第7話《存在の更新》
キッチンでマグカップにコーヒーを注ぎながら、美悠はスマートフォンを手に取った。
画面には蓮からのメッセージ。
《もうすぐ着く。コンビニ寄った》
短い一文なのに、不思議と胸がほどける。
「……来るって」
美悠が呟くと、優希がすぐに反応した。
「蓮くん?」
「うん。もうすぐ」
少し間を置いてから、美悠はわざと明るい声を出す。
「よし、朝ごはんが来るぞ!」
自分に言い聞かせるような声だった。
優希は首を傾げ、ほんのわずかに眉を寄せる。
「朝ごはんが、ではなく、蓮くんが朝ごはんを持って来る」
訂正は穏やかで、しかし正確だった。
美悠は吹き出す。
「そんなの、わかってるよ。もう……あんたは」
優希は数秒こちらを見つめる。
「何が?」
「そういうとこ」
美悠は肩をすくめる。
「言い回しにいちいち突っ込むとこ。無駄に正確なとこ。……やっぱり優希だな」
その言葉に、優希の瞬きがわずかに増える。
「やっぱり、とは?」
美悠はソファの背に腕を預け、優希を見る。
「変わってないってこと。九年経っても、そこだけは」
優希は視線を落とし、静かに言った。
「私は、九年経っていない」
責めるでもなく、ただ事実を置く声。
美悠は苦笑する。
「そうだったね。時間止まってる組だった」
優希の視線が、美悠の顔をなぞる。
「でも、美悠は九年経過」
「そう。ちゃんと二十六歳」
少しだけ胸を張る。
「だから、あんたより大人です」
優希はわずかに口角を上げた。
「精神年齢、比較不能」
「なんだと?」
二人の間に、小さな笑いが落ちる。
昨日までそこになかった温度だった。
そのとき、ドアの向こうで足音が止まる気配がした。
優希の瞳孔がわずかに開く。
「足音、停止。玄関前」
「いちいち報告しなくていいから」
インターホンが鳴る。
昨日とは違う、短く控えめな押し方。
美悠は一瞬だけ優希を見る。
「隠れなくていいからね」
優希は頷いた。
「了解……じゃなくて、分かった」
言い直す。
その小さな修正に、美悠の胸がじんわりと熱くなる。
「成長早すぎでしょ、あんた」
ドアに手をかけながら、小さく呟く。
「もう……置いてかないでよ」
それは九年前の誰かに向けた言葉だった。
その声は優希には届かなかったかもしれない。
届いていないほうが、きっといい。
ドアノブを回し、ゆっくりと開ける。
廊下の朝の空気と一緒に、コンビニ袋を提げた蓮の姿が見えた。
「……入るぜ」
蓮はコンビニ袋を軽く持ち上げて見せる。
ビニールの擦れる音が、やけに生活感を連れてくる。
美悠がドアを閉めると、優希はまっすぐ蓮を見た。
「おはよう、蓮くん」
昨日より滑らかだった。
音が途切れない。
抑揚が、わずかに柔らかい。
蓮の眉が動く。
「……なんか、昨日より普通じゃね?」
「普通、とは?」
「いや、その……機械みたいな喋り方、じゃない」
優希は数秒、思考するように視線を止めた。
「夜間学習により、会話データ最適化」
「出たよ、そういうとこ」
蓮は苦笑しながら袋をテーブルに置く。
「ほら、甘いのと、普通の。あとサンドイッチ」
優希は袋を覗き込み、パンを一つ取り出す。
包装を丁寧に開ける。
動きが、昨日より迷いなく自然だ。
一口かじる。
「……甘い」
小さく、嬉しそうに言う。
蓮と美悠が同時にその顔を見る。
蓮がぽつりと漏らす。
「なあ」
優希が視線を上げる。
「昨日より、なんか……“いる”感じする。同じ顔なのに、昨日はデータの塊って感じだった。今は……ちゃんと会話してる」
優希は咀嚼を終え、静かに言った。
「会話は、学習効率が高い」
「そういう説明じゃなくてさ」
蓮は床に腰を下ろす。
「俺ら、知りたいんだよ。お前のこと」
美悠も頷く。
「昨日はバタバタだったし……ニュースもあったし。でも、今のあんたが何なのか」
優希はパンを持ったまま、視線を落とした。
「私は——」
一度、言葉が途切れる。
「造られた存在」
その声は昨日より落ち着いていて、どこか覚悟のようなものが混じっていた。
「どこから説明すれば、理解しやすい?」
蓮と美悠は、無意識に顔を見合わせる。
蓮が小さく言う。
「最初から、でいい」
美悠も、ゆっくり頷いた。
「うん。あんたの始まりから」
優希は静かに息を吸う。
「了解……じゃなくて、分かった。最初から、話す」




