だよ。ありがと」
差し出されたうち、青と白のアイスが入った方のカップを受け取る。爽やかそう。
一口食べると、途端にスーッと甘みが口に広がる。少しシャリシャリしてておいしい。
隣で同じようにアイスを食べるアカリを見て、こんな光景もネットのどっかで見たことあるなと思った時だった。
「アイス食べてる場合じゃないよアキナちゃん。鳥だよ鳥」
急にアカリが興奮して公園の一角を指差した。わたしもつられてその方向を眺める。
高校のグラウンドくらいの広さの公園なのにあまり人影がない。子どものグループがいてもよさそうなものなのに、残念ながら子どもはいない。きっとわたしの頃とは遊び方も違うんだろうな。
そんなんだから、アカリが指で示したものはすぐ見つかった。公園の端の方、少し離れたところで男の人が二人向き合って立ってる。話をするには不自然なくらい距離が空いている。するとすぐに片方の男の人が右手を大きく振った。
タカだ。
振った腕から飛び立った生き物を見てわたしもつい叫びそうになる。翼を優雅に動かしたそれは、向き合った男の腕に向かって飛んでいく。しばらくして、今度はタカがもといた方の男の人に向かって飛んでいく。そしてまた逆へ。また一往復……。
「すごいすごい。もっと近くいこうよ」
はぁ? と思ったときにはもうアカリは走り出していた。
あーあ。なんであんなに元気なんだろ。
日陰からは出たくない。なんて言ってもいられない。男の人が悪い人だったら大変。
「かぁっこいい」
男の人の腕に捕まるタカを見てアカリが叫ぶ。
「ねえねえさっきのもっかいやって? あの手を振って鳥が飛んでくやつ」
突然現れた女の子に手前の男性は驚いた顔をし、遠くにいた男の人も何事かと走ってくる。
「どうしたケンタロウ。友達か?」
走ってきた男の人が訊く。
「いや……、知ってる人じゃない、と思うんだけど」
少し尻すぼみ気味に男性が答える。
兄弟かな。わたしは初めてタカから視線を外してじっくり二人を見た。走って来た方は灰色のタンクトップにぼろぼろのジーンズ。二十歳は超えてそうで、いかにもスポーツやってますって感じに体が引き締まってる。タカを手に乗せた方の男の人はわたしと同じくらい。Tシャツに半ズボンで眼鏡をかけてる。運動より本読んでるって感じ。二人とも共通してるのは右手に厚そうなグローブをつけていること。暑くないのかな。ダジャレじゃないから。
「キミ近所の子?」
「ちがうよっ。アキナちゃんと買い物きた」
へぇ、とアカリの不足すぎる説明にも少し戸惑い顔で頷いてくれる。
「アキナ……ちゃん?」
いきなり名前を呼ばれ、わたしはびっくりして声の方を向いた。若い方の男の人がわたしを見てる。
「あー、アキナです。よろし、く?」
「えっ? あーケンタロウです」
なにこの流れ。よくわかんないけど自己紹介しちゃった。んでなんであんたも返してんのよ。
「意外だな。小さい子って鳥とかって怖いのかと思ってたのに」
「そんなことないよ。かっこいいじゃん。ちょっとだけ触ってもいい?」
助けを求めて横を見たらなぜかアカリたちは意気投合してるし。あんまり悪い人たちじゃなさそうだけど。
どうしよ。アカリを無理やり引っ張って離れる? わたしもぐんぐん話してみる? わたしができもしないことでぐるぐる悩んでいる間、ケンタロウはにこにこタカを撫でてるし。
「えーっと、ケンタロウさんは何者なんですか?」
結局出てきたのはそんな質問。なによ何者って。
「色んな人に似たようなこと質問されたけどそんな言葉は初めてだなぁ。俺、鷹匠見習いなんだ」
タカジョウ?
「なんて言えばいいんだろ。タカを操る人って言えばいいのかな。テレビで見たことない? カラスとか追っ払うの」
「いや、ないですけど」
そもそもタカってあれでしょ、猛禽類ってやつ。鋭い爪とかくちばしがあるやつ。それを飼おう発想がすごいんだけど。危ないじゃん。
「少しさわってみる?」
ケンタロウが手を伸ばすと、それに合わせるようにタカが頭を動かす。それにしてもでかい。家に飾ってあるダルマよりでかい。
「いやいやいやいや。暴れたらヤバいじゃないですか」
「そう? 無理にとは言わないけど。妹さんは興味津々そうだったからキミもそうかと思った」
ほら、とケンタロウが示した先で、アカリが鳥の羽に触って喜んでいる。
「俺と兄貴、来週イベントやるんだ。タカと触れ合うって感じの。予行演習出来たら助かるんだけど」
やっぱ二人は兄弟なのか。
まるでケンタロウと心が通じてるみたいにタカが左右に揺れる。早く決めろよって急かしてるみたい。
「……あー、わかりました。アカリも楽しそうだし少しなら」
途端、日向に置いた雪だるまみたいにケンタロウの顔が緩む。
「よかった。タカの可愛さ教えてあげるよ」
うぅ。なんだよその嬉しそうな顔は。調子狂うな。




