第8話《BCH》
優希はパンを持ったまま、しばらく黙っていた。
「私は、目が覚めたとき、カプセルの中にいた」
静かな声だった。
「白い天井。透明な壁。機械音。最初に視界に入った人物を、私は“パパ”と認識した」
蓮がわずかに眉をひそめる。
「認識、って……」
「初期データに登録されていた顔と一致。篠宮恒一。父親」
美悠の指が、膝の上で強く握られる。
「パパは私を抱きしめた。私は“パパ”と言った。パパは泣いていた」
優希は少し首を傾げる。
「理由、分からない」
部屋が静まり返る。
「頭の中には記録が入っていた。残像のように。会話、画像、メッセージ履歴。優希のスマホのログが中心。そこに生成AIの補完データが加えられている」
蓮が小さく息を呑む。
「……補完?」
「空白を埋めるための推測。完全な再現ではない。パパはあえて余白を残した」
優希は指でテーブルをなぞる。
「これから私が自分で学習し、更新するため」
美悠は息を呑む。
優希は続けた。
「目覚めてから七日間、研究室で過ごした。身体機能の確認、歩行、摂食、会話訓練」
「身体機能って……」
蓮が言いかけると、優希は頷く。
「パパは人の身体を七百四十六種類の部位に分解し、すべての培養に成功した。元は事故や欠損への再生医療。治験も成功している」
美悠の視線が、優希の手へ落ちる。
その指は温かく、動いている。
「その培養の基となったDNAは、篠宮優希。九年前に死亡した個体のもの」
空気が重く沈む。
「クローンではない。記憶の完全移植でもない。培養した部位を結合した構造体。倫理規定上は“ロボット”と同義」
蓮が吐き捨てるように言う。
「ふざけんな……」
優希は淡々と続ける。
「身体の生理的欲求と生存本能は、AIに紐づけられている。空腹時にエネルギー摂取を優先するのは、その設計によるもの」
美悠が、かすれた声で言う。
「だから……ハンバーガー」
「うん」
肯定は静かだった。
「パパはそれをBCHと呼んだ。Bio-Constructed Humanoid(バイオ・コンストラクテッド・ヒューマノイド)。――だから私は、あの時の篠宮優希ではない」
その言葉が、部屋の中央に落ちる。
「優希を模した存在。記録を基に設計された構造体」
美悠の肩が震える。
「……でも、あんたは」
「私は“私”」
優希は続ける。
「記録はある。でも、経験はない。九年前の放課後を、私は知らない」
蓮が目を閉じる。
「俺に告白された記憶も?」
「ログはある。感情の実体験はない」
静かな残酷さだった。
美悠が、ようやく顔を上げる。
「じゃあ……あの優希は、もう」
「死亡記録通り」
即答だった。
部屋の空気が凍る。
それでも優希の声は揺れない。
「私は優希ではない。でも、優希のDNAで構成され、優希の記録を基に設計され、組み立てられた存在」
視線が美悠へ向く。
「それでも、ここにいるのは現在の私。……昨日までの誰かではない」
その言葉は、昨日より確かに柔らかい。
蓮が低く言う。
「……じゃあ、お前は優希じゃ……」
優希は少し考えた。
「未完成」
その単語だけが静かに響く。
「パパは余白を残した。私は、まだ更新途中」
美悠の目に涙が滲む。
優希はそれを見つめ、ゆっくりと言った。
「だから、私は優希ではない。……でも、優希を模した“何か”として、生きるよう設計された」
部屋の中心にいるのは、機械でも、死者でもない。
優希は続けた。
「七日目、研究室に強制捜査が入った。パパは何も悪いことはしていない。再生医療の延長線上にある技術だった。でも、私を造ったことだけは公にできない。私は、存在してはいけない」
優希の指先が、わずかにパンの包装を握る。
「パパは私の手を強く握り、裏口へと導いた。『見つかるな』とだけ言った」
一度、呼吸を置く。
「そのときの表情を、私は正しく再現できない。けれど、震えていたことだけは、記録より鮮明に残っている」
部屋の空気が、重く沈む。
「だから、私は外に出た。未登録個体として」
視線が、ゆっくりと二人を見る。
「そして、空腹になった」
淡々とした事実。
「生きるように設計されているから」
その一言が、説明であり、告白でもあった。
「それが、BCH」
優希は小さく息を吐く。
「――私の始まり」




