1
パソコンの画面を消した時に、初めてカーテンの隙間からの日差しに気が付いた。
あーあ。
また夜が明けるまで別の世界に逃げ込んでしまった。でもまだかなり早い時間に違いない。だって、一階のリビングの方からは全く音が聞こえないから。
よろよろとベッドに向かうと、動物のぬいぐるみに囲まれた空間がわたしを迎えてくれる。
高校生と最後に呼ばれたのがいつかももう覚えてない。ちなみに卒業したわけでもないし、退学届けに同意した覚えもない。でも「わたしは高校生です」なんて笑顔にはなれない。
整理整頓が好きな大人たちは、こんなわたしにもちゃんと識別用の名称を用意してくれる。
引きこもり。他にもニートだとか社会不適合者だなんて呼び方があるけど、どれが正確にわたしのことを指しているのか自分でも分からない。ときどき、『ウエノアキナ』という自分の名前さえ何かの記号に思えてくる。
薄い掛物にくるまり、ゆっくり深呼吸。
息を吐き出すたび、わたし自身のなにかが少しずつ漏れ出ていくのを感じる。パソコンの画面を見続けた目の疲労を感じながら、壁の方を向くように寝返りを打つ。
ただ画面をスクロールしているだけの日々を、果たして生きていると呼べるのだろうか。
楽しいとか、やりがいがあるなんて思わない。ただ閉鎖的なこの空間で外と繋がれるのがそれってだけ。やりたいことも行きたい場所もないから、必然的に手元にある世界に逃げ込む。ネットの世界なら昼も夜も誰かがいて、ここならわたしは独りじゃないと感じられる。
孤独でいるのは言いようのない不安に駆られる。だからといって、誰かといたいとも思えない。その点、あの箱の向こうには顔も名前も知らない無責任な関係の相手がいる。気楽に呼吸ができる世界。
学校に行ってないわたしでも、ここには居場所がある気がする。部屋からろくに出なくても、世界とつながっている気がする。そんな風に、意味もない安心を自分に言い聞かせられる。
でもきっとわたしだけじゃない。みんな独りは怖いんだと思う。でもそんなの悟られたくなくて、だから声を上げることもできなくて。
伸ばせる手が目の前のキーボードまでなわたしは、誰にもバレないように息をする。
今日も一日お疲れ様でした。
カーテンの隙間から差し込む光に挨拶して目を瞑る。これが、わたしの一日。
***
引きこもりになってから、誰かと話す機会がぐっと減った。
お父さんとは、最後にいつ話したのか覚えてないくらい会話してない。
お兄ちゃんの顔は、引きこもってからほとんど見てない。まともに話したのは、その頃が最後だったと思う。何回かメールが来たけど、わたしは返信しなかった。
お母さんは週に一回くらい部屋に来る。そのたびにわたしは寝たふりをする。すごく親不孝だと思う。それでもわたしを心配してくれるのが分かるから、わたしはどんなことを話せばいいのか分からない。
こうやって考えると、今のわたしが一番会話をするのは、今年中学生になった妹のアカリということになる。
家族がわたしをなんとなーく避けるなか、アカリは頻繁に部屋に来る。といっても週に三回くらい。来て少し話をするだけ。最近の中学校でのこととか何かのアニメの話とか。わたしは適当に相槌打ったりしてるだけなのに、なぜか毎回満足そうに出ていく。
きっとアカリも誰かに話を聞いてほしかっただけなんだろうなーと思う。他人と接するのを煩わしいと思う反面、こんなわたしにも構ってくれる彼女を無下にしたくもないって矛盾がわたしの中で戦う。だからまあ、週に三回くらいはいいかって感じ。
ホントはこの部屋からは出たくない。こっちから誰かに会おうとしたって思われたくはないし、今さらどんな態度で話せばいいかも分からない。引きこもる前と今では、姿形が同じなだけの別な人間になってしまったみたい。
自分でもこんな生活がいつまでも続けられなんて思ってない。いっそいなくなった方がいいんじゃないかと考えはするものの、変わる勇気も死ぬ勇気もないわたしは、部屋から出る程度の勇気だけを持って、時々ドアの先を目指す。
***
まずはドアノブに手をかけながら深呼吸。それから耳を澄ませて家の中の気配を探る。
……うん。なにも聞こえない。多分だいじょうぶ。
そっとドアを開けて暗い廊下から階段までのルートを確保。右隣のお兄ちゃんの部屋からも、離れた親の寝室からも物音はしてない。左隣のアカリの部屋はまだ電気が点いてるから警戒。
できるだけ足音を立てないように階段を降りて、誰もいないリビングに滑り込む。
まずはお湯沸かす。おとといの夜に戸棚のカップラーメンは確認した。お湯を注いだらすぐに外に出よう。こんなことの段取りばっかり上手くなっても仕方ないけど。
やかんでお湯を沸かすのに邪魔だった鍋をどかすと、ちらっと中身が見えた。
