第9話《それでも、優希》
それでも、美悠は首を振った。
「違う」
声が震えている。
「完全じゃなくてもいい。記録が穴だらけでもいい。九年前の全部を知らなくてもいい」
優希に近づく。
「目の前で喋ってるのは誰なの?」
優希は答えない。
「私の名前呼んで、甘いの好きって言って、今ここにいるのは誰なの?」
涙がこぼれる。
「BCHとか、ロボットとか、そんな単語で片づけないで」
拳が強く握られる。
「あんたは優希なんだよ」
部屋が静まり返る。
優希の瞳孔が、わずかに開く。
「定義が、曖昧」
「うるさい!」
美悠は即座に遮る。
「定義とかいらない。私は、あんたを優希って呼ぶ」
その強さに、蓮が小さく息を吐く。
「……俺も」
優希が視線を向ける。
「昨日は正直、データの塊みたいだと思った。でも今日、違う」
床に腰を下ろしたまま、まっすぐ見る。
「未完成なんだろ? じゃあ今から作ればいい。俺らと」
優希の胸に、わずかな違和感が走る。
「心拍数、上昇。理由、不明」
「それが理由だよ」
美悠が言う。
「生きてるってこと」
沈黙が落ちる。
やがて、美悠がふと聞いた。
「ねぇ、何かやりたいこととかないの? 食べたいものとか」
優希は考える。
数秒、視線が揺れる。
「……外」
その単語だけが落ちる。
昨日まで逃げる場所だった外が、今は行きたい場所になる。
「外、かぁ……」
美悠は一瞬ためらい、それでも笑った。
「蓮、外の様子どうだった?」
「昨日よりは静かだったけど……安心できるレベルじゃねえ」
美悠はテレビを点け、チャンネルを回す。
「ニュース、ニュース……」
画面には続報。捜索範囲拡大。目撃情報なし。
「……少し落ち着いた、か?」
蓮が肩をすくめる。
「今なら動けなくもない、ってとこだな」
美悠が振り向く。
「蓮、車出して」
「は?」
「行こうよ。優希の行きたい場所。記憶、少し残ってるんでしょ? 何か思い出すかもしれない」
「違うって。それはデータで、思い出すとかそういう――」
「うるさい! じゃなきゃ二人で出かける」
「おい!」
蓮が額を押さえる。
「だとしても、まだ危ないだろ。状況を考えろ」
「考えてる。でも、じっとしてたら何も始まらない」
視線がぶつかる。
数秒後、蓮が舌打ちする。
「……仕方ねぇな。車回してくる。でも優希、バレねぇか?」
美悠はにやりと笑う。
「任せて」
クローゼットが大きく開き、ハンガーが揺れる。
優希がパーカーを受け取ると、美悠は振り返りざまに蓮を見る。
蓮は腕を組んだまま、じっとこちらを見ていた。
「……何見てんのよ」
「いや別に」
「エッチ。早く車!」
「は?」
「いいから! 準備終わるまでに車持ってきて!」
「えー? ……わかったよ」
蓮はため息をつく。
未練がましくもう一度だけ視線を向け、それから踵を返す。
玄関のドアが開き、外の空気が一瞬だけ流れ込む。
「無茶はしねーぞ」
小さく残して、蓮は廊下へ出た。
扉が静かに閉まる。
部屋には、美悠と優希だけが残った。
「これ着て。あと帽子」
「帽子、なぜ?」
「顔、隠すの!」
優希はパーカーを受け取り、少し戸惑う。
「私ではない服装」
「今日はそれでいいの」
美悠は髪をまとめる。
指先が触れるたび、体温を確かめるように。
「じっとして」
軽くファンデーションを叩く。
優希の睫毛が震える。
「視界、変化」
「目、閉じて」
数分後、鏡の前に立たせる。
そこに映っているのは、篠宮優希ではない少女だった。
「……誰」
優希が呟く。
美悠は小さく笑う。
「今日のあんた」
インターホンが鳴る。
「おい、準備できたか」
蓮の声。
ドアを開けた瞬間、蓮が固まる。
「……誰だよ」
美悠が肩をすくめる。
「BCHじゃない。ただの女の子」
優希が一歩、前に出る。
「外、行く」
その声には、わずかな期待が混じっていた。
美悠はその背中を押す。
「行こう。優希の“今”を、探しに」
廊下の空気は冷たい。
それでも三人は、同じ方向を向いていた。