「なんでこの時期におでん」
もう冷めてるんだろうけど、ほのかに鰹節の香りがする。ちょっと気になったりするけど意識の端っこに。
ゴー、と炎がやかんの下で踊るのを確認してから、棚の奥からカップラーメンを取り出す。やかんの口から漏れる音が変わるのをぼんやり待ちながら、映画でも見ているみたいな気持ちで誰もいないリビングを眺める。去年までは毎日座ってた場所なのに、ほんの一瞬でも「どこに座ってたっけ」なんて思ってしまったことにぞっとする。
お湯を注いで、逃げるように家を出る。
七月初頭らしく、暑すぎるってほどじゃないしそこまでじめじめしてない夜。電気が点いてる家は少ないけど、星が綺麗に見えるほどの暗さじゃない。大きく息を吸い込んだときに、籠ってない空気の味に少しむせた。
歩くたび、足元のサンダルがペタンとかペコンって変な音を立てる。別にその音が嫌いってわけじゃないけど、もっと上手に歩けたらいいのにと思う。
***
家を出てすぐ、かわいい猫とすれ違った。
少し、遠くに行こう。
いつもは行きたくない大きめの公園に寄ってみることにした。昼間は活気があって、まるでエネルギーの塊みたいな場所。選ばれた人しか受け入れてくれないと思ってた場所が、今ではわたしの部屋よりも暗く沈んでいる。
今この瞬間、わたしは支配者で王様になる。ううん、女王様かな。どっちでもいいや。
わたし以外に人影がない公園。そこに昼間の光景を思い描きながら闊歩する。
同級生が運動する広場を横切り、子どもが走り回る花壇のふちを歩いた。犬が縄張りを主張してるだろう飛び石を踏んで、カップルが手をつなぐベンチに腰かけた。そのままラーメンを一口すする。
誰もいない公園で。わたしは一番だった。
とても歪んだ、とても空しい妄想だ。
勢いよく膨らんだ明るい気分は、寂しい公園を眺めると同時に突然消えてしまった。まるで夏の夜の打ち上げ花火みたいに。
同学年はおろか、小さな子どもや犬にすら並べていない、ひとりぼっちのひきこもり。
高ぶっていた気持ちはもはや見る影もない。
おでんを選ばなくて良かった。ふとそう思った。なんとなく、おでんは誰かと分け合う印象がある。もしこんなところで一人で食べてたら、本格的に世界から追い出された気分になってたかもしれない
二口目のラーメンを口にしたとき不意に、外国の子どもが一杯のラーメンを友人と分け合う映画のワンシーンを思い出した。
つい数秒前まで食べていたものが急に異物に思えて、ほとんど残ったそれを棄てて公園を離れた。
結局、わたしは世界に置いていかれたんだ。まるでイス取りゲーム。限られた場所よりも少し多い数の人。イスに座れなかったわたしの居場所は、パソコンとぬいぐるみに囲まれたあの空間にしかない。
もう世界の色んなものから逃げるように走って帰宅。足音に気を付けながら階段をのぼる。さすがにもうアカリの部屋の電気も消えている。多少乱暴に部屋のドアを閉めて、ぬいぐるみが乱雑してるベッドに飛び込む。
枕からは嗅ぎ慣れたわたしの匂い。じんわり汗が出てきたけど気にしない。目を瞑って、ただひたすらそれに意識を傾ける。
どのくらいそうしていただろう。寝ちゃおうかとも思ったけど、目が冴えてしまった。
……よし。
まずは汗で張り付いてくる服が不快だから脱ぎ捨てる。それから新しいシャツに着替えてパソコンの前に座る。だってこの中なら、わたしは自由だから。
適当に掲示板を眺めて、お菓子を貯めた袋を漁る。チョコレートは微妙に温かさがあって、普段よりもずっと油っぽく感じた。
いつもみたいに気分でページをクリックしていく。気になる記事は軽く読んで、そうでないなら次のリンクへ。ぼうっと青白い画面が、わたしにとっての世界。
「なに……これ」
指が止まったのは、深夜二時を過ぎた頃だった。
『あなたには、愛する人がいますか?』
そんな文とURLが掲示板に張ってあった。
なにこれ。意味わかんないんだけど。
わたしが抱いたのと同じような感想が、画面にいくつもあふれていた。
「くだらない」
ため息と一緒に言葉にして、パソコンの画面をブラックアウト。
なにが愛よ。馬鹿らしい。
以前わたしに告白してきた男子と、その男子のことを好きだと言ってた女子のことを思い出した。二人がどうなったのかなんて知らない。はっきり言ってどうでもいい。
ベッドに倒れこんで、意味もなく枕を殴る。
ああもう。わたしって本当に嫌な性格してるな。
生きてるのって、すっごい疲れる。
大きく息を吸って、ゆっくり吐く。……うん。もう平気。
一瞬だけ出た黒い感情はすぐにしぼんで、わたしは今度こそ夢の世界に意識を預けた。
***
よくネット上で、「引きこもりになってしまったきっかけは?」という言葉を見かける。つい「余計なお世話だ」と言い返したくなるけど、悲しいことにわたし自身はきっかけに気が付いている。
理由なんて特にない、ただ世界とわたしの仲が悪いだけ、そんな風に言えたらカッコいいのに、なんて内心思ってしまう。でも、そんな風に自分を誤魔化せるほど器用じゃないんだ。もっとありきたりで、変哲もない理由だ。
誰のことが好き? みんなが大好きな話題。中学生くらいまでは学年でも人気がある男の子の名前を挙げていた。でもみんなに合わせて嘘をつくのがだんだんめんどくさくなってきた。
クラスの男子たちが、まったく魅力的に思えなかった。相手によってあからさまに態度を変えるのも、好きな子に構ってほしくてちょっかいだすのも、どーでもいいような些細なことで喧嘩するのも、どれも好意的には受け取れなかった。一番近くにいた男の人が三つ上のお兄ちゃんだったから、自然と同学年の男の子が子供っぽく思えてしまった。
もともと誰かに合わせるのが苦手だった。高校に入ってからそれが顕著になっていった。遅い反抗期とも少し違うけど、とにかく他の人に合わせてわたしじゃない誰かを演じるみたいで嫌だった。だからつい、同じクラスになってまだ一ヶ月しか経たないクラスの人に好きな人の話を振られたとき、「みんな子どもっぽいから好きじゃない」と言ってしまった。それだけなら、たぶん大丈夫だった。少し生意気な子、くらいで済んだかもしれない。
誰が好き? という会話から何日か過ぎたあと、わたしはとある男子に呼び出された。陰湿な意味でなく、花の高校生と呼ぶにふさわしい理由で。とってもびっくりしたし、嬉しくなかったといったら噓になる。でもわたしはやっぱり好きだとかは分からなかったし、そもそもその男の子のことをクラスの別な女の子が好きと言っていたのをわたしは覚えていた。当然の帰結として、わたしはその男子と付き合うことはなかった。
わたしにとっても、彼を好きだと言ってた彼女にとってもそれがベストだと疑わなかった。
その日から数日が経ってから、明らかにわたしに対するみんなの態度が変わった。別に直接的に何かをされたわけじゃない。そんなに分かりやすくないんだよ。女の子同士の争いって。
とにかく孤立させようとする。わたしにかんするどんな噂が流されたのかは想像でしかないけど、みんなが距離を置いていったのは間違いなかった。わたしと仲良くすると同じように標的にされるかもしれない怖さもあったと思う。もし同じ高校に親友と呼べるような誰かがいればもっと強くいられた。でも人と合わせるのを避けてきたわたしは、親友なんて高みには絶対に手が届かなかった。いや、伸ばさなかった。
それでも一年生の頃は頑張って毎日通った。私物にイタズラされるとか声を大にして罵声されるようなこともなかったから。ただ周囲がそれとなくわたしを避けるだけ。半年も経った頃には、必要最低限の会話を少しするくらいの立場にはいた。苦痛ではあったけどクラスが変わればもっとマシになると思えたから頑張った。
ところが進級してもあまり変化はなかった。わたしをいないみたいに扱うという風潮は、先生が来たら挨拶をするとかテストの直前になったら部活が休みになるみたいな、いわゆる学校生活の習慣の一つみたいになっていた。
なんとなく学校を休む日が少しずつ増えていき、いつの間にか週の半分は休むようになっていた。
高二の冬休み直前、比較的わたしと話をしてくれた子がこんな風になった原因を教えてくれた。
「自分が好きになった男の子が他の人に告白した。そのこと自体も気に入らないし、自分が好きなった男の子を無下に振ったのも気に入らないから」
はあ? って思ったね。そんなの知らないわよって感じ。そんなのどうしようもないじゃんってね。振ったことが気に入らないって言われても付き合ってたって同じように気に入らないって言い出すでしょ。その場ではそう憤慨しそうになったけど、そんなことをする元気もなかった。あとになって考えてみれば、ただ思い人が他の人を好きになったんじゃなくて、「自分より下だと思ってるわたしみたいなやつ」に思い人が好意を抱いていたのが気に入らなかったんだなって思う。
次の日から、なにもかもがバカらしく思えてきた。誰かと接するのがめんどくさい。そんな逆恨みで責められてもどうしようもない。不登校気味だったわたしは他のみんなより一週間ほど早く冬休みに入った。そのまま年が明けても、一月が終わっても、わたしの冬休みは続いた。それからは、ほとんど昼間に外出しなくなった。まあなんとかなるっしょって思ったんだ。
進級だけはできたけど、これが良くなかった。なんとかなっちゃったんだよ。それが、わたしに間違った感覚を与えた。
春の陽気さも、梅雨のじめじめもカーテンの奥にいるわたしには届かなかった。




